第六章 第二の推理

 五月三十一日水曜日、東都インターナショナル本社ビルの社長室。忙しく書類を処理していた豊洲悦久の元に、秘書の三益夕菜が来客の旨を伝えた。

「来客? 聞いていないが」

「それが、社長にとって重要なお話があるとの事で……お引き取り頂きますか?」

 豊洲は少し考えたが、やがて小さく笑って首を振った。

「いや、聞こうじゃないか。その話とやらに興味がある」

 ……それから五分後、豊洲のデスクの前に一人の男が立っていた。くたびれたスーツにネクタイ、そして黒のアタッシュケース。一見くたびれた窓際サラリーマンにしか見えないその風貌……言うまでもなく、私立探偵・榊原恵一その人だった。豊洲は面白そうに、そして豊洲の背後に控える夕菜は不審そうに榊原を見やる。

「悪いが、君の顔に見覚えがなくてね。私も忙しい身だ。まずは名乗ってもらえると助かるのだが」

 豊洲は明らかに一回りは年上の榊原に対して横柄な口調で尋ねた。が、榊原は気にする事もなく小さく頭を下げる。

「失礼。品川で私立探偵を開業している、榊原恵一と言います。以後、お見知りおきを」

「探偵、ね……。で、その探偵君が、この私に何の用かな? 私にとって重要な話という事だが、もしや君をうちの情報屋として雇ってくれという話なのかな? 悪いが、そう言うのはもう間に合っているのでね」

「いえ、そうではなく、あなたに一つ報告しておきたい事がありまして」

「何だね?」

「言うまでもなく、鶴辺一成殺害事件についてです。実は、先日その犯人が逮捕されましてね。まだニュースにはなっていないでしょうから、その事について関係者である豊洲社長に報告をしたいと思ったのですよ」

 その言葉に、背後の夕菜がハッとした表情を浮かべる。が、豊洲は動じることなく不敵に笑った。

「ほぉ……確かにおもしろい。なら、早速聞かせてもらおうか」

「もちろんです」

 それから数十分、榊原は昨日行った推理をこの場でもう一度語り、結果、平成電工営業部社員の綱島信光が逮捕されたという事を告げた。すべてを聞き終えると豊洲は小さな笑みを浮かべ、背後に控える一成の娘……夕菜は何とも複雑そうな表情を浮かべていた。

「つまり、ようやく私の無実が証明された、というわけかね?」

「そういう事になりますね」

「それは朗報だ。身に覚えのない事件の容疑をかけられて何度も警察に来られるのにうんざりしていたところなんだよ。でも、犯人が逮捕された以上、ようやく大手を振って彼女との結婚話を進める事ができる。何にしてもよかったよかった」

「……」

 榊原は黙ってそんな豊洲を見つめていた。一方、豊洲は後ろの夕菜を振り返ると、榊原がいるのを忘れたかのようにこんな事を言う。

「おっと、すまないね。君にとっては、絶縁していたとはいえ父親だった人だ。犯人が無事逮捕された以上、お葬式には顔を出した方が良いかもしれないね」

「いえ……もう私にとっては関係がない人ですから」

「そうもいかんだろう。まぁ、君の気持ちもわかるが、香典くらいは出しておこうじゃないか。一応、世間体というものもあるからね」

「……そうですね」

「あぁ、それと、平成電工との取引を解除する手続きを進めてくれ。理由はどうであれ、殺人鬼のいた企業と取引する気は私にはない」

「承知しました」

 と、そこまで言って豊洲は、目の前にまだ榊原がいる事に気付いたようだ。

「あぁ、君、まだいたのかね。今さらだが、確かに重要な情報だった。ただの探偵の君がどうしてそんな情報を知っていたのかは知らないが、ま、ご苦労だった。君にもお礼はしないとね」

「お礼、ですか?」

「とぼけなくてもいいよ。それが目的でわざわざ私に知らせに来てくれたんだろう? 報酬をあげようと言っているんだ。いくらほしい? 言ってみなさい」

 完全に見下した風にそんな事を言う豊洲に対し、しかし榊原は冷静な表情のまま首を振った。

「そんなものはいりません。私の仕事はまだ終わっていませんから」

「仕事?」

「……これは一般には公表されていない情報ですが、今回の事件の被害者・鶴辺一成さんの遺品の中から、私の名刺が発見されています」

「……何だって?」

 意味がわからず豊洲は戸惑うが、榊原は気にする事なく続ける。

「私がこの事件に関わったのも、元はといえばそれが原因でしてね。言っておきますが、この名刺は私が直接彼に渡したものではありません。彼が私にある事を依頼するために必死の思いで手に入れたものなんです。結局、彼は私に依頼をする前に殺されてしまいましたが、この事件を通じて彼の想いを知ってしまった以上、私も探偵として、このまま終わりにする事はできないんですよ」

「何を言っているんだね?」

 訝しげな豊洲に対し、榊原ははっきりと宣告した。

「逮捕された犯人の証言から、彼が何を私に依頼しようとしていたのかはすでに明らかになっています。彼が私に依頼しようとした内容はただ一つ。『自分の娘・三益夕菜が結婚しようとしている男……豊洲悦久が、五年前に原島司を殺害していないかどうかを明らかにしてほしい』というものです。彼は自分の娘が結婚しようとしている相手が信用に値する人間なのか……自分の娘を幸せにできる人間なのか、それを最後まで案じていたんですよ。例え、自分がその娘に徹底的に嫌われていて、二度と会う事ができなかったとしても、です」

 その言葉に、背後の夕菜は思わず手に持っていたクリップボードを落としていたが、豊洲は一転して不愉快そうな表情を浮かべた。

「ふん、何かと思えば……実の娘の夕菜君から毛嫌いされるだけあって、とことんどうしようもない男だったようだね。で、何かね。よもや君は、本人が死んで何の利益もないにもかかわらず、その依頼とやらを受けたわけなのかね?」

「はい。それが彼の最後の願いですから」

「つくづく物好きな男だね。いや、薄汚れた探偵君にはお似合いと言った方が良いのかな」

「お互いさまでしょう。薄汚れているという意味では、あなたも大差がありません」

 意に介さずそんな事を言う榊原に、さすがに豊洲の眉も吊り上がる。

「言っている意味がわからんのだが」

「……五年前、当時ここの共同経営者兼副社長だった原島司さんが亡くなった事件ですが……結論から言えばあれは事故ではありません。私は殺人の可能性が高いと考えます」

 険悪な空気の中、唐突に対決の口火を切ったのは榊原の方だった。

「おもしろい事を言うね。警察の捜査でも、あれは事故死という事になったはずだが」

「事故死だったものが再検討の結果殺人に覆る事は充分あり得る話です。そして、いざそれがわかれば、警察は威信をかけて再捜査を行うでしょう」

 一呼吸おいて、榊原は本格的に事件へと切り込んでいく。

「五年前、原島司さんは帰宅途中に自宅近くの川に転落し、そのまま溺死したという事になっています。この事件は当初から事故、他殺、自殺のどれもがあり得るとされていて、公式発表では事故の可能性が高いとはなっていましたが、だからと言ってそれ以外の可能性が潰えたわけではありませんでした。重要なのはここです。警察は『事故の可能性が高い』と言っただけで事故だと断定したわけではない。従って公式上、この事件はあくまで『未解決』となっていて、捜査自体は継続中という扱いなんです。まぁ、状況的にさすがに自殺の可能性はないと思いますがね。それでも他殺の可能性は消えていないわけですよ」

「……」

「そして、今回私が調べた結果、この事件を他殺と断定できる一つの証拠が浮かび上がったのです」

「それは?」

「遺体の発見状況です」

 豊洲が眉をひそめる中、榊原はすました表情で推理を語った。

「発見された原島さんの遺体ですが、死因は溺死だったにもかかわらず、頭部に打撲痕が確認されています。もっとも、この打撲痕だけで事故、他殺の判断をするのが難しい事は事実です。公式発表の事故説では、この打撲痕を『被害者が川に転落した際にどこかに頭をぶつけた際の物ではないか』と推測していますが、仮にこれが他殺だとすれば、何者かに頭を殴られて意識をなくしたところを溺死させられたととる事ができます。どちらでも推測が成り立つ以上、本来であればこの情報だけで状況を判断するのは不可能なはずです」

「……しかし、君の言い方ではそうではないようにも聞こえるがね」

 豊洲の言葉に榊原はあっさり頷いた。

「えぇ。今回のケースに関してはそれが可能だと判断します」

「理由は?」

 豊洲の当然の問いに対し、榊原は焦ることなく推理を続けていく。

「仮にこの事件が事故死だとした場合、彼は帰宅途中に足を滑らせるなどして川に転落したと考えるのが自然ですが、その場合、彼が川に落下したと推測できる場所は一ヶ所に限られます。最寄り駅から自宅までの間にあるこの川を渡る橋……それ以外に被害者が問題の川に接近できる場所はありません。なので、これが事故だとするなら、被害者はこの橋の上から何かの拍子に落下したとしか考えられないのです」

 そう言いながら、榊原は問題の橋の写真を示す。

「御覧の通り、この橋は住宅街の真ん中にある小さな橋で、橋の上から川の水面までは三メートルほど。一方、橋の欄干は五十センチ程しかなく、この高さならば渡っている人間が足を滑らせて川に落ちる可能性がないとは言えません。また、橋の下には橋脚を支える土台のコンクリート部分があり、彼が頭をぶつけたとするならここの可能性が非常に高いと思われます。ですが……被害者が本当にここから川に落下したとした場合、遺体の状況に説明のつかない矛盾が発生してしまうのです」

「矛盾?」

「えぇ。それは……発見された遺体が眼鏡をかけていたという事実です」

 それを聞いて豊洲は首をひねった。

「何を言っているのか、全くわからないんだが」

「その前にお聞きしますが、原島司さんは普段から眼鏡をかけていましたね?」

「……あぁ。だが、それがどうしたんだね」

「つまり、これが仮に事故だとした場合、被害者は落下した際も眼鏡をかけていた事になる。ですが……だとするなら妙な話です。なぜならこの状況で被害者が川に落下したとすれば、川に落下した時点で被害者の眼鏡は外れるか、もしくは損傷していなければならないはずだからです」

「は?」

 突然そんな事を言われて豊洲は戸惑いの表情を見せる。が、榊原は止まらない。

「先程、私は詳しく言いませんでしたが、問題の打撲痕は被害者の額付近にあったそうです。という事は、この打撲痕が落下の際についたとした場合、被害者は脳天から真っ逆さまに川に落下し、その過程で橋脚の土台、もしくは川底に額をぶつけた事になります。しかし、そのような落下をした場合、強打した額のすぐ傍にある眼鏡はその衝突の衝撃で弾き飛ばされるか、仮に外れなかったとしても最悪レンズが割れるなどの破損が発生しなければおかしいはずなんです。しかし、実際に発見された被害者の遺体の眼鏡は、特にレンズの損傷などもなく被害者にかけられたままでした。一見すると何でもない光景ですが、今回のように落下して頭をどこかにぶつけたと想定されるケースの場合、被害者が眼鏡をかけたままで発見されるというのは明らかにおかしな状況なのです」

 確かに、そう説明されてみれば、この状況で被害者が眼鏡をかけたまま発見されるというのはいささか不自然な話だった。それは豊洲も認めざるを得ないようだった。

「この眼鏡の矛盾が存在する以上、被害者が橋から真っ逆さまに落下したという事故説は否定されます。落下によって被害者の額に打撲痕がついたとすれば、打撲痕付近にある眼鏡が無傷という事は絶対にあり得ないからです。では、落下によるものではないとすればこの打撲痕はなぜできたのか? 答えは一つしかありません。すなわち、何者かが鈍器で被害者の額を殴りつけて気絶させ、その後眼鏡をかけさせた上で川に突き落としたというケース……すなわち、この一件が殺人だったという場合のみです。もちろん他に外傷がない以上、この突き落としは脳天からなどというものではなく、例えば足の方から落としたとか、あるいはもっと低い場所から川に投げ入れたといったものだったはず。被害者に眼鏡をかけて落としたのは犯人からしてみればおそらく無意識の行動だったはずですが……この事実こそが、事件が他殺だったという事を示す何よりもの証拠になっているのです」

 豊洲はその説明を黙っていたが、少し真剣な顔になって榊原に告げた。

「……なるほど。君の言うように、確かに原島君は事故に見せかけられて殺された。それはいいだろう。だが、君が証明したのはあくまで原島君が誰かに殺害されたというこの一点だけで、その犯人が誰かという事までは証明できない。違うかね?」

「……仰る通りです。ですが、事が殺人となれば、必ずそこには動機が存在するはず。その動機をたどれば、容疑者を狭める事は充分に可能です」

「例えば……私かな?」

 挑むように言う豊洲を榊原は睨む。が、豊洲は素知らぬ風に続ける。

「君に言われるまでもなく、私には原島君を殺害する動機がある。当時共同経営者だった彼が死ねば、会社は私一人のものとなったはずだし、実際そうなっているからね。だが、残念な事に私には事件当時のアリバイがある」

「……そのようですね」

 すでにその事を知っている榊原は頷く。

「原島君が死んだとき、私は鵜野州君と一緒に大阪のレストランで会食をしていた。会食相手は大阪の会社の重役数名で、全員が私のアリバイを証明している。無論、途中でトイレに行ったりして五分程度一人だった時間もあるが……さて、私が犯人というなら、一体私はどうやってこの状況で東京にいる原島君を殺す事ができるというのかな? それとも、推理小説でよくあるように、信用のおける部下辺りに殺害を命じたとか、そんな事を言うつもりかね?」

「……まぁ、確かにあなたならそれができたでしょうね。ただ、私は今回はそれはないと思っていますし、実際に当時の警察の捜査でもそのような人物の痕跡は一切出ていません。この事件はあくまで一人の人間が起こした犯罪です」

「言ったな。なら、ますます知りたいものだ。一体、私はどうやって大阪にいながら原島君を殺害したのか? 聞かせてくれるかね?」

 豊洲の挑発的な問いかけに、榊原は少し黙ると、やがて静かにこう言った。

「……別にアリバイがあっても、被害者を殺害する手段がないとは言えません」

「ほう?」

「考えられる第一の手段は、特定された死亡推定時刻が何らかの工作でずれているというケース。典型例は地面に埋めたり冷暖房の強い部屋に放置したりするなどして腐敗の進行速度を操作する手法でしょう。ですが……今回はこれは当てはまりませんね。原島さんが最後に生きて目撃されたのは事件当夜の午後九時頃。遺体発見は翌日早朝八時。警察の解剖による死亡推定時刻は事件当夜の午後十時から翌日午前一時までの三時間となっています。一方、あなたが大阪で問題の会食をしていたのは事件当夜の午後八時から翌日午前零時までの四時間。仮に死亡推定時刻が何らかの形で操作されていたとしても、あなたに残された時間は遺体が発見される午前八時までのわずか八時間。公共交通機関が動いていないこの時間に東京まで行き原島さんを殺害するとなれば、車で高速を走るとしても大阪から東京まで行くだけで時間ぎりぎり。せいぜい東京に着いて原島さんを殺害した後に遺体を遺棄するので精一杯で、埋めたり温度を調節したりして死亡推定時刻を細工する余裕などありません。ゆえに、死亡推定時刻を操作したという可能性はあり得ない」

「わかってくれて嬉しいよ」

 豊洲は皮肉めいた言葉をかけるが、榊原はなおも止まらない。

「ならば方法二つ目。すなわち、現場そのものが偽装されていた可能性です」

「……どういう事かね?」

「要するに、原島さんが殺害されたのは東京のあの川ではなく、あなたがいた大阪のどこかだった。これなら死亡推定時刻内であっても原島さんの殺害は充分に可能です」

「……君は何を言っているのかね? 原島君は都内の川に転落して死亡した。警察はそう判断しているはずだが」

「えぇ。実際、肺から検出された水の成分やプランクトンは被害者が浮かんでいた川の水と一致しています。原島さんがあの川の水を飲んで死亡した事は確実です」

「ならば……」

「ただし!」

 榊原はそこで声を張り上げた。

「『川の水で死んだ事』と『川で死んだ事』はイコールではありません。別に川そのものでなくとも、その川の水で死ぬことはあるからです」

「どういう事だ?」

「単純な話です。犯人があらかじめ問題の川の水を一定量……例えば一.五リットルペットボトル二~三本程度用意して大阪に持ち込んでおけば、その水を入れた洗面器なりに顔を押し付ける事で原島さんを殺害する事ができるという事です」

 榊原はそのまま一気に自分の推理を畳みかける。

「あなたには確かに午前零時まで大阪のレストランで会食していたというアリバイがありますが、原島さんには午後九時以降のアリバイがありません。ならば、原島さんがその間に大阪に移動していたとしても何の不思議もないわけです。午後九時なら新幹線の終電ギリギリですから、それに乗れば午後十一時から午前零時までには大阪の地に立つ事は不可能ではありません。そして、会食が終了したのが午前零時ですから、午前零時から午前一時までの間に被害者を今言った方法で溺死させれば、死亡推定時刻にも充分に合致します」

「だが、原島君の遺体は東京で見つかったはずだが?」

 静かに問いかける豊洲に、榊原はこう答える。

「殺害さえしてしまえば後は遺体を遺棄するだけでいいのだから、車で高速を不眠不休で走れば何とかギリギリで午前八時までに東京の遺体発見現場に行く事はできるでしょう。ちなみに、遺体を水に浮かべたのは上記トリックを実現する以外にも、死斑の形成を阻害する事で殺害の痕跡を消すため……と言ったところでしょうか」

 と、ここで急に豊洲は愉快そうに手を叩いた。

「素晴らしい! そんなトリックは全く思いつかなかった。君は探偵よりも小説家に向いているのではないかな?」

「……」

「だが、悪いが詰めが甘い。君の推理はただの三文小説に過ぎないよ」

「どういう意味でしょうか?」

「その推理が正しければ、遺体が発見された直後、私は少なくとも大阪にはいないわけだ。東京に遺体を運んだ時間が発見ギリギリである以上、車を乗り捨てて新幹線を使ったとしても私が大阪に戻れるのは午前十時から十一時前後、と言ったところになるはず。だが、遺体が発見されてすぐに原島君が持っていた財布から身元がわかり、そこから大阪のホテルにいた私に連絡が入るまでに一時間もかかっていない。言っておくが、あの時の連絡は携帯ではなくホテルのフロントに直接かけられ、ホテルの電話で受けている。つまり、そのトリックが使われたとしても、私には遺体発見から一時間以内に大阪のホテルに戻る手段がないわけだ」

「……」

「さぁ、どうだね? 最後の最後、詰めが甘かったようだね。そのトリックが使われたとして、私はどうやって遺体発見から一時間以内に大阪のホテルで電話を受ける事ができたのかな? それが証明できない限り、私を糾弾する事はできないぞ」

 榊原は黙り込んだ。重々しい沈黙がその場を支配する。が、やがて榊原は小さく息を吐いてこう言った。

「……仰る通り。このトリックを使った場合、最後に立ちふさがる関門はその一点です。ですから、私はその点について徹底的に考えました。例えば、電話そのものに何か細工でもあったのではないか……そう考えた事もありましたが、これと言った考えは思いつきませんでした。ですので、私が最終的に得た解答は一つです」

「それは?」

 挑むような豊洲の問いに、榊原はあっさり答えた。


「簡単な事です。どれだけ考えてもあなたを一時間で大阪へ戻す手段はない。よって豊洲社長……あなたは原島司殺害の犯人ではありえない。散々言ってきましたが、これが私の結論です」


 その言葉に、その場に何とも気まずい沈黙が支配した。

「……つまり、君は認めるわけか。私が原島君を殺害していないと」

「はい」

「つまり、今まで私に付けてきた言い掛かりは全て君の妄想に過ぎなかった……私は君のそのくだらない妄想に膨大な時間を使ってしまったと、そう言うわけかな?」

 怒りさえ含んだ豊洲の問いに、しかし榊原は……大きく首を振った。

「いいえ」

「何だと?」

「私は自分の推理を撤回するつもりはありません。原島さんはこの方法で殺害された。しかし、豊洲社長にこの犯行を行う事はできない。ならば話は簡単です。『豊洲社長以外にこのトリックを実行してアリバイを得た人間がおり、その人間こそが真犯人』。これが私の論理的な帰結です」

「一体何を……」

「私が今まで示してきたトリックが実際に使用されたとして、原島さん殺害犯を暴くための条件は以下の通りです。一つは、原島さんに強い動機を持っている人間……言い換えれば原島さんに対する利害関係が存在する人物である事。二つ目は、原島さんの死亡推定時刻に一見すると強固なアリバイが存在する事。三つめは、それでいながら遺体発見時刻から少なくとも二時間~三時間の間のアリバイが存在しない事。以上三つです。豊洲社長は三つめの条件が引っ掛かるので犯人ではありません。しかし、豊洲社長と共に行動していた人間の中に、この三つ目の条件が該当する人間が一人存在したはずです」

 その瞬間、豊洲の顔色が初めて変わった。

「ま、まさか……」

「どうやら、ようやく理解できたようですね。事件当夜……あなたと一緒に大阪の会食に参加し、それでいながら連絡が取れたのが遺体発見当日の正午頃だったという人物……」

 榊原はその名を告げた。

「原島さんを殺害した犯人は、当時ここの経理部長で現副社長の鵜野州元就です」


 ……その少し前、警視庁の取り調べ室では、新庄が逮捕された東都インターナショナル副社長・鵜野州元就の取り調べを行っていた。すっかり血の気が引いてガタガタ震えている鵜野州に対し、新庄が努めて淡々とした口調で事実だけを告げていった。

「五年も前の事件ですから調べるのに苦労しましたが、トリックさえわかれば証拠は次々出てきました。実は、発見された被害者・原島司さんの着ていたスーツには正体不明の繊維片が付着していましてね。五年前の時点では何の繊維かわからないままになっていたんですが、今回調べたところ、あなたの乗用車のトランクに敷いてあったマットレスの繊維と一致しました。つまり、被害者はあなたの車のトランクの中で横になっていた事があるという事になります。妙な話ですね。川で溺れ死んだ人間の体になぜあなたの車のトランクの痕跡が残っているんでしょうか?」

「……」

「それともう一つ。トリックの可能性に気付いてあの日の夜の名神及び東名高速の状況を調べたんですが、その結果、岐阜の養老パーキングエリアの辺りの上り線でトラックと一般車数台による玉突き衝突事故があった事がわかりましてね。一般車側の運転手数名が死亡する大事故でしたから警察による現場検証が夜通し行われて写真なんかも撮られていたんですが……正直、藁にもすがる可能性でしたが、賭けて正解でしたよ」

 そう言って新庄はその現場写真の一枚を示す。玉突き事故でひしゃげた車両を写した写真だったが、その車体の脇を通り過ぎる車の一台が明らかに鵜野州の乗用車そのもので、そればかりか鑑識が画像解析してみると、その運転席にはっきりと鵜野州の顔が写っていたのである。

「あなたはあの日、豊洲社長と一緒に大阪にいたはずですよね。なぜこの時間、こんな所で写真に写っているのでしょうか?」

「それは……」

 鵜野州は必死に何か言い訳しようとするができずに終わる。どう考えてもそんな事をする正当な理由が出てこないからだ。

「もちろん、事件の後で掃除はしたのでしょうが、今、鑑識があなたの車を徹底的に調べています。死因が溺死だから血痕はないにしても、被害者の髪の毛だの、あの川の水に含まれていたプランクトンの痕跡だのが出てきたら決定的ですね」

「……」

 と、ここで斎藤が取調室に入って来た。

「あなたの自宅を捜索しました。結果、色々とおもしろい事がわかりましたよ」

「……」

「あなた、税理士時代から自分が顧問を務める色々な会社から横領をしていたようですね。今、自宅から見つかった帳簿を元に捜査二課に計算を頼んでいますがが、東都インターナショナルに入って以降だけでも少なくとも総額数億円以上。税理士時代を含めればさらに膨れ上がるそうです。随分ため込んだものですね」

 それを聞いて鵜野州はガクリと肩を落とした。それを見て、斎藤達は鵜野州が落ちた事を悟った。

「……仕方がなかったんです。ああなった以上、カラクリに気付いたあの男の口をふさぐしか……」

 しばらくして、鵜野州は観念した様子でぼそぼそと自供し始めた。

「……あの頃の東都インターナショナルは豊洲社長と原島副社長の共同経営で、表立った交渉は全て豊洲社長が仕切り、原島副社長は裏方を担当していました。私は豊洲社長からヘッドハンティングを受けた時、この男なら騙しきれると思ったんです。だから完全に予想外でした。……まさか、地味な名ばかり副社長だと思っていた原島副社長の方が経営者としての手腕が上手で、豊洲社長を本人に気付かれないように操りながら実質的に会社を切り盛りしていたなんて。結果、騙すつもりが、こっちが窮地に陥る事になってしまった……」

「横領の事実に原島司さんが気付いたんですね?」

 斎藤の問いに鵜野州は頷く。

「そうです。もし気付いたのが豊洲社長だったらどうにか丸め込む事ができたかもしれませんが、原島副社長は私の言い分を一切聞く事なく、証拠がそろい次第、すべてを警察に告発すると通告してきたんです。私が一生かけても横領した倍の金を返済すると言っても即座に一蹴して、説得の余地は一切ありませんでした。もう……殺すしか……」

 どうやら、原島は経営者としてはかなり有能な人物だったらしい。

「事件の日の事を教えてくれますか?」

「……あの日、私は豊洲社長に同行して大阪に向かいましたが、その際にあるルートから『豊洲社長がこの出張の機会を利用し、原島副社長に黙って独断で大阪のある会社と提携を結ぼうとしている』という情報を原島副社長に流したんです。もちろん、実際にはそんな事実はありませんでしたが、その相手方の企業として暴力団関係のフロント企業の名を挙げておいたものだから、原島副社長は事の真偽を確かめるために密かに大阪入りするだろうと予測を立てました。そして実際、彼は周囲に黙って深夜遅くに大阪入りをしました。原島副社長の動向をさりげなく監視していた私は、彼が大阪入りした後どのホテルに泊まっているかまで知っていました。それは監視がやりやすいように、我々が会合に使用したホテルに近いホテルでした」

 会合終了後、豊洲と別れた鵜野州は密かに原島副社長の部屋を訪れ、そこで隙をついて室内にあった灰皿で原島の額を殴りつけて気絶させ、例のトリックを使って原島を溺死させたのだという。そして、あらかじめ大阪まで運んでおいた車で遺体を東京まで運んで川に突き落とし、朝になると新幹線で大阪まで引き返して何食わぬ顔で正午頃に豊洲からの連絡を受けたという事だった。

「まさか……今になってばれるなんて……」

 そんな言葉を漏らす鵜野州を、刑事たちは険しい表情でじっと見つめていたのだった……。


「……今回、鶴辺一成を殺害したのは綱島信光。五年前に原島司を殺害したのは鵜野州元就。つまり、あなたはどちらの事件においても殺人犯ではなかったわけです。おめでとうございます。あなたの主張通り、無事に無罪が立証されたようですね」

 榊原はそう言って一礼する。だが、そう言われた豊洲の表情はといえば、どういうわけか真っ青になっていた。もちろん、それを見逃す榊原ではない。

「どうしました? ここは素直に喜ぶべきところでしょう」

「あ、いや……それは……」

 口ごもる豊洲に対し、榊原は唐突に何かを思い出したという風にこう続けた。

「あぁ、そういえば、一つ言い忘れていた事がありましたね。今回、警察は殺人容疑で鵜野州元就を逮捕し、その殺害容疑に対する証拠押収のために彼の自宅を家宅捜索したわけです。ですが……その押収物を精査した結果、思わぬものが見つかったそうなのですよ」

「思わぬもの……」

「えぇ」

 一度言葉を切って、榊原は鋭く告げた。

「この会社……すなわち東都インターナショナルの、不正な金の流れを示す書類です」

「っ!」

 それを聞いた瞬間、それまで全く動じた様子を見せなかった豊洲が初めて動揺したように立ち上がった。が、それと対照的に榊原は冷静に相手を見据えながら言葉を紡ぐ。

「かいつまんで話せば、この会社からある政治家に献金という名目で多額の資金が流れていて、政治家側はその金を選挙運動で買収工作などに使用。その見返りに政治家は関係部署に圧力をかけて、この会社のある連結子会社に便宜を図るよう指示。結果、その子会社に対する関係部署からの大量の受注が行われ、結果的に政治家に送った資金以上の莫大な利益をこの会社は得る事ができた……というものです。言うまでもなく……これは刑法上の贈収賄に該当する行為です」

 その瞬間、榊原の豊洲を睨む視線が鋭くなった。

「五年前、あなたと原島さんは共同経営者という扱いでしたが、その実態はどうやら副社長だった原島さんの経営手腕の方が上で、原島さんが表舞台に立つあなたを隠れ蓑にして実際の経営を行うというものだったようですね。世間一般ではあなたが邪魔な共同経営者だった原島さんを殺して会社の経営を独占したと噂されていましたが、真相は逆だった。原島さんが殺されて何より困ったのは、実質的な経営を一手に引き受けていた原島さんを亡くしてしまったあなた自身だったんです。しかし、表立った交渉をほとんどあなたが行っていたため、今更事実を明かして逃げるわけにもいかなかった。そして、あなたは原島さんのいない状況で四苦八苦しながら会社経営を行う事になり……そして、程なく失敗したのでしょう。世間にばれる事こそありませんでしたが、原島さんの死の直後、この会社は経営危機に陥ってしまった。そして、それを挽回するために、あなたは原島さんが決して行おうとしなかった禁断の行為……贈賄に手を染めてしまった」

「違う……違うっ……!」

 豊洲は何かから逃れるように必死に否定する。だが、榊原は止まらない。

「残念ながら、もう否定できないところまでわかっているんですよ。あなたが賄賂を贈った相手は真久部則康代議士。元農林水産省の官僚で、現在でも農林水産省に対して太いパイプを持っている人物です。そして、贈賄の舞台となったのはここの子会社である『東都インターナショナル電工』。数年前、農林水産省が主導して静岡県下田市に設置された『国立水産資源中央研究センター』に納入された各種専門機器・計器類の受注を全面的に請け負った会社です。この受注により東都インターナショナル電工は莫大な利益を上げる事に成功し、その結果親会社であるこの東都インターナショナルの利益にもかなりの影響を与えています。ですが、この受注はあなたから賄賂を受けた真久部代議士が、自身のパイプを活かして農林水産省の担当職員に圧力をかけた結果発生したものだと私は踏んでいます」

「それは……」

「あぁ、言い訳してもらわなくても結構ですよ。この件は関してはすでに東京地検特捜部が動いています。真久部代議士にここ数年不審な資金の動きがあった事はすでに特捜部側も把握していて内偵を進めていたようなのですが、今回の鵜野州の帳簿が発見された事で一気に捜査が進展したようです。どうやら五年前以降も今に至るまで金銭のやり取りは継続して行われていたようですね。実の所、警視庁の捜査本部も特捜部の捜査に全面協力していましてね。間もなく真久部代議士は逮捕されるでしょうし、彼が口を割れば、東都インターナショナルに対する捜査の着手も時間の問題といえるでしょう」

 その言葉に、豊洲は顔面蒼白になる。が、榊原はまだ止まらない。

「それともう一つ。贈収賄の一件を除いたとしても、この会社の経理面では不自然な点があります」

「まだ……何か言い掛かりがあるとでも……」

「言い掛かりではなく純然たる事実です。先述した通り、この会社は五年前に鵜野州元就によって多額の横領が行われていました。その額はわかっているだけでも数億円以上。当然鵜野州も発覚しないよう慎重に横領を続けていましたが、これだけの額が横領されていたとなれば、少なからず当時の会社の業績に影響が発生していたはずです。まぁ、今の反応からするにあなたはその業績悪化を自身の経営失敗よるものだと認識していて鵜野州の横領が原因などとは露も思っていなかったようですが……しかし、それが正しいとするならいささか妙な事になります。この東都インターナショナルは創業以降一貫して急成長を遂げてきた企業という事になっており、すなわち業績悪化などという事態は一度も発生していないはずです。ですが、鵜野州の横領の額を見るにどこかの時期で業績が悪化したのは間違いなさそうですし、第一、本当に業績が順調ならわざわざ危ない橋を渡ってまで贈賄工作に走る必要もありません。それをしたという事は実際に贈賄をして便宜を図ってもらわなければならないほどに経営が追い詰められていたという事でもあります。にもかかわらず、表向きこの会社の収益が悪化した形跡が確認できない。さて……これは一体どういう事でしょうかね?」

「……」

「本来収益に損害を発生させている企業が何らかの手法で表向き発表している収益の値を改竄し、会社の信用低下や株価の下落を防ごうとする……。これを何と呼ぶか、あなたは当然理解しているはずですね」

 榊原はその行為の名称を告げる。

「いわゆる『粉飾決算』……それがあなたの犯したもう一つの罪です。具体的な手口までは現段階ではさすがの私にもわかりかねますが、状況から見て逮捕された鵜野州経理部長や、あるいは会計監査役も共犯でしょうか。いずれにせよ、会社ぐるみの犯行なのは間違いなさそうですね。特に鵜野州にしてみれば横領の事実を誤魔化さねばなりませんから、渡りに船といわんばかりにこの計略に飛びついたはずです。まぁもっとも、実際に帳簿の改竄を行ったと思われる鵜野州が逮捕されたとなれば、全容解明までそう時間はかからないはずですが。あなたにとっても、鵜野州が別件の殺人容疑で逮捕されるというのは想定外のはず。だからこそあなたは、さっき鵜野州が逮捕されたと聞いて絶句したのでしょう」

「……」

 今やすっかり血の気を失った豊洲に榊原は追い打ちをかける。

「散々虚勢を張ってここまできたようですが、あなたには会社経営者として致命的な欠点があります。すなわち、『人を見る目がない』という点です。事実、かつてこの会社で働いていた社員の証言では、原島さんは当初鵜野州をヘッドハンティングする件について『言動が信用できない』と難色を示していたそうですが、それを強引に押し切って彼を雇ったのは他ならぬあなただったそうではありませんか。原島さんも表の交渉事をあなたに一任していたため渋々認めたそうですが、その結果は御覧の通り。鵜野州は横領を行ったばかりか原島さんまで殺害し、この会社に災厄をまき散らしました。これで人を見る目があるとはとても言えませんね」

「黙れっ!」

 ついに豊洲は激高した。

「言わせておけば無礼千万な事ばかり! もういい、話は終わりだ! とっとと出ていけ!」

 だが、榊原は動かない。むしろ、こうなると逆に榊原の思うつぼである。

「そうはいきません。まだ、話は終わっていませんから」

「これ以上何を話すというんだ!」

「言うまでもなく、『あなたに人を見る目がない』という点です」

「き、貴様っ……」

「それを証明する事は実に簡単です。何しろあなたは、今この時においても、その失敗を繰り返し続けているからです」

「……は?」

 思わぬ言葉に豊洲は間抜けな声を出す。が、榊原はそんな豊洲から視線を逸らし、この部屋にいるもう一人の人間に顔を向けた。

「何しろ、こんなに身近にいる人間の本性さえ見抜く事ができていないんですからね。……そうですよね、三益夕菜さん?」

 その瞬間、今まで呆然と話を聞いていた夕菜の顔が大きく歪むのを、榊原は見て取っていたのだった。


「え……」

 いきなりエキストラ的立場から舞台の中央に引きずり出された形の夕菜は、そんな声を出すのが精一杯だった。が、榊原は相手のその心理的な動揺を見逃さず、一気に畳みかけていく。

「あなたの事ですよ。もう、全てわかっているんです」

「何を言って……」

「夕菜さん、あなたは今回豊洲社長と婚約を発表しました。しかし、それはあなたの本心ではない。なぜならあなたは、豊洲社長をこれっぽっちも愛してなどいないからです」

「ちょ、ちょっと待ってください! いきなり何を失礼な事を……」

 必死に反論しようとする夕菜だったが、榊原はさらにこう続けた。

「では逆にお聞きします。あなたは、江畑邦助についてどう思っていますか?」

 突然出てきた思わぬ名前に夕菜は呆気にとられる。

「誰ですって?」

「江畑邦助。知らないとは言わせませんよ。他ならぬあなたの大学時代の恋人……あなたの元カレなんですから」

「そんな……どう思っているって言われても……もう別れて何年も経つから……」

 夕菜はしどろもどろに答えるが、榊原は黙って首を振った。

「いいえ、あなたは彼の事を今でもよく知っているはずです」

「何を根拠にそんな事を!」

「……ずっと不思議に思っていました。江畑は売れない路上ミュージシャンで収入もそんなにないはずなのに、近くの駐車場に契約してあった彼の車はかなりの高級車でした。その資金はどこから出てきたんだろうかと。そう思って調べたら、そのカラクリがはっきりしたんです」

「カラクリって……」

「株ですよ。江畑は路上ミュージシャンとして活動する傍らで、ネット上の株取引でかなりの額を稼いでいたんです。警察が調べたところ、少なくとも一億円前後は稼いでいました」

 夕菜は一瞬押し黙る。が、すぐに作り笑いを浮かべてこう言った。

「それが何なんですか? 確かに株というのは驚きですが、別にそれは違法でも何でも……」

「えぇ、確かに株取引は違法ではありません。問題は、これだけの収入を得ているにもかかわらず周囲には『宝くじで当たった』などと言ってその申告がなされていない……つまり収入に対する脱税の疑いが存在する事。そしてもう一つは、脱税の疑惑を考えなかったとしても、彼がいささか儲け過ぎているという点です」

 榊原はそう言って夕菜を睨む。夕菜は顔を逸らしたが、そこに榊原はさらに言葉をぶつけていく。

「捜査二課が調べた結果、彼の行った株取引には不審な点がありました。確かに、一見すると儲けも損も出ているように見えますが、明らかに損の被害が少なく、逆に儲けは一回の取引でかなりの額を出している。そして、これが最大のポイントなのですが、彼がそれらの儲けを出している銘柄の大半が、東都インターナショナル及びその傘下企業、または東都インターナショナルと何らかの取引があった企業ばかりなんです。もちろんその都度対象銘柄を変えて発覚しにくくはしていましたが……ここまでくるともう偶然とは考えにくいのも事実です」

 そして榊原は告げる。

「話はもう明らかでしょう。江畑邦助は明らかに東都インターナショナル及びその系列企業が今後どう動くかという情報をあらかじめ得た上で株取引を行っています。そうでなければこのような異常な株取引は行えないはずです。これはすなわち、企業の極秘情報を得た上で確実に値上がりする株を狙い撃ちして売買し不正な儲けを得る……いわゆる『インサイダー取引』と呼ばれる代物と見てまず間違いないでしょう」

 その言葉に、夕菜や豊洲の顔色が変わった。が、榊原は止まらない。

「では、東都インターナショナルの関係者でも何でもなく、それどころか接触した形跡すらない江畑がどのようにして東都インターナショナルのインサイダー情報を入手する事ができたのか? 不正アクセスによる情報漏洩なども考えられますが、もっと確実な手段が彼にはありました。すなわち、当の東都インターナショナルの社長秘書でありかつ婚約者でもある元カノの存在……グループトップの傍で公私を共にするその人物なら、社員でもわからないような系列グループ全般に関わるインサイダー情報を入手する事は簡単なはずです」

 榊原は夕菜を見据えながら告発する。

「三益夕菜さん。江畑邦助にこの会社のインサイダー情報を流したのはあなたですね?」

 夕菜はその告発に対して、唇を噛み締めながら沈黙を選択した。一方、豊洲は先程の怒りを忘れたのか、呆然とした表情で自身の部下であり婚約者でもある女性を見つめている。やがて、夕菜は振り絞るように榊原に反論した。

「ど……どうして私がわざわざ元カレの江畑君にインサイダー情報を渡さなくちゃいけないんですか? そんな何の意味もない事を……」

「そう、普通に考えればあり得ない話です。誰もがうらやむ大企業の社長秘書となり、さらにはその社長と婚約までして成功街道を進んでいるあなたがかつての元カレのために人生を捨てるような事はできないはずだからです。しかし、状況的にインサイダー情報を流せるのはあなただけ。ならば、前提が間違っていると考えるしかありません」

「前提?」

「えぇ。すなわち……そもそも、あなたと江畑邦助は別れていなかった。別れたふりをしていただけで、実際は両者が手を組んだ状態で一方が大企業に入ってインサイダー情報を探り、もう一方がその情報を元にインサイダー取引を仕掛ける……最初からそんな関係だったのではないですか?」

「違いますっ!」

 夕菜は叫んだ。が、その表情はかなり切羽詰まっており、正直なところ全く説得力がなかった。

「しかし、そう考えると全ての辻褄が合うのも事実です。今回の婚約も、あなたにとっては単により多くのインサイダー情報を入手するための手段に過ぎなかった。婚約者ともなれば、豊洲社長の自宅にある極秘情報にもアクセスできますからね。私の予想ですが、おそらくしばらくしてこれ以上得る情報がなくなった時点で適当な理由をつけて婚約を解消し、そのまま退職して行方をくらますつもりだったのではないですか? インサイダー取引で得た金と退職金を合わせれば、当面働かずとも二人で生活できるだけの資金はあったはずですからね」

「だから、違うって……」

「残念ながらもうそれは通りませんよ」

 夕菜の必死の反論を榊原は遮った。

「報告が遅れましたが、つい先ほど、警視庁捜査二課が脱税及び金融商品取引法違反容疑で自称路上ミュージシャン・江畑邦助を逮捕しました。脱税に関してはすでに国税庁も動いている様子ですね。さすがに押収された携帯やパソコンにあなたの痕跡は残っていませんでしたが、そうなればインサイダー情報は直接会って伝えていたはず。今、彼の住んでいたアパートに鑑識が入っています。そこからあなたの指紋や毛髪が発見されれば、『大学以来会っていない』というあなた自身の証言も合わさって、あなたが江畑と共謀していた何よりもの証拠になるはずです。おそらく証拠がそろい次第、捜査二課はあなたの逮捕に動くでしょう。もう、逃げ場はないんですよ」

「……」

 すでに夕菜の表情は真っ青を通り過ぎて真っ白になっていた。が、彼女はなおも諦め悪く呻くように言う。

「あなたは……あなたは私の味方じゃなかったんですか……」

「どういう意味でしょう?」

「そもそも、あなたは亡き父の意志を汲んで豊洲社長の事を調べていたはず。父は私が豊洲社長と結婚すると知って、彼が私の結婚相手としてふさわしいかを確認するためにあなたに依頼しようとした。すべては私の幸せのためです。なのに、あなたは父の想いを踏みにじって私の幸せを奪うつもりなんですか!」

 だが、この血を吐くような訴えを、榊原はあっさりと否定した。

「誤解なきように言っておきますが、私は一度受けた依頼はどんな事があろうと徹底的に調べ尽し、真相を明らかにします。ただし、その真相がハッピーエンドになるとは限りません。もしかしたら、真相を暴いた事で依頼人にとって不本意な結果になってしまうかもしれない。それらの業を全て背負う覚悟で、私は探偵を続けているんです。いずれにせよ、私は真相究明において、相手が誰であろうと手を抜く事は絶対にしません。それが、私の探偵としての信念だからです。依頼人の期待に沿えなかったのは残念に思いますが、目の前に犯罪者がいる以上、それが誰であれ、見逃す事はできないんですよ!」

「っ!」

「そもそも今までその父親を軽蔑し、赤の他人のように振る舞ってきたあなたに『父の想い』などといわれても全く説得力がありません。というより、本当に『父の想い』をあなたが感じているなら、それこそ『父の想い』を踏みにじるようなこんな犯罪に手を染めるはずがないと思いますがね」

 厳しい言葉で糾弾する榊原に圧倒され、夕菜はもはや何も言えなくなってしまったようだった。そして、榊原は改めて豊洲に告げる。

「そういうわけです。あなたは鵜野州元就の本性に気付く事もできませんでしたが、さらに今回、インサイダー情報の不正入手のために近づいてきた彼女の本性にも気付く事ができませんでした。さて、世間の人々はこれを聞いて、あなたを有能な経営者と認めるでしょうか? あなたを『人を見る目がある』と称賛するでしょうか?」

「……」

 豊洲は答えない。豪華な椅子に座って憔悴しきったまま両手で頭を抱えるその姿は、もはや豊洲が長年磨き続けてきたメッキが剥がれ落ちた事を示していた。

 と、ちょうどその時社長室のドアがノックされ、返事を待たずに何人ものスーツの男たちが入って来た。そのうち二人がそれぞれ豊洲と夕菜の前に出て令状を突き付ける。

「警視庁刑事部捜査二課の草原です。三益夕菜! 江畑邦助が行ったインサイダー取引事案について、金融商品取引法違反の共犯容疑で逮捕状が出ている。取り調べの結果、江畑もお前が事件に関与していることを自供した。同行してもらおうか」

「東京地検特捜部の者です。豊洲悦久社長、あなたに真久部則康議員に対する贈収賄容疑、及び五年前の粉飾決算疑惑に対する逮捕状と、その捜査に関連する東都インターナショナル本社への家宅捜索令状が発行されました。ご同行頂けますね?」

 一転して被疑者となった二人が虚ろな目を令状に向ける中、榊原はやってきた捜査員たちに無言で頭を下げ、後の処置を任せるとそのまま静かに部屋を出て行ったのだった……。

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