第3話 始原の歌

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 この世の始まりにはただ、暗闇と無限に広がる水があった。

 そして果てしない水面の上には一本の、立ち枯れた大きな大きなパンの木があった。

 

 最初で最後の実が一つ、一番下の枝に残っていたが、それが水に落ちると同時に木も倒れてバラバラに砕けた。

 パンの木の実からは一人の男が生まれ、砕けた親木の破片をカヌー代わりに、闇と水以外のものを探しに旅立った。

 

 パンの木の船は漂い進み続けた。男が二十と八回眠り、また目覚めた後、水の上にぼんやりと輝く丸いものを見つけた。

 それは大きな大きなミミイカの頭だった。

 男は良いものを見つけたと喜び、イカを頭上の闇の中へと投げ上げた。

 

「ホタルイカよ、その光でこの闇を照らし、私の旅を助けてくれ」

 

 ――これが月の始まりである。

 

 男はさらに進み続けた。イカの光で闇はいくらか明るくなり、旅も楽になった。

 五十と六回眠り、また目覚めたとき、行く手に何か大きなものが浮かんでいるのが見えた。カヌーを寄せてみるとそれはまったく動くことのない、堅くしっかりとした踏み場だった。男はそれを「ッタヌア」と名付けた。

 

 陸に上がった男は、自分によく似た姿をした、光輝く男に出会った。その男は「ダマ・ナパタ」と名のり、男に「お前はどこから、どうやって来たのか」と問うた。


 男は答えた。

 

「私はずっとずっと遠く、闇と水しかない場所から来ました。そこで立ち枯れていたパンの木が私の親で、私はその木をカヌーにしてここまで来ました」


 ダマ・ナタパはそれを聞くと喜んで言った。

 

「闇の国から、最後の命を受け継いでここへ至った勇敢な男よ。お前に名前と妻を与えよう。この地で子を生し育て、末永く栄えるがよい」


 男は「バッタラ」という名を授かり、ダマの娘二人に引き合わされた。

 

 一人はイホヌヤといい、陸の周りを囲む白い石の枝を携え、もう一人はカカランタといい、青々とした大きな葉を広げた草を携えていた。

 白い枝はサンゴ、大きな葉を広げた草はタロイモである。

 

 ダマ・ナタパが娘二人と婿を残してその場を立ち去ると、バッタラは考えた。

 

 ――妻を貰うのはいいが、一度に二人は養えぬ。それに俺は長い旅をしてきて腹が減っている。貰うならカカランタとこの食べ物を。そしてイホヌヤと石の枝は謹んでダマにお返ししよう――


 そうして、バッタラはカカランタを連れて行き、鳥も獣も見ることのできない場所で交わった。

 

 翌朝、バッタラのところへやってきたダマは、娘たちから事の次第を聞くと深いため息をついた。

 

「おおバッタラよ、残念なことだ。イホヌヤを妻にすれば、お前とお前の子孫は水の底でも息絶えることなく、石の枝が打ち寄せる波に耐えるごとく、時が流れ押し寄せても朽ちぬ命を得る。カカランタを妻にすれば、お前とお前の子孫は土から食べ物を生み出し、仲間を増やし、この世を住みよく作り変えていく知恵を得る。

 まことこの二つこそが、ダマ・ナタパの贈り物であった。だがお前はイホヌヤを拒み、我がもとへ帰した」


 バッタラはしゅうとを落胆させたことを知り狼狽うろたえたが、もはや為したことを覆すはかなわなかった。

 

「お前とお前の子孫は時の流れに抗い得ず、いつか皆、老いてこの世を去るだろう。だが、お前とお前の子孫に与えられた知恵の贈り物だけは絶えることはない。約した通り、仲間を増やし栄え続けるがよい」


 かくしてダマ・ナパタは「ッタヌア」をバッタラとその一族に譲り、天へ昇ってそこから海原を照らし始めた。こうして、この世にはホタルイカの月が照らす夜の時間と、ダマ・ナタパの太陽が照らす、昼の時間ができたのである――


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 橘川はパンフレットの創世神話を、コテージのサイドテーブルに広げて読み直していた。

 

「照明、暗いでしょ……目を悪くしますよ」


 樋口が後ろから声をかけてくる。

 

 ああ、と生返事をして、ライトの光量を上げようとダイヤルをひねる。だが、もともとベッドサイドの間接照明でしかないそれは、どうやってもそれ以上には明るくならなかった。


「……やはり、寄せ集めの紛い物だ。紛い物だが……よくできてはいる」


 橘川はそれ以上読むのを諦め、眼鏡を外して眉根を揉んだ。


 パンの木はニューギニアやフィリピンに起源があり、それが人の手で海を隔てたポリネシア地域にまで拡散された経緯がある。

 バッタラが闇の中、つまり夜の方角である西から光のある場所、東へと航海して、パンの木に由来する自らをそこに根付かせた、という筋立ては、そうしたオセアニアの海上交通の歴史をよく反映していると言えるのだ。


 だが、元よりこの島に「創世神話」などが存在していたはずはない。それどころか、どうやら島に農耕が定着したのさえ、たかがこの百年以内のことだ。

 サンゴ由来の砂で構成された島の大地に、他所から運び込まれた粘土と腐植土が敷き詰められ、動植物の助けを借りて安定した表土へと変わりつつあるのが今の状態。完全なものになるにはあと数百年を要するだろう。


 この島の住民についても似たような事情だ。南太平洋のあちこちで核実験が行われた20世紀後半、実験場となった島の住民は強制的に立ち退きをさせられ、そのうち幾許かはこの島へやってきた。

 そうしたミクロネシアやポリネシア系の住民は、島の人口の約三十パーセントを占めている。

 他にはフィリピン系のタガログ語話者もいれば、オーストラリア本土やニューギニアからの移住者もいる。そしてニュージーランドのマオリ族、あるいは日系人に中国人も、それなりに。


 先ほどのボンダンスはヤシやバナナの葉で奇怪な扮装を凝らした男たちによるもので、それはどこか鹿児島県は吐噶喇列島の悪石島に伝わる奇祭「ボゼ」をさえほうふつとさせるものだった。だがそそり立つヒョウタンのペニスケースを股間に装着した彼らの中には、明らかにコーカソイドらしい、明るい色の肌の者さえあった。


「問題はですね、真贋じゃないと思うんですよ。ガイドのタジマさんは、『気持ちは本物』って言ってたでしょう……? 彼らが信じているなら、人為的な寄せ集めでもそれは意味のある信仰になるはずです」


 それはそうだ――橘川はうなずいた。そもそも、他の文化の影響を受けて変化すること、あるいは他の文化、宗教を土台にして作り出されていない宗教、信仰など、この地球上にどれだけある事か?


「寄せ集められた文化が――模造品が、人間の心のよりどころになっていく。その過程とメカニズムを、目の当たりにできるんじゃないかと、思ったんですよね――」


 そう言いながら樋口が、不意に橘川の背中にもたれかかってきた。橘川自身が着ているシャツの布地一枚を隔てたそこに、樋口の素肌があるのを感じてドキリとする。


 いつしか昼間の晴天が嘘のように、降り出した雨が窓ガラスをひたひたと叩き始めていた。

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