第三章 捜査続行

 その日の夜、世田谷北署の捜査本部でその日集まった情報を共有するための捜査会議が行われた。まず、鑑識の人間が立ち上がって報告を行う。

「問題の名刺の指紋調査の結果が出ました。結論から言えば、問題の名刺には四種類の指紋が付着しており、そのうち三つについては、被害者、二見半太郎、そして榊原氏の指紋と一致しました。従ってあの名刺が、榊原氏が二見氏に渡した名刺である事はほぼ確定しても構わないと判断します」

 その報告に刑事たちがざわめく。捜査本部長は全員が気になったであろう部分についてすかさず突っ込んだ。

「つまり、持ち主不明の指紋が一種類付着していたという事か?」

「はい。警察のデータベース上にある指紋とも照合しましたが、一致するものはありませんでした。従って前科者や警察関係者のものではありません」

「犯人のものと考えていいのか?」

 本部長はそんな推測を述べたが、それを否定したのは斎藤だった。

「いえ、その可能性は低いと考えます。もし犯人が名刺の存在を知っていたなら、自分の指紋が付着している名刺を放置しておくはずがありません」

「確かにそうだが……なら、この指紋は一体?」

「それはこれからの捜査次第ですが……ひとまずこれで、殺害時に名刺を持っていたのは被害者の方だったと断定してもいいと思います」

「他に可能性があったのかね?」

「考えていたのは、名刺は犯人側が持っていて、犯行後に何らかの理由で被害者の財布に入れたという可能性でした。この場合、二見氏から何らかの方法で名刺を手に入れたのは犯人の方という事になります。しかし、名刺に被害者の指紋が残っていた以上、この名刺を持っていたのは被害者だったと結論せざるを得ません。そうでなければ被害者の指紋が付着するはずがないからです。つまり、二見氏が所持していた名刺は犯人ではなく被害者の方に何らかの理由で渡った事になります」

「しかし、二見氏と被害者に繋がりらしいものはないんだろう?」

「その通りです。二見氏自身も被害者の顔に見覚えがないと言っています。従って、被害者と二見氏がどこで接触したのかという点が問題になってくるわけです」

 そうなると鍵を握るのは被害者の経歴や事件前後の足取りである。これについてはそちらを捜査していた所轄署の刑事が報告した。

「被害者の鶴辺一成は新潟県の生まれで、大学卒業後に上京して就職。二十四歳の時に結婚して翌年一女をもうけていますが、三十歳の時に会社が倒産し、夫婦仲が悪化した事により離婚。その後は職を転々とし、今に至るまでその日暮らしの生活を送っていたようです。ただ、前に報告した通り酒癖がかなり悪かったようで、逮捕こそされていませんが警察の厄介になった事も何度かあるようです。ここ最近だと、事件の二週間前の土曜日に神奈川県警の世話になったという記録が残っていました」

「何をしたんだ?」

「この日、被害者は横浜スタジアムで行われるはずだったプロ野球の試合を見に行っていたんですが、午後から降り始めた雷雨の影響でこの試合が中止になって、すでにビールを飲んで出来上がっていた被害者がこれに納得できず、チケット売り場の辺りで怒鳴りながら暴れたのを駆けつけた県警の警察官が確保したという事です。幸い、被害らしい被害もなかった上に酔いが醒めた被害者が反省をしていた事もあって、事情聴取をしただけですぐに放免になったそうですが……」

 どうやら、お世辞にも尊敬できるタイプの人間ではなかったようだ。

「離婚したその元妻の名前は?」

「名前は三益安子。離婚後は娘を引き取り、女手一つで育て上げたそうですが、長年の過労がたたったのか一年前に病死。数少ない遺産はそのまま娘に受け継がれています。その娘の名前は三益夕菜。現在二十五歳で日帝大学経済学部卒業後に就職しています。就職先は『東都インターナショナル』という総合商社で、肩書は社長秘書ですが、調べたところつい最近になってここの若手社長と彼女との間に婚約が発表されたそうです。婚約相手は豊洲悦久、三十二歳。新進気鋭の若手経営者として業界でも評判になっている人物です。結婚式の予定は一ヶ月後。ただし、すでに親子の縁は切れているという事で、鶴辺は結婚式に招待されていなかったようです」

 と、そこで別の刑事が立ち上がった。

「この『東都インターナショナル』という会社は、七年前に現社長の豊洲と原島司という男が共同で立ち上げた会社で、名目上は豊洲が社長、原島が副社長という形で、起業から数年ほどで急成長を遂げました」

 同時にその豊洲と原島という男の写真が正面に映し出される。豊洲は女性受けしそうな甘いマスクのいかにも『若手実業家』と言った風貌。対する原島は黒縁眼鏡をかけた、よく言えば真面目そう、悪く言えばいささか地味な外観の男だった。

「ところが五年前、共同経営者の原島が事故で急死し、以降は豊洲の単独経営に移行。以後も順調に経営を拡大し、いくつかの会社を傘下に収めるなどして現在に至っています」

「事故?」

 気になるワードに斎藤が反応する。対して、その刑事もその点についてはちゃんと調べていたようだった。

「今から五年前の二〇〇一年四月十五日朝八時頃、都内の住宅街を流れる小さな川に人が浮かんでいるという通報が通りすがりのタクシー運転手から入り、駆けつけた警官が死亡を確認。後の捜査で、遺体が東都インターナショナルの共同経営者兼副社長だった原島司のものである事がわかりました。被害者は前日の夜に他社の人間の接待のために料亭で飲んでいて、そこからの帰宅途中に橋を渡っている際に酔いから足を踏み外して川に落下、そのまま溺死したと判断されています」

「その事故死の判断は間違いないのか?」

 本部長の問いに、刑事は慎重に答える。

「解剖の結果、肺から検出された水から被害者が発見された河川のものと同一のプランクトンが見つかっており、被害者がこの川に落下して溺死した事は間違いありません。問題は被害者が事故で川に落ちたのか、自殺をしたのか、あるいは誰かに突き落とされたのかのいずれかという事ですが、直前の料亭での振る舞いなどから自殺の可能性は極めて低いとされました。残るは事故か殺しかの二択ですが、仮に突き落とされたとした場合、動機を持っている人間として考えられるのは、原島の死によって社の権限を独占できる共同経営者の豊洲悦久です。ところが、この豊洲悦久には完璧なアリバイが存在しました」

「アリバイ、だと?」

「事件当夜、豊洲は大阪に出張中で、死亡推定時刻に大阪で複数の取引先の人間と会食をしていた事が判明したんです」

 記録によると、被害者が最後に目撃されたのが四月十四日午後九時頃で、解剖により判明した死亡推定時刻はその一時間後の午後十時から翌日午前一時までの三時間となっている。ところがこの時間帯、豊洲は同行者である自社の経理部長と共に大阪のレストランで取引先の会社の人間数名と会食をしており、その会食に参加した経理部長や取引先の人間の証言によれば会食時間は午後八時から午前零時までの四時間。その間、トイレなどで五分程度席を空けることがあった以外、豊洲はずっと食事や話し合いを続けていたのだという。午前零時以降は各自ホテルに引き払ってアリバイらしいアリバイはないのだが、そこから死亡推定時刻の限度である午前一時までの一時間のうちに東京まで舞い戻って被害者を川に突き落とす事など、物理的に不可能な話であるのは自明だった。

 遺体が発見されたのは翌朝午前八時頃で、その後すぐに遺体の身元が判明し、一時間後の午前九時には大阪のホテルにいた豊洲にも警察から連絡がいっている。その際、豊洲はホテルの部屋の固定電話で間違いなくその連絡を受けており、彼が事件当夜大阪にいたのは疑いようのない事実だった。無論、当時の警察もそのでき過ぎたアリバイを疑って誰かに豊洲の殺害を命じたのではないかと推測したが、調査の結果、豊洲の周囲に殺害の実行犯と思しき人物もおらず、それどころか殺害依頼の報酬のために必要な金の動きなども全く確認されなかったのである。結局、疑わしくはあったが殺害を立証できるだけの証拠もなく、原島の死は最終的に「事故死の可能性が高い」と極めてあいまいな結論が下されたのだった。

「ただし、殺害の可能性を完全に否定できたわけではない事から公の発表ではあくまで『事故の可能性が高い』という形で事故だと断定まではしておらず、公式上、この事件はあくまで『未解決事件』扱いとなっています。専従捜査員こそいませんが、現在でも一応未解決事件の継続捜査対象として認定され、状況いかんではいつでも再捜査に持っていける状態です」

「……何とも臭う話だ」

 本部長が呟く。とはいえ、現段階ではこの事件が今回の鶴辺殺しに関係しているかどうかわからない。仮とはいえ一度事故判定が下されている事件である以上、明確に事件と関係あると判定されるまで、この一件は保留せざるを得なかった。

「何にせよ、被害者と関係があった以上、その夕菜という被害者の娘や豊洲社長にも話を聞く必要はあるが、その点は?」

「もちろん、実際に話を聞きに行きました」

 その言葉と共に彼らに話を聞きに行った刑事たちが立ち上がり、その様子を報告し始めたのだった……。


 被害者の娘・三益夕菜に対する聴取は彼女の自宅アパートで行われた。現在、彼女は都内で一人暮らしをしており、突然の刑事たちの訪問に対して硬い表情で応じていた。近々大企業の社長と結婚するという割にはかなり質素な部屋で、趣味なのか隅の方に釣り竿が置かれているのが少し印象的ではあったが、それ以外は本当に必要最低限の物しかない独身女性の部屋という風ではあった。

「……父が殺された、ですか」

 訪れた所轄の刑事二人が事情を説明すると、彼女はただ一言そう呟いただけだった。こう言っては何だが父親とは似ておらず、普通にかわいいイメージではある。その表情に動揺はなく、ただ淡々と事実を受け入れているだけに見えた。

「驚かないんですね?」

「……子供の頃に両親が離婚して以来会っていませんし、私にとってはもう他人みたいな人ですから」

 夕菜は無表情ながらも少し迷惑そうに言った。彼女自身が言うように、もはや鶴辺に対する娘としての感情は持っていないという事なのかもしれなかった。とはいえ、ここで引き下がる事はできない。

「申し訳ありませんが、事情がどうであれ被害者があなたの父親である以上、娘のあなたにも色々聞かなくてはならないのです。その点、ご理解ください」

「はぁ……」

 彼女が渋々頷くのを見て、刑事は質問を開始した。

「五月二十六日の午後十時前後、あなたはどこで何をしていましたか?」

「それは、アリバイという事ですか?」

「そうなります。これは関係者全員に聞いている事です」

「……その時間ならこの部屋でテレビを見ていました。証人はいません。でも、その時間帯ならそれが普通じゃないですか?」

 夕菜はささやかに反撃するが、刑事たちはそれをわざと聞き流して次の質問に移る。

「両親の離婚後は会っていなかったという事ですが、最近、被害者の名前を聞いたりした事は?」

「ない、と思います。少なくとも私の記憶にはありません」

「確かですか?」

「確かです。というより、聞いていたら迷惑に思ったはずですから」

「迷惑、ですか?」

「今さら父親面なんかしてほしくありませんし。やっと幸せになれると思ったのに、死んでまで私の邪魔をするなんて……」

 夕菜は膝の上で拳を握りしめる。

「私……ここまでずっと苦労して来たんです。母子家庭だったから生活も苦しかったし、必死に勉強して今の会社に入りました。それなのに……その直前に長年会ってもいなかった父の事件で疑われるなんて、はっきり言って迷惑です」

 どうやら、本気で父親に腹を立てているようである。

「被害者は世田谷区に住んでいたんですが、この事は?」

「知りません。父がどこにいたかなんて、知りたいとも思いませんでした」

「ご両親が離婚された経緯について、あなたは何かご存知ですか?」

「……二十年くらい前に父が勤めていた会社が倒産して、それが原因で父があれて酒浸りになり、それが原因で母と口げんかするようになったみたいです。で、耐え切れなくなった母が私を連れて家を飛び出したと聞いています」

「その話はお母さんから?」

「そうです」

「その……被害者から暴力のようなものは?」

「いえ、母の話はそこまでではなかったみたいです。ただ、あのままあの状況が続いたらそうなる可能性はあったかもしれないと言っていました」

「被害者がそうなるきっかけとなった会社の倒産ですが、その会社の名前はわかりますか?」

「さぁ……そんな細かい事までは知りません」

 あまり有益な答えが得られそうになかったので、刑事は質問の方向性を変える。

「今の会社には大学卒業後すぐに就職されたそうですね?」

「はい。今から三年前に。競争が厳しい会社だったので、入れてよかったと思っています」

「そこで豊洲社長と出会い、今回婚約する事になった」

「えぇ」

「きっかけは何かあったんですか?」

「きっかけと言われても……私は社長秘書として働いていて、仕事上の付き合いをするうちに親しくなりました」

「失礼ですが、就職三年目で社長秘書というのはかなりの出世なのでは? 同じ秘書業務でも、普通はもっと下の、例えば役員秘書とかから始めるものでは?」

 刑事が意地悪な質問するが、彼女はすまし顔で答えた。

「どうでしょう。私の仕事ぶりが認められたからだとは思いますけど、人事の事は私にはわかりません」

「……原島司、という名前に聞き覚えはありますか?」

 刑事の問いかけに彼女はピクリと眉をひそめる。

「……社長から仕事上の話で何度か名前は聞いた事があります。私が入社する前に社長の共同経営者だった、当時の副社長だとか」

「彼が亡くなったという事は?」

「聞いています。帰る途中に川に落ちて事故死したと」

「その『事故死』の件ですが、あなたは本当に事故だと思いますか?」

「……どういう意味ですか? 何を言っているのか私にはわかりません。事故だとは聞いていますがそれだけで、具体的な事故の状況を私は知りませんから」

「五年前に起こった事故です。当時のあなたは大学生だったはずですが」

「だったら、私には関係ありません。その当時、私はまだこの会社に入るかどうかも決めていませんでしたから」

 と、そこで刑事が何か言う前に、夕菜は心底嫌そうに告げた。

「あの……もういいですか? 何度も言うように、私、ずっとあの人に会っていないので、何もお話しする事はないと思います。これ以上お話しする事はありませんし、私の私生活を暴かれるような事はされたくありません」

 そう言うと、夕菜は下を向いて黙り込んでしまった。その様子を見て、これは一度仕切り直しをした方がいいと、刑事たちは判断する。

「……わかりました。ここは一度引き上げます。また捜査の進展次第ではお話を聞く事があるかもしれませんが、その時はお願いします」

「……」

 夕菜は答えなかった。刑事たちは互いに目配せをすると、いったんその場を辞そうとする。その去り際に、夕菜はこんな事を尋ねてきた。

「あの……父の亡骸は私が引き取らなければならないんでしょうか?」

 その問いかけに、刑事たちは努めて事務的に応じる。

「現状、他に遺族らしい遺族がいませんので、そうなると思いますが」

「そうですか……」

 拒否こそしなかったが、あからさまに嫌そうな表情だった。その様子を見て、親子の縁が切れているのは本当なのかもしれないと刑事は直感した。

「落ち着きましたらまたご案内しますので、その時はよろしくお願いします。我々としても被害者を無縁仏にしたくはありませんので」

「……わかりました。ご迷惑をおかけいたします」

 最後まで硬い表情のまま、夕菜は頭を下げたのだった。


 一方、東都インターナショナル社長・豊洲悦久に対する聴取は新庄同様に斎藤の部下である捜査一課第三係の竹村竜警部補が担当した。東京駅近くの高層ビル街にある東都インターナショナル本社ビルを訪れた竹村とその相方となった所轄の刑事は、ビル最上階にある社長室に通され、そこで新進気鋭の若手社長・豊洲悦久に対面した。

「やぁ、どうも。刑事さんが来たと聞いて驚きましたよ。うちで何か問題でもあったんですか?」

 女性受けしそうな甘いマスクの豊洲はにこやかな笑みでそう尋ねたが、竹村はそれに付き合う事なく早速要件に入った。

「単刀直入にお伺いします。鶴辺一成という名前に心当たりはありませんか?」

「鶴辺……」

 豊洲は少し考え込んだが、やがてゆっくり首を振った。

「いや、申し訳ありませんが記憶にありませんね。その鶴辺という男が我が社と何か関係が?」

「今朝、遺体となって発見されました。我々は殺害されたとみています」

「ふむ……それは大変ですね。しかし、さっきも言ったようにその男を私は知らないのですが、どうして私の所に?」

「豊洲社長、あなたは最近、ここの秘書の三益夕菜さんとの婚約を発表していますね?」

 いきなりそんな事を言われて豊洲は少し眉を上げる。

「えぇ、確かにそうですが、それが何か?」

「殺された鶴辺一成という男ですが、実はこの三益夕菜さんの実父だった事がわかっています。なので、娘である彼女についても調べているところなのですよ」

 竹村はあくまで調べているのが夕菜についてである事を強調し、豊洲が下手な警戒を抱かないようにした。一方、豊洲はと言うとあくまで対外的な笑みを崩す事無くその言葉に応じた。

「ほう、そうでしたか……。しかし、刑事さんの疑いは的外れだと思いますよ。彼女が自分の父親を殺すなんて、そんな馬鹿な事をするはずがないじゃないですか。彼女はそんな人間じゃありません。ずっと付き合っていた私が断言しますよ」

「生憎ですが、人の主観というものは当てにできないものでしてね。警察としてはそんな主観めいた証言では引き下がれないんですよ」

 竹村の反論に、豊洲はオーバーリアクション気味に首を振る。

「やれやれ、日本の警察というのは物分かりが悪いですね。五年前もそうでした。私はやっていないと言っていたのに、しつこくアリバイを調べてきて……。あの時どれだけ苦労したか、あなた方にはわからないでしょうね」

 自分から五年前の事件のことを言い出した事に竹村が眉をひそめると、豊洲はにやりと笑ってこう告げた。

「どうせ警察の事ですから五年前の事件の事は調べてあるんでしょう。なら、別に隠す事じゃない。ちまちました駆け引きはなしにしませんか?」

「……事件の話をしましょう」

 竹村はいったん強引に話を打ち切って話題を元に戻した。

「ここ最近、三益夕菜さんの言動に何かおかしな点がありませんでしたか?」

「さぁね。少なくとも、私が見た限りおかしな事はありませんでしたよ」

「では、彼女の家族について何か本人から聞いたりしていましたか?」

「幼い頃から母子家庭で、母親が数年前に病死したという事は聞いていましたよ。でも、父親の事はほとんど聞いた事がありませんね」

 どうやら夕菜は父親の事を豊洲には話していないらしい。

「これは関係者全員に聞いているのですが、あなたの五月二十六日午後十時におけるアリバイは?」

「それが犯行時刻ですか? 生憎ですが、その時間は赤坂の料亭で取引先の会社の幹部相手に接待をしていましたよ。疑うなら、同席したうちの副社長や取引相手、それに料亭の女将さん辺りにでも話を聞けばいい。ちゃんと私のアリバイを証言してくれますよ」

 豊洲は手をひらひらさせながら言う。

「その副社長というのは?」

「鵜野州ですよ。鵜野州元就。警察の方ならその名前はご存知では?」

 それは、五年前の事件の際にこの豊洲社長に同行して彼のアリバイを立証した当時の経理部長の名前だった。どうやらあの後、副社長まで出世をしたらしい。アリバイの証言者が同じである事といい、今回も豊洲には他社との会食をしていたというアリバイが存在する事といい、何とも五年前の事件と似たようなアリバイだった。それだけに、アリバイがしっかりしていながら逆にとても疑わしく思えてしまう。

「では、同じ二十六日、三益夕菜さんの様子に何か変わった事はありませんでしたか?」

「さっきも言ったように、普段通りだったと思いますが」

「その日の彼女の行動はどうですか?」

「行動ですか……朝、いつも通り出社して、終業時間まで秘書として私の仕事を手伝ってくれていましたよ」

「その仕事というのは?」

「それは言えませんよ。企業秘密ってやつです」

 豊洲はにこやかに笑いながら回答を拒否する。

「……では、仕事内容は結構ですので、彼女が仕事中に一度も席を外した事がなかったのかという事と、彼女が帰宅した時間だけでも教えてくださいませんか? それとも……それさえも教えられないと?」

 そう聞かれて、豊洲は笑みを崩さないまま少し考えたが、やがて肩をすくめて答えた。

「別にそのくらいならいいですよ。えーっと……確かに仕事中に彼女が席を外した事はありますよ。うちは正午から一時間が休憩時間で、その間に彼女は外食に行ったようなので。でも、逆に言えばそれだけですね」

「帰宅時間は?」

「終業は午後六時ですが、あの日は接待の準備があったので三十分ほど残ってもらいました。だから、六時半頃には帰ったはずですよ」

「彼女は例の会食とやらに同行させなかったんですね」

「こればかりは私が行くしかありませんからね」

「その会食というのは何時から何時までですか?」

「午後八時から午後十一時頃までですかね。終わった後は社用車で自宅まで送ってもらって、帰ったのは零時頃でした。疑うなら社用車の運転手にでも聞いてください。その後はそのままシャワーを浴びて、ぐっすりと寝ましたよ」

 と、その時部屋のドアがノックされ、三益夕菜とは別の女性秘書が顔を見せた。

「お話中失礼します。社長、平成電工の第一営業課長様がいらっしゃいましたが」

「あぁ、わかってる。ちょうどこの時間にアポイントメントをもらっていたんだ」

 わざとらしくそう言いながら、豊洲はチラリと竹村の方を見た。

「お聞きの通りです。私も忙しい身でしてね。できればそろそろ、お引き取り願いたいのですが」

「……では一つだけ。鵜野州副社長の話を聞かせてください。あなたの主張するアリバイとやらを確認しなければなりませんので」

「嫌だと言ったら?」

「不本意ですが、後々任意同行をして話を聞く必要が出てきます。それとも何か不都合な点でも?」

 豊洲は再びオーバー気味に首を振った。

「ノープロブレムです。わかりました、どうぞ好きに話を聞いてください。君、案内してあげたまえ」

 そう言われて、秘書は戸惑いながらも頭を下げる。竹村たちが最後に見たのは、竹村たちの姿を見て不審な表情を浮かべている取引先の相手と思しきスーツ姿の男と、その男をにこやかに出迎えて来客用のソファを勧める豊洲の姿であった……。


「私に話ですか」

 その五分後、竹村たちは別の会議室で副社長の鵜野州元就から話を聞いていた。どこか神経質そうというか苦労性のような表情を浮かべており、何となく細かい事を気にするタイプの人間に見えた。もっとも、あの性格の豊洲社長にとってはちょうどいいパートナーなのかもしれないが。

「えぇ。豊洲社長の話では、問題の時間帯、あなたと一緒にいたというアリバイがあるようですので」

「いつの事ですか?」

 竹村が問題の時間を告げると、鵜野州はぶつぶつ言いながら手帳を確認し、やがて小さく頷いた。

「えぇ、確かに。その時間は社長と一緒に他の会社の方を接待していましたよ。接待先の料亭に確認してもらえばわかるはずです」

「会食の時間は?」

「午後八時から午後十一時までの三時間です」

 その証言を聞けば聞くほど、五年前の事件の際のアリバイと酷似していると感じてしまう。と、向こうもそう思ったのか、鵜野州は自嘲気味に笑った。

「どうせ警察の事ですから、五年前の一件と似たアリバイだとでも思っているのではないですか?」

「……否定はしません」

「あの時も大変でしたよ。たまたま一緒にいたからという事で私にもしつこく社長のアリバイを聞かれて……正直うんざりしていました」

「あなたも五年前に問題の会食の場にいたんですか?」

 竹村の問いに、鵜野州は苦々しい顔で答えた。

「えぇ。当時、私は経理部長でしてね。あの取引では大きな金が動きそうだという事で、会食に私も同席していたんです。本来だったら次の日はそのまま大阪に残ってお昼から一人で別の会社との会合に出席する予定だったんです。あれはかなり大きな取引で、それを任された私としても気合充分でした。ところが、会合場所に行く途中の正午頃に携帯を見てみたら社長から『原島副社長が亡くなった』とメッセージが入っていましてね。慌てて会合をキャンセルして、社長に遅れて東京へとんぼ返りした事を覚えていますよ。その後も原島さんがいなくなって起こった事務処理だのなんだので忙しくて……。取引? あぁ、結局期限オーバーでお釈迦になりましたよ。あんな事さえなければうまく成立させていたものを……」

 鵜野州は愚痴気味にそんな事を言う。

「鵜野州さんはここはもう長いんですか?」

「私ですか? 実は私、元々は個人経営の税理士をしていましてね。まぁ、その縁で社長と知り合って、六年くらい前に直々にヘッドハンティングされたわけなんですが……社長には今でも感謝していますよ」

「では、豊洲社長にアリバイ工作を頼まれた場合、あなたはそれに協力しますか?」

 竹村は少し踏み込んだ質問をしたが、鵜野州は鼻で笑っただけだった。

「そうはいきませんよ。確かに社長に恩はありますが、それとこれとは話が別です。社長の個人的なやらかしに巻き込まれるなんてまっぴらですよ」

 鵜野州はそう吐き捨てると、それ以上の話を拒否する姿勢を見せたのだった……。


 ……刑事たちからの報告を聞いて、斎藤が関係者の情報についてまとめにかかった。

「三益夕菜にはアリバイなし。その一方で、豊洲社長にはアリバイありか」

「しかし、そのアリバイは五年前の事件の際のアリバイと酷似している上に、それを証言する人間の一人は五年前同様に腹心の鵜野州元就。さらに言えば、豊洲社長ほどの人間なら金で犯行を請け負う人間は充分用意できると考えられます」

「アリバイがあるからと言って容疑者から外すわけにはいかないわけか」

 いずれにせよ、決定打にはなりえない情報ではあった。

 と、ここで別の刑事が立ち上がってさらなる報告を加えた。

「その三益夕菜ですが、一つ気になる情報があります」

「何だ?」

「既に報告されているように三益夕菜は豊洲社長と婚約しているわけですが、実は大学時代に別の男性と付き合っていた過去があった事が判明しました。相手の名前は江畑邦助、当時は同学年の大学生で、現在は就職する事なく、路上ミュージシャンのような事をしているそうです。ところがこの江畑という男、正直あまり評判のいい男ではありません。大学時代からだらしがなかったらしく、何でこんな男と学内でも人気のあった三益夕菜が恋人になったのか不思議に思う同級生が多かったようです。結局、付き合い自体は三益夕菜が江畑を振った事から一年程度で破局していますが……今でも江畑が三益夕菜の事を諦めきれていないという噂があるのも事実です」

 関係は薄そうだが、放置するわけにもいかない情報だった。

「わかった。念のためだが、そっちも調べてくれ。この際、手掛かりはいくらでもほしい」

「了解です」

 そう言ってから、斎藤は榊原の方を見る。

「榊原さんの方から何かありますか?」

 その問いに対し、榊原は少し考え込んだ後、こんな事を告げた。

「いくつか確認したい事があります」

 アドバイザーという立場上、捜査会議の場では榊原も斎藤に対しては敬語である。斎藤もそれを心得ていて、すぐに頷いて先を促した。

「どうぞ」

「では遠慮なく。五年前の原島副社長の一件ですが、被害者の死因は溺死という事でしたね?」

「その通りです」

「被害者の遺体には何か外傷等は確認されていますか?」

 その問いに、刑事の一人が原島の解剖記録を確認して答える。

「えー、当時の記録では、頭部に打撲痕のようなものを確認。ただし出血はしておらず、これは致命傷ではありません」

「打撲痕……」

「当時の捜査員は、川に転落した際にどこかで頭をぶつけたのではないかと解釈しています。ただし、これがもし殺人だったとするなら、犯人が被害者を何らかの鈍器で殴りつけ、抵抗できなくなった被害者を川で溺死させたとも解釈できますが」

「つまり、どちらとも解釈できるわけですか」

「はい。なので、この打撲痕の存在は、事故か殺人かを判断する決定打にはできなかったというのが実情です」

「それ以外の傷等は?」

「ありません」

「衣服等に何らかの痕跡は?」

「これも確認できていません」

「帰宅途中という事になれば、被害者は鞄等を持っていたはずですが、それについては?」

「同じ川の中から見つかっています。中には仕事関係の書類やファイル、折り畳み傘、眼鏡ケースなどが入っていました。また、ポケットには財布や携帯電話、ハンカチなども入っていたようです。なお、財布の中の現金などが抜かれた形跡はなかったようです」

「携帯電話の履歴等は?」

「調べましたが、ほとんどが会社関係の人間からのもので、不審な着信等はありませんでした。最後の着信は当日の正午頃に取引先の会社の人間からかかってきたもので、彼が最後に目撃された料亭での飲み会が終わった午後九時以降については誰からも一切着信がありませんでした。もちろん、被害者がどこかにかけたという事もありません」

「これらの遺留品は今どこに?」

「捜査継続中という扱いなので、現在も担当所轄署の証拠品保管室に保管されているはずです」

 榊原は少し考えた後、さらに質問を続けた。

「先程、打撲痕は頭部にあったと言いましたが、具体的には頭部のどこですか?」

「ええっと……解剖記録によれば、ちょうど額の部分だったと思われます。この辺ですね」

 捜査員は自身の額の真ん中あたりを示しながら言う。

「この一件が事故だったとして、被害者が落下した具体的な場所の特定はできているのですか?」

「そうですね……記録によれば、被害者の自宅と最寄り駅の間に橋が一本かかっていて、帰宅中に被害者が問題の川に近づくのはこの橋を渡っている瞬間しかありません。従って橋を渡っている際に落下したと考えられています」

「その橋のスペックは?」

「正面に写真を映します」

 映された写真には、住宅街の真ん中を流れる小川の上にかかる小さな橋が写っていた。

「長さ二十メートル、水面までの高さが三メートルほどの橋で、御覧の通り欄干が五十センチ程しかありません。歩道を歩いていた被害者が足を滑らせるなどして落下する事は不自然ではないと考えます。また、橋の下には橋脚を支えるコンクリート製の土台があり、頭をぶつけたとすればこの土台の可能性が高いと思われます」

「土台から被害者の痕跡は? 例えば髪の毛とか皮膚片とかですが」

「それが、当日上流の水門が小規模な放流をやったらしく、土台も水で洗われて痕跡らしい痕跡が確認できませんでした。また、土台ではなく直接川底に頭をぶつけた可能性も否定しきれません」

「発見時の被害者の写真を見る事はできますか?」

「これです」

 正面のスクリーンに、横たえられた被害者の写真が映し出される。きっちりとスーツを着込み、先程写真で見た黒縁眼鏡の奥の顔は苦悶に満ちていて、何とも無念さが漂う死に顔だった。見ると、確かに額の辺りに打撲痕らしき痕跡が見られる。

「これは被害者を川から引き揚げた直後に撮影したものです」

「被害者に家族は?」

「いません。彼は独身で、本籍地の神奈川県小田原市に両親がいるだけです。遺体の引き取りもこの両親が行っています」

「ふむ……なるほどね……」

 榊原は意味ありげに頷きながらそう呟くと、そこで質問を打ち切った。

「よし、明日からは今回の捜査会議で出た部分を中心に捜査を行う。各自、体調には留意しながら捜査を続行されたし。以上、解散」

 斎藤のその言葉と共に、この日の捜査会議は終了したのだった……。

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