電子タバコと波打つ砂丘

ワニ肉加工場

前:『ドラッグ・ストア症候群』

                    

 深夜のドラッグストア。


 昼間中、延々と流れていた筈の店内の宣伝放送はすっかり鳴りを顰め、店内には蛍光灯の眼を突き刺す様な白光がぎらつく。

 

 存在するものは実に単調だった。

 パンツスーツを着た会社帰りらしい女や、おっさんくさい店員、冷凍食品の前で立ち尽くす大学生然とした青年。彼等が発生させる微細な音だけが時たま鳴るばかり。 


 そのうちの一人が、角幡潤子だった。

 道端に落ちたペットボトル程度にしか面白くない空間で、化粧品売り場の棚の前で店員の目が離れるのを待っていた。


 彼女の身体的特徴。低くない背丈。160cm強程度。年齢は高校生か大学生。髪型はショートボブ。光沢のある品の良い黒茶色をしていたが、蛍光灯の明かりのせいで焦がしすぎたカラメルの様に見えた。目鼻立ちはしっかりと整っている。

 とは言え、それは右眉が顰めた様に歪んでいることと、深い隈を除いた場合の話だ。個性的ではあるが、美しいという程では無い。

 服装。濃い菫色のパーカーを羽織り、デニムのショートパンツと黒のハイソックスを履いている。靴はゴム製ワークブーツで、不恰好で不釣り合いな重厚感を放っている。パーカーの後ろにはサメのマスコットが描かれていたが、彼女のからう古びたリュックサックに隠れてしまっていた。


 レジの店員はさも訝しげに角幡を見ていたが、彼女がいかにも真剣に自分の肌事情と向き合っている様であるので、レジスターの小銭入れの確認へと意識を移した。

 しかし、それでも店員はチラチラと彼女の方へ視線を送るのは欠かさなかった。分かりやすい話、万引きと決め付けていたのだ。


 店員が六度目の視線を向けた時、角幡は意を決した様にレジへと歩み出した。店員の方は虚をつかれたのか、此方も覚悟を決めたのか、息を一口飲み込んだ。喉が鳴った。


「コレお願いします」


 角幡はレジに幾つかの化粧品を置く。五千円ぐらいのファンデーションと銅色のリップ。『COLOLKEY』という金箔の文字が蛍光灯の光を反射している。

 このぐらいの年頃には結構な大金の筈だ。それらは掻っ払うに値するものだろう。


 店員は、不良少女がこれ以上無く社会規範に則った行動を起こしたので度肝を抜かれた。この仕事が長い彼にとっては、チンパンジーがExcelを使いこなすのと同等の現象に思えたのだ。


「本当にコレで全部ですね?」


 ほぼ反射的に店員は万引きを炙り出す時の常套句を口にしていた。彼はいかにも場末のオヤジといった風体をしていたので、その圧迫感も相当のものだった。

 角幡は少し俯いた。右手で左手の甲を押さえた。ゆったりとしたパーカーの袖口を握りしめた。そして、再び店員の汚れた眼鏡を見た。


「どういう意味?」


 全く考えが及ばないという様な表情を浮かべた角幡。店員は顔を顰めた。彼女の真意がわからない上に、小馬鹿にされているような気分にさせられた。

 そんな店員を見兼ねた角幡は身の丈に合ってないパーカーの巨大なポケットから、やはり丈に合ってない小ぢんまりとしたガマ口財布を取り出した。それらのパースはおしなべて狂っている様に見えた。


「クレカでお願い」


 角幡は金色のクレジットカードを店員に差し出した。微笑みを浮かべ、隈を歪ませた。奇妙な魅力と有無を言わせぬ圧迫感。

 それを見て取り、店員はもうなにかを考えるのをやめてしまおうと割り切り始めていた。唯の店員に成り下がってしまおうと考えていた。

 未成年の深夜徘徊も、何故か持っているゴールドカードも、なんの確証も無い唯の気のせいである。そう思うこととした。


「毎度あり」


 少しばかり古風と思われる、感謝の台詞が最後の会話となった。


 角幡はレジ袋を持つ手とは別の方の手をパタパタと振り、自動ドアの方へと歩き出した。さようなら店員さん。

 満足気で、何か良いことがあったという様な微笑を浮かべていた。


 店員はその姿を映画でも見る様な目付きで見ていたが、結局一言も発さなかった。リアルであると感じられなかったからだった。ふざけた胡蝶の夢に思えたのだ。


 自動ドアが滑らかに開閉し、少女は消えてしまった。店内には、あいも変わらず微細な音が断続的に響いていた。


             ***


 ドラッグストア近くの公園。そこに広がる宵闇の中で、角幡は大きく伸びをした。秋の夜の冷たい空気を大きく吸い込んだ。

 つまらない香りだが、今はそれを有耶無耶にするほど気分が良い。


 遠くからは、電車の走行音が聞こえて来る。軋み、規則を保とうとしている。


 ポケットから、水色の音楽プレイヤーとサメのシールが貼られた電子タバコを取り出した。何方も良く使い込まれていて、眼を瞑っても一から十まで使いこなせそうな手つきで角幡は弄ぶ。左官屋にとっての小手や事務員にとっての黒いボールペンの様な感じだ。


 角幡は店先のコンクリートブロックに腰掛けると、電子タバコを淡い桃色をした唇に咥え、カチリとスイッチを押した。

 ちっぽけな汽笛が鳴り、鼻の奥をハッカの蒸気が突き抜ける。そして、爽快とは真逆のニコチンのどろりとした陶酔が脳裏に広がっていく。


 角幡はにんまりと笑い、天上を見上げ、煙を吹き上げた。

 星の瞬きは紫煙によって歪められ、安っぽいイルミネーションと化す。角幡はまたもや口角を吊り上げ、耳にイヤフォンを差し込もうとした。

 しかし、それは背後からの声によって阻まれる。


「ねえ、君。ちょっとお話いいかな?」


 それはイヤフォンから響く歌の台詞ではない。角幡の声でもない。声は彼女の背後から聞こえた。角幡はイヤホンを握りこみ、ペイプを咥えたまま背後を振り向いた。


 パンツスーツの女が背後に立っていた。


 ドラッグストアにいた女だ。逆光でほとんど真っ黒だったが、それでもそいつが眼鏡をかけた角幡と同じぐらいの背丈の女であることは分かった。どことなく事務員然とした雰囲気。角幡にとって嫌いでも好きでもないタイプ。


「すごく若く見えるけれど、年は?」


 女はかなり丁寧に、慎重に言葉を選んでいるように話した。角幡にとってそれは好ましい態度だった。

 角幡はペイプを一度大きく吸い込み、唇を離し、紫煙を肺にため込み、瞼をつむり、紫煙を吐き出しながら、目を開けた。

 見る人によっては相当不快だったろう、それはあまりに慇懃で大げさな動作だ。そして、角幡はにやにやしながら女の方を見た。


「“何歳に見える?” って返すところ?」


 女は角幡の目を見据えていった。


「ココは率直に答えて欲しいところね」


 角幡はそれをひくついた笑みで迎える。

「あんまりベタすぎるのも問題ありっぽいかな?そういうお姉さんは何歳?教えあいっこしない?そっちの方がフェアだと思わない?私、疑問形でしゃべりすぎてないかな?」


 角幡は煙に巻くように捲し立てた。彼女の常套手段だった。


「で、何歳なの?」


 女はこれ以上なく単刀直入に問うた。


「何歳だと思う?」


「未成年」


「それは年齢じゃないっしょ」


「一番肝心なところよ。年齢が何歳かどうか以前にね」


 女は有無を言わさぬ程に目つきを鋭くした。事務員ではなく、刑事になった。それか生理中の雌ライオン。角幡の陶酔した頭にじくじくとした痛みが湧きあがった。


「お姉さんもしかしなくともケーサツ?」


 角幡は浮かんできた懸念を率直に申し上げた。それはほぼ確信の域に達した懸念だったが、ポーカーでもなんでもそうであるように、物事は認識するまで何一つ確実ではないことを角幡は知っていた。


「どう思う?」


 女は真顔で言った。


「私、質問を質問で返されるのあんまし好きじゃないかも」


 角幡は罰が悪そうに卑屈な笑みを浮かべる。握ったイヤホンを弄くりまわす。スピーカーからはスージー・クアトロの『Devil‘s gate drive』が流れ出ている。意味のない絶叫を響かせるイントロが荒れ狂っている。


「それは良い事を学んだわね」


 女は皮肉たっぷりに言い捨てた。依然、無表情に。


「それが他人にとって嫌な事だっていうのはぁ、前々から知ってた」


 角幡は楽しそうにペイプのスイッチをカチカチと押した。その度に蒸気が暗闇に断続的に広がり、霧散する。女の視線は意味もなく、それを追った。脳の働きが全て思考に移っていた。視線に意味はなかった。

 蒸気が霧散すると、女は強靭な太腿を捻らせ、意味もなく革靴で地面を踏み躙った。猛った闘牛の如く激情を覗かせた。その一方で、表情は下らない微笑みを浮かべている。


「じゃあ、こういうことにしましょう。貴方が未成年かは分からない。私は風紀科の婦警かも分からない。あくまでお互い唯の一個人として話すというのは」


 女は声を宥めて言った。角幡はその言葉を待っていたという風に笑った。


「会社員にしてはがっしりしてるなぁって思ってた。店内で見た時からね、その太腿なんてマジでヤバい!」


 我が意を得たり。そんな様子で角幡はわざとらしく眼をぱちくりさせながら女のスラックスを指差す。女の灰色のスラックスは大腿直筋に沿ってうねり、鉄橋を支えるワイヤーの様だ。


「足が太くて悪かったわね」


 嫌味ったらしい角幡の言い草に対して、その声は寝起きの土佐犬の様に穏やかだった。


「あんまり舐めた口を聞くと、あんたのそのズボラなパーカーの袖口に入った盗品で少年院にぶち込むわよ?」


 その一言の直後。女は鋭くそして素早く角幡の手首を握り込んだ。イヤホンから漏れ出るリフよりも鋭く速く。痺れそうな程に。手首を掴まれた角幡は笑った。脳の中に、恐怖と興奮の麻薬があふれ出してきた。ニコチンの陶酔感は最早、取るに足らなくなる。


「ねえ、お姉さんの名前ってなんていうの?」


 笑いを堪えきらないというように角幡は問うた。それを無視し、女は腕をひねる。袖口から衣ずれでない音が鳴る。袖を引っ張り、離す。カートゥーンのように大げさに袖口から雑多なものが零れ落ちる。


 


 はちきれんばかりの軽蔑を込めて女は角幡を見た。もう一度、地面を踏みにじった。どうして化粧品の代金は払いながら、殺鼠剤の代金を払わなかったのか。そんなことは、どうでもいい疑問だった。とにかく、女にとって角幡は最も嫌いな人種だ。それだけが判断基準、規範だ。

 角幡は意地の悪い表情を浮かべた。


「ねえ、お姉さんの名前は?私は角幡潤子。好きなものはペイプとカフェイン錠剤。」


 暴露した犯行を気に留めず、個人情報を暴露した。厚底のワークブーツでつま先立ちになり、女へと顔を寄せた。頭には甘い痺れが走っていた。


「ご同行願える。ということでいいのね?」


 角幡は何方ともつかない上目遣いをした。女はそんなことは気にも留めず続けた。


「じゃあ、教えてあげる。署についてからね」


 角幡はそれを聞いて、驚き顔で一言。


「B級の犯罪映画みたい」


 角幡の返答を聞いて片目にしわを寄せる。イラついているようでもあり、はにかんでいるようでもある。悪くない。ソーソー。コムシ・コムサ。そんな感じだ。


「それじゃあ、盗んだものを返しに行こうか?角幡ちゃん」


 角幡はその定型文的返答を実に面白いことのように聞いた。ここから先は面白くならないはずがないからだった。


「ああっ、そうそう!」


 突然思い出したように、角幡は言った。もう片方の袖口を上げた。


「まだ、見せてないものがあんの」


 女がうんざりとしたようにそちらに目線を向けた。


「これも貰ってたんだよね」


 女はナニカを袖口から抜き放った。


 ベイプだった。蒸気式の電子タバコだ。

 女はそれを見て顔をしかめた。理解できなかった。あのドラッグストアにペイプなんか置いてあったのか。それも、地面にこぼれたオイルのように虹色に光る液体が詰まったヤツが。

 角幡は歯茎を見せながら笑い、女の眼前でスウィッチを押した。カチリ。殺虫剤顔負けの噴出。強烈な異臭。グロテスクな虹色の霧。女の歯ぎしり。


 女の拳が角幡の顔面へと飛ぶ。風切り音だけ。肉をへこます音はない。角幡は身をそらし、滑るように後退し、女刑事のボディーブローを躱したのだ。啜るような笑い声が上がる。


 女は歯軋った。頭がぐらぐらする。数歩先に立つ角幡の姿が揺れる。倒錯と激痛を無視して、クソガキに向けて飛び出す。レスラーの突っ込み方。剣道の踏み込み。腕を広げ、地を這うように、左足で蹴りだした。

 サイドステップで避けようとする角幡。不意を突かれ返された。アレを喰らっても動じない奴は初めてだった。よけきれない。鳩尾に重い衝撃。胃からハッカ臭い息が飛び出してくる。浮遊感。吐き気を催す苦痛。最高だ。


 興奮のまま角幡は広島の旋毛に肘鉄を叩き込んだ。おおよそ頭蓋の最も薄い部分。ぶち破れ。


 女がたたらを踏む。方向感覚を失う。角幡を宙へ放り投げる。女子高生であることなど端から気にかけていない。暴力を徹底することが広島の金字句。ルッキズムもフェミニズムも何もない、闘争だけがあった。

 角幡の体が地面に打ち付けられる。再び胃と肺から息が噴き出す。もはやそれも打ち止めだった。肺に詰まっていたリキッドは品切れ。

 その代わりに深夜の据えた冷たい空気を吸い込む。つまらないはずのそれが、今はどこまでも愛しかった。


 地面から体を跳ね上げ、ワークブーツを地面に打ち鳴らし、着地した。角幡は如何にもな構えをつくった。改造ペイプを袖口に仕込んでいた。瞳孔を一段と広げ、興奮に身を任す。すべてが予想外に進んでいる。女刑事がアレを食らっても立っているとは、反撃してくるとは考えてもいなかった。最高だ。

 

 女は気色の悪いリキッドのついた顔面を拭い、咳をした。頭がぐらぐらする。視界はズタズタだ。あらゆるものが誇張される。ウェイブする。すべてが下呂のようだ。あのガキも。拳を握る感覚も。それでも、奴に向け足を踏み出した。


 認識出来たのはそこまでだった。あとは、波打つ砂丘の如き光景だけが視界を埋め尽くしていた。


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