後:『頭痛薬』
『波うつ砂丘』
その言葉が好きな小説の冒頭だったことを、女刑事はデスクチェアに座りながら思い出していた。そして、本当に求めている記憶がこれではないことも分かり切っていた。
だが、いくら記憶の中を漁ってみても、絶え間ない頭痛と波打ち燃え盛る砂漠の情景がそれを遮っている。
女は声にならない悪態をつき、考えることをやめ、頭痛を振り払う様に周囲に視線を流した。
自分の居所。警察署風紀課のオフィス。周りの情景。泣きたくなるほど旧式のデスクトップの行列。書類の山。散らかったペーパークリップ。鉄製の棚。過労気味のコーヒーメーカー。同じく過労気味の夜勤明けの同僚六人。
単語の羅列による陳述。落ち着く事以外には意味はない。
だが、それでも、少しだけ頭痛が弱まり、砂漠の太陽に消しカスのような雲がかかる。少しだけ、気分が落ち着く。
机上のマグカップに手を伸ばす。中を覗いてみると、そこは空だった。私の記憶と同じように。あるのはうざったいシミだけだ。シミのような記憶が一つだけ。
その断片的な記憶は、あろうことかドラッグストアで途切れていた。謎の空白の後、私は町はずれの公園で寝ていた。
正しくは、公園の駐車場に停めた自分の愛車の中。1998年式トヨタ カローラ 1.3 GS(EE111型)。愛すべき私の相棒。ぶっ飛んだ走行距離。こだわりのステレオ。染みついたコンビニのカップコーヒーの臭い。そして、電子タバコの匂い。リキッドはハッカ。
こいつはおかしな話だ。自分は電子タバコはやらない。吸うなら、ラッキーストライクだ。正真正銘のタールとニコチンの紫煙だ。体を破壊する権利を全力で行使する。そして、同僚にもあんなものを吸う奴はいない。
つまり、別の誰かだ。初対面の。この頭と、肋骨と、脛の痛みを説明できる奴だ。
「先輩。頼まれてたもの持ってきましたよ」
若い男の声がした。空のマグカップから女は顔を上げる。
「なんでカップなんて覗いてるんです? カクテルグラスの底みたく世の答えが隠されているんですか?」
斜に構えたセリフを吐く低身長の男。富信之。髪型はアップバング。ストライプのジャケットにタートルネックのスウェット。黒のジーパン。スニーカー。大学生のような恰好と雰囲気。吐き出す言葉はカタカナばかりだ。
「そうだな、答えはあと少しで見つかりそうだった。けど、お前のせいで台無しだよ、富」
女は不良少女と話す時とは別の男口調で話した。此方が平常の話し方だ。変に小器用な女なのだ。
「それより、昨夜の私はどんな感じだった?」
女が車中で爆睡していたのを発見したのは富だった。
「何度も言ってるじゃないですか、ドラッグストア近くの公園に停めた車の中で先輩は寝てたんすよ、すぐそこで事件が起こってたにも関わらずですよ?」
富は手に持ったファイルをうんざりしたようにブンブンと振った。印刷仕立ての書類のインキの匂いが飛ばされてくる。
「こっちがどうしたのか聞きたいですよ、人が死んでるってのに、先輩は『記憶がない』なんて言い出すんですから」
大げさな身振り手振り。富の得意技。
「だから、必死に思い出そうとしてるんだろう?そして、そのために事件のファイルを持ってきてもらったわけだ」
女の口調から苛つきを感じ取ったのか、途端に警察学校時代の平身低頭に逆戻りする富。丁寧な口調と素早い動作で女にファイルを受け渡す。
「はい、そのとおりであります先輩。どうぞお目通し願います」
女は突き出されたファイルを手に取った。
内容。午前二時ごろ、郊外のドラッグストア前の駐車場で暴行事件が発生した。被害者は店員の男性一名。拳や靴による殴打によって意識不明の重体である。
第一発見者はシフトの交代に降りてきたドラッグストア店員。監視カメラも警報も作動してはいなかった。
犯人に繋がる証拠は発見されていない。
ひどい頭痛を感じながら言った。
「なあ、こんな感じの事件、この間もなかったか?」
「素手での犯行という意味でしたら、かなりありますよ。先週はコンビニに押し込んでる奴がいますし、その前は、路上で通り魔まがいのことをした輩がいました。その前は…」
「なあ、どう思う?」
「どうもこうも、何も分かっちゃいないんですよ。犯人像についてはね。何一つ証拠は挙がってないんですから」
「ああ、そうだよな…」
ぶつぶつと言いながら、女はファイルの無意味な文字列を見た。
文字は蠢き、主張している。私はケチな犯罪者じゃない。そう叫んでいる気がする。
頭痛がする。特大級。硫酸で焼かれているような。
咄嗟に、引き出しを開けた。頭痛薬が入っていると思った。ついでに、カフェイン錠剤も。ああ、ついでだ。
引き出しの中身に視線が行く。認識する。目を疑う。動悸が増す。
唯の陳述。落ち着くため。散らかった引き出しの中。制汗剤。風邪薬。殺鼠剤。麻黄湯。カフェイン錠剤。ファンデーションと銅色のリップ。『COLOLKEY』という金箔の文字。蛍光灯の光の反射。
隣で同僚の声がした。厭味ったらしく、フルネームを口にした。
『どうしたんです? 角幡潤子、先輩?』
頭の奥では砂丘がうねり、燃え盛っている。
電子タバコと波打つ砂丘 ワニ肉加工場 @gavialdiner88
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