第11章
あなたの元では働けません、そう悠が言ったとき、義博からもなにかよくない感情を感じたが、彼は自分の中に閉じ込めた。これが、智博と義博との違いだろう。上に立つ者として、私情を呑み込み偽りの仮面を被れるかどうか。
緋彩には、義博もまた智博たちと同じように悠は制御できる存在であると思っていたのだろうと感じた。
その働き方は、おそらく…無給で劣悪な環境になるだろう。
子どもが働くことが異例である上に、身内であるから雇用契約として結ぶこともない。だから、法律に守られることもない。
悠はもう広い世界がなんたるかを知ってしまった。
俊蔵が悠の世界を知識を広げて、身内以外の人間と接して、大きな事件に立ち会って、自分はどこにでもいけるのだと、どこに行ってもいいのだと、背中を押された彼を、もう一度鍵のかかった狭苦しいところに閉じ込めて置けるはずもない。
緋彩は思う。会社とは社員を制御して成り立つのではない。社員が会社を創り上げていくのだと。皆で支えてやっと存続できるのが会社という集団であると。たとえ、それぞれの個が何らかの思惑のもとに集ったとしても、そこが居心地のいい場所であるように、努力する。それが集団だと。
「…これまで丁寧に育ててくださったことには感謝しています。お詫びといってはなんですが、然るべきときがきたら相続放棄します。」
緋彩はどんな皮肉かと思った。
虐待をしてきた両親やそれを見て見ぬ振りをしてきた親族たちに「丁寧に育ててくれてありがとう」とは、悠が狙っているとしたらニヤッと笑いたくなるし、そうでないとするのであれば、その境遇すらも自分の糧として受け入れているのかと思うとそれはそれで尊敬したくなる。
「ゆう、なにをいっているの?」
ひとり、話を理解できていない幸子が悠を掴んで尋ねた。
彼女の母が後ろから止めるが、それでも止まりそうにない。
幸子は悠よりもいくつか年上だが、悠と比べるのは酷だし、むしろ悠に失礼だ。
「…この家を出ていく、ということです。」
何の感情もなく見上げてそういった。
「…なにいってるの? ここをでってったら、そこらへんのしょみんといっしょになるのよ? パーティーにもでられないし、きれいなふくもきれない。そんなきたないところになんで?」
普段から、彼女がなにを教え込まれているのか、察するのは容易だった。
今ならまだ被害者だろうか?
「…僕が望んでいるのはお金や贅沢ではないというだけです。お金は必要ですし、たまの贅沢は自分のご褒美に…けど、それが全てではありませんから。それに…生まれが全てを決めるわけではありませんから。」
(たとえ、瀬川という家に生まれようとも、それが僕の全てではない。)
心の中でそう付け加えた。
「……さようなら。」
♦︎♢♦︎
「潮時だね…。君と遊ぶのも楽しかったよ。名前はなんていうの?」
「糸瀬和馬」
少し目を見開いてから、冷静に少女はいった。
「そう、覚えておく。私は桜花。そこの大きな桜の樹の精霊。俊蔵がね、そう名前をつけたんだ。」
散りゆく桜と崩れゆく結界に思いを馳せていう。
「真名を人に教えるなんて不用心だね。その意味をわからないわけではないくせにさ。…向こうもどうやら決着がついたみたい。よかった。」
穏やかに笑う少女の髪からピンク色は消えて、髪は全て緑になった。
「さようなら」
少女は糸瀬の前から姿を消した。
♦︎♢♦︎
さようなら、と言った悠はチラリと緋彩を振り返り、彼女が頷いたのを確認すると、その部屋から辞そうとして、緋彩は悠を止めた。
何か大きな力が崩壊してくのを感じる。
(…なんだろう。攻撃ではないはずなんだけど。)
自分がその専門ではないことを悔やんだ。
そして、数秒後、新たな気配を感じた。
なにか大きな波のようなものが迫ってくるような、そんな気がして、悠を体で包み込んで守り攻撃に備えた。
近づく波に、どんな攻撃かもわからないのに備える緋彩はどうしようもなく、焦っていた。
もうすぐで波に襲われる、そう思ったとき、なにかに暖かく包み込まれて波はこの部屋を避けて流れていった。
「凩さん? なにかあった?」
「いや、あったんだけど、大丈夫。けど、しばらくはこの部屋にいて。」
悠が頷いたのを確認してから状況の把握に努める。
(誰かに守られた。誰に? …包まれる、そうか、結界…。龍崎美琴、彼がやったのか。理由はわからないけど、助けてくれたのなら感謝。)
波が落ちついたと同時に結界が解除され、緋彩は悠を連れて糸瀬と合流、そのまま帰路に着いた。
♦︎♢♦︎
桜花ホテルの敷地外、結界に閉じられた空間の外側で、そのときをずっと待っていた。
崩壊する結界、電波が再び通づるようになったのを確認した。
「準備はいい?」
「はいっ!!」
スッと背を伸ばして立つパンツスーツの女性と、傍に少女がひとり。
「今回は遠慮なんていらない。消しとばして。」
息を大きく吸って、吐いて。
気持ちを落ち着けるように深呼吸をした。
その少女はそっと腕輪を外した。
傍目には何も起こらない。
見た目もなにも変わらない。
しばらくして、女性の携帯電話がなった。
「はい、玲です。」
女性、清水玲は静かに名乗り電話の向こうの人間と話す。
「それはよかったです。はい。彼女を連れて戻ります。報告は後ほど。」
電話を切り、少女に向き直る。
「よかった。成功よ。戻りましょうか。」
ふたりはそっとその場を後にした。
♦︎♢♦︎
結界の崩壊が始まってすぐに、龍崎美琴は周囲に結界をはった。
自分と、瀬川の連中を全て巻き込む形で…それらを力の本流から守るように。
その結界を張ってしばらくして、力の本流が押し寄せた。
その力は最近拾われたらしいある少女のもつ特殊な力。
『他者の記憶を抹消する』力である。
力が止まった。
(この分なら敷地内もカバーできてるだろう。)
確認のために彼の秘書に連絡をしてから、馴染みの担当者に連絡を入れた。
「玲か? あぁ、問題ない。成功だ。だが、瀬川の人間の記憶は消えていない。都合のいい結末だからな、わざわざ振り出しに戻す必要もないだろう。それだけ気をつけてくれ。あぁ、わかってる。では。」
『記憶の抹消』も万能じゃない。
それなりに力がある、そちら方面に造詣のある人への干渉は難易度が高い。
今回のは広範囲に渡っていて、ひとりひとりへの干渉はずっと甘い。
ゆえに、何人かには記憶が残った。
龍崎美琴と、彼が守った瀬川家の人間。
要人警護社の凩緋彩と糸瀬和馬。
そして、マフィアの清水涼。
しかし、彼らがどう言おうとも、数人が言ったことを大多数の意見を否定してでも信じるか、それは否である。
なにより、ここで起きたことは瀬川の汚点、好き好んで話すこともないだろう。
こうして、全ては忘れ去られた。
♦︎♢♦︎
桜散る。
桜花ホテルで起きた奇怪な事件は不思議な形で幕を下ろした。
そのホテルにいた人々は誰もがよく覚えていないと言った。
残されたのは、一本の映像と壊されたホテル。
映像は当主である瀬川俊蔵が次の社長を指名したところでプツリと途切れた。
記者の取材に瀬川家の面々は揃って目を逸らし、なにも答えず、そこからは瀬川俊蔵とその妻、そして、長男である智博の息子が一人消えていた。
テレビ番組もあまりの情報の少なさに報道することがなくなって幾日か、ついには誰の記憶からも消えていった。
ただ目に見えるのは瀬川義博が社長になったことのみ。
それ以外のことは、そっと闇に葬られた。
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