第一章 事件発生

 その日、綱島信光はランニングウェアに着替えてアパートの自室を出ると、軽く準備運動をして早朝の住宅街に飛び出していった。数日前に会社の健康診断に引っかかり、医者から「運動不足」と身も蓋もない指摘をされてからこうして早朝のジョギングをするようになっている。特に昨日は朝から西日本方面への出張で家を空けていて、その出張先から夜行バスで今朝早く戻って来たばかりだったので、昨日ジョギングをできなかった分の遅れを取り戻そうと密かに決意を固めていたところだった。もっとも、出張先ではお土産として海鮮市場近くの商店街で売っていた名産品のカキをちゃっかり衝動買いしており、腐りやすいから早めに食べなければならないなぁなどとジョギングの成果を全力で無視するような事を思ったりしていた。

 家を出て少し行くと、ちょうど付き合いのある近所のサラリーマンが眠そうな表情で郵便受けから新聞を取り出そうとしているところだった。聞けば、これから朝食を食べてすぐに出勤という事らしい。少し世間話をしたが、互いに時間もないのでそこそこで話を打ち切って綱島は再び走り始める。この界隈は独身向けアパートが多い事もあってか自分と同じような独身サラリーマンが多く、町内会などで彼らと世間話を行う事も少なくない。ただ、話を聞いている限りどこの業界も苦しいらしく、何とも世知辛い世の中だと思う事も少なくなかった。

 さて、しばらくジョギングを続けると、住宅街のすぐ近くを流れる大松川という川の河川敷の堤防に差し掛かった。堤防の上の道路を走りながら何気なく川の方を見やる。綱島はこの光景を見るのをいつも楽しみにしていた。大松川はこんな住宅街の真ん中にある川にもかかわらず水がきれいで、今も穏やかで澄んだ川の流れの中に、何かはわからないが小魚が泳いでいるのが見える。この景色を見られるだけでも、早朝のこの河川敷の堤防を走る意味はあると思っていた。

 朝のおいしい空気の中、燕たちが川の水面のすぐ上を飛び回っているのを見つつ、綱島は堤防の上の道路を走り続けた。だがしばらくして、その視線が不意に少し先の土手の中腹辺りで止まった。

「ん?」

 何かが河川敷の草むらに転がっていた。最初、それはマネキンか何かに見えた。だが、近づいてみるとそれが間違いである事にすぐ気づく事ができた。そしてそれが何かに気付いた瞬間、綱島は思わず顔を青ざめさせることになった。

「まさか……」

 河川敷の土手の草むらに転がっていたもの……それはぐったりとしたまま微動だにせずに仰向けに横たわっている五十歳前後と思しき男の姿だったのである……。


「被害者は鶴辺一成、五十歳。運転免許証で確認しました。詳しい情報は現在捜査中です」

 二〇〇六年五月二十七日土曜日の朝九時頃、警視庁刑事部捜査一課第三係係長の斎藤孝二警部は、隣に立つくたびれたスーツにネクタイを締めた元刑事の私立探偵・榊原恵一に自身が担当する事になった事件の説明をしていた。二人がいるのは世田谷区北部の住宅街の中央を流れる川の河川敷の一角で、うっそうとした茂みの中に一人の男が倒れていて、どこか恨めしそうな視線を虚空に向けている。その周囲を鑑識の面々が真剣な表情で証拠を集め回っており、規制線の外には周囲の住宅の住民たちが野次馬根性を露わにしているのが見える。不安そうな表情を浮かべている者もいれば、不謹慎にも携帯で写真を取っている者もいるなど、その反応は様々だ。もちろん、捜査員たちがさりげなくそんな野次馬の様子にも目を配っている事は榊原も理解していた。

「第一発見者は?」

「近所に住んでいるサラリーマンです。朝のジョギングの最中に土手に何かが転がっているのを見つけて、近づいてみたら男の死体だったという話です。まぁ、何というか刑事ドラマなんかでありがちな死体の発見のされ方ですよ」

 斎藤はそう言いながらチラリと後ろを見やる。榊原もそちらを見ると、三十歳前後と思しきサラリーマンが真っ青な表情で所轄の刑事に身振り手振りで何かを必死に説明しているところだった。

「第一発見者を疑え、というのが捜査の鉄則だが、その点は?」

「もちろん調べましたが、結論から言えば犯人の可能性はゼロですね。被害者とあのさえないサラリーマンの間に接点はありませんし、何より彼にはアリバイがありました。詳しくは解剖待ちですが、死亡推定時刻は発見のおよそ九時間前……昨日の午後十時頃とされています。そして話を聞いた結果、あの網島という男は昨日会社の出張で広島にいて、そこから夜行バスで東京に帰還したのが今朝の朝六時頃だったそうなんです。そこからタクシーで六時半にはこの近くにある自宅アパートに戻り、今日は出張明けの休暇だった事から日課のジョギングをしてからもうひと眠りしようと考えてジョギングを開始。その最中の午前七時頃にこの河川敷で遺体を見つけたという流れになります。この証言が正しいなら死亡推定時刻に彼は広島にいた事になり、物理的に犯行は不可能です。夜行バス会社にも確認をしていますが、彼が広島発の夜行バスに乗っていたのは間違いないかと」

「それならいいんだがね。容疑者が一人減った事を喜ぶべきなんだろうな」

 榊原はそう言って再び視線を死体の方へ向ける。昨日の昼過ぎから夜にかけて降った大雨の影響で死体は濡れており、頭から流れた血も何とも言えない事になっていた。

「この様子では死因は頭部の挫傷か?」

「検視官の話では、後頭部の裂傷が致命傷なのは間違いないそうです。凶器はそれかと思われます」

 斎藤が示した方を見ると、鑑識が遺品などを並べているブルーシートの一角に、一際重そうな黒いレンガが置かれているのが見えた。よく見るとその隅の方に血がこびりついているのがわかる。

「元々この河川敷に転がっていたもののようです。詳しくは鑑定待ちですが、傷口の形状などから見てこれが被害者の命を奪ったと考えて差し支えないかと」

「事故の可能性は? 例えば河川敷を歩いているときに何かのはずみで転んで頭を強打したとか」

「それは考えましたが、問題のレンガは遺体から少し離れた場所に落ちていて、事故と考えるのには無理があります。それに裂傷自体も頭蓋骨が陥没するほどのもので、単に倒れて頭を打っただけではこうはなりません。傷の位置から見ても、何者かがレンガを大きく振りかぶって撲殺したと考えるのが自然です。ただ、元々この場にあったレンガを使ったところから、衝動的犯行の可能性はありますが」

「……所持品を確認しても?」

「どうぞ」

 許可をもらった上で榊原はブルーシートの上に広げられた被害者の所持品を確認する。財布に携帯電話に手帳、安物の腕時計に家の物と思しき鍵、煙草にライター、それにポケットティッシュと、ごくありふれたものがずらりと並んでいた。念のために手袋をして財布の中身を見てみると、現金三万円程度と運転免許証、その他保険証や各種ポイントカードなどが入っているだけだった。

「現金は無事か。物取りの可能性は低そうだな」

 そう言いながら財布をシートの上に置くと、榊原は背後の斎藤の方を振り返った。

「それで、わざわざ私を呼んだわけは? 言っては何だが、このくらいの事件なら私に頼らずとも斎藤の手腕で充分解決できるだろう」

 その問いに対し、斎藤は真剣な表情で答えた。

「それなんですがね。その財布の中からこんなものが見つかりましてね」

 そう言うと、斎藤はビニール袋に入ったあるものを榊原に示した。それは一枚の紙片で、そこにははっきりこう書かれていたのである。

『榊原恵一事務所所長 榊原恵一』

 榊原の表情が険しくなる。斎藤が単刀直入に尋ねてきた。

「心当たりは?」

「……確かに名刺は私のものだ。だが、私は今までにこの男と出会った覚えはない」

 榊原は男の死体の顔を見ながら断言した。

「間違いありませんか?」

「あぁ。そもそも私がこの名刺を渡すのは原則的に依頼人だけで、私は今まで依頼を受けた依頼人の顔はすべて覚えているつもりだ。その上で、この男が私の依頼人になった事は一度もないと断言できる。疑うなら、令状を取って私の事務所の今までの記録を確認してもらっても構わない」

「いえ、榊原さんの事ですからそれは信用していますが……するとこの名刺はどこから出てきたんでしょうね」

 斎藤の当然の問いに、榊原は考えるまでもなくすぐに答えた。

「私が直接渡したものではない。となれば……私が以前この名刺を渡した依頼人の誰かが、間接的にこの男に名刺を渡した、と考えるのが筋だろうな」

「でしょうね。それが誰か予想はつきますか?」

 駄目元で聞いた質問だが、意外にも榊原は小さく頷いた。

「現段階で特定個人に絞る事はさすがに無理だが、ある程度の候補を示す事はできる」

「本当ですか?」

「前提として、私もすべての依頼人に名刺を渡しているわけではない。基本的に渡すのは初対面の依頼人……それも渡す必要性があると判断した人間だけで、警察関係者や顔見知りからの依頼、それにこちらが渡す必要がない、もしくは渡さない方が良いと判断した依頼人についてはわざわざ名刺を渡すような事はしていない。従って、名刺を渡した人間自体がかなり少ないのが現状だ」

 そう言ってから榊原はさらにこんな事を言う。

「さらに言えば、名刺が悪用される可能性を防ぐために私は毎年名刺のデザインを少しずつ変えるようにしている。この名刺のデザインは去年のものだから、おそらく被害者にこの名刺を渡したのは昨年私に何らかの依頼をした人間である事は確かだ。去年この名刺を渡した人間は私の記憶ではせいぜい十人前後だから、その中で今現在名刺を所持していない人間を探せば誰が被害者に私の名刺を渡したのかは特定できる」

「それを調べてもらう事は可能ですか?」

 斎藤の問いに、榊原は頷いた。

「できる事はできる。が、いくら殺人事件の捜査とは言え一応私には探偵として依頼人に対する守秘義務というものがあるのでね。協力する事はやぶさかではないが理由もなく依頼人の名前を警察に明かすわけにもいかないから、形式上裁判所に令状を発行してもらって『警察の要請で個人情報を開示した』という形をとりたい。その上で名刺の所持の有無ついては警察ではなく私の方から依頼人に確認を取り、条件に該当する依頼人の名前のみ開示するという事にする。私にも探偵としての信用というものがあるのでね。それで構わないか?」

「……わかりました。その件についてはすぐに裁判所に令状の請求をします」

 斎藤は榊原の要請を受け入れた。榊原の立場上、依頼人の個人情報の扱いに対して慎重になるのは当然の話であり、それを斎藤も理解したからだ。が、それと同時に斎藤はこんな事も頼んだ。

「その代わりと言っては何ですが、我々警察は今回も榊原さんに対して正式に捜査協力を要請したいと思います。いつも通り非公式のオブザーバーという形にはなりますが、捜査会議への参加も許可しますので、事件解決に協力をお願いできますか?」

「……致し方ないな。私の名刺が事件に関与している以上、無視するわけにもいかないか」

 榊原はそう言うと、目の前に転がる男の死体をじっと見つめたのだった……。

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