パイプ亭綺譚【電子小説改稿版】~それはどこにでもある、ごく平凡な物語~

羅門祐人

第1話 第0夜 店の娘


 娘は薄ぐらい店のすみっこに、ぽつんと立っていた。


 ここは場末の酒場パイプ亭。


 うらぶれた港の倉庫街のかたすみに、ひっそりと店を開いている。


 昔も今も、苔むして暗赤色に変色した煉瓦たちに囲まれ、ペンキの剥げかかった扉が、いがらっぽい潮風にカタカタと小さく揺れている。


 その娘はいつも、店の一番奥にあるボックス席のかたわらに、まるで観葉植物のようにたたずんでいた。


 そして【私】が通いはじめてこのかた、一度たりとも他の場所にいたことはない。


 かぐわしい春の化身のように、四月の風をあびて溶けてしまいそうな――。


 肩まで伸びたまっすぐの黒髪を、つややかに三編みにそろえ、いやに時代がかった白のワンピースを着た、琥珀色の肌のちょっとかわいい娘。


 しかし寂しげに宙を見つめる姿はあまりにも存在感がなく、ともすれば見過ごしてしまいそうだ。


 影が薄いのは、娘が凡庸ぼんようだからというわけではない。

 私の目に映る彼女は、時としてはっとするほど美しく感じられた。


 ただ……。


 微動だにしない身体からだといい、いつも口元にうかべているうっすらとした微笑みといい、なにかしらマネキン人形を思わせることは確かだった。


 パイプ亭のボックス席には、いつきても客がいない。


 むろん、場末にあるこの酒場が満員になったことはなく、席に客がいないからといってさほど不思議がるほどでもない。


 だが……。

 ほろほろと酔酪した私の頭にも、なんとはなしに娘のことが気になり始めたのは、かよいはじめてから随分たった、秋ももう終わりの日のことだった。


 パイプ亭までの道のりは、ひいき目に見てもあまり楽しいものではない。

 はっきり言ってしまえば港の外れの倉庫街で、こんなところに酒場を開いた主人マスターの商売感覚を疑いたくなるほどだ。


 こじんまりした駅の裏通りから、いくつものごみごみした通りをぬけて、何度通ってもわからなくなる迷路のような路地裏をさまよったあげく、裏ぶれた寂しい港の倉庫街に出る。


 潮風のく音だけを友に、重い足を引きずるようにして、コンクリートで固められた道をひたすら歩かなければ、けっしてこの店にはたどり着けないのだ。


 しかしそんな道筋でも、夕日の最後のひと射しが、ひび割れてくすんだ色の煉瓦をますます赤く染めてくれれば……。


 港にうずくまる夏を過ぎて主人を失ったヨットたちの、マストの奏でるヒョウヒョウという物悲しい宴が聞こえてくれば……。


 それはそれで心も安らいでいくから不思議なものだった。


 その日、私はめずらしく陽気だった。

 いつもはぼろぼろに傷ついた心の傷みを癒すため、やっとのことで足を運んでいたのだが、その日にかぎってたまたまうれしいことが重なり、いい気分で扉を開けた。


 私の高ぶりは、店のマスターにも伝わったのだろう。

 いつになく気軽な調子で話かけてきた。


 私は声をかけられたことに気がつくまで、にやにやとした表情を顔に張りつけたまま、ずっと


「めずらしいですね、陽気なハトさんっていうのは」


 マスターは、酒場でしか通用しない私の愛称あだなをいった。


「うん、今日はいいことがあったんでね」


「それは、おめでとう。今日はまだ誰も来ていないから、ハトさんの祝賀会にしましょうか」


理由わけを聞かないままで乾杯かい。うれしいな。じゃ、いつものやつ」


「グレンフィディクをダブルで、ですね」


「うん」


 いつもの私ならそこで口をつぐみ、深い沈黙思考へと入る。


 しかしその日に限って、私の視線がグラスに注がれることはなかった。

 なぜかうきうきした気分が終わらず、ともかく誰かと話をしたかったのだ。


 ひととき、はじめて出会った時のように話に花が咲いた。


 自分のこと、他人のこと。世界のこと、心のこと。


 政治の話はいつしか男のロマンに変貌し、見てきたような冒険談が次々に飛びだした。

 話はとめどもなく広がり、私は誇大妄想患者のように身振り手振りを加えて大いに語った。


 マスターもまた、口数こそ少ないが、滅多に見せることのない笑顔を交えながら、若いころの世界漫遊の話や武勇伝などを面白おかしく語ってくれた。


 それはマスターの寡黙なというイメージを、まるで塗りかえるのに充分な時間だった。


 私は甘えついでに尋ねた。


「マスター、いつもの娘さんはどうしたんだい」


「娘ですか。はて」


 私の脳裏を、チラリと後悔の念が走った。

 聞いてはならぬことを、尋ねやしなかったか。


 しかし話を変えるには、杯を重ねすぎている。


「あのボックスの横に、いつも立っていた娘さんだけど」


 マスターの顔は困惑の度を増すばかり。

 さすがにまずいと思い、私は話題を変えようとした。


「いや、いいんだ。どうやらぼくの勘違いだったらしい。ところで年末の休みはいつからなんだい」


 マスターは、私の愚にもつかぬ言いわけと、取りつくろうように口にした新しい話題を、まるで聞こえなかったかのように聞き流した。


 そしていつものように寡黙になってしまった。


 しばらくして、マスターは顔をあげ、じっと私の目を見た。


「ハトさん。その娘は三編みの髪をしていて、白いワンピースと赤いスカートをはいた子じゃありませんか」


「なんだ、やっぱり知ってたのか」


 私は、あからさまに安堵のため息をついた。


「ええ。知ってるもなにも、この店を始めたときからの知りあいです」


「へぇ、マスターが店を始めるときから。それにしちゃめっぽう若い子に見えたけど」


「そうですか、ハトさんが」


 マスターは、私の話を半分も聞いていなかった。


 もう頭に白いものが混じるオールバックの髪型を、かき混ぜるように手でたくしあげる。


「永かったですね」


「永かった?」


 マスターは溜息をつくとうしろをむき、しゃがみこんで棚の奥から酒を出した。


 そこから酒を出すのを見るのは、それがはじめてだった。

 ちょうど足もとにあたるところで、なにか不用のものでもしまいこむような場所なのだ。


 取り出した酒瓶にはうっすらと埃がかぶり、まくりあげた右手には汚らしい蜘蛛の巣が張りついている。


 埃や蜘蛛の巣だらけの場所に大事な商売道具を入れておくなんて、几帳面なマスターには考えられないことだった。


「それは?」


「私が店を開くときに、そっとしまいこんだ酒です」


 マスターは真新しい手拭いで、瓶を、そして腕をぬぐった。


 埃をふき取るだけでは飽きたらないらしく、曇りひとつなくなるまで執拗に磨きつづける。


 やがてしっとりとしたクリーム色の輝きが光を放ちはじめた。


「キングオブキングスじゃありませんか」


「四十年もの、とでも申しましょうか。そのころの私が手に入れることのできた最高の酒です。まあ、当時は金がなかったもので」


「そりゃすごい! 酒自体は珍しいものじゃないけど、四十年前といえば、まだ終戦からそんなにたってない頃でしょう」


「気忙しい時代でしたね」


 戦後生まれの私には、歴史としてしか記憶にない時代のことだ。


「戦後かあ……ええっ? マスター、確かあの子とは店ができたときからの知りあいだって言わなかったっけ。でも彼女は、まだ十代にしか見えなかったけど」


 マスターは小さく笑うと、汚れるのもかまわずに、腰につけた前掛けで酒瓶の底をぬぐった。


 陶器で作られたなめらかな茶色とクリーム色の壷型ウィスキー――キングオブキングスから、見事なカットグラスへと琥珀色の液体を注ぎこむ。


 芳醇な香りが、はじけるように四散する。


 黒々としたとろけるような琥珀の液体が、あたりの音すべてを消し去りながら、耳をくすぐる音をたてて、とろとろとグラスを満たしてゆく。


 一人の人間が歩いてきた半生を、すっかり染めあげたような、めまいのしそうな馥郁ふくいくたる香り……。


「ハトさん。私がこれを呑むまえに、ぜひとも言っておかなければならないことがあります」


 マスターは口をつけるでもなしに、グラスの中の液体を、まるでもてあそぶかのようにゆらゆらと揺らし続けている。


「あの子は、私が店を開くときから一緒でした。そして今も、当時のままの十代の少女なのです。いいや、正直に申しましょう。ハトさんは今、たぶん三十歳だと思いますが……いいえ、お応えなさらなくても結構です。私があの子に出会ったのも、ちょうどその歳でしたから」


 なぜ、と尋ねようとした私の口を、マスターはそっと制した。


「私はあの子によって店を開かされたのです。正しくは引き継がされたと言っていいでしょう」


「………」


「終戦後、私はこの身ひとつで満州から復員してきました。何もかもが、混乱と狂気の時代でした。

 人々の目にはいのちの輝きが失せ、その日を生きのびるためには、すべての尊厳を捨てさっても平気な時代でした。そんな時代、私はこの港で港湾労働をして、なんとか生きのびようとあがいていたのです」


「それで?」


「進駐軍の援助物資の荷揚げで、この港だけは活気と狂騒に満ちあふれていました。キングオブキングスも、そのとき手に入れたものです。

 そのころの私は、先代のマスターがやっておられたパイプ亭によく来たものでした。マスターはすでに老人の域に達していて、枯れたとでもいいましょうか、いつも物靜かな方でした。

 私は昼間の疲れを癒すため、その日の稼ぎをすべて酒につぎこむ毎日でした。米軍憲兵MPに見張られ、荷揚げ主任に怒鳴られて、こころも身体もぼろぼろに疲れきっていました。

 酒なしでは、私のような気弱な人間は一日たりとて生きて行けなかったでしょう。とにかく浴びるほど飲まなければならなかったんです。ときには金のないときもあり、そのときはマスターが奢ってくれました。

 ある日……いっこうに風采のあがらぬ自分の人生に嘆きながら、いつものように私はこの酒場の扉をくぐりました。するとあのボックス席のそばに、女の子が立っていたのです。

 私は先代のマスターの子供かなにかだろうと、気にもしませんでした。マスターは気をつけて観察していると、ときたま少女のほうに視線を向けていましたから。そしてなんともいえない複雑な、なんともいえない、いとおしいまなざしで彼女を見ていました。

 ただ変に思ったのは、他の客がまるで気にしていないことでした。そこに誰もいないかのように、まったく無視するのです。

 しかし私はその頃、自分の人生を考えるので精いっぱいで、だから人のことなどかまっていられなかった。私もまた、少女を無視することに決めました。

 そうこうしているうちに月日はたち、ようやく私にも陽がさしてきました。軍隊時代に覚えた工作技術がひょんな所で役に立ち、とある会社から就職の声がかかったのです。

 また時を同じくして、私は一人の女性といい仲になっていました。彼女と婚約の約束をした日、私はうきうきした気分でパイプ亭の扉をくぐりました」


 マスターは昔を懐かしむように、目を閉じたまま宙をあおいだ。


 シワと無精髭だらけの顔をしかめ、手に持ったグラスの液体を絶えずゆらしつづけ、じっと立ち尽くしている。


 私は、マスターがなにを言いたいのかわからなかった。

 矛盾だらけの話自体、単なる法螺話なのではないかと、ひそかに疑った。


 しかしマスターの話の途中からは、あまりに自分の人生に似ている事だけが、驚きと供に強烈に興味を引きつけている。


 奇しくも今日。

 私は恋人に求婚し、こころよい返事を受け取ったばかりだったのだ。


 マスターは話を続けた。


「扉をくぐった私は、やがて、娘がいなくなっていることに気づきました。それまで気にも止めていなかったにもかかわらず……。

 いいえ、気には止めていたのでしょうが、なるべく心の奥底に閉じこめておこうと努力していたのです。

 だから心に余裕のできた私は、酔いの勢いも加勢して、はじめてマスターに娘のことを聞きました。

 マスターはすっかり皺の増えた顔を私にむけると、ほろりとひとつぶの涙をこぼしました。そしておどろく私にむかって『永かった』と一言つぶやいたのです。

 その言葉の意味は、今の私にはよくわかります。私もまた、ついつぶやいてしまったくらいですから。

 マスターは足もとの戸棚から秘蔵の酒を取りだし――あれは確かロンリコというラム酒でした。

 はがれかかったラベルを大事そうに両手で包み、どのくらい寝かせればそうなるのでしょう、ほんのりと琥珀色に色づいたその酒を小さなグラスに注ぎました。

 酒が満たされていくにつれ、あたりには甘い香りが層をなしてたなびき、その芳醇さにうっとりとしたのを覚えています。

 私はそのとき、酒というものがもつ底無しの魔力を垣間みたような気がします。これほどすさまじきものであれば、人は容易に狂うことができる。私は心の底からそう信じられる自分にびっくりしました。

 そして今、私がしているような話を始めたのです。グラスを片手に持ったまま。

 それはマスターの生い立ちに始まって、いくつかの戦争が始まり、そして終わりました。話の中でマスターは、この酒場と供に年老いていきました。

 マスターの人生には、いつもこの酒場がありました。喜びも悲しみも、果ては人の生き死にまでもが、この酒場なしでは語れぬようになっていました。マスターにとっては、まさに酒場が人生の伴侶そのものだったのです。

 最後にマスターは、酒場の秘密について話してくれました。

 あの娘の話でした。娘は、いわば一種の座敷わらしのようなものらしい。先代のマスターの話から、少なくとも私はそう理解しました。それも主人を選び、酒場を永らえさせる目的をもった妖怪として。

 私は後継者に選ばれたのでした。ハトさんが見た娘とは――実際には二十歳のままなのですが、あれは昔の私の恋人、はるかな昔に忘れ去った愛しい女性の現身だったのです。そして私は三十年を越える月日を、彼女と供に過ごしてきたのです。

 パイプ亭のマスターとしてのめり込む前、私は一人の女性を愛しました。そして先代のマスターと同じように、この店に気に入られ、とりこにされてしまいました。

 私がこの戒めを解かれるのは、次のとりこが現われるとき。それまで待つしかなかったのです。

 それもこれも、今日で終わりです。本当にながい道のりでした。でも、けっして苦痛ではありませんでしたよ。先代のマスターも、こういうとグラスの酒をいっきに飲み干し、すぐに店を出ていきました。


 マスターは琥珀色をした芳醇な液体を、喉を鳴らして一息に飲みほした。


 唇をつたう滴を手の甲で拭うと、晴れ晴れとした顔でボトルを抱え、わき目もふらず扉を出ていった。


 あまりのめまぐるしさに、ふいにめまいがした。

 目頭を指でおさえ、じっと立ち尽くしたまま、めまいが去るのを待った。


 指を放し、ゆっくりと瞼を開けると、私はカウンターの中に立っている自分に気がついた。


 先ほどまでのマスターと同じ恰好をして、幾年もそこに立っていたかのように、妙に馴染んだ感覚が身体を覆いつつんでいた。


 とまどう私の視界に、ボックス席の隅で微笑む少女が飛び込んできた。


 蠱惑的な笑みを浮かべ、私を見ている。


 まっすぐ伸びたワンレングスの髪。

 綿


 まさしく、写真でみた十代の頃の恋人の姿だった。


 私はすっかり落ち着いて、幸せな気分になっている自分に気づいた。

 酒場のマスターに選ばれた自分に、まじりっけなしの満足を感じていた。


 たとえ恋人の姿をした何者かのせいで、そのような気持ちにさせられているとしても、私はいっこうに気にならなかった。


 こうして私はパイプ亭の主人マスターとなった。


 今日も私は――。


 若き恋人に見守られながら、いずれ訪れるだろう後継者に心をはせつつ、世の遍歴を見守り続けている。


 パイプ亭は今日も、港に近い場末の酒場として、人恋しいようなたたずまいをみせて開いている。


 足もとの戸棚の奥に置かれた秘蔵の酒、グレンフィディクと供に。


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