第二章 捜査開始

 翌日、五月二十八日日曜日の朝八時頃、最寄りの世田谷北署に設置された捜査本部でこの事件の捜査会議が行われた。本部の置かれた会議室には多数の捜査員が詰めているが、その一番後ろの席で榊原が黙って腕を組みながら何事かを考えており、彼の武勇伝を知る刑事たちの緊張感も大きくなりつつあった。

 やがて捜査責任者の斎藤や、本部長を務める世田谷北署署長、実質的責任者の捜査一課管理官などが部屋に入って正面の席に座り、捜査会議が始まった。

「では、これより『大松川河川敷男性遺体遺棄事件』の捜査会議を始める。まずは事件概要の説明を」

 斎藤の音頭で、まず所轄署の初動捜査担当の刑事が立ち上がって状況を報告した。

「昨日五月二十七日午前七時頃、世田谷区内の住宅街を流れる大松川河川敷をジョギングしていた近所のサラリーマンが河川敷に倒れている男性の遺体を発見し通報。駆けつけた最寄り交番の警察官が死亡を確認しました。被害者は鶴辺一成、四十五歳。その後の捜査で、現場近くのアパートに住む日雇い労働者である事がわかりました」

 続いて検視を担当した検視官が立ち上がって報告する。

「司法解剖の結果、死因は後頭部を殴られた事による頭部挫傷である事が判明しました。遺体の近くに転がっていた古いレンガに血痕が付着しており、傷口を照合した結果このレンガのものと一致。即死かどうかまでは判然としませんがそれでも殴られてから一分以内には確実に死亡したと思われ、致命傷を与えたのがこのレンガである事は間違いないでしょう。ただし、問題のレンガの発見場所は遺体から少し離れた場所で、被害者が転んで後頭部をこのレンガで強打した可能性は低く、裂傷の度合いや傷の角度から考えても第三者によってレンガで勢いよく後頭部を殴られたと考えるのが自然かと考えます」

「つまり、殺人事件と断定して差し支えないという事か?」

 署長の言葉に検視官は頷く。

「検視官の立場からではそう考えても構わないと思います。なお、正式な検視を行った結果、死亡推定時刻は当初の見立て通り遺体発見の約九時間前……前日の五月二十六日午後九時から十一時の間と推定されます。念のために二時間の幅は取りましたが、概ね午後十時前後と考えてもらえれば結構です」

「わかった」

 続いて一日かけて調べられた被害者の周辺情報が報告される。

「近所の住民の話では、被害者は二年ほど前に現在住んでいるアパートに引っ越してきたそうで、それ以前の事についてはよくわからないとの事です。現在、引っ越し前の経歴について調査を進めています。日頃から酒をよく飲む男で、酔った勢いで暴れたり騒いだりする事も多く、住民の間では迷惑者という認識だったそうです。目下、最近何か具体的なトラブルを抱えていなかったかどうかを確認中です」

 その報告に、検視官が手を上げて情報を追加する。

「えー、解剖の結果、遺体の血中から高濃度のアルコールを検出。胃の中からもビールの成分が検出されており、被害者が死亡直前に飲酒をしていたのは間違いないかと思われます」

「つまり、酔って河川敷の道を歩いているときに誰かに襲われた、という事か。そのビールを飲んだ場所はわかるか?」

「近隣の居酒屋を当たっていますが、めぼしい報告はまだ。もしかしたら店ではなく缶ビールなどを自分で買って飲んでいた可能性もあります。実際、自宅アパートの自室を調べた結果、室内の至る所から空の缶ビールが大量に発見されていますので、日常的に飲んだくれていたのは間違いなさそうです。なお、自室内の調査結果については鑑定品が多いため、結果が出次第、後日追加で報告させて頂きます」

 続いて現場から押収された遺留品についての話に移り、その中で被害者が私立探偵・榊原恵一の名刺を所持していたという事実が報告された。

「それで、被害者に問題の名刺を渡した人間は特定できたのか?」

「それについては榊原さんから直接伝えてもらいたいと思います」

 斎藤の言葉に、一番後ろの席に座っていた榊原が立ち上がり、一斉にこっちを見やる刑事たちに臆することなく言葉を発した。

「まず、我々探偵には依頼人に対する守秘義務がありますので、今から話す事は裁判所が発行した令状による情報開示であるという点はご理解ください。昨日夕方、警察から私に対する令状の提示が行われましたので、その令状に従い、事件現場に落ちていた私の名刺の所有者の特定を行いました」

 そう前置きしてから、榊原は判明した事実を告げる。

「昨年この名刺を渡した依頼人に私が直接電話で確認したところ、現時点で問題の名刺を所有していなかった依頼人は二名。他の方々については私が直接出向いて名刺を直接確認しましたので本事件と関係ないと判断します。そして問題の二人のうち一人は知り合いに私を紹介しようとして名刺を譲渡した事が判明し、その知り合いを確認したところ名刺が確認されましたので除外。一方、残る一人については名刺の所在が確認できず、よってこの人物の名刺が何らかのルートで被害者の手に渡ったと断定しても問題ないと考えます。今回、私は名刺が殺人現場から見つかったという事実を問題の依頼人にあらかじめ提示し、令状に従い、殺人事件の捜査のために警察関係者に限定して名前を開示する旨の説明と許可を得た上で彼の情報を提示する次第です」

 そして、榊原は問題の『依頼人』の名前を告げた。

「問題の名刺の所在が確認できない依頼人の名前は二見半太郎、三十歳。職業は三ツ星銀行東品川支店の行員です。彼が私にした依頼の具体的な内容についてはこの場で言う事は差し控えますが、警察が話を聞きに来るかもしれないという事は本人に伝達した上で了承をもらっているので、その辺りの話については警察が彼に直接会って聞いてください。私に言えるのは、問題の名刺を持っていなかったのはこの二見氏ただ一人だけだったという事実のみです」

 そう言うと、榊原は腰を下ろした。具体的な名前が出て捜査本部の刑事たちはざわめくが、すかさず斎藤が指示を出す。

「ひとまず捜査の取っ掛かりがつかめただけでも充分だ。まずはこの二見という男に話を聞くところから始めるが、これは当事者の榊原さんにも同行してもらって聴取を行う。おそらくそちらの方が話を聞きやすいだろうからな。それ以外の捜査員は被害者の経歴調査、事件現場周辺での聞き込みなどを分担して行う。全員、心してかかるように」

「はっ!」

 それを合図に捜査会議は一度終了し、刑事たちが次々と捜査本部を飛び出していく。榊原はそれを黙って見つめていたが、そこに斎藤が近づいてきた。

「新庄をつけます。問題の二見への聴取をよろしくお願いします」

 その言葉と同時に、斎藤の部下である捜査一課第三係主任の新庄勉警部補が榊原の前に出る。榊原は無言で頷くと、新庄と連れ立って捜査本部を後にしたのだった。


「まさか……こんな形でまた探偵さんと会う事になるとは思いませんでした」

 それから一時間後、品川駅近くの喫茶店で榊原と新庄は問題の人物……三ツ星銀行東品川支店行員の二見半太郎に出会っていた。七三の髪形に地味なスーツを着て、どことなく内気で神経質そうな表情を浮かべており、不安そうにこちらを見てくるのが同行した新庄には印象的だった。そんな二見に、榊原は頭を下げながら言葉を発する。

「二見さん、今回は私の名刺の事で迷惑をおかけして申し訳ありません」

「いえ、それはいいんですが……。あの時榊原さんが助けてくださった事に比べれば、このくらいの協力は当然ですし」

 二見は少し慌てた風に言う。榊原は、努めて落ち着かせるように告げた。

「お知らせしたとおり、ある殺人事件の現場から二見さんに渡したものと思しき私の名刺が見つかりました。その件について警察から二見さんに聞きたい事があるそうです。ここからは隣の新庄警部補に話を譲りますが、あらかじめ言った通り、私は警察には二見さんの名前と職業のみ証言し、あの時の依頼内容などには一切触れていません。なので、その辺りを話すかどうかの判断は依頼人である二見さん自身にお任せします」

「わかりました」

 緊張した様子で二見が頷き、榊原は一瞬新庄に目配せすると、そのまま腕を組んで二人の話を傾聴する構えを見せる。ここに来る前に、二見への尋問は警察である新庄が主導し、最初の顔合わせが終わった後、榊原は聞き役に徹する事をあらかじめ打ち合わせてあった。榊原が一歩引いたのを確認した上で、改めて新庄が二見に話しかける。

「警視庁刑事部捜査一課主任の新庄です。あなたが榊原さんからもらった名刺について少しお聞きしたい事がありますので、ご協力をお願いします」

「は、はい」

「まず、あなたが問題の名刺を受け取ったのはいつの事でしょうか?」

 ひとまず基本的な事を尋ねると、二見は少し考えた後でこう答えた。

「確か……半年ほど前だったと思います。榊原さんに依頼をしたときにもらって、その後はいつも通り名刺入れに入れて持ち歩いていました」

「差支えなければ、何を榊原さんに依頼したのか教えて頂けますか? もちろん、先程榊原さん自身が言った通り任意ですので、答えたくなければ結構ですが……」

「いえ、隠す事でもありませんので、榊原さんさえよければお話しします」

 二見の言葉に榊原は黙って頷き、改めて二見が問題の依頼の内容について話し始めた。

「実は半年前、私の勤務する東品川支店で横領事件が起こりました」

「横領、ですか」

「はい。預かったはずのお金とデータ上の数字が一致しない事が発覚して、調べた結果過去三年の間に一千万円近い額が横領されていました。状況から見て支店の行員の誰かが犯人である事は明らかで、上層部は出納係で当時お金に困っていた私に疑いを持ったんです。もちろん、私にはそんな心当たりはありません。困った私は色々考えた末に、友人の弁護士の紹介で榊原さんに横領の実態を調べてもらうように依頼しました。名刺はその時にもらったはずです」

 新庄が榊原の方に確認の視線を送ると、榊原は小さく頷いて二見の言葉に同意した。

「間違いない。話を聞いて、私は充分に解決が可能と判断し、この依頼を受諾した」

「私は榊原さんが横領の調査を引き受けたこと自体が驚きなんですが」

 何となくだがあまりそういうイメージはない。榊原は苦笑気味に言った。

「一応言っておくが、本来なら一介の探偵が何度も殺人事件の解決に関わる事の方が珍しいはずだ。普通の探偵というのはこういう様々な依頼を受ける何でも屋に近い仕事のはずなんだがな」

「まぁ、榊原さんはある意味特殊ですから。それに、普通の探偵でも横領調査の依頼は受けません」

 話が脱線しかけたので、元に戻す。

「それで、結果は?」

「それはもう……凄かったです。依頼してからたった二日で徹底的に調べ上げて、真犯人を見事に突き止めてしまったんですから」

「……何というか、いつもの榊原さんらしくて安心しました」

 新庄の感想に榊原はため息をついて小さく首を振る。その間にも、二見は話を続けた。

「横領犯は私と同じ出納係の池神松菜という女性行員でした。何でも付き合っていた恋人がかなりのギャンブル好きで、その恋人にそそのかされる形でズルズルと横領を続けていたんだそうです。今でも覚えていますよ……必死に反論する池神と、そんな池神を冷静かつ容赦なく追いつめる榊原さんの姿。池神は最後泣いて連行されて行きましたね」

「相変わらず容赦ありませんね」

「大きなお世話だ」

 榊原は深いため息をつく。

「確か裁判では、池神と恋人の男にはそれぞれ懲役三年の判決が下されたはずです。それ以上はちょっとわかりませんね。何にせよ、私への疑いも晴れ、榊原さんには感謝しきれません」

 ひとまず、彼が榊原に何を依頼し、問題の名刺が彼に渡った経緯はわかった。問題はこの後である。

「それで、問題の名刺ですが、いつ頃紛失したかわかりますか?」

「いつと言われましても……何しろありがたい事に、あれ以降榊原さんに連絡を取るような事は起こっていませんし、名刺自体も仕事で毎日かなりの枚数をもらいますから……」

 そこまで言ったところで、不意に二見は言葉を止めた。

「あ、でも……そうだ、一週間くらい前にはまだあったと思います」

「なぜそれがわかるんですか?」

「その頃にたまりにたまっていた名刺の整理をしたんですよ。その時確か榊原さんの名刺を見ました。『そう言えばあの事件からもう半年か……』と思い出していたのを覚えています」

 それが本当なら、彼が名刺を失くしたのはそこから事件までの一週間の間に絞られるわけである。

「その名刺はその後どうしたんですか?」

「確か榊原さんの名刺は、いつ使う事になるかわからないからという事でそのまま名刺入れに残して、肌身離さず持ち歩いていました。名刺がない事に気付いたのは、昨日榊原さんから連絡を受けて確認した時が最初です」

 ならば、ここ一週間の彼の行動が問題になる。

「申し訳ありませんが、この一週間のあなたの行動、予定などを教えてください。それと、念のために事件当時のアリバイも」

「は、はい」

 二見は手帳を取り出してこの一週間の予定を確認する。

「えーっと、事件が起こったのはいつでしたっけ?」

「一昨日の夜十時頃なんですが……」

「それなら普通に自宅でくつろいでいたと思います。一応、彼女と同棲しているので証言してくれるはずですが……確か、身内の証言は証拠にならないんでしたっけね」

「それでも、後でお伺いする事になります」

「わかっています。それで……この一週間の予定ですけど、こんな感じになっていますね」

 二見はそう言って手帳を差し出した。問題は、この一週間の二見の行動の中に彼が榊原の名刺を紛失したと思しき行動がなかったかという点である。さすがに予定の大半は仕事関係が多く、榊原の名刺を取り出す場面があるようなものはなかったが、それでもその中に気になる予定が一つあった。

『五月二十一日(日)……小沼と飲み会』

 早速、新庄は詳しい事を確認する。

「五月二十一日の飲み会ですが、この『小沼』というのは?」

「あぁ、大学時代の友人ですよ。小沼栄介といって、ゲーム会社でプログラマーをしているんです。今でもたまに一緒に飲む仲で、この日も二人で居酒屋に行って飲み明かしていたんです。次の日がたまたま両方とも休みだったんで、結構飲んだ記憶がありますよ」

 それだけ飲んでいたなら、飲んでいる時の記憶が曖昧になっている可能性がある。すなわち酒を飲みながら何かの拍子で名刺を取り出した可能性は否定できないのだ。

「飲み会の参加者はあなたと小沼さんの二人だけですか?」

「えぇ」

「その居酒屋の名前は?」

「世田谷の『美鶴』という個人経営の居酒屋です」

「その飲み会の席で榊原さんの名刺を取り出した、という事はありませんか?」

 その問いに二見は一瞬キョトンした表情を浮かべたが、すぐに難しい顔になった。

「いや、どうでしょう……正直、あの時はかなり酔っていて、どんな話をしたのかよく覚えていないんです。かすかに互いの仕事の愚痴とかを言いまくっていた事は覚えていますが……」

「では、その時居酒屋にいた他の客の事は覚えていますか?」

「さぁ、それもよくは……。というか、普通飲み会の席で他の客の事なんかよほどの事がないと気にしないと思いますけど」

 二見は当惑気味に答える。どうやらこれは、一緒に飲んだ小沼という男や、居酒屋の店主の話を聞く必要があるらしい。新庄はその二人の連絡先などを聞くと、最後にこう尋ねた。

「最後に一つ。鶴辺一成という名前に心当たりはありませんか?」

「鶴辺……いえ、私の記憶にはありませんが……その方が亡くなられた被害者の名前ですか?」

「そうなります。その上で、本当に心当たりはありませんか?」

 新庄はさらに思い切って被害者の顔写真を見せたが、それに対して二見は申し訳なさそうに首を振った。それでもなお新庄はこう食い下がる。

「例えば、銀行で担当した客の可能性はありませんか?」

「……守秘義務上、詳しくは言えませんが、少なくともこのお方を受け持った事はないとだけ言っておきます。何なら、令状を取って調べてくださっても構いません」

「いえ、それだけ聞ければ充分です」

 そう言うと、新庄はいったん二見に対する聴取を終了したのだった。

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