第5話 第4夜 幻の酒


 アンさんは法螺を吹くのが上手だ。

 その日も、ゆっくりとドイツワインを飲みながら法螺をふいていた。


「お祭りですから」


 と、注釈付きでさし出した国産のヌーヴォーを見ても、


「ああ、それね。その蔵元とは二十年来の友だちなんだ」


 と言って、飲もうとしない。

 そして相変わらず、好みのモーゼルをちびちびと口にしている。


 アンさんの話はあらかたが嘘だ。

 そんなことは、パイプ亭の常連ならば誰でも知っている。


 しかもそれは、だまされても腹のたたない種類のもの。


 アンさんが話を終える。

 ふたたび酒場にけだるい雰囲気がもどってくる。


 だれもが嘘に怒りだすどころか、なんとなく幸せそうな顔になっている……。


 思うにアンさんの話は法螺などではなく、過大に誇張された真実ではないか。

 面白おかしく聞いてもらうために、必要以上に脚色されているだけではないか。


 私は、いつもそんな気がするのだが……。


「聞いた話だけど」


 アンさんはその日。

 めずらしく、遠慮がちに話しはじめた。


 赤く芳醇な液体のはいった小粋なグラスを片手に。



「聞いた話なんだけど……」


 どうやら自分の体験談ではないらしい。

 これまた珍しいパターンだった。


「ぼくが新潟のほうに、幻の酒をさがしにいった時のことなんだ。いやいや、いま話題の【越のなんたら】みたいな酒じゃないよ。

 人里はなれた寒村の、これまた山の中でひそかに作られている、そう……密造酒の話。

 だからその酒には名前がない。作っている人のことも話せない。だけどそれは本当にあるんだな。なにせ、ぼくが自分で飲んだ酒なんだから」


 アンさんは遠い目になりながら、いつものように語りはじめた。


「ぼくの友人に、とても山歩きの好きなやつがいる。仮に彼の名前をSとしよう。本名は明かせないからね。さてSは、自分の根城である質素な山小屋で、雪ぶかい冬の日にぼくを待っていた」


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 囲炉裏をはさんで、アンさんのむかいにS氏がいる。

 夜である。


 S氏の山小屋は谷川連峰の山麓にある。


 夜ともなると、いつ尽きるともない風の音がビュウビュウと鳴りわたる。

それは吹雪となり木枯しとなり、終夜にわたって間断なく吹き荒れる。


 山小屋の中では、チロチロと燃える囲炉裏の火。

それを見つめながら、板ばりにアグラをかいて、つきることなく酒を飲みかわす。


 その酒が、ただ者ではなかった。


 あわい緑色の一升瓶には、なにも張られていない。

 中に満たされている液体は、心もち白く濁っている。


 もう、わずかしか残っていない。


「どうです?」


「ううむ……」


 アンさんのため息。


「ほほう」


「旨い!」


「でしょう!?」


「いったいこんなすごいものを、どこで手にいれたんです?」


 S氏は、腕まくりをしたチェックのシャツを着ている。

 その上から、伸びきった爪でボリボリと身体を掻いた。


 そして意地悪そうにつぶやく。


「内緒」


 それはたとえるなら、燃えあがる春の息吹き。


 たとえるなら、若々しい青春の熱情の味。


 市販されている酒ではとうてい味わえない。

 涙が思わずにじんできそうな、たまらなくなつかしくたまらなく温かい。

 まるで……ふるさとの思い出のような味がした。


 口にふくんだ途端、脳天に突きぬけていく馥郁たる香り。

 どう言ったら、それを表現できるのだろう。


 味蕾のすみずみまで震わせるような、しみいるような豊饒の味。

 荘厳な鐘の響きが、しんと森にしみわたるような……。


 そう、これが米の力なのだ。


 米のもつかぎりない豊饒感。

 日本人の抱く米に対するかぎりない郷愁。


 そんなものを沸きたたせるような。

 おもわず「うーん」と考えこんでしまうような……。


 そんな味がした。


 S氏はいった。


「これは、なかなか話せることじゃない。私はこの酒のために、自分の人生すべてを捨てたのだから」


 話したくてたまらない。

 しかし話せば、それで終わってしまう……。


 S氏の表情は、そう物語っている。


「信じます。この酒を飲んでしまったから。でも、やはり聞きたい。絶対に秘密は守ります。だから教えてください」


 アンさんは食いさがった。


 どうしても、酒の出所を知りたかった。

 手にいれようと思ったわけじゃない。

 とにかく知りたかっただけなのだ。


 たとえば歴史研究家の目前に、二度と手に入らない古書が置かれたとしたら。


 たとえば旅先でふらりとたちよった骨董品屋で、子供のころに失くした自分の独楽を見つけたとしたら……。


 誰だって【なぜ?】と、聞かずにはいられないだろう。



「そう……でも、もうこの酒はこれが最後ですよ。二度と手に入りません。それでも聞きたいのですか」


「もちろんですとも」


「わかりました。ほかならぬあなたの頼みです。それに……私もこれで、やっと清算ができるかもしれません」


「清算?」


「そう、私の人生の」


 S氏は、いとおしそうに酒瓶をだきよせた。


 無骨な手のひらで、やさしく表面をなでる。

 まるで恋こがれたあげく、やっとの思いで連れそった女の身体を愛撫するように。


「私の生まれた村は、新潟のとある山間にある百人に満たないちいさな寒村でした。私はそこを一歩も出ることなく大人になりました。

 下界におりることは村の掟で禁じられていたのです。それがなぜなのかは、いまもわかりません。私はある日、村の大人に声をかけられました」


(どうだ、今日の狩りについてこないか)


「私は有頂天になりました。狩りに連れていってもらえるということは、一人前の大人と認められることです。

 それに鉄砲も撃たせてもらえる。鉄砲を撃つのは、そのころの夢でした。だからそう言われた時、私はあまりある歓喜のため、思わず胸が苦しくなったものです」


「でかける時に、一人の老人が耳打ちしてくれました」


(山ではぐれた時は、けっして谷にくだってはならぬ。いちど稜線にあがり、白樺の木立ちを目印に、峰をつたって下山するのじゃ。よいか、忘れるでないぞ!)


「私は笑いながら『わかった』と答えました。 それは幾度となく大人たちから聞いていた言葉なので、いまさら言われるまでもないと思ったからです」


 S氏の話は、次第に熱がこもってきました。


「いよいよ出発となりました。五名の屈強な狩人と、重い荷物におぼつかない足どりの私を、村人は総出で見送ってくれました。

 私は生まれてはじめて持たされた旧式の村田銃を両手でにぎり締め、一歩また一歩と、踏みしめるように山へと入っていきました」


「いつも駆けまわっていた山が、その日はなんとちがって見えたことでしょう。あちこちの木陰から、猪や日本カモシカ、はては月の輪熊の、射るような視線が注がれているような気がしました」


「ヤマブキの枝を落とし熊ザサをかきわけながら、一行は獣道を登っていきます。そう、私は狩りに出たのです。その興奮があたりの景色を一変させ、まるで異世界をさ迷っている旅人の気分になりました」


「いくつもの峰をこえ、いくつもの谷川をわたりました。はるか右手には、純白の雪を残す山々――守護神のように神々しい谷川連峰の峰々が、カラマツやコメツガなどの林をとおして、いつも見え隠れしていました」


「私はすぐに狩りが始まるのだと勘違いしていました。実際は、いく晩もキャンプして、やっと猟場へとたどり着くのです。それほど野生の動物は人間界を恐れているのです」


「その夜私は、焚火をかこんで語られる、生まれてはじめての大人の会話に聞き入りました。それこそ一言も聞きもらすまいと、必死で耳をそばだてたものです」


「それは、たわいもない女房との睦み事の話から、深淵な山でおこる様々な怪異なできごとまで、ありとあらゆる雑多な話題にあふれていました」


をよ、初めてだっこしたときよう?)


「持参した酒を片手に、顔を赤らめながら話す大人たち。それはこれまで見てきた厳格なイメージとはほど遠く、とても親密で猥雑で、あまりにも人間らしく感じられたものです。

 それはとりもなおさず、自分が大人の仲間入りをさせてもらったという、たあいもない優越感の仕業でしたが」


「私は酒を呑まされ、大人にはやしたてられ、歌というのもおこがましい稚拙な民謡を披露しました。それはなんと楽しく、なんと嬉しい一夜だったことでしょう。いまでも寝床で思い出すたびに、おもわず涙がこぼれてしまいます」


 ビュウと風が哭く。

 S氏の過ぎさった昔を嘆くように、雪まじりの疾風が哭きわたる。


「私たちは人の滅多に入らぬ原生林にわけいりました。そこが猟場だったのです。

 いったい、どのくらいの年月がたてばそうなるのでしょう。

 私など想像もおよばぬような太古から、そこに立ちつくしていたであろう巨大なブナの樹が、それこそあちらこちらに無数にたたずんでいました」


「木々の麓には、しっとりとした苔が生えています。それらは、やわらかな木漏れ日を浴び、シンとしたたたずまいを見せていました。

 あちこちには名も知らぬ茸が傘をもたげ、あるものはみごとな輪を作っていました。苔をおしのけるようにして、ちいさなキラキラと純粋なせせらぎが流れていました」


「私は生まれてはじめて、本当の山を見たような気がしました。それは谷川連峰の死滅した荒々しさとはちがう、山のもつ無限の生命力のようなものでした。

 すべてを司る絶対の神などではなく、日本古来の八百万やおよろずの神が、あそこの茸のそばに、ここのせせらぎのたもとに、にっこりと微笑みながらたたずんでいるような気がしました」


「私はたまらず両手をあわせると、お祈りをしてしまいました。

 ごめんなさい、あなたの大切な場所に入りこんでしまって、と」


「そっと瞼を開くと、大人たちがうれしそうに私を見つめています。そして私の頭をゴワゴワの手のひらで、ぐいぐいなでるのです」


「狩人長が、かぎりなくやさしい口ぶりでいいました」


(おまえは、狩人の心を知った。ほんとうの仲間になった)


「私はなんと言っていいやら。涙がボロボロこぼれてしまい、いても立ってもいられません。とうとう小川のほとりに立ちつくしたまま、大声をあげて泣いてしまいました」


「うれしくてうれしくて、それで人は泣くんだ」


「私の感動の大きさを、なんと現わせばよいのでしょう。私にはただ泣くことしか許されませんでした。私は泣きに泣いて、八百万の神々に感謝を捧げました」


 そういいながら、S氏は実際に泣きだしました。


 うれしそうに腕でなんども顔をぬぐい、ぬぐうはしから涙をポロポロと流し続けました。


 そして気を落ちつかせるために、残り少ない幻の酒を湯呑にそそぎ、ひと口ゴクリと飲み干しました。


「いよいよ狩りが始まりました。見張りの狩人が、一頭のカモシカを発見したのです。それはやがて二頭に増えました。夫婦のカモシカを見つけたのです。

 私たちはメスの腹が大きいのを見てとると、まよわずオスの方を追いかけ始めました。それが狩人の掟であり、大いなる自然に対する、罪深き人間のせめてもの礼儀なのです」


「五人の狩人は三方にわかれ、カモシカを取りかこむ手はずで、苔むした地面をはうように移動しました。私は左手の方にむかう狩人の補佐を申しつけられ、谷にカモシカが逃げこむのを防ぐ役目を与えられました」


「わくわくするような期待感。

 しびれるような狩猟への歓喜」


「自然への感謝などどこへやら、弱肉強食のさだめよろしく、追うものの快感のままに私は走り続けました。

 すべる苔に足をとられ、地を這う根につまずいても、私は頭のぼせていたのでしょう、なんの注意も払おうとしませんでした」


「そして……自然を侮った者には、やはり手痛いシッペがえしがあるものです」


「アッと叫んだ時はもう遅すぎました。

 私は浮いた苔に足をすべらせ、斜面を流されるようにずり落ちました」


「片流れの斜面で足をすべらせたのです。そこは立木もまばらで、ずっと下の沢まで落ちこんでいました」


「私は落下のスピードを殺すので精いっぱいでした。

 それでも最後の数十メートルは、ついにころげ落ちてしまいました」


「私が馬鹿だったのです。自分でどうにもならないのなら、落ちながら悲鳴のひとつも上げればよかったのに……若造の浅知恵で、最後まで自分でなんとかしようと思ってしまったのです」


「しかし、どうともなるはずがありません。とうとう河原に落ちると同時に、私はしたたか頭をうち気を失ってしまいました」


「どれくらいたったのでしょう。

 ふと気がつくと、あたりはすっかり暗くなっていました」


「頭からは血があふれ、頬をつたい顎の所でこびりつくようにして乾いていました。すでに血が止まっていたので、心底ホッとしました。

 気を取りなおした私は、すべり落ちた崖をのぼろうと思い、立ちあがろうとしました。しかし、それは無理な相談でした」


「どこでどうしたのやら、私の足はみょうな角度に折れまがり、いつもの倍ほどにも膨れあがっていたのです。

 皮膚は不気味な紫色に染まり、息がとまるほどの痛みが脳天を直撃しました。私の顔は、痛みと不安でしだいに青ざめていきました」


「こんな山奥で、あろうことか仲間を見失い、さらには足を折ってしまったのです。私は痛みよりも生命の危険におびえ、あらんかぎりの声をあげて叫び続けました」


(おーい、だれかぁ! 助けてくれぇー!)


「真っ暗な、星もない夜でした。

 私の声は幾重にもこだましながら、しだいに小さくなっていきます。

 真剣に耳を澄ましました。

 しかし、だれからもいらえはありません。

 私は何度も叫びました。

 何度も……しかし、やっぱり返事はありませんでした」



「私はすっかり怯えてしまい、シクシクとべそをかきはじめました。そんなことをしていても助かるわけじゃない。そう気づくと、怖さも手伝って、かすれる声でまた叫び始めました」


「どれくらい叫んだか、もうわからなくなった頃。

 あまりに声を荒げたため、呼吸すら苦しくなって頭がボーッとなってしまった頃。

 河原の奥のほうに、ひとつの灯火がポッと灯りました」


「私は助けがきたと信じこみ、ありったけの声で、それこそ訳もわからないことを叫びました。

 すると、どうでしょう!

 その灯火はゆらゆらとこちらに近づいてきたのです。

 助かった!

 私はうれしくて、ふたたび泣いてしまいました」


「あらわれたのは、箕傘に身をつつんだ古風ないで立ちの老人でした。

 老人は近くで炭焼きを営んでいるとかで、歳に似あわぬ馬鹿力で私を背おってくれました。

 もちろんまだ大人になりたてで、いまほど贅沢もしていなかったので、ずいぶん軽かったことは確かですが。

 私は恐怖から解放された安堵感と疲労のため、老人の背中でついウトウトと居眠りをしてしまいました。

 そして目がさめたとき、私は粗末な煎餅布団にくるまっていました。質素な小屋の中に寝かされていたのです」


「足にはきちんと副木があてられ、なにかの布切れが巻かれていました。

 しかしそれをしても、まだ歩くことは不可能でした。ためしに起きあがろうとしたら、あまりの激痛に気が遠くなったほどです」


「私が痛さに呻いているとき、粗末なたてつけの戸がひらきました。そして、ほっそりとした人影が入ってきたのです。それが運命の始まりでした」


 S氏はもったいないことに、湯呑にそそいだ酒を一息にあおりました。


 そしてアンさんがアッアッというのを尻目に、ふたたび酒瓶からなみなみと酒をつぎました。


 もう残りは、あとわずかしかないにもかかわらず……。


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「Sがそのあと体験したことは、とても話せません」


 アンさんは宙をあおぐとそう言った。

 そしてグラスのワインを、いっきに飲み干していく。


 私は、アンさんが話を中途で終わらせたのを、はじめて見た。


 けれども、店の客も私も、それ以上アンさんから聞きだすようなヤボはしない。

 いずれアンさんが、その気になったら話してくれると思ったから。


 酒場は、いつになく静かだった。

 それぞれの客が、それぞれの『S氏のその後』を思っていたに違いない。


 しかし私は、幻の酒のことしか考えられなかった。


 いったいS氏はどうやってそれを手にいれたのか。

 本当のところ胃が痛くなるほど知りたかったのだ。


 できることなら飲んで見たい。


 アンさんは、私の顔をじっと見つめている。


 いつの間にかアンさんのグラスには、勝沼産のヌーヴォーが注がれている。

 新酒特有の、まだ熟しきっていないフルーティな香りが漂ってきた。


 私はそのとき、ふと思った。


 もしかしたらアンさんは、私をこんな気持ちにしたいがために話をしたのかも。

 私を罠にかけるためだけに、先ほどの話をでっちあげたのかもしれないと。


 しかしアンさんの顔からは、なにも読み取れない。

 しかたなく私は、アンさんにたずねた。


「いつになったら、話のつづきをしてくれるんですか」


 アンさんは、ウインクしながら答えてくれた。


「つぎのヌーヴォーが出るころには」






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 30年以上昔に書いたお話、これで終わりです。

 続きを書くつもりはありません。


 なぜなら、この作品を書いた時の自分の感性は、

 あの瞬間にしか存在しないからです。


 もちろん、似たような作品を書くことはできます。

 でもそれは【パイプ亭綺譚】ではなく、また別のお話になってしまいます。


 ということで……。

 ずっと昔の【私】にお付き合いくださり、まことにありがとうございました。


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パイプ亭綺譚【電子小説改稿版】~それはどこにでもある、ごく平凡な物語~ 羅門祐人 @ramonyuto

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