第四章 捜査終盤

 翌日……五月二十九日月曜日、新庄は榊原と一緒に、昨日問題になった二人の人物……小沼栄介と居酒屋「美鶴」の主人に対する聞き込みに向かった。最初に向かったのは、あの夜、二見半太郎と一緒に飲んでいたというゲーム会社勤務の小沼栄介である。あらかじめ連絡を取っておいたので、聴取は彼が勤める大田区内の『イムソフト』というゲーム会社近くの喫茶店で行われる事となった。

「いやぁ、すみません。ちょっとトラブルがあって……」

 待ち合わせ時間から五分ほど遅れて、小沼栄介は待ち合わせ場所の喫茶店に姿を見せた。やや肥満系の穏やかそうな雰囲気の男で、事前に二見から聞いた話では、何でも最近結婚したばかりらしい。

「いきなり刑事さんから連絡があってびっくりしましたよ。しかも、二見との飲み会の事について聞きたいだなんて……二見に何かあったんですか?」

「いえ、そういうわけではありません。ただちょっと、ある事件の事について確認したい事がありまして……」

「はぁ、よくわかりませんが……」

 とにかく、彼に聞きたい事は決まっている。新庄は早速その事について尋ねた。

「あの日の飲み会で、二見さんとあなたが何を話していたのかお聞きしたいのです。二見さんにも聞いたのですが、どうも酔って記憶が曖昧になっていたらしく要領を得なかったので」

 その質問に、小沼の顔に困惑が浮かぶ。

「話せと言われれば話しますが、何でまたそんな事を?」

 相手が疑問に思うのももっともだが、ここは話してもらわなければ困る。

「詳細は話せませんが、ある事件の解決に必要な事なのです。お願いします」

「まぁ、いいですけど、私も酔っていたもので、そこまでしっかり覚えているわけじゃありませんから、そのつもりでお願いします」

 そう前置きして、小沼はその時の事を話し始めた。

「あの日は次の日が休みだったから久々に二人で飲んでいたんです。確か、互いの仕事の愚痴のような事を話していた気がします」

「えぇ、そこまでは二見さんも覚えていました。問題なのはその愚痴の具体的な内容です」

「具体的な内容ですか……そう言われても……あいつは確か、新しく赴任してきた上司が怒りっぽくって疲れているとか、あと付き合っている同僚の女の子が最近そっけなくてへこんでいるとか、そんな事を言っていましたね」

 何と、二見は同じ職場に恋人がいたらしい。が、正直そんな話は事件に関係ありそうになかった。

「あなたは何を話したんですか?」

「私ですか? うーん……これはちょっと言いにくい事なんですが……」

「秘密は守りますので、どうか」

 新庄の言葉に、小沼は少し考えていたがやがてこう言った。

「いやねぇ、うちの会社のプログラマーの一人が少し前から無断欠勤していて、そのせいで新作ゲームの製作スケジュールに影響が出ているんです。さっきのトラブルもそれ絡みでしてね。家に行っても誰もいないし、連絡できる身寄りもないから困っていて……。まぁ、そんなわけで、その辺の話を二見の奴に愚痴ってたわけなんですがね……」

 思わぬ話だった。

「警察に捜索願は?」

「さっき言ったように家族がいないから一応会社側から出しましたが、なんせ年間数万人が失踪するこのご時世でしょう。見つかるかどうかはわからないというのが警察の答えでした」

「それでその話を飲み会の席で?」

「えぇ、まぁ。さすがに本人の名前は出していませんが、うちで今そんな事があって大変だというような事を」

「それで二見さんは何と?」

「ええっと……」

 と、そこで不意に小沼が何か思い出したような顔をした。

「そう言えば、何かアドバイスをしてくれたような気が……」

「アドバイスですか?」

「そうそう。今まですっかり忘れてたけど……確か『信頼できる探偵が知り合いにいるから、よかったら相談してみたらどうか』とか何とか言っていましたね。何でも二見自身、昔職場で起こった横領事件を解決してもらった事があるとかないとかで」

 その言葉に新庄と榊原の顔に緊張が走る。

「その探偵の名前は?」

「何だったかなぁ……ええっと、確か……『坂井』だったか『榊』だったか……そう言えばあいつからその探偵の名刺か何かをもらった気がするけど……あれ、あの名刺、結局どこにやったんだっけ?」

 ついに探し求めていた証言を掴んだ瞬間だった。

「二見さんはその探偵の名刺をあなたに渡したんですね?」

「そうそう思い出した。確かに二見の奴、その探偵の名刺を私にくれましたね。何だったらその名刺の番号に電話してみろよとか。ぐでんぐでんに酔っぱらいながらではありましたけど」

「ですが、あなたは結局依頼をしていませんね?」

「えぇ。こっちも酔っていたもので、そんな事を話したこと自体今の今まで忘れていました」

「その二見氏からもらったという名刺はどこに?」

「それなんですけど、どこへやったかわからなくて……。確かに居酒屋でもらったところまでは覚えているんですが……そう言えば、その後机の隅に置いたままで、持って帰った記憶がないなぁ……」

 これで全てがつながった。先週の日曜日、二見と小沼は居酒屋で飲む中で小沼の会社で起こっていた無断欠勤しているプログラマーの話題になり、半ば酔っぱらっていた二見が酔いの勢いで榊原の名刺を小沼に譲渡。ところが小沼自身飲む中でその名刺の存在自体をすっかり忘れてしまい、結局居酒屋の机の上に名刺を残したまま帰ってしまったのだろう。そしておそらく、この居酒屋の机の上に置かれた名刺がどのような経緯でか被害者の元へ渡った……そう考えると全てに筋が通るのである。

「ちなみにお聞きしますが、その失踪したプログラマーの名前は?」

「捜索願にも書いたんですがね……木那浅江という大卒三年目の子です」

「女性ですか?」

「えぇ、まぁ。プログラマーとしてはかなり優秀な子でしたよ。だから消えられたのがかなり痛くて……。何より、最近結婚したうちのかみさんと彼女が同い年の同期でね。普段から仲が良かったみたいで、家内が随分心配してるもので」

 どうやらこの男はうらやましい事に若い女性と職場結婚したらしい。ある意味勝ち組だが、今はそんな事を話題にしている場合ではなかった。

「いくつか聞いてもいいですか?」

 と、不意に隣から榊原がそう口を挟んだ。小沼は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに頷きを返した。

「では、早速ですがその木那浅江という女性の出身大学はどこかご存知ですか?」

 いきなりよくわからない事を聞かれて小沼は戸惑ったようだったが、それでもちゃんと答えを返してくれる。

「えっと……日帝大学の映像学部か何かだったと言っていた気がしますが……確か高校までは京都に住んでいて、大学入学を機に上京したとか何とか言っていましたが……」

「ふむ……では、彼女が職場の人間やあなたの奥さん以外で仲良くしていた人に心当たりはありますか?」

「……わかりません。さすがにプライベートの事は聞けませんので。独身なのは間違いないですが……」

 何とも曖昧な話だった。

「彼女が失踪した具体的な日付はわかりますか?」

「えーっと……確か五月十五日の月曜日です。土日明けに出勤してこなくて、連絡を取ってみたりしたんですがつながらなくて、自宅もいなかったので次の日に警察に捜索願を出しました」

「土日明け……という事は、彼女を最後に見たのは五月十二日の金曜日という事ですか?」

「そうなります。うちは土日が休日になっているので」

 つまり、失踪してからすでに二週間が経過しているという事になる。

「優秀だったという事ですが、彼女の性格とか人となりはどうでしたか?」

「どうって……そうですね、社交的で明るい子でしたよ。職場の人間との付き合いもそれなりにできて、それでいて仕事もちゃんとこなす。こちらからは不満はありませんでしたね」

「趣味等は?」

「さぁ……まぁ、こんな業界に勤めているくらいですからゲームが好きだという話はよく聞いていましたし、あとは昔から釣りが好きだというような事は言っていましたね」

「あなたと話をする事は?」

「まぁ、仕事上で話す事はありましたし、さっきも言ったように結婚前の妻は親しかったようですが」

「その会話の中で何か気になる事を彼女が言った事はありませんか? 何でも結構ですが」

「気になる事……うーん……」

 小沼は少し考え込んでいたが、やがてふと思いついたという風にポツリと言った。

「そう言えば……失踪前に、最近偶然昔の友達に会ったとかそういう話をしていたのは覚えています」

「昔の友達、ですか」

「えぇ。久々に意気投合して、また会う約束をしたとか。逆に言うと本当にそれだけの話なんですけど」

「その友達について何か詳しい事は?」

「さぁ……本当に世間話的に、仕事の合間に一言二言で終わった話題ですから」

「そうですか……。いえ、参考になりました」

 そう言ってから、最後に榊原はこんな事を問いかけた。

「ところで、今からでもその探偵に彼女の捜索を依頼しようと考えていますか?」

 そんな榊原の問いに対し、小沼は苦笑気味に答えた。

「そうですね。二見の話だとかなり有能そうだから頼めるものなら頼みたいですが、何しろその探偵の連絡先がわからないのでね……二見の奴にわざわざ聞き直すのもあれだし……」

「なるほど、ね」

 榊原は意味深に頷く。結局、小沼は目の前に座っている刑事と思しき男が、実はその探偵であるという事に最後まで気付く事がなかったようだった……。


 続いて二人は、二人が飲み会をしたという世田谷区内の居酒屋「美鶴」を訪れた。店主は美浜鶴吉という男で、公務員引退後にこの居酒屋を始めたという経歴の男だった。

「先週の日曜日?」

「えぇ、この二人がこの店に来ませんでしたか?」

 そう言って新庄は二見と小沼の二人の写真を見せた。美浜はしばらくそれを見ていたが、やがて思い出したという風に頷いた。

「あぁ、そういえば来ていたね。元々客が多い店でもないし、会社の愚痴とかばかり言っていたから覚えてるよ」

「どんな話をしていましたか?」

「さぁ、そこまでは。こっちも仕込みだの他の客への対応だので忙しかったしね」

 と、そこで榊原が口を挟む。

「他の客がいたんですか?」

「あぁ、いたよ」

「では、この中にその客がいますか?」

 榊原はそう言って何枚かの写真を見せる。その中の一枚で、美浜の目が留まった。

「こいつならいたよ。というか、ここの常連だ。そう言えば最後に来たのはその日曜日だったかな」

 その写真は、まぎれもなく被害者の鶴辺一成のものだった。どうやら、鶴辺はよくこの居酒屋を利用していたらしい。

「間違いありませんか?」

「間違いようがないよ。何度も見ている顔だし、つけだって溜まってるしな。ったく、あの鶴辺のおっちゃん、次来た時はきっちり払ってもらうからな」

 どうやら、彼は鶴辺が殺された事を知らないらしい。

「……その日、この二人が帰った後、机の上に何か忘れ物はありませんでしたか?」

 今度は新庄が再び二見と小沼の写真を見せながら聞く。

「忘れ物? いや、そんなものなかったと思うけど」

「例えば名刺のようなものも?」

「なかったなぁ。あったらどんなものでも一ヶ月くらいは保管しておくけど、そんなものがあった記憶なんかないし」

「では、その日曜日、先にこの店を出たのはこの二人組と鶴辺さんのどちらでしたか?」

 この問いに対する答えは簡単だった。

「それはそっちの二人の方だよ。鶴辺のおっちゃんはそれから十分くらい飲んでから出て行ったね。そう言えば……あの日はいつもより早く出て行ったんだったな。だからこうして覚えていたわけだけど」

「二人が出て行ってから鶴辺さんが出ていくまでの間、あなたは何を?」

「えーっと、二人の会計をした後はずっと厨房に引っ込んで仕込みをしていたな。そしたら十分くらいして鶴辺のおっちゃんが勘定したいって声をかけてきたから、慌ててカウンターに戻った記憶がある」

「つまり、その間、あなたの目は客席に向いていなかった?」

「そうなるね」

 だとするなら、小沼が机に置き忘れた名刺を、同じ店で飲んでいて二人の話を聞いていた被害者がくすねた可能性がある。というより、状況的に考えて被害者が名刺を手に入れる手段はそれしか考えられなかった。

「あの……何かあったのかい? この二人が何か事件に巻き込まれたとか?」

 さすがに美浜が心配そうに聞いてくる。

「いえ、この二人ではありません。ただ……先日、鶴辺一成さんが遺体となって発見されました」

「え……」

「現在、我々はその事件を捜査しています。情報提供、感謝します」

「そんな……鶴辺のおっちゃんが……」

 呆然とする美浜を残し、二人は店を後にしたのだった。


 ……その日の夕方に開かれた捜査会議では、新たに様々な事が判明した。

「まず、問題の名刺に残っていた正体不明の指紋に関してですが、再検査の結果、本日話を聞いた小沼栄介氏の指紋である事が判明しました。すなわち、二見氏が小沼氏に居酒屋で問題の名刺を渡し、酔っていた小沼氏が店内に置き忘れた名刺をたまたま同じ店内にいた被害者が持ち去った事は間違いないと思われますし、これ以外に被害者が名刺を手に入れる手段は存在しないと考えます」

 これでひとまず、榊原の名刺が被害者の鶴辺一成の手に渡ったルートは特定できた。

「問題は、なぜ被害者がそんな事をしたのか、だ」

「探偵の名刺を持ち去っている以上、目的として考えられるのはその探偵……榊原さんに連絡を取る事、という事になります。すなわち、何かを依頼しようとしていたと考えてもいいのではないでしょうか」

「榊原さんに依頼か……一体何を依頼しようとしていたんだ?」

 少なくとも、被害者の周辺を調べた限りでは、榊原に依頼をするような事件なりは全く確認できなかった。つまり、被害者自身に関わる依頼という線は考えにくい。

「ならば、被害者の身内に関する依頼、と考えるしかないのではないでしょうか?」

 新庄はそんな意見を発した。

「どういう意味だ?」

「言うまでもなく、近々結婚しようとしていた娘の三益夕菜関連の依頼です。すでに親子の縁がなくなっているとはいえ被害者は三益夕菜の父親です。ならば、娘の将来のために独断で何かを榊原さんに依頼しようとしていた可能性は充分に考えられます」

「娘絡み……となると、真っ先に思い浮かぶのは、結婚相手の豊洲悦久に関する疑惑だな」

 すなわち、五年前に彼が共同経営者だった原島司を殺害したのではないかという疑惑である。確かに、娘の結婚相手が殺人犯かもしれないという事になれば、すでに縁が切れているとはいえ父親である被害者がその真偽を確かめるために探偵に調査を依頼する事は考えられる話だった。

「現状、原島司の死は表向き事故という事になっており、また殺人と考えた場合でも、第一容疑者である豊洲の事件当夜に大阪にいたというアリバイを崩す事ができていない状況です。ですが、仮にこれが何らかのトリックを使ったアリバイ工作だったとして、さらに豊洲が何らかの手段で被害者が探偵に事件の再調査を依頼しようとしている事を知ったとすれば、それを妨害するために被害者の殺害に踏み切った可能性は否定できません」

「つまり、豊洲社長には充分すぎる動機があるという事か」

 だが、仮に豊洲社長が犯人だとすると、越えなければならない壁がいくつかあった。

「まず、今の推理はあくまで豊洲社長が当時の原島副社長を殺害した犯人である事が前提となっている。だが、何度も言うように豊洲社長が原島副社長を殺害した直接的な証拠は五年経った今でも発見されていない。すなわち、この推理が正しいとするならば、我々はまず五年前の事件が豊洲社長によって引き起こされた事を立証しなければならないという事になる。平たく言えば豊洲社長の大阪にいたというアリバイを崩すという事になるが、果たしてそれが可能なのかという事だ」

 それを聞いて刑事たちの顔が厳しくなった。それができていればとっくに豊洲社長を逮捕しているはずで、かなり難しい条件なのは確実だった。

「二つ目の問題だが、その推理が正しいなら豊洲社長は被害者が探偵に事件の調査を依頼して真相が暴かれるのを恐れて犯行を引き起こしたという事になり、当然豊洲社長は被害者が探偵に依頼しようとしていた痕跡を消そうとするはずだ。だが、どういうわけか榊原さんの名刺は残されたままだった。この名刺から我々はここまで捜査を進める事ができたわけで、名刺がなければ事件の捜査はもっと難航していたのは間違いない。にもかかわらず、犯人は名刺を持ち去る事をしなかった。この矛盾をどう説明するかという点だ」

 その問いにさらに刑事たちの表情が険しくなる。ここで、斎藤は後ろで黙って話を聞いていた榊原に話を振った。

「どうですか、榊原さん。この五年前の原島司の一件について、何か考えはありませんか?」

 それに対する榊原の答えは単純だった。

「一応、考えている事はあります」

 その一言に捜査本部はざわめいた。

「その考えとやらを聞かせて頂く事はできますか?」

 だが、これに対する榊原の答えは慎重だった。

「今はまだ私の推論に過ぎません。もちろんそれなりの根拠があっての事ですが、ちゃんと推理が固まるまではまだこの場で話すべきではないと考えています。それより、他にもまだ共有すべき情報があるはずですが」

 榊原はそう言って、三益夕菜の大学時代の恋人である路上ミュージシャンの江畑邦助を調べていた竹村の方を見つめた。それを受けて、竹村が慌てて立ち上がって報告を行う。

「江畑邦助ですが、三益夕菜に未練がある事は認めたものの、大学の時に振られて以来一度も会った事がないと主張しています。事件当夜は自宅の最寄り駅である大久保駅前の繁華街の一角で弾き語りをしていたが、途中から雨に降られたので演奏を中止し、やむなく駅前のファミレスに入って遅い夕食を取っていたと言っています。これについては複数の証人がおり、一応アリバイは成立していると言ってもいいでしょう」

「三益夕菜と別れた経緯については?」

「江畑曰く、振ったのは三益夕菜の方らしいですが、なぜそうなったのかいまだによくわからないと言っていました。大学時代は三益夕菜と同じサークルに所属。その縁で付き合い始めたと言っていますが、本人曰く、三益夕菜に振られてすぐにサークルを辞めたそうです」

 その言葉と同時に正面のスクリーンに問題の江畑邦助の写真が映る。髪を金髪に染めてどことなくチャラい雰囲気の若者で、正直刑事たちからすればあまり好感を持てない男であった。

「ただ、事件に関係あるかどうかは不明ですが、この男にはいくつか不審な点があります」

「と言うと?」

「調べたところ、江畑は自宅アパート近くにある駐車場を借りている事がわかったのですが、その駐車場に停まっていたのが、おそらく一千万円はするであろう外国車でした。ナンバーを調べたところ、所有者は間違いなく江畑邦助本人となっています」

 思わぬ情報に斎藤は眉をひそめた。

「こう言っては何だが、路上アーティストはそこまで儲からないだろう。一体そんな高級車を買う資金がどこから出てきたんだ?」

「本人は周囲に対して『宝くじが当たった』というような事を言っていたようですが、正直信用できませんね。ただし、路上ミュージシャンとしての活動以外にどこかで働いている気配がないのも事実です。何にせよ、本当にこれだけの大金を人知れず得ていたとするなら脱税の疑いもあるので、この金の出所は少し当たってみる必要性がありそうです」

「……わかった。この件は捜査二課に報告しておく。他には?」

 と、その問いかけに対して立ち上がったのは鑑識だった。

「先日行われた、被害者の自室の鑑識結果が出ましたので、ここでご報告させて頂きます」

 被害者の自宅アパートの鑑識捜査は事件直後に行われていたが、事件現場となった河川敷から押収された証拠品の鑑識捜査が優先された事と、被害者の自室がかなり乱雑に散らかっており、鑑定すべき証拠が多かった事があってやや遅れていた。その鑑定結果がようやく出たのだという。

「えー、室内に残されていた多数の物品について鑑識を行いましたが、今回の犯行の直接的な証拠になりそうなものはこれと言って検出されませんでした。ただ……一つだけ進展が」

「進展?」

「部屋の中から複数の毛髪を検出しました。その大半は被害者や、家賃滞納の催促によく訪れていたアパートの大家のものでしたが……数本だけ、身元不明の第三者の毛髪を検出しました」

 その発言に捜査本部がざわめく。

「つまり、あの部屋に第三者が侵入した形跡があると?」

「侵入、という言い方は正しくないですね。確かに髪は落ちていましたが、その髪が『いつ』落ちたのかはわかりませんから。事件後に落ちたのだとすれば髪の持ち主は犯人の可能性が高いですが……落ちたのが事件前だったとすれば、何らかの訪問者の髪である可能性もあります」

「訪問者とは?」

「それを調べるのはそちらの仕事かと思いますが、そうですね……例えば宅配とか郵便とか、訪問販売なんかでもいい。そういう立場の人間の場合は髪が室内に落ちる可能性もあります。それに、落ちたのが事件前後数日であるとも限らないんです。もしかしたらかなり昔に落ちた髪が今まで残っていた可能性もあります。部屋を見る限り、あまり掃除をしていなかったようですからね」

「髪のDNAに前科は?」

「調べましたが、少なくともデータベースに登録されている中に一致するものはありませんでした。まぁ『男』なのは間違いなさそうですが」

 それと、と鑑識は続ける。

「玄関のタイルから靴跡をいくつか採取しましたが、そのうちの一つが被害者や大家の所持していた靴とは一致しません。これもいつの靴跡なのかはわかりかねますが、一応ご報告まで。あと、部屋からなくなっているものがあるかという点については、所持品が多い上に唯一それを知る被害者が死んでしまっていますので、残念ながら『不明』と言わざるを得ませんでした。数少ない現金や通帳にはそのまま残っていたようですがね。鑑識からは以上です」

 そう言うと鑑識は椅子に腰かけてしまった。確かに新しい情報ではあったが、この情報をどう扱うべきか誰もが困惑している。そもそも今回の現場は自宅ではなく河川敷であり、これらの証拠が本当に事件に関係あるかどうかさえわからないのである。

「わかった。では、本日の捜査に移るとしよう、各々、最善を尽くすように」

 それを合図に、刑事たちが一斉捜査本部を飛び出していく。それを確認すると、斎藤は榊原のいる席に近づいてきた。

「榊原さんはどう思われますか? 何か思いついた事はありますか?」

 斎藤が榊原に尋ねる。それは正直な所、藁にもすがる思いで聞いた事だったが、榊原も難しい顔を浮かべつつ、慎重な口調で答えた。

「考えている事はあるが……正直、決定的とは言い難い。それに、具体的な犯人名を挙げろと言われると、現状では厳しいのが実情だ」

 それを聞いて、斎藤が歯噛みをする。

「榊原さんをもってしても解けませんか」

「私も万能じゃない。ただ、情報がまだ足りていないという感じはするんだが……何とも言えないな。あと一つ、ピースがあれば状況は大きく変わるんだが……」

 榊原が渋い顔でそんな事を言った……その時だった。突然、捜査本部の入口に所轄署の制服警官が飛び込んできた。

「失礼します! 本庁の斎藤警部はおられますか?」

 思わぬ指名に、斎藤は榊原と一瞬顔を見合わせてから返事をする。

「私だが」

「捜査本部に来客です。捜査責任者と話したいと」

「来客?」

「それが……事件について警察に話したい事があると言っています。どうされますか?」

 思わぬ話に斎藤は戸惑う。と、榊原が静かに問いかけた。

「その客の名前は?」

 その問いに対し、警官は『ある名前』を告げる。それを聞いて榊原と斎藤の表情が険しくなった。その名前は、この事件のある『関係者』の名前だったからである。

「斎藤、どうする?」

「……話を聞きましょう。榊原さんも一緒に?」

「もちろんだ」

 そのまま二人は立ち上がり、署の玄関に向かう。そこには確かに、少し不安そうな表情で『ある人物』が立っていた。

「お待たせしました」

 斎藤が声をかけると『その人物』はホッとした表情を浮かべる。

「あぁ、よかった。もしかしたら、来てもらえないかと思っていました」

「事件について話があるとか」

「は、はい」

 そして、その人物は告げた。

「事件に関係するかどうかはわかりませんが、ちょっと思い出した事があって……。やっぱり警察に話した方が良いかと思ったんですが……聞いて頂けますか?」

 その問いに斎藤は一瞬榊原の方を見やったが、斎藤が黙って頷くのを見ると『その人物』に向き直ってこう言った。

「……ここでは何ですから、ひとまず奥へどうぞ。話はそこで聞きます。構いませんか?」

 その言葉に『その人物』は小さく頷き、二人に続いて署の奥へと向かったのだった……。



 ……今から思えば、これがすべての転機だった。



 ……後年、この事件の記録を読んだ瑞穂に対し、榊原は懐かしげに事件の事を思い出しながらこう語ったという。

「結果論ではあるが……この時の『この人物』の証言がすべての決め手だった。ここから捜査が一気に進展し、最終的にすべてを解決する事ができた」

 それに対し、瑞穂は事件の急展開に頭を振り絞りながらも、こんな事を尋ねた。

「えっと、例えば『その人物』が実は犯人で、警察を惑わせるために嘘の証言をしている可能性は考えなかったんですか?」

 その問いに対し、榊原は苦笑しながらこう答えた。

「実の所、それは最初から考えなかった。というのも、私の頭の中ではそれまでの捜査で『その人物』が犯人である可能性は完全に消えていたからだ。ゆえにその証言は充分に信用できると判断し、私はここから一気に推理を構築した」

 そこまで言って、榊原は首をひねる瑞穂に対してこう言ったという。

「『その人物』が何を語ったかについては次のページの資料に書いてある。だが、それを見る前に少し考えてみてはどうかね。実はその証言がなくても、今までの記録を読めば君にも誰が怪しい人間なのかくらいはわかるようになっている。君も私の自称助手を名乗るくらいなら、それを推理してみてはどうだね?」

 そう言われて当惑する瑞穂に対し、榊原はこう付け加えた。

「難しいかね。そうだな……じゃあ、事件を解決するための補足情報をいくつか言っておこう」

 榊原はそう言うと、突然妙な事を言い始めた。

「事件当時の被害者の自宅周辺のゴミの回収日は、月曜日が不燃ゴミ、火曜日と木曜日が可燃ゴミ、水曜日が埋め立てゴミ、金曜日が資源ゴミとなっていた。ただし、埋め立てゴミと資源ゴミは二週間に一回の各週となっている」

「はっ?」

「まぁ、この情報は今までの捜査資料には掲載されていなかったから一応言っておく事にする。それともう一つ。これは補足情報というか助言だが……この段階では『誰が犯人なのかを明確に特定する』のではなく、『今までの情報の中から誰が疑わしいかを考えてみる』事に重点を置いてみなさい。今回はあえて決定的な証拠の一つとなった『ある人物の証言』抜きで推理するよう言っているからね。ひとまずハンデとして、今回は決定的な証拠を提示できなくとも、それができれば推理成功という扱いにしよう」

「そう言われても……」

 ますます困惑する瑞穂に、榊原は試すように告げた。

「さて……私の助力はここまでだ。あとは君の推理に期待するとしよう。頑張ってみたまえ」

 そう言って再びデスク備え付けのパソコンでつい最近解決した事件の資料をまとめ始めた榊原に対し、瑞穂は唸りながら必死に考え始めたのだった……。

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