第五章 第一の推理

 五月三十日火曜日、『その人物』……否、『犯人』は窓から差し込む朝日で目を覚ました。ゆっくりと起き上がって外を見やると雲一つない青空であり、まさにすがすがしい朝と言い切ってもよかった。

 しかしそれに反して、『その人物』の心は暗く沈んでいた。その原因が数日前に自身が犯してしまった悪行……一人の男をこの手で殺してしまったという事に起因する事は明白だった。自分なりの事情があった犯行のはずだった。だが、自身の人生を賭けて行った事にもかかわらず、『その人物』……否、『犯人』の心が晴れる事はなく、その精神状態は最悪と言ってもいいものであった。

 だが、その事を誰かほかの人間に相談するわけにもいかず、それどころか顔に出す事さえできない。表向きは何でもない風に装いながら、これからずっと……それこそ一生、誰にも知られる事なくこの苦しみに耐えなければならないのだ。それを考えると、『犯人』は自身が犯罪というものを……犯罪者になるという事を舐めていた事を痛感せざるを得なかった。確かにあの殺人をした事で自身の身は守られた。だが、その反動と言わんばかりに襲い掛かる精神的負担は『犯人』の予想を大きく超えていた。こんな精神状態がずっと続けば、そのうち体を壊して死んでしまう可能性さえある。推理小説の犯人たちは些細な事で簡単に殺人を犯したりするがとんでもない話だ。現実の犯罪はそんなに甘いものではない事を、『犯人』は身をもって思い知っていた。

 こんなはずではなかった……そう思いながらもやってしまった事を今さらなかった事にはできず、この先の事を思うと『犯人』としては絶望せざるを得ないところを、何とか「他に方法はなかった」と自分を無理やり納得させながら前進するしかなかった。

 そんな事を思いながら、『犯人』は朝食を食べて出かける準備をする。表向きは今までと変わらぬ日常を送り続けるために。そして、自宅を出て前の道路に足を踏み出した……その時だった。

「どうも、おはようございます」

 『犯人』に対していきなりそんな声がかけられ、ハッとした犯人がそちらを振り向くと、自宅を出てすぐの場所にくたびれたスーツにネクタイというサラリーマン風の姿の男……私立探偵・榊原恵一が一見穏やかにも見える表情で立っていた。だが、その穏やかにも見える表情の目が鋭くなっているのを『犯人』は見過ごさなかった。見ると背後にもう一人誰かいるようだが、その人物が誰なのか、光の加減で『犯人』にはよくわからない。

 一方、榊原はそんな『犯人』の様子に構う事なく、マイペースに会話を進めていく。

「改めて自己紹介を。品川で探偵事務所を経営している、榊原恵一といいます。以後、お見知りおきを」

 その言葉を聞いた瞬間、『犯人』の口元が微妙に引きつった。そして、それを見過ごす榊原ではなかった。

「おや、私の名前をご存知ですか?」

 『犯人』は咄嗟に否定しようとするが、言葉が出てこない。

「まぁ、知っているのも当然でしょう。何しろ、あなたはそれが原因で一人の人間を殺害する事になってしまったのですからね」

 それは、榊原から『犯人』への宣戦布告だった。この時点で『犯人』の榊原に対する警戒度は一気に最高度に跳ね上がる。が、榊原は容赦する様子は全くないようだった。

「回りくどい前置きはなしにして、率直にいきましょう。数日前、大松川河川敷で一人の男性の遺体が発見されました。被害者は鶴辺一成。私は今、警察の要請でこの事件の捜査に協力しています。そして、集まった証拠を元に推理を進めた結果、この事件の犯人があなただと結論付けた次第です。今日はその事をあなたにお伝えし、同時にあなたを追い詰めるためにこうしてここにやってきた次第です」

 そう前置きしてから、榊原は最初に犯人の名前をはっきりと告げた。



「そうですね? 今回、大松川河川敷で鶴辺一成を殺害した真犯人の……綱島信光!」



 その言葉を『犯人』……否、綱島信光は黙って聞いていた。そんな中、榊原は後ろに控えていたある人物を示しながらさらに言葉を続ける。

「あなたが犯人である事は、ここにいる彼の勇気ある証言ではっきりしました。そう……あなたの近所に住んでいて、あなたが鶴辺を殺害した『翌日』の五月二十七日にジョギング中に遺体を発見した……第一発見者の、『網島辰政』さんの証言でね!」


 その言葉に『第一発見者』の近所に住むサラリーマン……否、網島辰政あみしまたつまさは、榊原の後ろから決然とした表情で目の前にいる綱島信光つなしまのぶみつを睨みつけていたのだった……。



 榊原の告発に対して、綱島は何も言わない。ただ、黙って無表情に榊原の言葉を聞いている。榊原はそれを確認しながらも、この殺人犯・綱島信光に対する追及を続行した。

「あなたの事はすでに調べてあります。現在の勤務先は平成電工東京本社営業部で、役職は第一営業課長。この平成電工という会社は、豊洲悦久社長率いる東都インターナショナルと大口の取引がありますね。三年前にこの取引を締結させた平成電工側の営業部員があなたで、あなたはその功績から出世を勝ち取り、現在の第一営業課長の地位まで上り詰めています。現在もこの東都インターナショナルとの取引はすべてあなたが仕切っていて、近々更なる出世も確約されているそうじゃないですか。言い換えれば、あなたの出世の根源は、全てこの東都インターナショナルとの取引成功にあるわけです」

「……」

「これを逆に言えば、この東都インターナショナルとの取引が御破算になると、あなたの社内での立場かなくなるという事でもあります。十中八九出世にも響くでしょうし信用問題にもなる。社内での人間関係や他社との取引にも影響が出るかもしれませんね。まぁ、普通に考えてよほどの事がない限りはそんな事は起りえないのですが……ただ、取引相手である豊洲社長には一つ大きな懸念事項があった。言うまでもなく、五年前の原島司副社長の変死に豊洲社長が関わっているのではないかという疑惑です。もちろん、豊洲社長にアリバイがある事は警察も認めており、あくまで疑惑に過ぎないので一つの懸念事項に過ぎなかったわけですが、仮にこの疑惑が真実だったとすれば、あなたにとって事態は最悪なものになってしまう。社長が殺人ともなれば東都インターナショナルは大打撃を受けるでしょうし、最悪倒産の可能性さえある。そうなれば取引どころの話ではなくなりますから、東都インターナショナルとの取引で出世を果たしたあなたにも間接的な打撃が発生してしまうという事になります。つまり、他社の人間ではありますが、あなたにも豊洲社長が五年前の事件の犯人だったという疑惑が真実であっては困る事情が存在したわけです。当然……その疑惑を調査しようとする動きがあれば、あなたは東都インターナショナルではなく自身の立場を守るために、その動きを潰そうとしたでしょうね」

「……」

「そして、その疑惑を今になってほじくり返そうという動きがある事をあなたは知ってしまった。それはすなわち、今回の被害者である鶴辺一成が、娘の三益夕菜が豊洲社長と結婚するという事を知って、疑惑のある豊洲社長に対する身辺調査をどこぞの探偵に依頼しようとしていたという事実です。鶴辺はすでに娘との縁は切れていたが、それでも自身の娘が殺人者かもしれない男と結婚する事は、娘を心配する親として絶対に認められなかった。しかし、すでに述べたように娘との縁は切れているので表立って反対するわけにもいかないし、娘に連絡して忠告する事さえできない。だから鶴辺は、たまたま手に入れた探偵の名刺を使って、五年前の一件の調査を探偵に依頼しようとしていた。……そして、あなたはその事実を知ってしまい、自身のためにこの鶴辺という余計な事をしようとしていた男を排除する必要に迫られたのでしょう。どんな手を使っても、ね」

 榊原は綱島を見据えながら告発を続ける。

「さて、実際の事件についての流れですが、あなたは事件前日……すなわち『五月二十五日』に『和歌山』へ出張していますね。帰京は経費の関係から和歌山市から出る夜行バスを利用する事となり、その夜行バスが新宿駅前に到着したのが翌『五月二十六日』の午前六時頃。そこからここへ帰ったとなれば、この近くにあるあなたのアパートに着いたのが朝の六時半過ぎ頃という事になるでしょうか」

 綱島は反論しない。榊原は無視して推理を続ける。

「事件が起こったのは五月二十六日午後十時頃。あなたが和歌山から帰京した当日の夜です。正直、あなたが出張から帰宅した午前六時半から殺害時刻の午後十時までの十五時間半の間に何があったのか、詳しい事まで理解できているとは言えません。確かなのは、この時間内にあなたは被害者である鶴辺一成と出会い、そしてどんな会話があったのか、鶴辺が豊洲社長が犯人なのかもしれない五年前の事件の調査を探偵に依頼しようとしている事を聞いてしまったという事実です。あなたにとって、そんな事を許すわけにはいかなかった。さっきも言ったように、豊洲社長の悪事がばれて東都インターナショナルが破滅する事は、すなわちあなたの破滅にもつながってしまうからです。だからあなたは鶴辺を消す事を決意し、あの日の夜、現場の河川敷で鶴辺を殴り殺した。違いますか?」

 そこまで言われて、綱島は初めて反応らしい反応を見せた。

「……さっきから、仰っている意味がわかりかねますね」

「認める気はない、と?」

「当然でしょう。何の話をしているのかさっぱりです。大体、何で私がそんな疑いを……」

「だから言ったでしょう。すべては彼の勇気ある証言のおかげですよ」

 そう言うと、榊原は背後に緊張した様子で控えているサラリーマン……網島辰政を示した。

「彼は『五月二十六日』の午前七時半時頃に家を出て広島に出張に向かい、広島からは夜行バスに乗って翌『五月二十七日』の午前六時半頃に自宅に帰宅。その後ジョギングに出かけ、鶴辺の遺体を発見しています。つまり、遺体の第一発見者というわけですが……問題は、彼が出張に出発した『五月二十六日』の七時半頃、最寄り駅まで歩いている途中であなたを目撃していたという事実です」

「っ!」

 そこで綱島の表情が初めてピクリと引きつった。そこで榊原は一気に畳みかける。

「まず、前提条件として、あなたと網島さんは顔見知りですよね。網島さんが言うに、出勤時間がほぼ同じ上に住んでいる場所も近い事もあってよく挨拶していたそうじゃないですか。実際、事件当日の朝も彼の自宅前で挨拶を交わしたようですし」

 反論はない。綱島自身、網島と日頃から挨拶を交わすくらいの関係だった事は否定しきれないのだろう。

「つまり、網島さんがあなたを見間違える可能性はないわけです。その上で……彼の話によれば、『五月二十六日』の午前七時から八時の間に、出張のために最寄り駅に向かっていた網島さんは、河川敷の辺りであなたが誰かと一緒に歩いているのを目撃したと言っています。その相手というのが……殺された鶴辺一成だったと、彼は主張しているんですよ」

 ……先日、捜査本部を訪れたのは第一発見者の網島辰政だった。彼は少しためらった後、事件当日の朝に出張に行く途中で河川敷の辺りで近所に住む綱島信光というサラリーマンを目撃した事、そしてその時綱島が別の誰かと一緒に歩いていて、それが自身が遺体で見つけた男と似ているような気がすると証言したのだった。その証言を受けて斎藤と榊原は改めて被害者の生前の写真を確認してもらい、網島は綱島が一緒に歩いていたのが被害者だった事を明言。それを受けて初めて綱島信光という男が捜査線上に浮上し、彼を調べた結果、被害者に対する間接的な動機がある事が発覚したのだった。

 だが、それでも綱島はひるまない。

「別に殺害の瞬間を目撃したというわけでもないんですよね。だったら、その証言は私が犯人だという証拠にはならないはずですが」

「事件当日の朝、被害者と一緒にいた事は認めるんですか?」

「さぁ、どうでしょうね」

「曖昧な答えですね。一応言っておきますが、否定しておいて後で彼の目撃証言が事実だという事がわかれば『なぜその事実を隠すような発言をしたのか』という事が問題となり、否定した行為自体が、あなたが事件に関与している事を示す決定的な証拠になってしまいます。あなたがどれだけ否定しようが、目撃証言が本当だったのかどうかを証明する事は警察の捜査力をもってすれば簡単な事です。それでもあなたはこの事実を否定しますか?」

 そう聞かれて綱島は少し言葉に詰まりはしたが、すぐに体勢を立て直してこう切り返す。

「仮に……仮に目撃が正しかったとしても、それは事件より十五時間以上前の話のはず。事件とは何の関係もないのではないですか?」

「話をそらさないでください。まったく同じ事を聞きますが、事件の日の朝、被害者と一緒にいた事は認めるんですね?」

 榊原は全くぶれる様子がない。ここに至って、ついに綱島は事実を認めた。

「……いいでしょう、確かに、あの日の朝、私はジョギング中にその被害者の男と出会っています。ですが、それだけです。さっきも言ったように、朝に被害者と少し話をしたからと言って、その後彼が殺された事については無関係です」

「なぜ今までそれを隠すような事を? というより、なぜ事件当日の朝に被害者と話をした事を警察に言わなかったんですか?」

「面倒ごとに巻き込まれたくなかったんですよ。そもそも事件よりもかなり前に被害者と出会っていた事なんか事件に関係あるとは思わなかったし、実際こうしてあらぬ疑いをかけられている事を考えると、その判断は正しかったと思っています。まさか、その程度で私を捕まえる事はできないはずですよね」

 綱島はそう言って榊原の追及から逃れようとする。だが、榊原はそれ以上に冷静に推理を進めていく。

「結構。あなたは事件の朝、ジョギング中に被害者と遭遇し、そこで会話をした。それは事実として認めるという事ですね」

「ここまで言われたら認めざるを得ないでしょう」

 綱島は苦々しげに吐き捨てる。が、榊原の追及は終わらない。

「では、その時どのような会話をしたのですか?」

「はい?」

「会話ですよ。何か話をしたのでしょう。そもそも、どうしてあなたと被害者が話すような状況になったのですか? 以前からよく話す仲だったとも思えませんが」

「それは……」

 綱島が一瞬詰まる。が、すぐに体勢を立て直してこう言った。

「……酔っぱらって道端に座り込んでいたのを助けただけですよ。確かに付き合いはありませんでしたが、町内会の会合に出た時に顔を見た事はあったので」

「被害者は酔っぱらっていたと?」

「えぇ、酔いつぶれていました。放っておくわけにもいかないでしょう。だから助け起こしたんです。そこの彼が見たというのはその瞬間でしょう」

 綱島はスラスラと言い訳を続ける。が、榊原は容赦なかった。

「……その後は?」

「その後?」

「あなたは道端で酔いつぶれていた被害者を助けた。そこまではいいでしょう。で、助けた後どうしたんですか?」

「どうしたって、そのまま見送って私はジョギングの続きを……」

「さっきまで酔いつぶれていた人間を、起こしただけでそのまま放置したと?」

「……助け起こしただけでも充分だと思いますが」

 綱島は榊原を睨む。が、榊原は全く動じない。

「まぁ、いいでしょう。では、そのジョギングの時に履いていた靴はありますか?」

「は?」

「網島さんの話ではランニングウェアにシューズ姿だったという事ですが、それを持っているかと聞いているんです」

 綱島は押し黙った。

「……なぜですか?」

「事件後、警察は被害者の自宅アパートを徹底的に捜索しました。その結果、室内から被害者のものとは違う毛髪、さらにドア周辺のタイルからこれまた被害者の所持品とは別の靴跡が見つかったそうです。元より人付き合いがほとんどなかった被害者の部屋です。これらの証拠から、警察はいつかは不明ではあるものの、事件前後に被害者の部屋に第三者が入った事があると考えています」

「……」

「試しに、発見された毛髪とあなたのDNAを比較してみましょうか? それが一致したら、被害者とはほとんど面識がなかったと言っていたあなたが被害者の部屋に行った事があるという何よりもの証拠になります」

 それに対して綱島は何かを反論しようとしたが、榊原がそれを封じるようにさらに付け加える。

「あぁ、実はかなり前に行った事があるとか、そういう言い訳はなしにしましょう。言ったでしょう、毛髪の他に靴跡も見つかったと。私の考えが正しければ、その靴跡とあなたがジョギングのために履いていたランニングシューズの靴跡が一致するはずです。それが証明されれば、あなたは被害者の部屋を訪れた時にジョギング姿だった事になる。普通に考えたら不自然な状況です」

「……」

「それに、あなたがジョギングを始めたのは、先日の健康診断で運動不足を指摘されたからだそうですね。あなたがそう言っていたとあなたの部下の方々が証言してくれましたよ。だとするなら、あなたが被害者の部屋に入ったのはあなたがジョギングを始めて以降……すなわち、つい最近の話という事になります」

 榊原の視線が綱島を貫いた。

「さて……鑑識による鑑定結果が出るまで否定しますか? まぁ、否定しておいて結果が私の推測通りだったとするなら、あなたの立場は一気に苦しくなってしまうわけですが」

 しばし両者の間に沈黙が漂い、榊原の後ろで網島が不安そうな顔を浮かべる。が、ここで綱島は初めて小さく歯ぎしりしながら答えた。

「……わかりましたよ。あの日、私は酔いつぶれていたあの男を助けた後、そのまま彼の部屋を訪れました。それも認めますよ」

 まるで、少しずつ外堀を埋められていく感覚だった。ちまちまと論理的に攻められ、一歩一歩、しかし確実に認めたくない事を認めざるを得ない状況に追い込まれていく……。綱島は目の前にいる男が不気味に思えてきた。

「なぜ被害者の部屋へ?」

「それこそさっきあなたが言った通りですよ。放っておくのもあれだと思ったので、酔いつぶれていた彼を自宅まで送り届けたんです。ただ、それだけです」

「では、再び定番の質問をするとしましょうか。『なぜその事実を隠したんですか?』」

 しれっとした顔で聞かれて、だんだん綱島もいらついてきたようだった。

「だからっ! さっきも言ったように、疑われるのが嫌だったんですよ! 事件前に被害者の部屋に行っていたなんてばれたら、どう考えても疑われるでしょうし……」

 と、そこまで言って、綱島は引きつったような笑みを浮かべて反撃を試みた。

「それに、被害者の部屋に証拠が残っていた……それこそが私が犯人ではない証拠になるはずではないですか?」

「どういう意味ですか?」

「私が犯人だったら、そんなあからさまな証拠など残さないという事です! 犯人なら、自分がその場にいた痕跡を消そうとするはずではないですか。それが残っていたという事は、私は自分の痕跡が残る事を許容した事になる。それをした時点で、私は犯人では……」

「えぇ、そうでしょうね。少なくともあの部屋を訪れたその時点まで、あなたは被害者を殺害するつもりなどこれっぽっちもなかったはずです」

 不意に榊原は先手を打つようにそんな事を言った。

「……意味がわからないんですが」

「最初に言ったでしょう。あなたが被害者を殺害しようとした動機は、被害者が豊洲社長の疑惑の調査を私に依頼しようとした事をあなたが知ってしまった事に端を発していると私は考えています。では、あなたはいつその情報を知ったのか?」

「いつって……」

「それはおそらく、あなたが酔いつぶれていた被害者を助けて部屋に送ったまさにその瞬間だったと考えます。と言うよりそれしかあり得ません。彼が私の名刺を手に入れてから事件が発生するまで一週間ほどしかなく、その間に事件当日を除いてあなたと被害者が接触した痕跡は一切確認できていないからです。おそらく、被害者としては酔いの勢いでつい口が滑ってしまったといった感じだったんでしょう。ですが、被害者にとってそれは致命的な事だった。何しろ、喋った相手が豊洲社長の真実を追求されては困る人間であり、それゆえにその人物が被害者に対する殺意を抱くきっかけになってしまったんですから」

「……」

「あなたが被害者に対する殺意を抱いたのは、酔いつぶれていた被害者を自宅アパートまで送り届けたまさにその瞬間だった。だからこそ、あなたは被害者のアパートに不用心にも自身の痕跡を残し、またそれを消し去る事もできなかったんです。何しろ訪れた時点ではあなたに殺人願望などこれっぽっちも存在せず、いざ殺意が芽生えても、部屋のどこに自身の痕跡を残したかなど覚えていなかったはずですからね。こう考えれば、あなたがあの部屋に大量の痕跡を残した理由にも説明がつくというものです。まぁ、あなたにとっては大きなミスでしたね」

 綱島は答えない。唇を噛み締めて榊原の言葉を聞いている。

「しかし、あなたはその場で被害者を殺害するわけにはいかなかった。さっきも言ったように殺意を抱いた時点では指紋などの自分の痕跡があの部屋のどこに残されているかわからなくなっており、それら痕跡を全て完璧に消去できる自信がなかった事から、部屋の中で殺せばそれらの痕跡から確実に自分が犯人だとばれてしまう事がわかりきっていたからです。だからあなたはいったん被害者の自宅を辞去し、時間をかけてしっかり計画を練った上で、夜間に無差別の通り魔に見せかけて被害者を殺害する事にした。その辺りは、殺意を抱いた瞬間に衝動的に犯行を起こし、大量の証拠を残して自滅する犯人と比べるとかなり慎重で計画的ですね。とはいえ、いつ相手が私に依頼をするかわからない以上、犯行はできるだけ早くする必要があった。少なくとも、次の日まで持ち越すなどあなたの中では考えられない話だったはずです。こう考えれば、あなたが被害者に接触してから犯行までかかった十五時間という時間差が、かなり絶妙なものに見えてくるはずです。この時間差はすなわち、あなたが被害者に接触して殺意を抱き、そこから殺害計画を練って適した時間に犯行を実行するまでの経過を示していたというわけですね」

「証拠は?」

 綱島は短く、しかしそれでいながら挑むような声色で尋ねた。

「今のは全てあなたの勝手な妄想に過ぎません。確かに私は事件当日に被害者を助けてアパートまで送りました。しかし、あなたが証明したのはそこまで。それ以降の話は証拠も何もない妄言に過ぎないはずです。私が殺したというなら……その証拠を示してくださいよ!」

 綱島の挑戦に対し、しかし榊原は恐ろしく冷静な口調で応じた。

「現場に残されていた遺留品ですがね……足りないものが一つあったんですよ」

「は?」

「事件当日、昼過ぎから夜にかけて現場周辺では雨が降っています。被害者がこの雨の降っている間に殺害されたのは間違いありません。死亡推定時刻が一致している上に、発見された遺体は濡れていました。これは雨が降っている際に殺害され、その後遺体が雨ざらしになっていたという何よりもの証拠です。しかし……そうなると被害者の遺留品に必ずなくてはならないにもかかわらず、どういうわけか現場から見つからなかったものが浮き彫りになります。言うまでもなく……それは被害者の傘です」

 それを聞いて、綱島の顔がこれまでにない緊張感に包まれた。それを確認して、榊原はさらに推理を進めていく。

「事件当時雨が降っていた以上、被害者が傘を差して河川敷を歩いていたのは間違いありません。雨合羽の可能性もないとは言いませんが、特に必然性がないにもかかわらずわざわざそんなものを着る理由がわかりませんし、さらに遺体からは雨合羽を脱がしたような痕跡は確認できませんでした。普通に傘を差していたと考えるのが自然でしょう。しかし、現場からは被害者の傘は見つかっていません。財布など金目の物は手つかずであったにもかかわらずです」

「風か何かで川の方に飛んでいったのではないですか?」

 綱島がささやかな反撃を試みるが、榊原は動じない。

「その可能性がないとは言いませんが……仮にこれが、犯人が意図的に持ち去ったと考えればどうでしょうか。金目の物を持ち去る事をしなかった犯人が、なぜ被害者の傘を持ち帰る必要性があったのか。どう考えてもこの行為が最初から計画にあったとは思えない。つまり、この傘の紛失は犯人にとってイレギュラーな事であり、この事実こそが犯人を追い詰めるための必殺の道具になる可能性を秘めているのです」

「意味がわかりませんね」

 綱島は口を歪めて告げる。

「まぁ、お聞きください。さて、被害者が傘を差していた……これが正しいとするなら、少し妙な事があります。というのも、解剖記録によれば、被害者は後頭部を殴られた事により死亡しているからです。外傷はこの一ヶ所のみで、他に傷跡等は確認されていません」

「それが?」

「おかしいじゃないですか。事件当時、現場は雨が降っていて被害者は傘を差していた。その状況で、背後から被害者の後頭部を一撃で即死させる事ができるほどの勢いで殴りつける事ができると思いますか? どう考えても、差している傘が邪魔になるはずです」

 そう、通常の状況であれば、被害者を殴り殺す事は容易である。だが、相手が傘を差していたとなれば話は別だ。傘を差している相手の後頭部を殴ろうとすれば、どうやっても傘が邪魔になってしまうのである。

「……犯人に襲われた被害者が傘を放り出して逃げて、そこを殴られたんじゃないんですか?」

 綱島が反論したが、榊原は間髪入れずに否定した。

「あり得ません。もしそうならば、被害者は殺されまいと必死に抵抗をするはず。しかし、遺体には防御創など抵抗した痕跡は一切確認できず、外傷は致命傷となった後頭部の裂傷一つだけでした。これは被害者が気付いていない状態で後ろから不意打ち的に殴られたと考えなければ説明がつかない状況です。そもそも、相手が逃げている状態で後頭部を殴りつけるというのは思った以上に至難の業です。普通は被害者が殴られる直前に振り返って犯人と相対し、その状況で避けようとして前面もしくは側頭部を殴られる、もしくは手でかばおうとして腕を殴られるなどするはずですから。後頭部を殴るというのは、重い凶器を持った上で逃げる被害者以上の速度で追いつき、相手が振り返るよりも早く頭部に凶器を叩きこまなければできない事なんです。おまけに当日は雨。路面が濡れていて走りにくく、条件はいつも以上に悪いと言わざるを得ません」

「だったら、雨が降っている時に殺されたっていう前提が間違っているんじゃないですか? ほら、小説とかドラマだとよく死亡推定時刻の偽造とかやっていますし、例えば私が彼の部屋を出てから雨が降り出すまでの間に殺されたとか……」

「警察の鑑識技術を甘く見ない事です。そう簡単に死亡推定時刻は誤魔化せませんし、できたとしても誤魔化そうとした場合必ずそれなりの痕跡が残ります。今回の遺体にそうした痕跡は一切確認されませんでした。死亡推定時刻に間違いはありません」

「なら、何だっていうんですか!」

 綱島はついに苛立ったように叫んだ。

「考えられる可能性は一つ。被害者が殺害された瞬間、その手には傘がなかったんです。例えば何かの拍子に傘を落としたとかですね。それならば後頭部がむき出しになります。事件当時、被害者は酒に酔っていた事が胃の内容物から確認されています。千鳥足でよろめいた拍子に傘を落とし、拾おうとしたところを後ろから襲われて殴られたとすれば説明がつくんです」

「風で飛ばされた可能性は……」

 なおも見苦しくその可能性を主張するが、榊原は首を振った。

「それなら被害者は反射的にでもその傘を追いかけ、それを拾ったはず。どちらにせよ状況は普通に拾った時と変わりありません。ただし、傘が強風で遠くに飛ばされた可能性はないと思われます。気象庁に問い合わせてあの日の都内の風速を確認しました。事件当夜、現場周辺は確かに大変な土砂降りにはなっていましたが、傘が飛ばされるほどの強風は吹いていなかったとの事です」

「そこまで……調べたんですか」

「当然でしょう。あなたはどうか知りませんが、私だってこの事件の解決に全てを賭けているんです。やれる事はすべてやるし、調べられる事は徹底的に調べますよ。探偵としてね」

 榊原の目から鋭いものが発せられ、綱島はその視線に少しひるんだ。

「さて……犯人は地面に落ちた傘を拾おうとした被害者の背後に忍び寄り、凶器で後頭部を強打して被害者を即死させた。すると当然被害者は、そのまま前に突っ伏すように倒れる事になります。ですが、そこには被害者が拾おうとしていた傘がありました。被害者の体はそこに覆いかぶさり……おそらく、傘は潰れてしまったのでしょう」

「それが……何か……。そんなもの……現場に残しておいたらいい話で……」

「そう。ですが、犯人は傘を持ち去っている。つまり、傘に何か致命的な証拠があった事になります。ですが、この犯行形態で犯人が何か致命的な証拠を傘に残すとは思えない。残したとなれば……傘に直接覆いかぶさっていた被害者の方です」

 そして榊原は告げる。

「解剖記録の結果ですがね……何度も言うように被害者の致命傷は後頭部の裂傷だったわけですが、厳密に言えば『即死であるかどうかは判然としない』と記録は結論付けています。つまり、被害者は殴られた後で少し生きていた可能性があるわけです。もっとも、それでも一分以内には確実に息を引き取ったであろうとの事ですが、これを逆に言えば、被害者にはおおよそ一分間、死ぬまでの時間が存在したという事です。となれば、被害者はその一分の間に何をするでしょうか」

「何って……」

「ベタな話ですが……ダイイングメッセージを残すのではないでしょうか」

 そう言った瞬間、明らかに綱島の表情が変わった。

「この場合、手っ取り早いのは自分の頭から流れる血で、犯人の名前を書き残す事です。事件前に被害者と会っていた事はあなたも認めています。それはすなわち、被害者側もあなたの事を知っていた事になる。つまり、犯行後にチラリとでもあなたの姿を見る事ができれば、被害者は最後の気力を振り絞ってあなたの名前を書き残そうとするはずです。ですが、当時はあいにくの雨。地面に血文字を書こうとしてもすぐに流れてしまって話になりません。殴られて今にも意識が飛びそうな彼がダイイングメッセージを残すとすればその場所はただ一つ……自分が覆いかぶさってひしゃげている傘だけなんですよ」

「……」

「つまり、現場からなくなった傘に、被害者のダイイングメッセージが残されている可能性があります。それ以外に犯人が傘を持ち去る可能性はあり得ません」

 榊原は綱島にとどめを刺しにかかった。

「おそらく、あなたが気付いたのは遺体を河川敷に移すために持ち上げ、潰れた傘をその目で確認した時でしょう。一度書かれてしまった血文字を消す事は不可能です。雨で血を流したとしても、ルミノール反応が出れば一発ですから。こんな傘を現場に残しておくわけにもいかず、あなたはやむなく傘を持ち帰るしかなかった。当然、血にまみれてひしゃげたこんな傘を簡単に処分できるわけがない。どこかに捨てようにも、万が一誰かに発見されて問題のメッセージが見つかってしまえばそこで終わりです。かといって、どこに警察の目が光っているかもしれないこの状況下で安易にゴミに出すのも勇気がいる。というより、傘は通常ゴミで出す事はできませんから処分自体に苦慮するはずです。物が傘だから燃やして処分する事もできません。まぁ、燃やせばメッセージを消す事くらいはできるかもしれませんが、それでも被害者の指紋や血痕付きの傘の骨は残ってしまい、これだけでも充分な証拠になるでしょう。大体、傘を燃やそうとしているところを万が一にでも目撃されてしまったらそれこそ言い訳がききませんしね」

 榊原は厳しい声で宣告した。

「私の推理が正しければ、このメッセージ付きの傘は今も犯人が処分できないまま所持している可能性が高い。仮に警察の目を気にせずゴミに捨てようとしたとしても、区に問い合わせた結果、この一帯において、傘が属する埋め立てゴミの回収日は水曜日かつ二週間に一度となっていました。となれば、事件からまだ四日しか経っておらず、水曜日を迎えていない現状ではゴミに出す事すらできていないはずです。それに運が良ければ、犯行時に使用した血痕付きのレインコートや軍手なども一緒に残っている可能性があります。こっちは傘と違って燃えるゴミですが、事件後初めての燃えるごみの回収日は火曜日の今日です。もちろん、自分で処分した可能性もないとは言えませんが、まだ処分できていない方に賭けてみる可能性は充分あると考えます。私の言いたい事はもうわかりますね?」

「……」

「あなたの家、家宅捜索させてもらいましょうか。それで今まで言ったような証拠が出てきたら、それでこの事件は完全に解決します」

 もはや、綱島は何も反論できず。唇を噛んで榊原を見つめているだけだった。

「ついでに言えば、あなたは犯行時にもう一つ大きなミスをしています。被害者の財布の中にあった私の名刺を持ち去らなかった事です。その結果、警察は名刺の経路から被害者が豊洲社長の身元調査をしていた可能性に行きついてしまった。それがわからなければ、この事件の解決は、大きく後退していたはずです」

「……」

「まぁ、無理もないですがね。私の考えでは、被害者はおそらく、探偵に豊洲社長の調査を依頼しようとしている事は話したのでしょうが、その探偵の名刺を持っている事までは言わなかったのでしょうからね。だからこそ、あなたは被害者が探偵の名刺を持っている可能性に気付く事ができなかった。当然ですよね。営業マンのあなたからすれば名刺というものは相手と初めて会った時に交換するもので、まだ会った事もない人間の名刺を持っているというのは想定の範囲外だったはずですから」

 榊原は最後まで静かに、綱島を追い詰めにかかった。

「さて……そんなわけですが、まだ抵抗しますか? 抵抗するというなら……やむを得ません、あなたの気がすむまでお付き合いします。ですが……あなたがどれだけ抵抗しようとも、私はあなたを絶対に追い詰めるだけの覚悟を持っていますがね。あなたに、その覚悟がありますか?」

 綱島は答えない。そんな綱島に、榊原は鋭く告げた。

「さぁ……どうしますか!」

 その瞬間、この勝負に事実上の決着がついた事を、綱島は身をもって実感する事になったのだった……。




 ……榊原に追及されながら、綱島信光はあの日の事を思い返していた。


 『五月二十六日金曜日』、綱島はランニングウェアに着替えてアパートの自室を出ると、軽く準備運動をして早朝の住宅街に飛び出していった。数日前に会社の健康診断に引っかかり、医者から「運動不足」と身も蓋もない指摘をされてからこうして早朝のジョギングをするようになっている。特に昨日(『五月二十五日木曜日』)は朝から『和歌山』への出張で家を空けていて、その出張先から夜行バスで今朝早く戻って来たばかりだったので、昨日ジョギングをできなかった分の遅れを取り戻そうと密かに決意を固めていたところだった。もっとも、出張先ではお土産として『海鮮市場近くの商店街(魚屋などとは一言も言っていない)』で売っていた『名産品の柿(『牡蠣』ではない)』をちゃっかり衝動買いしており、腐りやすいから早めに食べなければならないなぁなどとジョギングの成果を全力で無視するような事を思ったりしていた。

 家を出て少し行くと、ちょうど付き合いのある近所のサラリーマン……『網島辰政』が眠そうな表情で郵便受けから新聞を取り出そうとしているところだった。聞けば、これから朝食を食べてすぐに『広島へ出張するために出勤』という事らしい。少し世間話をしたが、互いに時間もないのでそこそこで話を打ち切って綱島は再び走り始める。この界隈は独身向けアパートが多い事もあってか自分と同じような独身サラリーマンが多く、町内会などで彼らと世間話を行う事も少なくない。ただ、話を聞いている限りどこの業界も苦しいらしく、何とも世知辛い世の中だと思う事も少なくなかった。

 しばらくジョギングを続けると、住宅街のすぐ近くを流れる大松川という川の河川敷の堤防に差し掛かった。堤防の上の道路を走りながら何気なく川の方を見やる。綱島はこの光景を見るのをいつも楽しみにしていた。大松川はこんな住宅街の真ん中にある川にもかかわらず水がきれいで、今も『穏やかで澄んだ川の流れ』の中に、何かはわからないが小魚が泳いでいるのが見える。これは『最近雨が降っておらず』、上流から泥などが流れていないからこそ見られる景色であった。この景色を見られるだけでも、早朝のこの河川敷の堤防を走る意味はあると思っていた。

 もっとも朝のおいしい空気の中、『燕たちが川の水面のすぐ上を飛び回っている』のが見える。燕が低空を飛行するのは『近いうちに雨が降る予兆』であり(雨が降る前に湿気が増える事で羽根が重くなった虫が低空を飛行するようになり、その虫を狙って燕も低空飛行するという科学的な理由が一応あるらしい)、実際に天気予報も今日の昼辺りから大雨が降るという予報になっている。そんな事を思いつつ、綱島は堤防の上の道路を走り続けた。だがしばらくして、その視線が不意に少し先の土手の中腹辺りで止まった。

「ん?」

 何かが河川敷の草むらに転がっていた。最初、それはマネキンか何かに見えた。だが、近づいてみるとそれが間違いである事にすぐ気づく事ができた。そしてそれが何かに気付いた瞬間、綱島は思わず顔を青ざめさせることになった。

「まさか……」

 河川敷の土手の草むらに転がっていたもの……それはぐったりとしたまま微動だにせずに仰向けに横たわっている五十歳前後と思しき男の姿だったのである。

「だ、大丈夫か!」

 死体かと思い、綱島は走るのをやめて思わず声をかけた。が、綱島の予想に反し、声をかけられた男は、急にもぞもぞと動き始めた。

「う……うーん……」

 どうやら死体と思ったのは早合点のようだ。それを見て綱島はホッとする。少なくとも殺人事件の遺体を見つけたとかという最悪の状況ではないらしい。とはいえ、病気か何かだと大変なので一応近づいてみたが、周囲には酒のにおいがプンプンと漂い、実際に彼の周囲には缶ビールの空き缶が何本も転がっていた。状況的に、酔っ払いが酒の飲みすぎで河川敷で酔いつぶれていたというのが正解のようだった。

「おい、勘弁してくれ」

 綱島は思わずそんな呟きをしていた。そのまま放っておこうかとも一瞬思ったが、先程も言ったように天気予報では昼頃から雨が降る予報になっている。このまま放置して雨に降られて低体温症か何かで野垂れ死にでもされてしまったら、それをほったらかしにした自分に責任が発生する可能性さえある。

 しかも、よくよく見れば、綱島はこの酔っ払いに見覚えがあった。近所に住んでいる日雇い労働者の男性……確か名前は鶴辺何某とか言ったが……で、たまに参加している町内会の付き合いで何度か顔を合わせた事もあった。

 警察に通報して保護してもらう事も考えたが、正直この程度の事で大ごとにはしたくない。少し迷った末、綱島はため息をついてこの男を自宅まで送っていく事にした。それはこの時点では純粋な善意のはずだった。どうせ今日は休みだし、たまにはご近所付き合いで善行をするのもいいかと気まぐれでそう思ったのだ。

 一体誰が予想できただろうか。この気まぐれな善意が、綱島の人生の運命を決める最悪の分かれ道になってしまったという事を……。


「鶴辺さん、鶴辺さん!」

「う、うーん……」

 酒臭い臭いに耐えながら河川敷で熟睡している鶴辺を揺さぶると、鶴辺はうっすらと虚ろな目を開けてかすれ声で問い返した。

「お……おぉ……ここは……」

「大松川の河川敷ですよ。わかりますか?」

「う、うーん、頭がいてぇ……」

 とりあえず、まだ酒は残っているようではあったが、目覚めてはくれた。とにかく、いつまでも河川敷に寝転ばせておくわけにもいかないので、綱島は彼の肩を貸して自宅まで送っていく事にした。おそらく、通勤中の網島辰政が彼を目撃したのは時間的にこの時だろう。だが、綱島は鶴辺の事で頭がいっぱいで周囲に気を配っておらず、正直、誰に見られたとか全く考える余裕はなかった。というより、この時点ではこの後で自身が殺人をするなど全く考えていなかったので、そもそも誰かに見られているかもしれないなどという事に関心自体がなかったというのが正しい。

 鶴辺の自宅は、大松川に架かる橋を渡って少し行った住宅街のアパートの一室だった。部屋の前まで来ると、鶴辺はよろめきながらもなんとか鍵を取り出し、自宅のドアを開けた。ここで綱島が帰っていれば、この後の運命は変わっていたのかもしれない。だが、鶴辺は送ってくれた礼をしたいと綱島を自室内に誘い、綱島も辞退できずにそれに応じてしまった事が悲劇の元だった。

 鶴辺の自室に招かれた綱島だったが、結局その後、酒盛りの続きのような状態になってしまった。綱島も出張帰りで酒を飲みたいと思っていた事もあり、付き合い程度でその酒盛りに付き合っていたのだが、その過程で酔った鶴辺が発したある言葉で、酔いが一気に醒める事になってしまった。

 それは、鶴辺の娘が東都インターナショナルの豊洲社長と結婚する事になっている事、しかし相手の豊洲社長には五年前に副社長を殺害した疑惑があるという事、そして自分の娘の相手が本当に潔白なのかを確かめるために、ある高名な探偵に五年前の一件の再調査を依頼しようと考えているという事だった。表向きにこやかに相槌を打ちながらその話を聞きながら、内心では綱島は恐慌状態に陥っていた。

 話に出てきた豊洲社長は自身最大の大口取引相手であり、この取引を担当した事で綱島が自社で出世できたのは疑いようのない事実である。逆に言えば、綱島の今の地位は豊洲社長との取引で成り立っているようなもので、この取引がなくなれば、出世争いの激しい平成電工内ではすぐに追い落とされてしまう事は目に見えていた。とはいえ、東都インターナショナルは近年成長を続けている優良企業であり、こちらがミスさえしなければ取引がなくなるなどという事態は本来起こらないはずだった。

 だが、鶴辺の話はそんな綱島の将来設計をいとも簡単に打ち壊してしまうものだった。そもそも、豊洲社長にかつてそんな疑惑があった事など初耳である。もちろん原島副社長が五年前に『事故死』した事はさすがに知っていたし、不名誉な話なので相手側がひた隠しにするのはわかるのだが、知らなかったからと言ってそれが通用する世界ではない。しかも、目の前の男は今になってその古傷をほじくり返そうとしているのである。こっそり携帯で調べてみると、彼が依頼しようとしている榊原とかいう探偵はかつて警視庁捜査一課の刑事だったという人間で、噂ではあるが探偵の身でありながら警察に協力していくつもの殺人事件を解決した実績があるらしい。つまり明らかに優秀な探偵で、もし本当に豊洲社長が五年前の一件に関わっているとすれば、全てを明るみにされてしまう可能性は充分にあると綱島は判断した。

 もし、この探偵の調査とやらで豊洲社長の悪行が白日の下にさらされるような事にでもなれば、豊洲社長のワンマンで成立している東都インターナショナルはただではすむまい。良くても事業の縮小や株価の暴落、最悪倒産の可能性さえある。そんな事になれば豊洲社長の一存で行われていた平成電工との取引は確実に中止となり、ひいてはその取引に依存している綱島も身の破滅であった。

 幸い、話を聞く限り、目の前の男はまだその探偵とやらに依頼はしていない。だが、それも時間の問題である。綱島は自身の将来を守るため、鶴辺が探偵に豊洲社長の調査をするよう依頼する事を潰す必要に迫られた。例えどんな手段を使っても……。

 ……綱島が今まで大した付き合いもなかった鶴辺一成という男の殺害を初めて決意したのは、この瞬間だったのである。


 綱島はその場を取り繕って一度鶴辺宅を辞すると、自宅に戻って彼を殺害する計画を練った。ぐでんぐでんに酔っぱらっているあの状況では、少なくとも今日、探偵に依頼するという事は考えづらい。だが、逆に言えば明日以降はどうなるか全くわからない。わからない以上、犯行は迅速に行う必要があり、それはすなわち、今日中に鶴辺を殺害しなければならないという事でもあった。

 色々考えた末に、綱島は下手に小細工するよりもシンプルにやった方がよいと思い、行きずりの犯行に見せかけて鶴辺を殺害しようと考えた。幸い、予報では今日は昼から雨である。多少の証拠が出ても、雨がすべてを洗い流してくれると判断した。

 さらに先程鶴辺と話す中で、彼が毎晩近くのコンビニに酒類やつまみを買いに行く習慣がある事も知った。ならば、その道中を襲えばいい。場所はあの河川敷がふさわしいと思った。鶴辺がコンビニへ行こうとした場合必ず通る道であり、普段から人通りも少なく、河川敷の草むらには隠れる場所も多いからだ。

 計画を詰めているうちに昼になり、予報通り雨が降り始めた。この天気なら雨合羽をかぶっていても不審には思われない。天は自分に味方をしていると綱島は自身の犯行計画に自信を持った。

 その日の夜、綱島は雨が降りしきる暗闇の中、レインコートに身を包んで河川敷に身を潜めていた。手には軍手がはめられ、その辺で拾ったレンガが握りしめられている。凶器をその辺に転がっているものにする事で、衝動的な犯行だと警察を錯覚させられるのではないかという思惑もあった。

 そして運命の午後十時頃、雨の中、鶴辺一成が姿を現した。傘を差し、あれからずっと飲み続けていたのか足元はフラフラで、外灯に照らされたその表情はどこか赤らんでいる。河川敷の茂みに隠れながら、綱島は犯行の機会をうかがっていた。

 やるからには一撃必殺しかない。下手に抵抗されて余計な証拠を残されたり、仕留められずに逃亡されたりする事態だけは避けなければならない。何しろ、相手は自分の顔を知っているのだ。だが、相手が傘を差していて千鳥足であるという状況が綱島の計画を狂わせた。ただでさえ千鳥足で標的が定まりにくい上に、傘が彼の頭を隠してしまっている。この状況では一撃必殺は不可能だ。綱島は焦りつつも、それでもチャンスを待った。

 そして、唐突にその瞬間は訪れた。酔っていたせいなのか、彼の手から傘が滑り落ち、逆さになって地面に転がった。鶴辺は緩慢な動作でそれを拾おうと前かがみになる。チャンスは今しかなかった。綱島は河川敷の草むらから飛び出ると、相手に気が付かれないように背後から近付いて迷いを振り切るように大きく振りかぶったレンガを前かがみになっている相手の後頭部に振り下ろした。

 ガツンと鈍い音と嫌な手ごたえがし、同時に相手は地面に転がっていた傘に覆いかぶさるようにそのままうつぶせに倒れ込んだ。頭から流れる血が下敷きになった傘を染め、辺りに雨音だけが響き渡る。綱島は呆然としながら、しばらく放心状態でその場に佇んでいた。

 だが、いつまでも呆けているわけにはいかない。綱島は気を取り直すと、反射的に周囲を見回し、誰もいない事を確認した。そして、鶴辺の遺体を河川敷に移動する作業を始めた。いくらなんでもこのまま道の真ん中に遺体を放置しておくわけにはいかない。遺体の発見はなるべく遅い方がいい。そういう意味でも、鶴辺を河川敷に移動させる必要があった。

 ところが、いざ鶴辺の死体を苦労しながら持ち上げたところで、綱島の目に予想外のものが飛び込んできた。鶴辺が下敷きにしていたひしゃげた傘……血にまみれたその傘の一角に、血文字で『ツナシマ』と書かれているのが見えたのである。

「こいつ……くそっ、即死じゃなかったのか!」

 綱島は悪態をついたがもう遅い。殴った後、相手が即死したと勝手に判断し、鶴辺が本当に死んだのかどうかの確認をしなかった自分の落ち度である。どうやら自分が呆けている間に、最後の力を振り絞ってこっそりと傘に名前を書いたようだった。

 完全に予想外の事態であったが、起こってしまったものは仕方がない。血が雨で流されても、ルミノール検査をされたら意味がない事は素人の綱島もよく理解していた。こうなっては、この傘も持ち帰る他ない。地面に直接書かれなかっただけまだましと考えるしかなかった。

 とにかく今は遺体の処理である。綱島は予定通り鶴辺の遺体を河川敷の草むらに横たえると、凶器のレンガをその辺に放り捨てた。そして全てが終わると、綱島は最後にもう一度何か忘れていない事がないかを確認した上で、問題の傘を持ってそのまま現場を立ち去った。一瞬、物取りの仕業に見せかけようかとも思ったが、よく考えればお世辞にも裕福そうには見えない鶴辺を物取り目的で襲うというのも不自然な話で、下手な小細工はかえって逆効果になると考えてその考えを断念した。むしろ物取りでないとなれば警察は顔見知りの犯行と判断するだろうし、そうなれば自身に対する疑いを逸らす事ができるかもしれないとまで考えていたのだ。……今にして思えばここで財布を確認せず、財布の中にあった榊原の名刺を放置してしまった事が綱島にとってはこの犯行における最大の致命傷になったわけだが、この段階でそれに気付けと言うのはいささか難しい話でもあった。

 後はあくまで鶴辺とは無関係な人間として振る舞うだけでよかった。遺体は翌朝発見され、『前日の大雨で濁った流れになった』大松川河川敷(当たり前だが大雨が降った直後の河川は濁るはずで、前日に綱島が見たような『穏やかで澄んだ流れ』にはならないはずである)に警察関係者や野次馬が集まる事になった。だが、この時綱島はやじ馬に紛れて現場を見に行くなどという事はしなかった。犯人は現場に戻るとよく言うが、それは警察もよくわかっていて野次馬などをチェックしているという話を聞いた事があったからだ。自分はそんな格言通りには動かない。あくまで被害者に対して無関係な人間として振る舞う……綱島は何度も心でそう繰り返し、見に行きたいと思う心に打ち勝って無関心を装い続けた。後日、仕事で東都インターナショナルを訪れた際に『豊洲社長に尋問する刑事と入れ違いになった事』もあってひやりとしたが何とか乗り切り、ようやくここまでたどり着いたのだ。後はほとぼりが冷めるのを見計らって、最後の証拠となる傘を処分さえできればすべては終わるはずだった。

 だが、綱島が味わっていたわずかな間の勝利の余韻もここまでだった。何が天は自分に味方をしているだ。単に鶴辺が依頼しようとしていた探偵の矛先が豊洲社長から自分に向かっただけの話ではないか。ならば、一体自分は何のためにこの殺人を……

 綱島は目の前に立つ榊原をしばらく睨みつけていたが、やがて自分がこの自身の人生を賭けた勝負に敗北した事を悟り、その場で鞄を落とし、唇を噛み締めたまま無言でうなだれたのだった……。


 その後、榊原があらかじめ近くに待機させておいた警察の手により綱島は殺人容疑で逮捕され、同日夕方には捜査本部が置かれている世田谷北署の取調室で本格的な取り調べが開始された。が、この時点ですでに綱島は観念してしまっていたようで、鶴辺殺害について認めた上で、刑事たちの尋問に対し比較的素直に答えていた。

 犯行形態や動機は概ね榊原が推理した通りであり、その推理で補完できなかった鶴辺を助けてから犯行に至るまで詳細なども彼の自供により明らかになりつつあった。犯行時に着ていたレインコートなども榊原の推理通り彼の自宅から発見され、鑑定の結果ルミノール反応を検出。さらに榊原が指摘した被害者のひしゃげた傘も同時に見つかり、ルミノール検査の結果、被害者の指紋が検出された上に、被害者のダイイングメッセージと思しき血文字で『ツナシマ』と書かれているのが確認された。これら物的証拠も出た事で、近日中には順当に検察官送致になった上で起訴される公算が強いという。少なくとも鶴辺事件に関しては、この時点で全てが解決したと言ってもよかった。

 結局、全てが明らかになってみれば、今回の犯行は綱島信光という男が保身のために独断で行った犯行だったわけで、豊洲社長をめぐる一連の疑惑とは直接的には関係がないものだった。事件が解決した事自体は喜ばしい事だったが、今回の一件から五年前の原島司の変死事案の解決に持っていけないかと思っていた一部の捜査員からしてみれば何とも後味の悪い結末で、捜査本部の中にも微妙な雰囲気が漂っていたという。


 ……だが、この中途半端な状況を良しとしない人間が一人存在した。それは関与した事件の「全ての真相」を暴いてしまう男……探偵・榊原恵一その人であった……。

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