第8話
「王女が国王を発見したとき、その胸は血に塗れていたが、実は、短剣で刺されてはいなかった」
張りつめた空気の中、アンルーの声だけが天井に吸い込まれていく。
「あなたが衛兵たちに指示を出すと、王女も国王の遺体から離れて、主祭壇に向かった。その隙にあなたは、国王の懐に見つけた王女の短剣で心臓を刺し、長椅子の下に投げ捨てたんだ」
しんしんと降り積もる雪のように、彼の言葉が、その場にいる者たちの体を冷やしていく。
まさか――と。
誰の顔にもはっきり、そう書かれていた。
半信半疑ではない。ほとんど完全に「疑」だ。
この青年は一体、何を言い出したのか。
エゼルディアですら、こんなときに冗談はよせと怒りたい気分だった。
しかし。
「単刀直入に訊こう。王女の短剣で国王を刺したのは、あなただな」
アンルーのその問いかけに、ザビドは深々と頭を垂れて答えた。
「はい」
声にならない衝撃が、居合わせた者たちの体を震わせる。
エゼルディアは硬直したまま、ザビドの姿を上から下まで何度も視線でなぞった。
この耳ではっきり彼の返事を聞いた後でも、まだ信じられない。
信頼に足る誠実な大神官が、なぜ。
「判決が下るまでは、波風を立てたくなかったのですが……」
はっきりと指摘された以上、隠すつもりはないのだろう。
ザビドは誰に訊かれるまでもなく、自ら事件について語り始めた。
「王女殿下が主祭壇へ向かわれた後、わしは、陛下のお体を検分しました。
そこで短剣を見つけ、ふと思ったのです。
もしこの短剣が鞘ではなく、陛下の心臓に収まっていたら、状況からして殿下は容疑を免れない。そうすれば自然な形で殿下を、神明裁判にかけることができるのではないか、と」
「まさか、王女殿下を神明裁判にかけることが、目的だったというのですか?」
医師がしきりに口髭を触りながら、狼狽しきった声で尋ねた。
「なぜです。次期王に選びたくないなら、あなたの立場ならそうできたはず……!」
「そこが問題だったのですよ、医師殿」
口元に寂しげな微笑をたたえ、ザビドは聴衆を見渡した。
「実を言うと陛下は生前、わしにだけ後継者の内示をされていました。
指名されたのは、エゼルディア王女殿下です。
サスキアは長子継承が原則で、王女は王としての資質になんの問題もない。
しかし、ラーフィーの神に仕える者としては、看過できないことがあったのです」
一度言葉を切り、ザビドは視線を足元に落としてから、低い声でつぶやく。
「殿下は、神の存在に疑問を抱いておられた」
息を殺して話を聞いていたエゼルディアは、その瞬間、完全に呼吸を忘れた。
脳裏にいくつかの場面が浮かんだ。王宮の庭で、礼拝室で、母の棺の前で。
職務に忠実なこの老人は、エゼルディアが悩んでいるときには必ず気付いて、さりげなく傍に寄り添ってくれた。
親身に話を聞き、穏やかな言葉で信仰を説き、腐敗する以前の神殿が目指していた境地へ、自分を導こうとしてくれていた。
その真心は、孫娘のような年頃の王女ではなく、いつだって唯一絶対の神に向けられていたのだ。
「昨今の神殿の在りようには、わしも心を痛め、王女殿下が疑問を抱くのも無理からぬことと感じておりました。
しかし、問題があるのは一部の人間です。
神にまで疑いを抱いてはいけない。
心からの信仰を持てない者を、王と認めるわけにはいかないと思ったのです」
「し……しかし、そんなことは、王妃の側とて同じではありませんか!」
茶色髪の近衛兵が思わずといった調子で声を上げた。
「あの女が敬虔な信徒と、本気で考えておいでですか? そもそも心を導くのはあなたの役目であるはず。懐疑を抱いているから王にしないなどと、そんな横暴な話があるか!」
「そう、そなたの言う通りだ。だからわしは悩んだのだよ。王女殿下の信仰心が欠けているからとって、王妃殿下の御一族が信仰に厚いかというと……」
二、三度頭を振り、嘆息を漏らしてザビドは続ける。
「わしにはわからなかった。だから神に直接、ご判断いただきたかったのです。信仰を理由に王女殿下の即位を、否認すべきなのかどうか」
「……ですが大神官様。王女殿下が神明裁判に臨んだのは、あくまで、国王陛下殺害の容疑をかけられたからです。裁きはその件にのみ下されるはずなのでは……」
医師が恐る恐る投げかけた疑問を、ザビドは予想していたかのように受け止めた。
「普通の裁判ならそうでしょう。だが、これは神明裁判だ。被告人は告発された罪によってのみ裁かれるのではない。そうではありませんか、黒衣の御使い殿」
唐突に話を振られ、注目を集めてアンルーは眉をひそめる。
「……なんの話だ」
「あなたが登場する神話です。いくつか存在する逸話の一つに、こんな話がある」
前置きし、ザビドは説教壇にいるときのように朗々とした声で語り始めた。
かつて神が地上に君臨していた頃、その傍らには、白衣と黒衣の二人の御使いがいて、神の裁きを手伝っていた。
あるとき神は、一人の男の罪について、御使いたちに調べさせた。
男の罪は濡れ衣だったので、黒衣の御使いは無罪と報告した。
しかし、白衣の御使いは有罪と報告した。
なぜなら、無実の罪で告発されたその男は、神に背く心を持っていたから――。
「二つの報告を受けた上で、神は男を罪人として裁きました。
この逸話は、一つの真実を物語っています。
告発された罪の内容に関わらず、神は人の心そのものを裁くのです。
神明裁判にかけさえすれば、王女殿下が王として相応しい人物かどうか、神がご判断くださる」
エゼルディアはぎょっとしてアンルーの表情を窺った。
(心そのものを裁くって、本当なの?)
彼は眉をひそめたまま、ザビドを見つめている。
随分と長い沈黙に思えたが、実際は数秒だったのだろう。
やがて静かに口を開いた。
「神が王女を無罪としたら、あなたはそれに従うのか」
「無論です。深く非礼を詫び、直ちに即位式の準備を執り行います。
そして陛下のご遺体を傷付けた罪を、この身をもって償うつもりです」
ザビドの瞳には、以前と変わらない、真摯な光が宿っている。
そのことにエゼルディアはぞっとした。
かつてはその眼差しに、誠実さを覚えたものだが、今となっては信仰に侵された狂気しか見えない。
「ま……待ってください。王女殿下は結局、無実ではありませんか」
雰囲気に気圧されていた近衛兵の一人が、はっとした様子で声を張り上げた。
「神の裁きを待つまでもなく、<天罰の御柱>から降ろすべきです! 今すぐに!」
しかしザビドは、頑な様子で首を横に振る。
「それはできん。神明裁判は途中でやめてはならない。王女殿下は魂そのものを秤にかけられているのだ。無理に中止させれば、却って命に関わるだろう」
「くそ、このじじい……!」
「やめろ、ここは引き下がっておけ。話がややこしくなる。殴るのは後だ!」
激高する彼らをアンルーが止めた。
「王女の体は僕が守るから安心しろ。天災も暗殺者も、彼女を殺すことはできない」
近衛兵は鼻白む顔つきになり、黒衣の青年をまじまじと観察する。
「守るって……あなたは一体、何者なのですか? 神殿関係者のようだが……」
「神殿関係者ではない。僕は」
弁護士だ、と言うのかと思いきや、アンルーはそこで不自然に言葉を切った。
何か躊躇するように瞳を揺らし、モザイク画の嵌め込まれた天窓を見上げる。
しかしそれは一瞬のことで、彼は唇を引き締めると衛兵に視線を戻した。
「黒衣の使徒だ。ただし傍らには神でなく、神の前に立つ者がいる」
「ああ……」
ザビドが感嘆の声を漏らし、両手を組んで主祭壇を仰いだ。
「感謝いたします、神よ。まさかこの歳になって、奇跡の一端を垣間見られるとは」
医師と近衛兵たちは悪夢を見るような顔つきになっていた。どうやらアンルーのことをザビドと同じ、信仰に頭を侵された人物だと判断したらしい。
当然だろう。自分を神話の登場人物だと言い張る人間が現れたら、エゼルディアだってまず相手の頭を疑う。
アンルーもその空気は察したようだ。深々とした溜息を一つ吐く。
「僕がこの場から瞬時に消えれば、信じるに値する奇跡だろうな?」
訊くというよりは独り言のようにつぶやいて、彼はエゼルディアの手を引いた。
「仕事は終わった。戻るぞ」
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