殺人名刺

奥田光治

プロローグ 記録

 その日、都立立山高校ミステリー研究会会長の深町瑞穂は、自身が入り浸っている品川の榊原探偵事務所で、本棚にびっしりと詰まった過去の事件記録が収められたファイルを物色していた。その様子を見ながら、この事務所の主である元警視庁刑事部捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一は、ぼんやりと何か推理小説を読んでいるようだった。年齢四十前後。パッと見た感じはくたびれた窓際サラリーマンにしか見えないこの男だが、その正体は過去に日本犯罪史にその名を残す数々の事件を解決してきた「名探偵」の名にふさわしい男であり、その徹底的に探偵の本分たる推理力や論理力に特化した姿勢から一部では「真の探偵」の異名を持つ人物でもあった。瑞穂はかつて榊原が関係したある事件でその推理力に心酔し、こうして勝手に自称助手を名乗って事務所に出入りしているという関係である。

 さて、今しがた「勝手に弟子入りしている」というような事を言ったわけだが、基本的にこの榊原という探偵は自身が解決した事件を他人に自慢したり、事件を解決した事を自身の功績としてアピールしたりする行為を嫌っている男であり、そういう事を積極的に行っている探偵を嫌悪している側面さえあるほどだ。これは実際に事件が起こっていて、そこに被害者や身を削って捜査を行う警察関係者がいる以上、それを自慢やアピールの種として扱うのは言語道断の話であり、探偵としての主義に反するという榊原自身の信念があるからでもある。

 実際、今まで榊原が解決してきた数々の事件も、事件ファイル自体は事務所にあっても、表向きはほとんどが警察の手によって解決されたという事になっている事が多い。またこのような信念を持っているがため、事件を探偵同士の勝負事のネタにするなどあり得ないという考えから、基本的に他の探偵との推理勝負めいた事も榊原はあまり快く思っていない節があった。一度そのような事態に陥りかけた際も、推理勝負が始まる前に対象となる事件の捜査に介入して電光石火でその事件を解決してしまい、推理勝負そのものをなかった事にしてしまうという荒業を成し遂げた事があるほどである。

 とはいえ、自身の捜査理念や具体的な捜査手法を後進に伝えて今後の犯罪捜査に役立てるため、真剣にそうした事を学びたいと思っている人間に対して今まで解決した事件の情報や解決に至る経緯などを伝達する必要性がある事自体は理解している。榊原が嫌っているのは自己満足や自身の栄誉、あるいは面白半分に事件を語る行為であって、当然ながら真剣に犯罪に向き合おうとしている人間に対してはこの限りではないのである。

 目下の所、その対象は自称弟子として事務所に入り浸っている瑞穂という事に(渋々ながら)なっているわけであるが、それに対して榊原は事務所に保管してある今まで解決してきた事件記録を閲覧する許可を瑞穂に出しており、瑞穂は興味のあるファイルを勝手に読んで榊原の推理・捜査手法などを学び、何か疑問点があれば榊原が適宜質疑応答に応じるという、一種の自主学習というか大学のゼミに近いやり方が採用されていた。もちろん、時折榊原側から瑞穂に対して指導として読むべきファイルを指示する事はあるが所詮その程度であり、瑞穂も瑞穂で榊原の探偵としての理念は理解しているのでこうしたやり方に文句を言う事なく(というか、積極的ではないにしてもちゃんと弟子扱いしてくれているだけでも瑞穂としては充分であった)、この奇妙な「師弟関係」は思いの外正常に機能している状態だった。

 そんなわけで、今日も瑞穂は本棚に収納された膨大な事件記録の中からまだ読んだ事のない事件の記録を見繕っているところだったが、そんな彼女の目に留まったのは、ある一冊の事件記録だった。ファイルの背表紙にはその事件名が書かれている。

『鶴辺事件』

 シンプルな事件名だった。だが、それゆえに瑞穂にはかえって目に留まった。瑞穂は何枚もの記録が挟まれた分厚いファイルを取り出し、来客用のテーブルの上に置く。それをチラリと見ながら、榊原はこんな事を言った。

「ほう……随分懐かしい事件を選んだものだね」

 記録を見ると、発生日時は『二〇〇六年五月二十七日』となっている。瑞穂と榊原が出会ったのが二〇〇七年の春の事なので、その一年ほど前の事件という事になるだろうか。瑞穂はそんな事件があったか記憶を振り絞ってみたが、当時の瑞穂はそこまで毎日ニュースを見ていたわけではなく、残念ながら思い出す事はできなかった。

 早速一ページ目を開けてみる。が、その直後、目に飛び込んできたものに瑞穂は戸惑いを隠せないでいた。

「えっと……これって……」

 そこには、どういうわけか一枚の名刺が小さなビニール袋に入れられ、そのビニールがページにホチキス止めされる形で保存されていた。しかも中に入っている名刺はただの名刺ではなかった。そこには他ならぬこの事務所の主……すなわち『榊原恵一』の名前が大きく書かれていたのである。どう見てもそれは、榊原の名刺そのものであった。

「あの、何で先生の名刺がこんな所に挟まれているんですか?」

 瑞穂が思わず発した問いに、榊原は何でもない風に答えた。

「それは事件記録を保存したファイルだ。そこに収められているという事は、当然事件に関係があるからという事になる」

「関係があるって、この名刺がですか?」

「あぁ。何を隠そう。その事件は私の名刺が事件に大きな影響を与える事になった事件なんだ。そういう意味では、私にとっても忘れられない事件という事になる」

「先生の名刺が事件に関係?」

 瑞穂は困惑したように言う。一体どういう状況でそんな事が起こるのかわからなかったからだ。

「ま、興味があるというのなら、その後の二ページ目からの記録を読んでみるといい。そして、その記録から推理してみたまえ。一体、事件の犯人が誰なのかという事を」

 そう言われて、瑞穂は興味深げにファイルの方を見やると、早速二ページ目を開いて事件の記録を読み始めたのだった……。

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