終章
閑静な寺の一角、ひっそりと建てられた遺体のない墓に手を合わせる。
瀬川俊蔵は自らの墓をすでにたてていた。
遺族がこれから造るのとは別に、彼は彼にとっての命日を正しく記した墓を建てた。
それは都心から離れた郊外にあって、豪奢なホテルには似ない。
ホテルから解放されたのち、保護者代行として凩と糸瀬が付き添い、悠は俊蔵に指定された貸金庫へ向かった。
中には数百万円の金と手紙が添えられていた。
遺産、だそうだ。
手紙によれば、これとは別にトランクルームには本などが用意されているそうだ。
日本という国は子どもが1人で生きていくのに優しくない。
それも含めて、どうにかできるだろうという期待が込められている。
普通に考えれば、4歳の子どもに大金を持たせたところで、生きられるどころか、いい鴨だろう。
彼の才と実力を最も信じていたのは俊蔵だった、ということだ。
他にも手紙には、彼の願いや、祖母や身内の扱い、墓の場所、助けが欲しいときの紹介状などがあり、凩や糸瀬ですら、彼の愛を感じ取るには十分だった。
悠の祖母である俊蔵の妻、とよ子は家を出て、郊外にある墓の近くに新しい家を用意して引っ越すように手紙を残したようだった。これから激動を迎える瀬川家でどのような処遇になるか心配だったのだろう。彼女にも生きていくのに十分な金とツテを残したそうだ。
手紙を受けとった祖母はなにを思ったのか、と悠は密かに思った。
祖母を訪ねるのには、彼の何かが邪魔をした。
とよ子、悠に残した遺産は彼の遺産のほんの少しで、それ以外は彼、俊蔵の子である3人が継ぐようである。
とよ子は昔に相続放棄手続きを済ませており、彼がとよ子に譲渡したのは生前譲渡にあたり、遺産相続には当たらない。
悠は法定相続人にあたらないため、その争いには巻き込まれないだろうとのことだ。
贈与税の支払いはすでに済ませているようで、悠に手続きは必要なかった。
戸籍から抜けることはどうにもできないと、謝罪の旨が述べられていたが、それらの手続きは凩と糸瀬が迅速に行なった。曰く、「戸籍をどうこうするなんて朝飯前。」だそうで、瀬川悠の戸籍は別につくりかえられた。
その後、悠は要人警護社への就職を決めた。
糸瀬と緋彩に勧誘され、雇用条件などの詳細を事務員に説明してもらった上で、社長と面談し決定したことだ。彼らは、もし悠が要人警護社への就職を望まなくとも、なんらかの支援は約束してくれていたが、悠は彼らの元で働きたかったし、早く自立したかったのも相まって決定した形だ。学校に通いたければそれも考えるとは言ってくれたが、自分でもある程度の勉強ができることから、それも断り、完全に仕事に専念することにした。
見習い(研修期間)からになるが、彼も社員となった。
社員寮はに入り、一人暮らしを始めた。
家事の心得がない悠のために、隣から糸瀬がやってきて毎日家事を練習している。
不器用さは年相応のようだ。
そんなこんなで、身の振り方を決めた悠だったが、事務員曰く、手続きがあるからと、悠は1日好きに出歩く許可を得たのだ。
変わった女性がペンダントを手渡し、出歩く際はこれを身につけるようにと言い含めた。
ペンダントには特殊な力があり、装着している者を任意の姿に偽装するそうだ。
4歳の子どもが出歩いていると悪目立ちする、という配慮である。
尚、デメリットは子ども料金で公共交通機関を使えないことだろうか。
そうして彼は気になっていた俊蔵の墓へと赴いたのだ。
途中で花を買い、それを供えた。これは糸瀬の入れ知恵である。墓に赴くのも墓参りも、悠にとっては初めての経験である。
そう云えば、最後に悠が緋彩に守られたとき、なんらかの攻撃かなにかがホテル全体を襲ったらしいが、ホテル内にいた人は全員無傷で解放された。糸瀬も無傷だった上、なにも起きなかった。緋彩曰く、守られたのはあのときの部屋だけで、他は守られていなかったはずなのに、とのことだ。気になった社員が調べたところ、ホテル内にいた人たちはホテルにいた時間帯の出来事をごっそり忘れているそうだ。記憶の消去なんて能力者がいるなんて聞いてないんだけど、と一時は事務所が慌ただしかった。
閑話休題。
気が済んだのか、帰りの電車に揺られて、寮へと帰る。
「今日は初めての外出だから御使いはなしにしてやる。感謝して、次は覚悟しておくことね。」と、意地悪そうな笑顔で言った凩を思い出す。あのとき、彼女はもうひとつ話をした。
気まぐれに、彼女が話したカフェへと足が向いた。
最寄駅からほど近い駅の郊外にある喫茶所だ。
「その店に入ってからはペンダント外していいからね。」と聞いていたのが印象に残っていた。
住宅街の、聞いていなければ素通りしそうな小さな看板の店に入ってペンダントを外した。
「やぁ、初めて見る顔だね。」
細身で長身の男はにっこり笑って言った。
若く、しかし、無視できない雰囲気を醸し出している。
「……」
なにより、笑顔が胡散臭く気持ち悪かった。
「初めての方ですね、どうぞ、お座りください。」
店主と思しき男は静かに木の踏み台を置いて、高い椅子に座れないであろう悠に対して気を遣った。
店主は4歳の悠を一切見下さず、丁寧に応じた。
「マスター、やっぱり初めての人?」
「えぇ。ここ最近通い詰めているあなたなら私同様…」
にこにこして悠を見つめる彼は分からない、掴めない、悠にとって苦手ともいえる人種だった。
悠は苦手、というよりも困惑と、不快感を感じていた。
「僕がいるから誰かは避けているかもしれないけどね。」
「それならば、あなたが彼らの分も儲けさせてくれるとありがたいのですが。」
「残念だけど、私はそんなにお金を持っていないのさ。」
大仰なリアクション、わざとらしい声色。
裏になにが隠れているか、分かりもしない、得体の知れなさが悠には不気味だった。
「冗談はともかく、何か頼みなよ。大体あるよ?」
「…」
「なにがあるかも分からないのに頼めないって?大丈夫。なんかあるから。適当に言えば大抵あるから。おすすめ、って言えばそこのマスターが勝手につくってくれるよ?あ〜、でも、苦手なものとか無理なのとか言っとかないと飲めないのが出てきちゃうし、値段とかもあり得ないことに…。特にアルコールの有無は大事。特にねぇ〜私のときなんか、あり得ない値段出してきてさぁ、それも飲み終わった後に。1杯30,000円なんてあり!?ぼったくりだよ。キャビアもフォアグラもトリュフも知らないよ! そしてそれ以上に高い食材ってなに?私は安い舌で満足なんだって。」
悠の顔色から、言ってもいないことまで察して話していくこの男は、コロコロと表情を変えながら目は笑っていなかった。
見定められている、悠がそう感じるほどに。
「風見どのにしかしませんよ。別口から依頼されておりまして。紳士な方にはそんな真似は致しません。ご安心ください。」
店主は穏やかな笑みでお手拭きを差し出した。
隣の男は風見というようだ。
「ありがとうございます。」
「ご注文はお決まりですか?」
「…おすすめ。苦手な食べ物はありませんが、アルコールはなしでお願いします。」
「承りました。」
悠は静かに注文をした。
初めての喫茶所にいささか緊張していた。
多くの人はここは喫茶というよりはBARのように感じるだろうが、悠にその認識はなかった。
隣で喚いている風見という男には近づきたくなかった。
「ここに来る、ということはどこかの勢力にはいるのだろう?」
「…??」
「君は、未だ何も知らされていないんだ…。君の上司も意地が悪いねぇ。」
悠は緋彩や糸瀬が侮辱されたように感じて、苛立った。
「あゝ、ごめんごめん、そういう意図はないんだ。ただちょっとねえ。」
風見という男は無駄に近づいて、悠の手に触れた。
「私は別に君を害そうなんて意思はないし、今はフリーなんだ。だから、心配しなくてもいい。君が何らかの機密を話したとしても、君の大好きな上司への裏切りにはならないよ。」
「…僕は機密に触れられるほど長くは働いていないし、そうでなくとも、店員さんやあなたに話した時点で問題だと思います。」
そう、悠が話すと、キョトンと驚いた顔をして、風見が固まっていて、数秒経ってから笑い始めた。
「そーいうことか。まさか、なんの力も借りてないでそれとは!!興味深い、そう、興味深いよ。だから君の上司はっ!!納得したよ。それならルール上問題もない。」
腹を抱えて、机を何度も叩いた。
お世辞にもマナーがいいとは云えない。
「いや、失礼。君の上司への言葉も謝罪するよ。てっきり、何も知らせないで巻き込んだのかと。」
それから小一時間、風見という男の話を聞きながらのんびりと過ごした。
彼はいろんなことを話した。
正義と悪とは、生死の境とは。
拷問の是非と、尋問の正確性、戦術の組み立て方など。
どの言葉も借り物でなないように思えて、彼の経験は想像できないほど壮絶なのだろうと思いを馳せた。
ただ、その中に彼の本心が入っているかといえば、それは違うように思える。
分厚い仮面をかぶって、道化師のように振る舞い、決して素顔は見せない。 裏で何を考えているのかわからなくて、視線は一挙一動を捉えていて、心の中すら見透かすようで恐ろしい。
とても、気味が悪いように思えてならない。
彼の話は勉強になったし、興味深いとすら思った。
しかし、彼自体が苦手だという意識はより高まった。
もう二度と会いたくないような気がした。
♦︎♢♦︎
「変な人に会った?」
今日の出来事を緋彩や糸瀬に話す中で、悠が言った言葉に鋭く反応した。
「あそこは一見さんお断りで、紹介制。チケットがなければ店を見つけることも入ることもできないというのに。」
その話は初耳だと、悠はキョトンとした。
今度聞いておく、と糸瀬が言ったところで、悠は挨拶をして、寮に戻った。
きっと、これからは大変なのだろうと思いながらも、少しだけ、明日に期待している自分がいて、また笑った。
天井のシミを数える暇もなく悠は眠りについた。
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