エピローグ 教訓
「さて……どうだったかな、瑞穂ちゃん。ちゃんと犯人を当てる事ができたかね?」
……時は戻って現在、「鶴辺事件」のファイルを読み終えた瑞穂は、唖然とした表情で榊原を見上げていた。
「……何というか、ちょっと納得できないんですけど」
「何がだね?」
「だって……冒頭に書かれていた綱島と本当の第一発見者が違うなんて、この資料の内容からじゃ判断なんて……」
「できるだろう。だって、私はその事について正々堂々と書いているんだからね」
「ど、どこにですか!」
「被害者の遺体を調べているところだ。読み返してみなさい」
そう榊原に言われて瑞穂は慌てて資料を読み返す。すると、確かに現場検証を行っていた時の斎藤のセリフの中に、こんなものがあるのがわかった。
『……詳しくは解剖待ちですが、死亡推定時刻は発見のおよそ九時間前……昨日の午後十時頃とされています。そして話を聞いた結果、あの網島(あみしま)という男は昨日会社の出張で広島にいて、そこから夜行バスで東京に帰還したのが今朝の朝六時頃だったそうなんです……』
瑞穂は再び顔を上げて榊原を見やる。榊原はすました表情で告げた。
「確かに似たような漢字だから見分けにくいかもしれないが、ちゃんと読めば書かれている人物が冒頭の第一発見者と思しき『綱島(つなしま)』という人物とは別人である事が理解できたはずだ。それがわかれば『第一発見者』が二人いて、その他諸々の描写(川の情景や天候の様子など)から、それぞれの発見日時が違い、綱島(つなしま)が網島(あみしま)より先に被害者を発見した事を充分に推測できる。警察が認識している第一発見者は網島(あみしま)の方で、彼が見つけた被害者は間違いなく死体であり、その上にこの網島(あみしま)には鉄壁のアリバイがあった。しかし、綱島(つなしま)の方にはそうしたアリバイなどの情報は一切資料中に書かれておらず、それどころかその倒れていた被害者が『死体である』かどうかも明記されていない。これらの事を総合すれば、『生死不明』の被害者を『発見』するという形で被害者と関わっており、なおかつ事件当時のアリバイなどが存在しない綱島(つなしま)が怪しいのではないか推測する事は可能のはずだ」
つまり、瑞穂がこの資料から犯人を特定するには、例の斎藤の発言から、本来『綱島(つなしま)』でなければおかしいはずの第一発見者が警察の認識では『網島(あみしま)』であるという事実に気付けるかにかかっていた事になるのである。
「そんな……普通の人が見たら漢字ミスじゃないかって思うんじゃないですか? よく似ている字なのは間違いないですし……」
瑞穂もかつて、歴史か何かのテストで「徳川綱吉」を「徳川網吉」と書いて悔しい思いをした事を思い出していた。だが、榊原は首を振る。
「残念だがそれはあり得ない。その資料はワープロ打ちしてあるはず。手書きならともかく、『綱』を『網』と誤字するには、わざわざ打ち直す必要が出てくるはずだ。意図的にやらない限り、ワープロ上でこの漢字ミスは絶対に起こらない」
「あー……何か同じような話を、昔、何かの推理漫画で読んだ記憶が……」
確かその漫画では「壁」という字が問題になっていたはずである。ただ今回は膨大な量の文章の中から何の心構えもなしにこの紛らわしい上にたった一ヶ所しかない「漢字の違い」を見つけねばならないわけで、その難易度は控えめに言ってもかなり高く、気付ける人はすぐ気付けるだろうが気付けない人は本当にいつまでも気付けないだろうなと瑞穂は思った。ちなみに榊原の資料はその時々に応じて手書きの物とワープロ打ちのものが混在しているが、これはワープロ打ちの資料である。
「今回は推理しながら読むにはいささか意地悪な資料だったわけだが、別にこれは読む人間を苦しめるために作ったわけではない。事件の捜査というものは本来そういうものでね。正しいかどうかもわからない膨大な情報の中からわずかな違和感を見つけ出し、その少ない情報から論理を構築して犯人を追い詰めなければならない。それがどれだけ大変なものなのかという事は、おそらく今回身をもって思い知ったはずだ。何万字もある文章からたった一文字の違いを見つけ出してそこから推理を構築する……本物の探偵というものは、君が今『納得できない』と言ったこのわずかな差異を的確に見つける事ができる人間だと、私は思っている」
「……そのための教訓ですか? この資料は」
「受け止め方は自由だ。ただ……君が本気で犯罪と向き合いたいと思うのならば……そして本気で私の弟子を名乗りたいというのなら、これは絶対に必要な話だ。よく覚えておく事といい」
話は終わったと言わんばかりに、榊原は再び報告書の作成に取り掛かる。瑞穂はそれを見ながら、改めて感慨深げにこの事件ファイルを見つめ続けていたのだった……。
殺人名刺 奥田光治 @3322233
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