第3話 第2夜 泣く男


 私は、いつもより遅くに店を開けた。


 夕刻はとうに過ぎ去り、風は凪から海風へと変わっている。


 ときおり……。

 彼方からボーッと汽笛の音が聞こえてくる。


 すぐにそれは、しっとりとした宵闇の中に溶けていく。


 そう……。


 私の愛するパイプ亭は、めまぐるしく発展する巨大な港の、忘れられ古びてしまった倉庫街の片隅に、ひっそりとたたずんでいる。


 十月にはいってから、この辺もめっきり冷え込むようになってきた。


 つい先日まで、港を吹き抜ける南風には、夏の熱気がこもっていた。

 それが知らぬまに、北東から吹いてくる秋の風に変わっている。


 ハーフコートを脱いで、いつものマスターの服に着がえる。


 赤いシルクのシャツに黒いサテンのベスト。

 ここを受け継いでから、いや……ずっと前のマスターの頃から、これは永遠に変わらないパイプ亭の制服。


 私は入口の横壁にある小さな常夜燈に灯をともす。

 ギシギシときしむ扉を開けた。


 入口の片隅に置かれているスタンドをやや前方へ移動させる。

 ゆっくりと持ちあげた。


 不覚にも私は、そこに男が立っていることに気がつかなかった。

 その時はじめて、入り口の横に隠れている男に気がついたのだ。


 しばしの間、私は声もなく男を見つめた。

 明らかにマスターとして失格の態度だった。


 はっと気づいた私は、なんとも締まらない照れ笑いをうかべ……。


「いらっしゃい」とだけ言った。


 男は常連の客で、イケさんといった。


 イケさんは大きな病院に籍を置く、若くて有能な整形外科医だ。


 たえず知的な冗談を飛ばしまくり、底なしの魅力を誇るかのように、いつも勤務先の女性看護師を、愛人よろしく両腕に抱えてくるような人だった。


 そのイケさんが……。

 しばらくこなくなったかと思うと、まるで別人のようにくたびれ果てて、そっと扉のむこうに立っていた。


「外は寒いですから……」


 私はイケさんを店内に誘った。

 いつものカウンター席に案内する。


 なるべく感情を押し殺した顔で、ちいさく「注文は」と聞いた。


 それが客に対する正しいマスターの在り方かどうか、今もって私にはわからない。

 ただ客のほとんどはそれに満足し、一部の客は二度と顔を見せなくなった。


 どのみち他のやり方を選べるほど器用だとは思っていない。


 それが歴史あるパイプ亭の顔なのだ……。

 そう自嘲ぎみに自分へ言い聞かせながら、これまでずっとやってきた。


「ドライ・マティニー。ジンはダンカン、ヴェルモットはロッシ」


「それでいいんですか」


 手の中で、キンと冷やされたグラスが、不機嫌そうに水滴をこびりつかせている。


 その水滴をぬぐう時に、私は必要以上に力をこめた。


 たちまちきゅるっと耳ざわりな音がして、BGMを止めている店内にしみ透っていく。


「ああ。変な組みあわせだってわかってる。笑わないでくれ」


「べつに笑いはしませんが」


 私は無愛想きわまりない返事をする。

 黙りこくって注文の酒を作りはじめた。


 イケさんのレシピはダンカン。

 それはいつもと変わらない。


 が、ヴェルモットの選択が私を不機嫌にさせた。

 ひとこと『いつものやつ』と言ってくれれば、黙ってノイリーを使っただろう。


 それがイケさんのいつもの洗練された風貌と同じ、きりりと引き締まったマティニーだからだ。


 カクテルはマティニーに始まりマティニーに終わる。

 レシピとヴェルモット。

 たった二つの組みあわせが、無限の嗜好と満足を産み出していく。


 たとえ地球上に七十億の人間が生きていようとも、だれ一人としておなじマティニーは存在しない。


 そして今日イケさんが注文したマティニーは、間違いなくほかの誰かにくれてやるべきものだった。


 私は、客にそぐわない酒など作りたくない。

 客の好む酒しか出したくなかった。


 それがパイプ亭のポリシーであり、私と客をつなぐ唯一の絆なのだ。


 どこかのだれかが天国の味だと絶賛しても、その酒が目の前の客にあうとは限らない。


 カクテルと客との相性は、何度も逢瀬を楽しみながら互いに溶けあっていく、麗しき恋人たちのようなものだ。


 しかし……。

 その恋人が真剣に浮気をすると決心したら?

 私は、客の注文に答えなければならない。


 きっと、なにか深い理由わけでもあるのだろう。

 だがそれを知る権利も、尋ねる権限も私にはない。

 出来ることといえば、制限された中で少しでもうまい酒を提供することだけ。


 私はできあがった甘ったるいドライ・マティニーを、必要以上に冷やしてイケさんの前にさし出した。


 せめて温度を低くして、ロッシの甘味を抑えようと思った。


 イケさんはそれを、一息で飲み干した。

 いつものように舌の上で転がすどころか、下衆な清涼飲料のガブ飲みに近かった。


 ほんとうに今日のイケさんはおかしい。

 パイプ亭にやってくる客の中でも、イケさんは十本の指に入るほどのカクテル党のはず。


 冷えすぎたマティニーを出そうものなら、たっぷり一時間は嫌味を言われかねない。

 だから私は、またイケさんが、彼流の冗談を仕掛けているのではないかと疑った。


 無茶な注文をして、私が困り果てたあげくにどんな無粋なカクテルをだしてくるのか。

 それをひそかに楽しんでいる。


 そのために用意周到な演技を続けていると思った。


 だが……。


 イケさんは嫌味のかわりに、あろうことかズブロッカを使ったマルガリータを注文したのだ。


「そんな……」


 ズブロッカは、香草を漬けこんだまろやかな風味を誇るヴォッカだ。

 キュンと氷温まで冷やして、そのまま飲むのが最上の酒。


 しかしながら、その豊穣な風味を生かし、なおかつカクテルの材料とするためには、頭がおかしくなるほど細心の注意が必要になる。


 とてもマルガリータのような、完成されたカクテルの材料に使う酒ではない。


「頼む、作ってくれ」


 イケさんはカウンターにおいた両手の拳を見つめたまま、押し殺した声で言った。


 これではまるで、私に喧嘩を売っているようなものだ。

 マルガリータは、テキーラの乾いた味と果汁の風味を楽しむカクテルのはず。

 なのにズブロッカなど使ったら、香草と果実の香りが正面から喧嘩してしまう。


 砂漠と荒野の国で飲み干す一杯の冷水。

 その味わいを出すために、マルガリータはこの世に生まれた。


 その灼熱から生まれた生命の水を、シベリアの永久凍土と混ぜあわせる行為……。

 それはもう、酒とは呼べない代物にちがいない。


「いったいどうしたんです? いまのイケさん、まるで喧嘩売ってるみたいですよ」


 私は耐えられなくなり、マスターとして許されない言葉を吐いた。

 こともあろうに、客の注文に対して抗議をしてしまったのだ。


 でも、私の気持ちも少しは考えてほしかった。


 イケさんの注文は、イチゲンの客なら、たちまち店の外にたたき出されかねない、まさにパイプ亭のポリシーを馬鹿にしたものだったのだ。


「ごめん。八つ当りして」


 顔色の変わった私に、イケさんは申しわけなさそうに言った。


 私はかえす言葉もなく、自分の無礼な態度を心の中で恥じた。


「俺、自信、無くしちゃった。だから」


「………」


 仏頂面のまま、棚に並んでいる酒瓶を物色しているフリをする。


 酔客の独白に面とむかって応対するマスターがいたら、それだけでその店の程度が知れる。


「きのう……急患が救急車で運ばれてきたんだ。交通事故で骨折したとの連絡を、前もって無線で受けてた。

 どうせたいしたこともないだろって、医局からおっとり刀で救急センターにかけつけた。

 患者は髪の長い女だった。買物にでも出ていたのか、質素な普段着のワンピースを着ていた。

 そして膝から下がぐしゃぐしゃに壊れてた。髪をふり乱して痛がっていた。そして……俺は心底、驚いた」


 私はだまって、イケさんに相応しい本物のマルガリータをさし出した。


 長いあいだ迷ったフリをして、ひそかに棚から酒を選びだしたのだ。

 本当のところは、決断するのに二秒もかからなかった。


 テキーラは、マイルドなエルトロ。

 コアントローとレモンを押え気味にして、口当りがやわらかくなるように演出している。


 せめて気持ちだけでも安らぐようにと作ったつもりだ。

 かすかに漂う清涼なレモンの香りに、私は思惑通りに行くはずだと内心ほくそえんだ。


 だが……

 イケさんは私の気持ちなどまるで気がつかないように、またしても一気にそれを飲み干してしまった。


 私は、下一桁違いで外れた宝くじをつかまされたような気分になった。


 イケさんは、そんな私を無視して独白を続けた。


「痛がってる患者なんて毎日見ている。だから、なにもそれで驚いたわけじゃない。俺が驚いたのは……。

 看護師が顔を拭くために女の髪をたくしあげたとき、それが知った者の顔だって気づいたからだ。

 女は昔に別れた恋人だった。まだ俺が教養課程の学生だったころ、けっこういい仲になったことのある女だったんだ。

 同人誌のサークルを通じて知りあって、一時は互いにそうとう入れ込んでいた。

 趣味のつきあいは、すぐに男と女の関係に発展した。そしていま思い出しても顔が赤らんでくるほどの、熱い白昼夢のような時間が過ぎていった。

 しかし彼女あいつは、俺とのあいだに立ちふさがるどうしようもない時間の壁に気づき、たちまち弱気になった。

 俺はまだ医者の卵にもなっていない、所詮ひよっ子にすぎなかったんだ。そして医者としてものになるためには、まだ気のとおくなるような時間が必要だった。

 専門過程に進み臨床実習をこなし……やがて卒業して、それから研修医としての過酷な生活が待っている。

 自分の腕で満足にメシが食えるようになるには、いったいどれくらい時間を浪費しなければならないのだろう……」


 そこまで言ったイケさんは、ちいさく呟いた。


【そんなに待ってたら、私、おばあちゃんになっちゃう】


 そしてまた、話を続けた。


『……それが、あいつの最後の言葉だった。いいや、あいつが別れようとしたんじゃない。俺が別れの言葉を出せるように、そんな雰囲気を作ってしまったんだ。

 あいつはそんな俺の気持ちを察して、自分の悲しみを隠したまま、いかにも自分から別れるような口ぶりでいってくれた。

 本当にあいつは……優しい心の……最高の女だった。そして俺は、まったく愚劣でどうしようもなく卑怯な男だった!

 そして十数年がたち、俺はいっぱしの医者になった。だけどもう、あいつはいない。二人の思い出は風化して、必要以上に美化されていた。

 もしも……このまま時が過ぎ去れば、いずれもらうはずの女房にすら、青春の思い出として話せるかもしれない――そう思いはじめていた。

 そんな矢先……すっかり忘れていたのに、ふたたびあいつが、運命の神の悪戯みたいな形で俺の前に現れてしまったんだ。驚かないほうが無理ってもんだ!」


 私は返事をしなかった。


 イケさんは相変わらず、うつむいたままでしゃべっている。

 私はイケさんの方をなるべく見ないようにして、せっせとグラスを磨いた。


 こういう時にかぎって、いつまでたっても新たな客は来ない。

 せめて他の客が酒の注文でもしてくれれば、これほどまで気まずい思いはしなくて済んだのに。


 そんな私の気持ちも知らずに、イケさんは自分に没頭している。

 空になったカクテルグラスをにぎり締め、顔すら上げてくれない。


 そのままの格好で、イケさんはしゃべり続けた。


「そりゃあ、あいつと結婚しようと思えば学生の時にだって出来たさ。でも男として女の一人も食わせられないようじゃ、とてもそんな気にはなれなかった。

 医学部ってとこは変なもんで、卒業して資格を取るまでは、なんの役にもたたない。知ってるかい、教職課程すらないんだぜ。

 俺は悲しかった。自分が相手を食わせてやれるようになる頃には、相手はババアになってるって言われたんだから。

 それも本心からの言葉じゃない。『私のために貴方が苦労することはないわ』、そうとしか聞こえなかった。

 そして卑怯にも俺は、その言葉に甘えてしまった。いま思えば、あれは間違った判断だと後悔している。

 あのとき何がなんでも結婚してればよかった。そうしたら、いまになってこんな思いをしなくて済んだかもしれない。

 俺はカルテを書くために、看護師に、身分の証明になるようなものを持っていないかと尋ねた。

 いくら心の中で動揺していても、仕事は仕事だ。ルーティン・ワークとは良く言ったもんだな。

 頭は混乱しまくってるっていうのに、医者としての指示は適確に行えるらしい。看護師もまた、いつものように機械的に従っていた。

 はたから見るかぎりでは、淡々と作業を進めているように見えただろうな。うまい具合いに、ハンドバックの中に保険証があったらしい。俺はそれを調べてもらい、急いでカルテを書きはじめた。

 あいつの名字が、かつて俺が呼んでいたものとは違ってた。家族は三人で、五才の男の子がいた。

 もちろん……結婚していてもおかしくない歳だし、そっちの方があたりまえなんだろうけど、俺はなんとなくショックを受けてしまった。

 とにもかくにも、込みあげてくる思いを無理矢理ねじ伏せて、看護師に対し、家族へ連絡するように言いつけ、急いで手術室に入った」


 イケさんは空になったグラスをすすった。

 グラスの縁を白く彩るソルトが、うっすらと唇に張りつく。


 なめるという行為すら忘れているらしく、そのうちにそれは乾燥し、パラパラとローズウッド製のカウンターテーブルにこぼれ落ちた。


 いつまでたっても追加の注文がないので、私はどうしようかと迷いはじめた。

 だが、そのうちにイケさんがしゃべり始めたので、正直いってほっと胸をなでおろした。


「診断は下腿の複雑解放骨折。いわゆるバンパー損傷って言われるものだ。麻酔は吸入薬による全身麻酔。その上で整形修復のオペにとりかかった。

 もう何度もやったことのある、ありふれた交通事故の手術だった。ただ、それがかつて愛した女の手術ということを除いては。

 俺が愛撫したことのあるスラリとした足が、見るも無残に折れ曲がっていた。無駄な肉がなくすべすべとしたそれは、あいつがいつも自慢していたものだった。

 しかしその表皮はズルズルにむけて、その下の筋肉や神経や腱は、ぐちゃぐちゃに潰れて飛び出していた。

 桃色がかった骨はあちこちで砕け、骨膜のはがれた所は妙にまぶしい純白だった。とても完全には修復できそうにない……俺は迷った。

 とりあえず出血をとめ、代謝を抑えるため患部を低温にする処置をした。どう考えても両足切断が妥当な処置だった」


 そこでイケさんはしゃべるのを止めた。

 長い沈黙のあと、ぼそりと言った。


『しかし俺は、その処置をするのをためらってしまった』


 その言葉のどこにためらう要素があるのか、私には判らなかった。

 しかしイケさんは、ようやく吐けたといった感じで、また喋りはじめた。


「どうしても、あいつとの思い出がいっぱい詰まった足を、自分自身の手で切り落とす決心がつかなかった。

 麻酔から覚めたときの、あいつの嘆き悲しむ顔を見たくなかった。藁にもすがりたい気持ちになってたとき、看護師が、『家族が到着した』と、そっと耳打ちした。

 俺は判断に迷ったあげく、オペ室の外に出て……あいつの夫と子供に会った」


 イケさんはますます小さな声になった。

 気をつけて耳をそばだてていないと、つい聞き漏らしてしまいそうだ。


 話題を変えるには、すでに深入りしすぎている。

 私にできることは、ただ黙って聞くことだけだった。


「あいつの夫と名乗った男が、どうしようもないほど情けない顔つきで、すがりつくように俺に言った。それは家族が交通事故にあったとき見せる、ごくありふれた反応に過ぎなかった」


。女房、どうなんですか】


「……俺の目の前で、おろおろと取り乱していた。子供は愛らしい顔で、なにが起きたのかもわからず、キョトンとした表情で見つめている。

 俺は逃げ出したい衝動をぐっとこらえた。先生と呼ばれたことで、ほんの少し我に返ったのかもしれない。やっとの事で、損傷の状態を説明し、そのあと両足切断の許可を願い出た」


【切断……そんな! なんとかなりませんか!】


「夫は涙を流しながら俺にすがった。子供も父親につられて、くしゃくしゃと泣き顔になった。

 その子の泣き顔は、驚くほど別れの際のあいつの顔に似ていた。俺は『それじゃ……何とかしてみます』と、ぼそぼそとつぶやくのが精いっぱいだった。

 結局、切断の許可はとれなかった。うしろをむいた俺の背中に『先生はプロのお医者さんなんでしょう? なんとかするのが務めでしょう?』と悲痛な叫びが浴びせかけられた。

 俺だってなんとかしたい。あいつがこの先ずっと、両足なしの生活をしなければならない……そんな辛い思いをさせる決定なんて、できるわけがなかった。

 だけど、その思いは医者としての判断を逸脱したものだ。そしてとうとう俺は、医者として間違った選択をしてしまった……」


「………」


「俺はオペを続行した。持てる限りの技術を駆使して、破壊された下腿の修復にとりかかった。

 骨を削り、穴を開け、ステンレスの棒を突っこんだ。ボルトを無数に埋めこみ、マイクロ・サージェリストの助けを借りて、微小な血管や神経を接合した。

 断裂した筋肉をつなぎあわせ、ちぎれた皮膚をかぶせた。それでも足りないところは、あとで移植するために、一時的に人工皮膚でおおった。

 ながい格闘の末、オペ室全員の称賛を浴びながら手術は完了した。みごとに成功したんだ!」


 イケさんはそこで口をつぐんだ。

 沈黙が重くのしかかる。


 私は耐えられなくなり、口を開いてしまった。


「よかったじゃないですか」


「話には、まだ続きがあるんだ」


「その後のエピソード?」


 手術が成功したと聞いて、安心した私は、あまりにも迂闊な質問をしてしまった。


「ああ。、手術は失敗だった」


 イケさんは、カウンターを拳でドンとたたいた。

 あまりに唐突だったので、私は飛びあがらんばかりに驚いた。


 たった今成功したと言ったばかりなのに、舌の根も乾かぬうちに、今度は失敗したと言っている。


 正反対の言葉のあいだに、いったい何が挟まれているのか。

 私にはまるで見当がつかなかった。


「翌日……俺は、ギブスでガチガチに固められたあいつに会いにいった。本当はもう二度と会いたくなかった。

 しかし職務上、かならず回診を行わなければならない。俺は自分を殺し、病院というシステムの単なる部品としてふるまおうと努力した。

 あいつは麻酔から醒め、夫から自分を助けてくれた奇跡の医者の話を聞き、痛みをこらえながら待っていた。

 案の定、家族と一緒にお礼の挨拶をしようとしたあいつの顔が、途中で凍りついてしまった。

 俺もまた、言葉が出てこなかった。覚悟したはずなのに、そんなものはどこかに飛んでいってしまった。

 事情を知らぬ夫は、どうした痛むのかとしきりに心配している。あいつはあいつで、俺を見つめたまま恨めしそうな顔になっている。

 一般的に見れば、あいつの態度は理不尽の極みかもしれない。自分の命と両足の恩人なんだ。でも俺は、あいつの気持ちが良くわかった。

 この世で一番会いたくない相手に出会ってしまった。やっと俺を忘れて小さな幸せをつかんだ矢先、いきなりこんな再会をしてしまった。

 それも……あいつにとって俺は、命を助けられた感謝すべき存在だ。心ならずも背信してしまった神から、奇跡を与えられてしまった信者。あいつの顔は、まさにそんな気持ちをあらわしていた。

 俺は、お大事にと言うのが精いっぱいだった。いつもと雰囲気が違うのに気づいた看護師が、『先生はお疲れですので』といらぬフォローをいれた。

 その一言も、俺を滅入らせるのに一役買った。あいつの夫は、それでますます俺に感謝した。

 しかし……それだけだったら、俺はここまで落ちこんだりしない。それだけだったら、ここまで……」


 イケさんは空のグラスを両手で握りしめたまま、ボロボロと涙をこぼし始めた。


 私はどうしていいかわからず、棒のようにつっ立っている。

 まったく間抜けな新米バーテンにも劣る自分に、ほとほと愛想が尽きる。


「俺は……俺は、どうしようもない気持ちをまぎらわすために、病院のそばにある行きつけのスナックに飛びこんだ。

 看護師や同僚の賞賛をうけながら、ふだんは飲まない国産のまずいウイスキーをたらふく飲んだ。

 病院始まって以来の画期的な手術に対する賞賛を浴びても、俺の心はどうしようもない欝積のために、ドロドロの汚泥のように腐臭を放っていた。

 そして……スナックのドアを蹴やぶるようにして、血相を変えた当直の看護師がかけ込んできたとき、俺は来るべきものが来たことを知った」


【先生、塞栓です。クランケに脂肪塞栓が発生してます!】


「看護師はスナックじゅうに響きわたる大声で、重大な合併症が起こった事を告げた。途端に、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 破壊された組織から流出した脂肪が、血管をつたって身体の中を移動する。流出した脂肪は、あちこちで血管の閉塞を引きおこす。

 それはまるで、水道管の中に無数のピンポン玉をぶち込むようなものだ。しかも今回は、それが脳で発生した。

 俺は、呼吸中枢の血管閉塞によって発生したあいつの突発的な呼吸不全を見て、ただ阿呆のように立ち尽くすばかりだった。

 当直の医者があいつの胸をはだけ、子供を産んでも変わらない、俺のよく知っている形のいい乳房を懸命に押し続けていた。

 やがて人工呼吸器が運びこまれ、気管が切開されて、チューブがぐいとさしこまれた。あいつの夫は真っ青な顔のまま、なにが起きたのか見当もつかない様子だった。

 機械的に上下するあいつの胸を見ながら、俺は、家族になんと言えばいいのかと思った。そう、なんと言えば……。

 俺は、こうなることを知っていた。いや……こうなるを知っていた。そしてやはり起こってしまった。

 俺は、なんと申し開きをしたらいい? あいつは今も、集中治療室に一人で横たわっている。

 あいつの脳は、もうなにも考えることはない。すでに活動を停止してしまった脳は、ただの脂肪と蛋白質のかたまりにすぎない。

 あとは緩慢に訪れる穏やかな死を待つばかり。もう俺にしてやれることはない。俺は最後まで、あいつに何もしてやれなかった。

 また……また俺の間違いで、あいつを遠いところにやってしまった。一度ならず二度も。もうもとに戻すことはできない。あいつは俺を見捨てて行ってしまった! 俺は、俺は……」


 イケさんはいつまでも、いつまでも泣き続けた。


 空になったグラスを握りしめ、とうに閉店時間をすぎても、ずっとカウンターに座ったまま、うなだれて泣き続けた。


 私はそっと表の看板の灯を消しに行き、ふたたびカウンターの中に戻った。


 そして……。

 しばし思案したのち。


 戸棚からバカルディを取り出し、ちょっとしたカクテルを作りはじめる。


 甘く芳醇なラムの香り。

 照明を落した店内に、ゆっくりとたなびいていく。


 私は無言のまま、逆三角形のグラスをさし出した。


 イケさんが、チラリと視線をあげた。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、冷えたグラスを見た。


 私もまた両手をカウンターに突っぱり、イケさんの正面をむいて、黙ってそのグラスを見た。


 イケさんの顔の筋肉が、口元だけがほんの数ミリゆるんだように見えた。


 ゆっくりと視線が上がっていく。

 店に入ってはじめて、イケさんは私の顔を見た。


 そして言った。


「ハート・ブレィカー」


 ながい溜息。


 私はその日はじめて、酒場のマスターらしきことをした。


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