第9話/最終話


 気付けばエゼルディアは、真っ白な空間に立ち尽くしていた。


 どこからか柔らかな光が降り注いでくる。

 しばらく夢から醒めたばかりのような、不思議な心地でぼんやりしていたが、やがて理解した。ここは最初にアンルーが現れた場所だ。

 自分の腕を目でなぞると、繋いだ手の先に黒衣の青年がいる。


「戻ってきたの……?」

 尋ねると、彼は瞳だけをこちらに寄越して頷いた。

 何事もなかったかのような飄々ひょうひょうとした顔つきに、少なからず不安を覚える。今までの出来事は現実だろうか。


「……さっきの話、本当?」

 なんとなく小さな声で、エゼルディアは不安をぶつけた。


「神明裁判では、罪だけでなく、心も裁かれるって。

 私は今、魂を秤にかけられているの? 

 犯人じゃなくても、裁きを受けるかもしれないの?」


「大昔はそんなこともあったな。だが今は違う。魂を秤にかける者などいない」


 静かだがきっぱりとした口調で断言され、ほっと胸を撫で下ろした。

 しかし最後の言葉が引っかかり、アンルーを見つめる。


「いない? 魂を秤にかけるのは、神ではないの?」

 アンルーはエゼルディアから視線を外し、憂鬱そうにつぶやいた。


「神はもういない。とうの昔にこの世界を去った」

「……え?」

「先ほど大神官が語った神話。あれには、実は続きがある」

 そこで言葉を切り、少しの逡巡を見せた後、彼は再び話し始める。


「裁判が終わった後、白衣の使徒は神に耳打ちしたんだ。

 『黒衣の使徒は神に背く者を集め、自らが神に成り代わろうとしている。先ほどの被告人は仲間の一人だ。だから黒衣の使徒は庇ったのだ』……と。

 神はその密告を信じ、黒衣の使徒を追放した」


 エゼルディアは息を呑んだ。

 直感的に、これは彼の話だと思った。

 アンルーの過去。神話ではない。

 

「彼は時空の狭間を永遠に彷徨うことになったが、やがてそれが冤罪だとわかった。

 白衣の使徒は神を愛するあまり、自分と同じく神の信頼を受けている同僚に嫉妬し、事実無根の報告をしたんだ。

 真実を知った神は失望し、新たな世界へ去った。裁きを誤るなど、全知全能であるはずの神にとって、堪え難い屈辱だったのだろうな」

 

 黒衣の使徒とは、アンルー自身のことであるはず。それが追放?

 神が失望して、この世界を去った?

 エゼルディアの戸惑いをよそに、アンルーはぽつぽつと語り続ける。


「神は消えたが、人間はそれを知らずに、神明裁判を起こす。

 僕は時空の狭間からその様子を眺めていたが、あるとき不思議なことが起きた。

 とある被告人との間に、道が通じたんだ。

 その被告人は無罪を主張し、冤罪を晴らそうと、強く神に祈りを捧げていた。

 心からの祈りは、本来なら神への道を開くが、生憎と神はいない。

 世界が均衡を求めた結果、神の力を僅かに受け継いだ、僕の元へ辿り着いてしまったのだろうな。手を繋いでいなければすぐに途切れてしまう、細い道ではあったが」


 思わず、自分たちの繋いだ手を見る。

 絡まった糸が少しほぐれた気持ちになった。そういう事情だったのか。

 物語の続きをねだるように、エゼルディアはそっと尋ねた。


「白衣の御使いは、どうなったの? そっちには、道が繋がらなかったの?」


「神は新世界へ去る際、自分に近しい者たちを全て消し去ったようだ。

 追放されていた僕だけが、その煽りを受けずに済んだ。

 ――が、別に幸運なことじゃない。

 <神に背きし者>の烙印が消されない限りは、時空の狭間に囚われたままだ。

 弁護士の真似事も、退屈しのぎに始めたことに過ぎない」


「……神に背きし者?」


 はっとする。今さらながら、察した。

 古代サスキア語で<背くアン>と<ロウ>を意味する言葉。

 繋げて発音すると、アンルー。

 名前ですらなく、それは烙印だったのだ。


(そうか。だからあのとき……)

 近衛兵に何者かと訊かれたとき、彼は一瞬だけ躊躇い、天窓を見上げた。

 それは自分が既に、黒衣の使徒ではなかったから。


(最初にザビド様に会ったときも、黒衣の御使いと呼ばれて、積極的に認める気はなさそうだった。本当は嫌だったのかもしれないわ、その身分を名乗るのが……)


 不意に現実味が増し、全身が冷えるような感覚に陥った。

 本当なのかもしれない。神が世界を捨てたというのは。

 どうして彼は、こんな絶望的な話を、自分に聞かせたのか――


「君の求めていた答えとは違うかもしれないが、これが神に関する真実だ。

 法は既に、君たちの手の中にある。自由に解釈すればいい」


 エゼルディアの動揺とは裏腹に、アンルーは静かな口調でそう告げた。

 繋いだ手の中で、彼の指先にほんの少し、力が込められる。

 しっかりしろ。そう言われた気がして、彷徨わせていた瞳を彼に戻す。

 アンルーは頭一つ分高い位置から、真っ直ぐににこちらを見下ろしていた。


「信じろとは言わない。だが、できれば、神明裁判を終わらせてくれ。

 不在の神に判断を仰ぐなど、滑稽だ。

 ……こんなことを話したのは、君が初めてだな」


 その言葉でエゼルディアは理解した。

 彼がなぜ突然、こんな話を始めたのかを。


(覚えていてくれたんだわ。ロザリンデ様の部屋で話したことを)

 法を取り戻したいと訴えたエゼルディアに、その可能性を見出してくれたのだ。


 ずしりと重い真実を、託された気がした。

 誰も知らない、知ってはならない、知られたら全てが根底から覆るほどの事実。

 これを今まで彼は、一人で抱えていたのか。

 そんな義理も義務もないのに、行き場のない人間の祈りを一身に引き受けて。


「……あなたは、それでいいの?」

 尋ねる声が微かに震えた。アンルーは首を傾げる。

「だって、神明裁判がなくなったら、本当に一人になってしまう……」


 脳裏に浮かぶのは、永遠の虚空に浮かぶ、孤独な青年の姿だ。

 冤罪者の祈りが届かなくなったとき、彼はその先の時間を、どう過ごすのだろう。

 アンルーは少しの間を置いてから、軽く嘆息して肩をすくめた。


「君が気にすることじゃないな」

「でも」

「安心したいならこう言っておく。

 僕は一人が苦にならない性質だし、何も神明裁判だけが道の繋がるきっかけではない。生死を賭けた極限の場に立たされ、かつ冤罪の怒りを抱いている者ほど、強い祈りを捧げやすいというだけだ」

「つまり、強い祈りがあれば、あなたに繋がるの?」

「……簡単じゃない」

 話は終わりとばかり、アンルーはエゼルディアの手を軽く持ち上げる。


「僕の役目はここまでだ。この手を離せば君は、裁判終了の期日に目覚める。

 神に選ばれた正統な王として、成すべきことを成せ」

「待って、アンルー!」 

 今にも離れそうな手を強く掴み直し、エゼルディアは思った。 


 神に置き去りにされたのは、彼ばかりではない。人間もだ。

 存在しない神の法廷に引き出された人間を、彼は放っておかなかった。

 その優しい人を、今度は自分たちが置き去りにするなんて、できない。


「私はサスキアを、千年続く強い国にするわ。そしてあなたの名を、法の守護者として残す。せめてサスキアが国としてあるうちは、あなたに祈りを捧げる者の声が途切れないように。だから、あなたの名前を教えて。<黒衣の使徒>でも<神に背く者>でもない、本当の名前を」


 アンルーは僅かに目を見開いた。

 あまり表情の変わらない彼だが、言われた言葉に驚いているように見えた。

 たっぷり十数えるほどの間、エゼルディアの顔を無言で眺めていただろうか。


「――教えない」

 不意にぶっきらぼうな口調で、つぶやいた。


「え?」

「そう簡単には、教えない」

 何故か不機嫌そうに目を細め、そう繰り返す。


「あの……迷惑ということ……?」

「そうじゃない。教えたら君は満足して」


 そこで不自然に言葉を切り、再び押し黙る。

 やがて彼は、深く長い溜息をついた。

 空いた方の手を自分の黒髪に突っ込み、ぐしゃぐしゃと掻き回す。

 それからエゼルディアに向き直り、どこか開き直ったような口調で言った。


「次に会った時なら、教えてやってもいい」

「……え、それって」

「どうしても知りたければ、まずは自分で僕に祈りを届かせてみせるんだな。

 千年王国を築くほどの根性があるのなら、できるだろう?」


 予想外の返答を受け、エゼルディアはぽかんと口を開けた。

 するとアンルーは、初めて見る表情をした。唇の端を微かに上げたのだ。

 虚を突かれた隙に、繋いでいた手がするりと解ける。


「……君に会えて良かった、エゼルディア」


 囁くようにそう言い残し、彼は、白い光に輪郭を溶かした。


 周囲の光量が増し、エゼルディアは思わず目を閉じる。

 瞼越しにも耐えられない眩しさに、気が遠くなって……――――


          *


「――様。エゼルディア様」


 自分に呼びかける誰かの声を聞いて、エゼルディアは意識を取り戻した。


 明るい日射しが降り注いでいる。

 どうやら、大勢の人が集まっているようだ。空気がざわついている。


 薄く目を開けると、青天を突く白い柱が見えた。

 <天罰の御柱>から降ろされ、ふもとに横たえられているのだろう。

 すぐ傍で話しているのは、宮廷医師だ。


「不思議だ。まったく衰弱していない。ただ眠っておられただけのよう……」

「神明裁判に打ち勝ったということか……」


 大臣や近衛兵のみならず、近隣の領主たちもいるらしかった。

 エゼルディアの敬称を、既に「陛下」と変えている者もいる。

 新王誕生の現場に居合わせたくて、急いで駆けつけてきたのだろう。

 ぼんやりしたまま周囲の会話を耳にしていると、誰かの感嘆が聞こえた。


「神のご加護だ……!」


 それを聞き、エゼルディアは思わず胸中でかぶりを振っていた。

 いいえ、神じゃない。私を救ってくれたのは。

 私がこれから祈りを捧げるのは。


 ――そうだ。私には、しなければならないことがある。


 さっそく始めよう。


 人目を意識して、ゆっくり瞼を開けると、さざ波のようにどよめきが広がった。

 敷物に手をつき、自分の力で体を起こす。

 空気が変わった。

 皆が固唾を呑んだお陰で、奇跡のような静寂が訪れる。


 風と戯れる淡い金髪を耳にかけ、碧い瞳を細めて、エゼルディアは空を見た。

 そして深く、息を吸い込み。

 王としての第一声を、放った。



<了>

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神明の弁護者 鐘古こよみ @kanekoyomi

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