第4話 第3夜 怖い話
「マスターには、好き嫌いはあるかい?」
ガクシャさんが、いつもの口調でそういった。
いかにも楽しそうな、いたずら小僧のようなしゃべりかただ。
私はビール缶のプルトップを引く手をやすめ、気真面目そうなガクシャさんの顔を見た。
「酒には、ありませんが……」
「食べ物にはあるんだね?」
「ええ、まあ」
この歳になってまで、好き嫌いを問われるとは思っていなかった。
私は答えたあと、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
正直なところ……。
あの【苦瓜】と称するグロテスクな野菜だけは、どうしても食べることができない。
薄い黄緑色をした胡瓜かヘチマのような格好をしていて、表面には無数の腫れものみたいなぶつぶつが張りついている。
その姿を見ただけで、思わず胃の中がひっくり返りそうになってしまう。
まあ、あくまで私の個人的な感想といえば、それだけの話なのだけど。
「じゃあさ。だれもが食べずにはいられないものが、この世には存在するって信じられるかい」
「美味しいものですか?」
苦瓜は苦手でも、その他の料理には興味がある。
私はうまく釣りあげられた魚のように、カウンターから身を乗り出して聞いた。
「いやいや、絶対に口にしなければならないものだよ」
ガクシャさんは、カウンターの表面を細長い指でコツコツとたたいた。
ふだんなら神経にさわる動作なのだが、ガクシャさんが行なうかぎり、なぜかほとんど気にならない。
【ガクシャさん】
なぜ彼がそう呼ばれるのか。
その理由は知らない。
少なくとも、私がつけたあだ名ではない。
酒場ではありがちのことだが、もちろん本名も知らない。
ただ……。
最初に連れだってきた客が、彼のことをガクシャさんと呼んでいた。
そのため、いつしかそう呼ぶようになっただけ。
七三にきちんと分けられた髪や青白く痩せた風貌。
ときたま発せられる、難解な専門用語をまじえた高度な知識を要する会話。
なるほど、どこぞの理科系大学か研究所の学者さん……。
そう、思わず納得してしまいそうになる。
「絶対に食べなければならないもの、ですか?」
「そう。それを口にしないとなると、人は死なねばならない」
「ビタミンとか、タンパク質とか呼ばれるものでしょう?」
「いいや。それらは身体のためになるもので、いわゆる必須物質と呼ばれるものだ。しかし、ぼくのいっているものは、不必要にもかかわらず……言いかえれば、誰もが欲しくもないのに、毎日無理矢理に食べさせられているものだよ」
「………」
「わからない?」
「お手上げです。きっとガクシャさんのような専門家じゃないとわからないような、難しいものでしょうから」
「ところが違うんだ。字を読める人だったら、だれでも知っている単語だよ。そして日本人で字を読めない人はほとんどいない。うーん、もうヒントは出したんだよなあ」
「このクローネンブルグ・ビール、おごりますから意地悪しないでください」
プルトップの抜かれたビールを、ガクシャさんに見せる。
もともと奢るつもりだったものだ。
自分がうまいと思った酒は、信頼のおける客に試飲してもらう。
それが私の楽しみであり経営方針でもある。
客を上手な酒飲みに育てるのも、マスターの重要な仕事のひとつなのだ。
「おやおや、なんだか得したみたいだ。それ、フランスのビールだろう」
「ええ、なんとなくガクシャさんに合いそうな気がしましたから」
白と赤の格子模様の入った缶。
そこから、口当りのよいクローネンブルグをグラスへとそそぎ込む。
細かい泡がプチプチと弾け、なめらかなクリームに似た盛りあがりを形成する。
私は爪楊枝を泡に突きたて、それが倒れないことを自慢したりした。
「じゃ、お礼に教えてあげよう。それは食品添加物っていうやつだよ」
「あ、なるほど」
私はそう言いながら、口とは裏腹にちょっぴり失望した。
もっと面白い、わくわくするような答えを想像していたからだ。
食品添加物だったら、私ごときの素人にも、いくつかは思い浮かべることができる。
酸化防止剤、発色剤、合成保存料、合成糊料、乳化剤、科学調味料……。
しかし、それがどうしたというのだろう。
「ははぁ、失望したね。でも、これからが面白いんだぜ」
ガクシャさんはビール一杯で赤くなった顔に、あいかわらず子供のような笑いを浮かべている。
どうやらここにくる前、どこかでかなり仕込んできたらしい。
いつになく口が軽い。
ちょっと飲んだだけで赤ら顔が復活するのもそのせいだ。
「ね、マスター。これから言うことは、だれにも内緒だよ。ぼくのやってる仕事の、いちばん重要な秘密を教えてあげるんだから」
「いやだなあ。なんだか怖い話のような気がしますね」
「いやいや、マスターは口が固いからね。それにぼくも、このままだと、どこかでしゃべってしまいそうで恐いから、どうせならここでバラしてしまおうと思うんだ」
ガクシャさんの目がすわっている。
無用のトラブルは御免こうむる。
だから遠まわしに、『言わないでくれ』と断ったつもりだった。
しかしガクシャさんの話は、もうとまらなかった。
「あのさ……」
ガクシャさんが小声でしゃべりだそうとした。
その時――。
カウンターの奥の電話が、チリリリと小さくなった。
私は受話器をとった。
「はい、パイプ亭ですが」
電話には、だれも出なかった。
電話口のむこうからは、さまざまな混信に混って、かすかに息をつく音が聞こえてくる。
誰かがむこう側で、息をひそめてこちらの物音に聞き入っている。
「おーい、マスター!」
ガクシャさんが酔っ払った声で私を呼んだ。
その途端、電話は唐突にきれてしまった。
「………!?」
「マスター、どうしたの」
「いえ、間違い電話でした」
面倒なので、つい嘘をついてしまう。
ガクシャさんはフーンと気のない返事をすると、ビールをうまそうに飲みほした。
「……食品添加物っていうのは色々な用途があって、いまの日本の食物には、もうほとんどといっていいほど入ってるんだ。
もちろんオーガニック食品とかは意図的に除外されてるけど、それでも主成分である必須栄養素については、それを除外すると商品そのものが無くなってしまうから、やっぱり入ってることになる」
ガクシャさんは、ふたたび話の続きを語りはじめた。
その口調はだんだん講義風になっていく。
「でも必須栄養素って、添加物じゃないのでは?」
「ビタミンやアミノ酸でも化学合成されてるんだよね。天然由来と銘打ってあっても、遺伝子組替食品かもしれない。どうしてもって言うなら、もう自分で育てるしかないけど……その種が天然モノかどうか……」
私は反論するのをやめることにした。
にわか学生よろしくカウンターの上に肘をついて、じっくりと聞き入るふりをする。
どうせ今日は、ほかに客もいない。
こうなればとことん話につき合ってやろうという気になった。
「それに添加物とは呼ばないもの、たとえば残留農薬や抗生物質、放射能なんかも、一種の添加物って言っていいだろう。
最近、あちこちで原発事故がおこってるだろ? ずいぶん放射能も身近になったものさ。
もしかしたら本当は致死量をこえる放射能が、そこらじゅうに漂っているかもしれない……」
「恐いこと言わないでくださいよ」
「いや、冗談だってば。もちろんそれらは、もろもろの規制によって、指定された量を越えないよう定められている。
だけどもし……もしもだよ、国が意図的にまぎれこませようとする物質があったとしたら、マスターどうする?」
「そんなことは……」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
ガクシャさんが答えを求めていないことに気がついたからだ。
【寡黙は金なり】
私は、ふたたびだんまりを決め込んだ。
「誰にも知られずに未知の物質をまぎれこませるのは、いくら国家であろうと不可能だといいたそうだね。検査をすればすぐにわかってしまうと。
でも、検査をするのは一体だれだい? たとえ国民目線の団体が疑問に思っても、検査を依頼するのは、どこかの研究施設じゃないかな。
そしてその研究施設では、なにで検査をするんだろう。いろいろな機械や試薬でだろう?
機械や試薬は国の検査を通過しなければ、検査に適しているというお墨付きがなければ、そこには納入されないんだよ。
つまり……ある特定の物質については、あらゆる検査機器が反応しないように、あらかじめ意図的に操作が加えられているとしたらどうする。対処のしようがないと思わないか」
「でも……その物質が機械に引っかからないように検出器を細工する人間だけは、最低限そのことは知っているんでしょう?」
私はそういってから、あっと声をだした。
「そう。その人間こそがぼくなんだ。もちろん、ぼくが膨大な量の機器を直接調整するわけじゃない。
そんなことはとても不可能だ。ぼくはどうやったら、くだんの物質がひっかからないようにできるかを考えればいい。
あとは、とある機関が検査機械のラインに細工をして、うまく始末してくれるという寸法なんだ。
もちろんその機関は、表むきにはまったく存在していない。しかし国を本当に動かす連中だけは、漏れなくそれを知っているのさ」
ガクシャさんは軽くウインクした。
もしかしたら、ちいさく笑ったかもしれない。
しかし私は次第に気味が悪くなってきた。
まったくのデタラメとは思えなかったのだ。
「冗談でしょう?」
ガクシャさんはニコニコと微笑むばかりで、質問には答えようとしない。
私はすべてを冗談だと思いたかった。
でも冗談にしてはあまりに突飛すぎる。
そして乏しいながらも経験に照らし合わせてみると……。
突飛すぎる話にこそ、真実が含まれている。
「そして問題の物質なんだが、その効用は……」
入口の扉がひらいた。
二人の陽気に騒ぐ男たちが入ってくる。
パリッとした背広を着こなし、帽子を目深にかぶっている。
声は明るく張りがあるが、その割に、どことなく神経質で陰気な雰囲気を漂わせていた。
「おいおい。こんな所でくだ巻いてたんだな。ずいぶん探したぜ」
「そうだよ、所長がおかんむりだぜ。例の合成保存料、十二時間で分解しちゃってテストが中断してるって。さあ、急いで研究所に戻ろう」
男たちは同僚らしい。
なるほど……。
実験途中でガクシャさんが抜けだした。
それを迎えに来たのなら、見た目には陽気でも腹の中では怒っているのかもしれない。
それが、ちぐはぐな第一印象になったのだなと、私はひとり合点した。
彼らは私に一礼した。
にこやかな微笑みを浮かべたまま、ガクシャさんの両脇を抱えて立ちあがらせた。
わき腹に男の腕がふれたとき、ガクシャさんは、はっとした顔つきになった。
やがて真っ青になる。
まるで悪酔いでもしたかのように、いまにも吐きそうな顔になった。
立ちあがりざまに、口をゆがめながら叫んだ。
「マスター、それは放射能除去作用をもった物質で……」
ガクシャさんはそこで、ふにゃふにゃと床に座りこんだ。
よく見ると、すでに眠りこんでいる。
「あらら、ずいぶん飲んだもんだ。しょうがないな……あ、勘定はいくらです? 立てかえときますから」
背の高いほうの男が、あいかわらずの笑顔で告げる。
今日は私のおごりですからというと、男は「そりゃどうも」といって、ガクシャさんを背おう。
そそくさと扉を出ていく。
あとに続く背の低いほうの男が、出口の所でふりむいた。
なにか言いたそうな様子。
だが、不意に扉の方へむきなおると、あわただしく先の男を追いかける。
だれもいなくなった店内。
私は、ひとり悪寒に震えていた。
ふりむいた男の顔は、まるで笑っていなかった。
それに……。
私は見てしまったのだ。
急に酔いつぶれたように見えたのは、男たちがガクシャさんの脇腹に、注射器の針を打ちこんだためだということを。
ほんの一瞬だが、男の手に金属製の注射器がきらめいたのが、はっきりと見えてしまった。
以前……。
ネットのニュースかなにかで、どこかの国の潜水艦が沈んだとかいったことを見た。
乗務員は全員死亡。
そのことで若い乗務員の母親が、国に抗議している映像だった。
その母親に、なにかの薬が入った注射器を突き立てた者がいた。
母親は瞬時に昏倒した……。
その瞬間が、映像にしっかり捉えられていた。
あの時の光景を覚えていたからこそ、今回のことに気付けたのだ。
それ以来……。
ガクシャさんがパイプ亭に顔をだしたことはない。
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