第2話  第1夜 思い出の味


 その日は珍しく客が多かった。


 昼間の猛暑は夜になってもいっこうに衰えず、くたびれたクーラーは唸り声ばかりを上げるだけで、すこしも店内を冷やしてくれない。


 ここ数年、夏とは名ばかりで寒い日が多かった。

 だがその夜だけは、誰もがうんざりするほど夏を堪能できたわけだ。


 常連のイケさんは、あいかわらず両手に花。

 わいわい騒ぎながら一人でボックス席を占拠している。


 コートさんは例のごとく、カウンターのいちばん奥の専用席。

 なにかを夢想しながら、機械的にジンライムを流しこんでいる。


 コートさん。

 いつもクリーム色の安っぽいコートを着ているのでその名がついた。

 だが本当は、一番のおしゃれだということを私は知っている。


 なにしろ、まったくおなじコートを五着も持っている。

 これは異常者でなければ、とびきりのおしゃれと言わざるをえない。


 カマさん、ひとみさん、リョウくんは、一緒になってなにやら旅行に行く相談をしている。


 三人は、とにかく旅行が好きだ。

 勤め先や職業はバラバラのはずなのに、いつも一緒に出かけていく。


 かといって、旅行以外で頻繁に会っているわけではない。

 いつもここが集合場所で、休暇の打ちあわせをしては出かけていくのだ。


 私は目まぐるしく繰りだされる注文をさばきながら、こういう酒場も(たまには)いいものだと思った。


 そうこうしているうちに……

 入口からふたつめのカウンターに座っているコマくんが、だれに言うでもなく突然に話をはじめた。


「乾燥バナナかぁ……なんか変だよな」


 コマくんは、目の前に出されているドライフーズのバナナをひとつ摘みあげると、感慨深そうにいった。


 口に入れるでもなく、指に摘んだままいつまでも見つめている。


「なぜ変なんですか」


 私はコマくんが浮かないよう、さりげなくフォローした。


「あ、聞こえちゃった? 悪いなぁ、ひとり言だったんだ」


「あんな大きな声で、ひとり言だったんですか」


「そんなに大きかったっけ。ま、いいや……」


 コマくんはちょっと照れた。

 カウンターに置かれた国産ウィスキーの水割りを取る。

 さもうまそうに、一口すする。


 いくら私が酒にこだわる店主だからといって、まったく安酒を置いていないわけじゃない。


 安い酒でも、飲みかたによっては美味しく頂けるからだ。


 コマくんは大学生をやりながらCM業界の隅っこで働いている。

 働きのわりには、悲しいほど安月給だ。

 アルバイトで稼いだ中から、ちょっぴり酒代を出している。


 そんな彼には、懐の痛まない酒を出してやるべき。

 それはそれで、若かりし頃の思い出の酒になる。

 高い酒は、稼げるようになってから飲めばいい。


「あのさマスター? 乾燥バナナって昔っからこんなだったけ」


 コマくんは、フリーズドライされたバナナをひとつ摘みあげた。


 私はすこし考えこみ、『さて』とあやふやな返事をした。

 あらためて聞かれると、たしかに良くは覚えていない。


 このせわしい時代だ。

 よほど注意して観察でもしていないかぎり、時の流れに埋もれてしまうものが沢山ありすぎる。


 コマくんは話の持っていきようがなくなり、つまんだバナナを裏に表にして眺めている。


 そのうち、あきらめたようにポイッと口にほうりこんだ。


「あの……」


 入口に近い席にすわっていた男性が、おもむろに口を開いた。


 その男は、今日はじめてパイプ亭に顔をみせた。

 入ってきてすぐに洋酒のオンザロックをたのむと、あとは黙々と飲み続けていた。


 上品なブレザーの下に、ザックリとした綿を使った夏セーターを着ている。


 コマくんが、その名のとおりコマーシャル業界の派手なバイタリティーあふれる雰囲気を漂わせているのとは対象的な人物だ。


 とうに六十歳は過ぎていよう、まさに人生を背おってきたような風貌をしていた。


 見ようによってはひどく洒落しゃれてみえる老人。

 私は、ひそかに【長老】とあだ名をつけた。


「乾燥バナナは、


 長老さんは、コマくんの話をひきついだように話はじめた。


「あ、そうだ! そうそう……おれ、子供のころ、なんだか犬のウンコみたいな奴を食ったことがある」


 話をさえぎるように、コマくんがすっとんきょうな声をだした。

 でも長老さんは、怒るでもなく、ほんのり微笑むと小さくうなずいている。

 コマくんが話を聞くそぶりをみせるまで、けっして口を開かなかった。


「そうです。あの黒い小指の太さくらいのバナナに、私はたとえようもないほど深い思い出があるんです」


 長老さんは、なにやら言いたそうだった。

 興味を示したことを悟られぬよう用心して、そっと聞き耳をたてる。


「あれは……いまから四十年以上も前のことです」


 長老さんは、たんたんとした口調で話しはじめた。


「そのころの日本は大きな戦争をしていました。北はアリューシャン列島、南はジャワ島まで。西は中国大陸やビルマ、東はソロモン諸島まで。それだけの広大な土地に、日本の軍靴の響きがとどろいていた頃でした。

 えっ? ああ、。知ってますとも。でも私たちにとっては、あそこはいつまでもビルマのままなのですよ。

 私はね、そのころのビルマの奥地にあるジャングルを、食べるものとてなくさまよっていました。私の部隊はとうに崩壊し、残った者もすべて敗残兵となっていたのです。

 それはインパール作戦と呼ばれる、それはそれは酷い戦いでした。日本が負けいくさへと雪崩おちていった頃のことです。

 周期的に襲ってくる熱帯のスコールは、それはもう表現のしようがないくらいものすごいものでした。バケツをひっくりかえしたという言い方が、まるで子供の水遊びに聞こえるほどの、とんでもない豪雨でした」


 長老さんの話が戦争に及ぶと、途端に店内がしんとなった。

 酔った頭ながら、だれもが聞き耳を立てずにはいられなくなったらしい。


「地面はいつも臑までもぐる泥濘と化していました。もちろん飢えきった日本軍がとおったあとは、あらゆる場所がのこらず収奪されていて、ジャングルのどこを探しても食べ物ひとつ見つかりません。

 私は同僚の二等兵と一緒に、なんとかほかの部隊までたどりつこうと、道なき道を歩き続けました」


 だれもが視線をむけることなく、黙って話を聞いている。


 あの陽気なお医者さん――イケさんまでもが、連れてきたナースともどもソファーに背をあずけ、じっと聞き入っている。


 私は空になったカウンターのグラスを酒で満たしながら、皆と同じように話の続きを待った。


「いつ敵と遭遇するかもしれない。その恐怖は、我々から浅い眠りすら奪ってしまいました。闇夜にひびく得体のしれぬ御叫びは、それが食料になると考えるよりも、明らかに我々の命をうばうけものとして感じられました。

 そのうえ同僚はマラリアにかかっていました。ビルマでマラリアというと変に思われる方もいらっしゃるでしょうが、兵隊があちこちと移動する以上、マラリアという病気も移動していくのかもしれません。

 ともあれ……日に日に衰弱してゆく同僚を、私は叱咤激励しながら歩きつづけました。我々は神聖な陛下の軍隊なのだ、病気など精神力で吹っ飛ばしてしまえ……。

 しかし私は、彼を背おうことはしませんでした。ここで彼を背おったといえば、いかにも美談に聞こえるでしょうが、いまさら嘘はつけません。実際には自分が生きるので精いっぱいだったのです。

 口から飛び出す励ましさえ、言った本人がいちばん信用していませんでした。しいて言えば、マラリアにかかった同僚が悪いのだという、なかば割りきった考えが二人を支配していました。

 我々は自分の手持ちの食料をだしあって、公平に分配しました。いちど分配したあとは、それをいつどれだけ食べるかは、それぞれの勝手にしようと決めました。そうでもしないと、配分をめぐっていずれ喧嘩になったことでしょう。

 私は同僚に見えないよう樹の幹の陰にかくれて、まるで悪いことでもするかのように、小さな油紙の袋に入ったカンパンのかけらをむさぼりました。

 樹木に絡みつくツルを銃剣で切りおとし、そこからしたたる汁を夢中で飲みほしました。それはなんとも青臭い味がして、いまでも鼻について離れません」


 長老さんはそう言うと、空気の匂いを嗅ぐように鼻を上に向けた。

 きっと、いま言ったま匂いを感じたのだろう……。


「我々は歩き続けました。昼は用心して眠り、ひたすら夜をまって歩き続けました。ビルマの山岳地帯をおおう濃密なジャングルは、いつまでもいつまでも我々の前にあらわれ続けました。そしてある日、とうとう同僚は動けなくなりました。

 同僚の兵はひっきりなしにブルブルと震え、驚くほどの熱を出していました。彼のひりだす小便は、まるで醤油のように真っ黒に染まり、寒い寒いとやすみなしに歯の根のあわぬ口でつぶやいていました。

 そこにとどまって一日と一夜、彼のつぶやきはだんだん意味のとおらないものになっていきました。

 日本にすむ家族と話してでもいるかのように、彼はうわごとをしゃべりつづけ、そしてあっけなく逝ってしまいました。

 それまで言葉をつむいでいた口がパタリと閉じ、バイブレーターにかけられたような間断ないふるえも、一瞬にして消えさりました。首がカクンと前に折れたと思うと、それっきり動かなくなったのです。

 戦闘で人が死ぬのは、それこそイヤというほど見てきました。それは一種の花火のようなもので、なんともあっけない死に方が多かったように思います。

 でも戦友の死はちがっていました。その時ばかりは、私は背中に氷を押しつけられたかと思うほどの寒さと恐怖を感じました。

 私はちいさく『オイ!』と声をかけてみました。しかし同僚は、ピクリとも動きません。

 私は彼の肩を、おっかなびっくりトンと押してみました。すると彼は、どうッとばかりに横だおしになってしまいました。私はそこではじめて、彼が鬼籍に入ったことを知ったのです。

 しばらくは……呆然としていました。つぎに襲ってきたのは、いいしれぬ孤独の恐怖でした。もう、誰もいない。生きているのは自分だけ……。

 私はおもわず立ちあがると、しゃにむに走りだしました。そこにいることがなんとも恐ろしく、とても耐えられなかったのです。

 死人と一緒にいると、自分は絶対に生きていけないような気がしました。マラリアというよりも、死そのものが伝染するような気がしてならなかったのです。私は木の根につまずいて倒れるまで、それこそ無我夢中で逃げました」


 長老さんは、氷の溶けかけたウィスキーをいっきに喉に流しこんだ。

 ふうッ、と溜息をつく。

 私はすかさず、新しい水割りをさし出した。


 そこではじめて……。

 長老さんは注目を浴びていることに気づき、照れ隠しに弱々しく微笑みを見せた。


 そして、つい声を荒げてしまったことをわびると、またポツリポツリとしゃべりはじめた。


「結局、私はふたたび同僚の所にもどりました。なぜなら逃げ出したあと、自分がなにも持っていなかったのに気づいたからです。私は自分の小銃と背嚢を取るためだけに、恐る恐る死人しびとの待つ森へともどったのです。

 同僚は変わらない恰好で、横だおしのまま沈黙していました。死んでいるのだからあたりまえだと思われるでしょうが、私にはなんとも不思議な気持ちがしました。

 そのうち私も落ち着いてきたのでしょう。彼の遺品を持ち帰ってやろうと思いました。せめて遺品だけでも故郷の土をふませてあげようと、ふと仏心ほとけごころが湧いたのです。

 そこで私は、彼の身体をさぐって手ごろなものを見つけようとしました。そして……

 それは彼の胸ポケットの中で、小さな油紙につつまれていました。ほんのひとかけの、ちいさく黒い乾燥バナナでした。

 私はそれを見た途端、いいしれぬ怒りで目の前が真っ暗になってしまいました。

 なぜなら、彼は食料の分配の時にそれを出さなかったからです。ひっそりと自分用にかくし持っていたのです。

 私は裏切られた悔しさのあまり、仏心などまるで吹き飛んでしまいました。こともあろうに彼の死体を荒々しく蹴飛ばし、だれもいないジャングルに響きわたるような大声で、あらんかぎりの罵声を浴びせかけました」


【裏切り者! この馬鹿野郎――おれは、おれは全部だしたんだぞ!】


「声が嗄れるまでさけび続けました。誰もいないジャングルと泥濘に、私の声は空しく吸いこまれるばかりでした。そして私は……怒りのままにその場をたち去ってしまいました。彼から取りあげた乾燥バナナを握りしめながら。

 その後のことは、もう大したことではありません。ただ……いまにいたるまで、なぜ彼が後生大事に、あのバナナを隠しもっていたのか私にはわかりません。

 もしかして故郷にのこしてきた妻や子供に、おみやげとして取っておいたものかもしれない。そう思うと、私の胸は今も張り裂けそうに痛むのです。

 いまの方々には、たかがバナナと思われるでしょうね。バナナなんていちばん安い果物ですし、なにより人の命は地球より重いと教わって育ってきたでしょうから。

 しかし私は、たかがバナナのために、人の命も尊厳も、はては自分の良心さえも打ち捨ててしまった男なのです。ああ、彼は……彼はなぜ、あのバナナを持っていたのでしょう」


 長老さんの話は終わった。


 だれも、その問いかけに答えるものはいなかった。


 沈黙がBGMとなって、パイプ亭を満たしていく。


 私はできるだけ静かに、飾り戸棚の扉をあけた。


 奥のほうから、滅多にださないエッグ・ブランデーをとりだす。

 アドヴォガードという名のそれは、【雄弁者のブランデー】という意味がある。


 グラスに小量みたし、長老さんの前にさしだす。

 そして、噛みしめるように言った。


「こっそり食べるために持っていたんですよ。たぶん」


 長老さんは私の顔を見た。

 泣きそうな顔だった。


 そして、グラスをそっと傾けた。

 私は長老さんのことを、【バナナさん】と呼ぶことに決めた。


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