第七章 第三の推理①

  翌日、新聞各社は東都インターナショナルで起こった一大スキャンダルを派手に報じていた。豊洲が逮捕されるのと前後して贈収賄に関与した疑いで真久部則康代議士が事情聴取を受け、衆議院の懲罰委員会が認可し次第そのまま逮捕される公算が強くなった。また、真久部が実際に圧力をかけた農林水産省の職員や選挙の際に金銭を受け取った面々も次々摘発や事情聴取となり、後に『東都インターナショナル事件』と呼ばれる事になった歴史にその名を残すこの汚職事件は相当数の逮捕者を出す事となった。

 一方、これとは別に脱税及びインサイダー取引容疑で捕まった三益夕菜と江畑邦助の事件は、婚約相手だった豊洲社長が逮捕されたのと同じタイミングだった事でマスコミ報道に拍車がかかり、一部週刊誌などは『前代未聞の犯罪カップル』『二股相手も本人も全員犯罪者』などと面白おかしく取り上げる事となった。また、この事件と関連する別件の殺人容疑で逮捕された綱島信光と鵜野州元就にも注目が集まり、複雑に入り組んだこの四つの犯罪は当面の間センセーショナルに報じられる事になったのである。

 社長と副社長が同時に逮捕され、さらに過去の粉飾決算の事実まで暴露される形になった東都インターナショナルは大打撃を受け、数日のうちに株価は暴落。それでも連結子会社を他社へ売却するなどしてしばらくは持ちこたえを見せていたのだがそれも長くは続かず、結局事件から三年後、東都インターナショナルは会社更生法の適用を東京地裁に申請して事実上の経営破綻。最終的に再建を支援した有力な同業他社が東都インターナショナルの株式を半分以上取得した事でその会社の子会社に組み込まれる事となり、それと同時に社名も変更された事で、あれだけ権勢を誇った東都インターナショナルは呆気なく消滅する事になってしまったのである……。


 そして事件解決から一週間程度が経過した六月七日、それとはまったく別の所で、この事件の最後の一幕が始まろうとしていた。

「どうも、小沼さん」

 ゲーム会社『イムソフト』勤務の小沼栄介は、会社から出たところで突然そんな声をかけられて立ち止まっていた。声のした方を振り返ると、そこには先日話を聞きに来たスーツ姿の男……榊原恵一が小さく一礼しながら立っていた。

「あなたは……」

「先日はどうも。あなたの証言で、何とか無事に事件を解決する事ができました。まずはその点についてお礼をさせてください」

「はぁ……」

 小沼はいささか混乱気味に頷いた。が、榊原は気にする事なく話を続ける。

「もちろん、それを言うためだけにこうして待っていたわけではありません。実は事件に絡んであなたにお話ししなければならない事ができましてね。無理を承知で、こうしてあなたをお待ちしていたわけです」

「私に、ですか?」

「えぇ。こうして話しかけておいてなんですが、今、お時間大丈夫ですか?」

「はぁ、別に構いませんが……」

「結構。では、ここで立ち話もなんですので、場所を移しましょうか」

 それから数分後、二人はこの前の喫茶店に再び足を踏み入れていた。互いにコーヒーを頼み、それが運ばれてきたところで小沼が口火を切った。

「それで、話と言うのは?」

 小沼が促すと、どういうわけか榊原は再び頭を下げた。

「その前に、あなたに渡しておくべきものがあります」

「渡すべきもの?」

「えぇ。今回、色々あってあなたの手に渡っていなかったようですので。改めて、私自身からしっかり渡しておく事にしましょう」

 そう言うと、榊原は一枚の紙片を取り出して小沼に差し出した。小沼が確認すると、そこにはこう書かれていた。

『榊原探偵事務所所長 榊原恵一』

 それを見て、小沼は思わず榊原の顔を見やる。

「刑事さんじゃなかったんですか?」

「あの時は訳あって警察の捜査に協力していました。不快に思われたのなら謝ります」

「いや、それはいいんですけど……待ってください、榊原って……」

 そして小沼は目を見開く。

「もしかして、あの時二見に渡された名刺に書いてあった……」

「えぇ、その榊原です。色々ありましたが……ようやくちゃんと挨拶ができました」

 苦笑気味にそう言いながら、目を白黒させている小沼に対し榊原はこう続けた。

「極めてイレギュラーではありますが、あなたは先日、私の前で失踪したプログラマーの行方を私に探ってもらいたいという旨の発言をし、思わぬ形で私がそれを聞く事になりました。で、聞いてしまった以上、探偵としてそれを捨て置く事は私にはできませんのでね。もちろん正式な依頼をされたわけではありませんが……まぁ、今回は依頼ではなくあくまで私自身が興味を持って調べたという形で、関与していた事件が解決した後に、この一件を少し探ってみたのですよ。今日は、その私が勝手に調べた事について、あなたに報告させて頂こうと思いましてね」

「報告って……それはつまり、木那君の行方がわかったという事ですか!」

 小沼は思わず身を乗り出し、榊原はしっかり頷いた。

「そうなりますね。もちろん、あくまで私の独断で勝手に調べた事なので報酬等を頂くつもりはありませんし、聞きたくないというならそれも構いませんが……」

「いや、ぜひ聞かせてください。実の所、恥を忍んでもう一度二見にその探偵さんの連絡先を教えてもらおうと思っていたところだったので、私にとってはとてもありがたい話です。お願いします」

「……わかりました」

 榊原はそう言うと、最後に残ったこの木那浅江失踪事件についての推理を話し始めた。

「まず、木那さん失踪の話をするにあたって、私が今まで調べていた事件について簡単に説明しておきます」

 そう前置きして、榊原はまず、今回の鶴辺一成や東都インターナショナルに関わる一連の事件について……そして、小沼が居酒屋に忘れた榊原の名刺がどのように事件に関わっていたのかについて簡潔に説明した。案の定、説明を聞いた小沼は何とも複雑そうな表情を浮かべていた。

「私が忘れた名刺がそんな事に……」

「一応言っておきますが、これについてはあなたの責任ではありませんよ。忘れた名刺がこんな事になるなど、普通は想定できませんから」

「わかってはいるんですが……あまりいい気分ではありませんね。もちろん名刺をそんな事に使われた探偵さんもいい気分ではないでしょうが」

 小沼の言葉に榊原は少し苦々しい顔をしたが、そこについてはあえてコメントせずに話を先に進めた。

「さて、そんなわけで私はこの名刺が現場に残されていた関係から、世間一般には『鶴辺事件』などと呼ばれている今回の事件の捜査に協力していたわけです。で、その捜査で名刺の経路を追う中であなたの証言に行き当たったわけですが……そこで木那浅江というプログラマーが失踪していると聞く事となりました」

 榊原はそう言いながら唐突に話題を転換する。

「一般的に、人が失踪したという場合、考慮できる可能性は二パターン存在します。すなわち、自分の意志で失踪したケースと、自分の意志に反して失踪したケースです。後者はそれこそ殺人とか、その他だと誘拐、事故、さらには心神喪失などで訳もわからないまま失踪したなどのケースが考えられます。一方、前者の場合だと自発的な家出めいたものの他に、考えたくはありませんが自殺、さらには本人が何らかの犯罪行為を行っていた事による逃亡などのケースが考えられます。では、今回の木那浅江さんのケースはこれらのうちどれに相当するのか? 話を聞いた時には彼女に対する情報が少なく考えられる事に限度がありましたが、その中で推理の取っ掛かりになったのは、木那浅江さんの経歴を聞いた時でした」

「経歴?」

「えぇ。私が彼女の出身大学を聞いた時、あなたは日帝大学の映像学部だと答えました。それを聞いた時、私はもしかしたらと思ったんです」

「あの……意味がわかりませんが……」

 戸惑う小沼に榊原は告げる。

「今回、私が調べていた鶴辺事件の関係者であり、元カレの江畑邦助と一緒になってインサイダー取引を行っていた三益夕菜。その三益夕菜と木那浅江の出身大学が同じな上に、おそらくは同学年だと思われたからです」

「え?」

「三益夕菜の出身大学も日帝大学。これは警察が本人の身元を調べた時点でわかっていました。学部はさすがに経営学部でしたがね。そして年齢ですが、三益夕菜の年齢は二十五歳なのに対し、あなたの話では木那浅江は大卒三年目だったという事ですね。浪人や留年を経験しなかった場合、一般的に大学を卒業するのは二十二歳。そこから三年という事になれば、木那浅江もまた二十五歳という事になります。さらに言えば、インサイダー取引の主犯で三益夕菜の大学時代の元カレだったという江畑邦助は三益夕菜と同じ大学の同学年で、という事は彼もまた日帝大学出身の二十五歳。つまり、三益夕菜、木那浅江、江畑邦助の三人は、学部こそ違えど、全員日帝大学の同学年だった事になるんです」

 思わぬ話に、小沼は息を飲んだ。

「もちろん、同じ大学の同学年だったというだけでは偶然の可能性もあります。日帝大学はかなり規模の大きな大学で、一学年の人数もかなり多いですからね。ただ、偶然と片付けるには気になるのも事実。それに、少なくとも三益夕菜と木那浅江には共通点がありました。あなたの話では木那浅江は釣りが趣味だったという。そして、三益夕菜の方ですが、その自宅アパートには釣り竿があったそうです。だとするなら彼女も釣りが趣味だった可能性がある。となれば……彼女たち二人が、例えば釣り絡みのサークルか何かに所属していた可能性が出てくるんです。そうなれば、三益夕菜と同じサークルだったという江畑邦助も自動的に彼女と顔見知りと言う事になってきます。なので、本格的に調べました。そしたら案の定、この三人は大学時代、同じサークルに所属していた事がわかりました。予想通り、釣りサークルか何かだったらしいですがね」

 そう言うと、榊原は一枚の写真を取り出した。それはサークルOBの一人が持っていた問題の釣りサークルの集合写真で、そこには確かに江畑邦助、三益夕菜、さらには木那浅江の姿も確認できた。

「さて……あなたの話だと、木那浅江は失踪前に『昔の友達と再会した』というような事を話していたそうですね。この昔の友達というのがいつの時代の友人なのかは曖昧ですが、この釣りサークル時代のメンバーも『昔の友達』の範疇に該当するのは事実です。なので、江畑邦助と三益夕菜の逮捕後、私は彼らにこの件について知っている事がないかを尋ねました。その結果……江畑邦助の方がヒットしました」

「まさか、その江畑という男のしでかした犯罪に彼女も加担を?」

 小沼の顔が真っ青になるが、榊原はあっさりと首を振った。

「いえ、本当に偶然出会っただけだったようです。具体的には、彼が路上ライブをしている時にたまたま彼女が通りかかり、少し話をしたんだとか」

「はぁ」

「ただ、その時江畑とした会話の中で、彼女は気になる事を言っていました。江畑と木那浅江が出会ったのは、彼女が失踪する数日前の夜……具体的には五月十日水曜日、江畑がいつもと同じように大久保駅の前で路上ライブをしていた時の話だったそうです。客が少なかったため早めに店じまいをしようとしていたところ急に声をかけられ、それが木那浅江だったんだとか。江畑と彼女はその後十分程度話をし、あなたが証言したように『また会おう』というような事を約束して別れたそうですが、その際彼女は江畑に対し、『この週末に故郷の辺りに釣りに行こうと思っていて、その打ち合わせのためにここで待ち合わせしている相手がいる』と言っていたそうです」

「待ち合わせの相手……」

「その相手が誰なのかについては江畑にもわからないそうですが、彼女が江畑と出会った大久保駅は彼女の自宅の最寄り駅である南千住駅とは逆方向にある駅です。従って彼女がこの駅に来たのは帰宅途中に立ち寄ったとかではなく、明らかにこの何者かとの待ち合わせが目的だったと考えていいでしょう」

「……その江畑という人の言う事を信じられるんですか? 聞いた話だと犯罪者だそうですが」

 小沼が当然とも言える疑問を発するが、榊原はそれに対して頷いた。

「一連の事件を調べてきましたが、江畑と三益夕菜が行っていたインサイダー取引に木那浅江を含めた他の人物が関与していた痕跡は全く確認されておらず、また両者の家宅捜索及び周辺捜査も警察が徹底的に行いましたが、そこでも第三者の痕跡は一切確認されませんでした。彼らが木那浅江の失踪に関与していた可能性は極めて低く、関係がないゆえに彼女の件について嘘をつく意味合いもないと判断できます」

「だったら、怪しいのは……」

「えぇ。他にそれらしい理由が確認できない以上、失踪数日前に彼女が待ち合わせをしていたこの人物……仮にXとしますが、このXこそが彼女の失踪に関与している可能性が高いと考えます。江畑の話では、彼女は週末に趣味の釣りに行く予定だったとの事。おそらく、土日の連休に泊りがけで行くつもりだったのでしょう。そして、その釣りの最中に何かがあった。その結果彼女は帰宅する事ができず、週明けの五月十五日の無断欠勤に繋がってしまった……そう考えれば一連の事象にすべて説明がつきます。その上で、この釣りは彼女単独で行ったというわけではない。彼女が釣りに行く前に『Xとの打ち合わせ』をしている以上、この打ち合わせ相手であるXと一緒に釣りに行った可能性が高いんです。当然、この同行者Xがかなり怪しくなってきます」

 そこまで言うと、榊原は推理を次の段階へ移した。

「ここまで話がわかれば、次に問題になるのは『木那浅江がどこに釣りに行ったのか』という点です。そして、彼女は失踪前に江畑に対し『故郷の辺り』に釣りに行ったと言っています」

「故郷……確か彼女は……」

「えぇ。あなたの話では木那浅江は高校まで京都に住んでいたという事ですね。なので、ここ二週間の間に、京都周辺の海もしくは湖沼、河川等で身元不明の遺体が確認されていないかを片っ端から調べました。その結果……残念ながら、該当する案件が一つ確認されました」

 その言葉に、小沼の顔に緊張が走る。

「今から約一週間前の五月二十二日月曜日、滋賀県の琵琶湖北部にある竹生島近くの湖上に遺体が浮かんでいるのを竹生島に向かっていた観光船が発見。解剖の結果、死亡してから一週間程度は経過しているとの事でしたが、それだけの期間水の中にいた事から遺体は巨人様化しており、外見などもかなり変貌が激しかったため身元が確認できない状況が続いていました」

「きょ、巨人様化?」

 意味の分からない言葉に小沼が戸惑う。

「あぁ、失礼。溺死体……というより水中に投げ込まれた遺体に見られる典型的な所見でしてね。遺体が水中に放り込まれると、一定期間を経たのち体内で腐敗が進行し、それが原因でガスが発生。そのガスが生前の原型が残らないほどに体を膨らませ、遺体に浮力を生じさせて浮かばせる事になります。このガスによって水死体が巨大化する現象を鑑識用語では『巨人様化』と言いましてね。まぁ、その結果遺体が浮いて発見される事も多いんですが……いわゆる『土座衛門』はこの巨人化した水死体の事を指す言葉でもあります。江戸時代の溺死体に似ていた力士が語源らしいですがね」

 かなりおぞましい話を何でもない風に言う榊原に、小沼も少し引きつった表情を浮かべる。

「ただ、この遺体、ちょっと問題がありましてね。……検視の結果、遺体に殺害の痕跡が見つかったようなのです」

「さ、殺害ですか」

「えぇ。直接的な死因は間違いなく溺死だったんですが、腹部に刺し傷がありました。どうやら犯人は、まず被害者の腹部を刺して殺害しようとし、それでも被害者が死ななかったので琵琶湖に投げ込んで溺死させた……という事のようですね。この一件はすでに滋賀県警が殺人容疑で捜査本部を設置しています」

 そう言ってから、榊原は苦笑気味にこう付け加えた。

「皮肉なものですね。一連の事件で鵜野州元就による偽装溺死の真相が暴かれたと思ったら、また同じような溺死事案が出てきてしまったわけですから。しかし、こっちの犯人は鵜野州ほど計画的ではなかったようです。同じ状況にもかかわらず、こちらは最初から殺人である事が確実視されてしまっているわけですからね」

 そう言ってから、榊原は居住まいを正してこう告げた。

「この事案が明らかになった事で、私は木那浅江の失踪の一件について滋賀県警の捜査本部に連絡を取りました。で、改めて滋賀県警が調べたところ……木那浅江の部屋から検出された指紋及びDNAと、遺体の指紋及びDNAが一致。従って、琵琶湖上で発見されたこの身元不明の遺体が、失踪中だった木那浅江のものである事が正式に確定しました。おそらく、近々警察からそちらにも連絡がいくはずです」

「そ……そうですか……彼女が……」

 おそらく、失踪が長期化した時点で小沼も最悪の状況は覚悟していたのだろう。それでも、改めて彼女の死が確定すると、そのショックは言葉にできないもののようだった。しかも、その死因は殺人によるものなのである。

「……探偵さん、彼女を殺した犯人の目星はついているんですか?」

 当然とも言える問いだった。そして、それに対して榊原は小さく頷いた。

「証拠が少ないこの一件ですが、実は滋賀県警の話によると、遺体から唯一、手懸りと思しきものが見つかっていたそうです。それによると、発見時、遺体の手に『あるもの』が握りしめられていたという事なのです」

「あるもの?」

「えぇ。それがどういうわけか……京都市を走る市バスの整理券だったんです」

 小沼の表情に戸惑いが浮かぶ。

「市バスの整理券、ですか?」

「被害者は最初に腹部を刺され、その後琵琶湖に投げ込まれたと思われます。つまり、被害者は即死ではなかったわけです。となれば、この整理券は被害者が最後に握りしめた、ダイイングメッセージともいうべきものではないかというのが警察の見解でした」

「……犯人から整理券を奪ったとでも?」

「いえ。調べた結果、彼女の親類はすでに誰もいない状況ですが、誰もいない実家の建物は京都市内にまだ存在しています。そして京都駅からその実家へ行く場合、市バスを使うのが一番早いんです。おそらく彼女は今回こちらへ来た際、釣りに行く前に一度実家に立ち寄ってから来たんでしょう。そしてその際に取った整理券がたまたまポケットか何かに残っていて、腹部を刺された後に必死になってポケットからその整理券を取り出して握りしめた……そう考えるのが妥当かと思われます」

 いずれにせよ、この市バスの整理券は事件を解決する重要なカギになるはずである。

「それで、その市バスの整理券に該当する人はいたんですか?」

 当然の問いかけに、榊原はすぐに答える。

「被害者が木那浅江だとわかった時点で、滋賀県警の捜査本部は木那浅江の周囲に京都の市バスに関係ある人間がいるかどうかを調べました。その結果、一人該当者がいたんです。名前は譲原克夫ゆずりはらかつお。木那浅江の高校時代の同級生で、数年前まで京都の市バスの運転手をしていた男です。しかも彼は高校時代、被害者の木那浅江と同じ釣り研究同好会に所属していました」

「市バスの元運転手……」

「もっとも、現在は運転手を辞めて、上京して別の仕事をしているようなのですがね。ただし、その職場があったのが、東京都の大久保駅近くなんです」

「大久保駅って……」

 それは、木那浅江が謎の人物Xと待ち合わせをしていたという場所ではないか。正直、限りなく怪しいというのが小沼の感想だった。

「当然、滋賀県警はすぐにこの譲原克夫という男を取り調べました。ご承知かもしれませんが、どれだけ明白なダイイングメッセージがあろうとも、それだけでメッセージの主を犯人と断定する事はできませんのでね。必ず裏付けと証拠が必要なわけです。取り調べの結果、譲原は事件の数日前に大久保駅近くで被害者と待ち合わせし、問題の日時に一緒に琵琶湖に釣りに行く計画を立てていた事までは認めました。何でも彼が市バスの運転手を辞めて東京に来た時に再会し、そこから年二、三回ほど一緒に釣りに行く仲だったんだとか。つまり、江畑が証言した『友人』はこの譲原の事で間違いなかったわけです。正直、県警はこれで決まったかと思ったようですね。ですが、その後彼らは大きな壁にぶつかりました。と言うのも、譲原は結局その釣り旅行には行けなかったと証言した上に、調べた結果、彼には鉄壁のアリバイが存在したからです」

「アリバイ?」

「司法解剖の結果、身元判明前の時点で死亡推定時刻は五月十二日金曜日から五月十三日土曜日までの二日間のいずれかまでに絞り込まれていました。遺体があの状態だったのでここまで絞るのが限界だったようです。ですが、身元が木那浅江さんと判明した事で、五月十二日死亡説は否定されました。彼女は当日夕方まで仕事に出ていた上に、五月十三日当日の朝に新幹線で東京から京都まで移動し、その後先程述べた京都市内ある彼女の実家を一度訪れている事がわかっているからです。これは問題の彼女に実家に、彼女が使用したと思しき当日の新幹線の切符が残されていた事からも明らかで、この切符には彼女本人の指紋も付着していました。また、当日の京都駅の防犯カメラを調べたところ、確かに本人が当日の朝に京都駅の新幹線の改札を出て行った姿が映っていた事が確認されています。従って、彼女の死亡推定時刻は彼女が実家を出て琵琶湖に釣りに出かけて以降……五月十三日に限定されます」

 ですが、と榊原は続けた。

「この五月十三日、譲原には鉄壁のアリバイが存在するのです」

「アリバイ……」

「事件当日の五月十三日、容疑者の譲原克夫は大久保駅近くにある職場に休日出勤をしていたんだそうです。この休日出勤は前日になっていきなり決まった突発的なもので、これにより譲原は前日の十二日に被害者に『一緒に行けなくなった』と連絡し、彼女は『それなら一人で行く』と言ってそれを承諾。結局、譲原自身は釣りには行かなかったというのが証言の内容でした。譲原は十三日の朝九時から午後六時まで勤務。正午から一時間の休憩時間も同僚と一緒に外食に出ていて、帰宅まで一人でいた時間は皆無です。そして帰宅後も、午後七時から他の友人のアパートで麻雀をしていたというアリバイがありました」

「確かなんですか?」

「えぇ。話によれば、同じ職場の高木という友人に誘われて、翌日午前一時頃まで横浜市にある彼のアパートの部屋で麻雀をしていたらしいです。帰宅したのは午前二時頃。翌朝、一応被害者に連絡を取ったらしいですが、この時にはもう電話が通じず、結局それっきりになってしまったというのが譲原の主張です。一緒に飲んだという高木氏も『自分も譲原氏と同じく休日出勤したが、彼が途中で抜けたという事もなかった。それは退勤後に麻雀をしていた時も同じで、勝負自体はやや負け気味ではあったが、普通に麻雀を楽しんでいた』と証言していています。また麻雀に誘われた高木氏の友人である鈴木氏と佐藤氏も、それぞれ『仕事が休みだったので昼は横浜の埠頭で趣味の写生をしていたが、夜になって高木の誘いで麻雀に付き合った。譲原氏とはその時初めて出会ったが、特段変わった様子はなかった』『たまたま道路工事の仕事が休みで、ずっと横浜市の家の中でたまりにたまったゲームを消化していたが、夕方になって麻雀に誘われたので出かけた。譲原とは以前数回、同じような麻雀の席で一緒になったが、その時と何ら変わった様子はなく、普段通りの打ち方で、途中退席した事もなかった』と証言しており、譲原のアリバイを補強しているんです」

 それが本当なら、まさに鉄壁というか完璧なアリバイだった。というか、逆に完璧すぎて怪しく思えてくるほどである。

「……先程話された原島司という人の殺害事件のように、殺害現場を偽装したという可能性はないんですか? 都内であらかじめ用意した琵琶湖の水で木那君を溺死させてから遺体を琵琶湖まで運んだとか……」

 しかし、小沼のこの言葉に榊原は首を振った。

「原島氏の事件と今回の事件では状況が違います。原島氏の場合は頭を殴られて気絶させられていましたが、今回の被害者は腹部を刺されてそれなりの出血をしているんです。この状態の遺体を琵琶湖まで運ぶとなるとかなりの苦労をするのは間違いないでしょうし、何より今回は被害者が現場近くの京都まで当日足を運んだことがはっきりしています。もちろん、被害者が京都に行った後再び何らかの理由で東京までとんぼ返りした可能性は否定できませんが……」

 とはいえ、その可能性は低いと榊原は考えているようだった。

「それに、遺体発見後、滋賀県警の捜査本部は県内の各所轄署に対して、それぞれの管轄する琵琶湖岸の確認を依頼しました。その結果、琵琶湖西岸の高島市の湖岸にある岩肌の辺りに、人血と思しきものが巻き散らかされているのが見つかったんです。事件から遺体発見までの一週間、滋賀県内で雨が降っていなかったのが幸いしました。DNA鑑定の結果、この人血は発見された遺体のDNAと一致し、さらにその岩肌から被害者の毛髪も多数検出。また、発見された血痕は飛沫状に飛び散っており、すなわちあらかじめ採取した血痕をその場でばらまいたとか、その手の偽装工作が行われた可能性は考えられないそうです。つまり、殺害場所が不明瞭だった原島氏の事例とは違い、被害者は確実にこの高島市の湖岸の岩肌で殺害されているという事になります。補足しておくと、仮に被害者を琵琶湖に放り込んだのが問題の高島市の湖岸だとすれば、琵琶湖の水の流れ的に、高島市の沖合にある竹生島の辺りに遺体が浮かぶのも矛盾はないというのが県警の判断です」

 つまり、今回は原島司殺害のように「別の場所で溺死させる」というトリックは使えないのである。

「なら、他に怪しい人間はいなかったんですか? 聞いている限りだと、その譲原という男には表向き動機がないようですし、他に動機がある人間はいなかったんですか?」

 その問いに対し、榊原は少し厳しい表情で答えた。

「……実は調査の結果、被害者に恨みを持っている可能性がある人間が確認されています。彼女、ここ最近ライバル会社からの引き抜き工作を受けていたようなのです」

「えっ!」

 思わぬ話に小沼は耳を疑った。

「『アルコ』という中堅ゲーム会社をご存知ですか?」

「え、えぇ。我が社のライバル会社ですが……」

「その『アルコ』の社員、杜川晴康もりかわはるやすが彼女に接触し、『アルコ』への転職を打診していた事が判明しました。転職を打診する手紙が何通も室内にあり、本人も何度かアプローチを繰り返していた事実が確認されています。まぁ、ライバル会社の彼女を引き抜けば、戦力を補強できると同時にあなたの会社の業績にダメージを与える事ができるという思惑だったんでしょう」

「あの彼女が……」

「もっとも、彼女本人はそんな気は全くなく、むしろしつこく転職を迫っていた杜川にうんざりしていたようです。あまりにしつこかったため、その愚痴を例の釣りの打ち合わせの際に譲原にしていた事もわかっています」

「ならば、その『アルコ』の杜川という人物が彼女の死に関係を?」

 小沼は緊張した様子で尋ねるが、榊原は首を振る。

「いえ、これはあくまで可能性です。断定はできません」

「断定できないって……なら、その男にアリバイはあったんですか?」

「調べた結果、杜川は十三日の日中、近日中に行われる新作発表の打ち合わせのために出勤しており、これは社内の人間複数に目撃されています。一度午後になって新作発表会の会場となる港区のホールへ下見に出かけていますが、その時も部下の芝木朱美子しばきすみこという女性社員と一緒に行動していて、彼女曰く『出てから帰社するまでずっと一緒に行動していて、一人になった時間はトイレくらいしかなかった』と証言しています。しかし、午後六時頃に退勤して以降の動向は不明です。本人は家に帰ってテレビを見ていたと言ってはいますがね」

「そうですか……」

 何とも曖昧な話ではあった。

「それに……実は、被害者自身にも不審な動きがあったようなんです」

「と言うと?」

「遺体の身元が彼女だとわかった事により、警察による彼女の自宅の家宅捜索が行われました。その結果、彼女が興信所に何かを依頼していた痕跡が発見されたのです」

「こ、興信所、ですか?」

 思わぬ単語に小沼は絶句する。

「室内から『敦田興信所』と書かれた封筒がいくつも発見されました。おそらく中身はその興信所から送られて来た報告書だったと思われますが、報告書のそのものは見つかっていません。調べた結果、この敦田興信所は敦田友治あつたともはるという男が個人経営していて、警察が事情を聴いたところ、敦田は彼女からの依頼があった事を認めました」

「い、一体彼女は何を興信所に依頼していたんですか?」

 当然の疑問だったが、榊原は首を振った。

「敦田興信所側は守秘義務を理由に調査結果の公表を拒否していましたが、警察が令状請求した事で昨日になってようやくそれに応じました。ですが……実の所、その報告書を読む前から、私はある『推理』を立てていました」

「推理?」

「えぇ。今までの捜査でわかった事実の中に、あからさまに怪しい部分がありましたのでね。私はそれに従って捜査を進めていたわけですが……この報告書は結果的に、その推理を補完する決定的な証拠となりました」

「一体、その推理とは何なんですか!」

 小沼は真剣な表情で尋ねる。が、榊原はあくまで落ち着いた様子でこう言ったのだった。

「まぁ、そう焦らずに。心配せずとも、これからそれをお話ししますよ。これがこの事件における、私の最後の推理です」

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