第10章
緋彩が悠を父親の拳から守ったとき、悠の中でなにかがカチッと音を立てて嵌まったーーそんな気がした。
自らが口にできなかった言葉を、「嫌い」という言葉を緋彩から聞いたとき、悠はどうしても両親を嫌いにはなれないのだと、離れて生きることを望もうとも、彼らに期待することをやめられないのだと悟った。
血の繋がりと、一緒にいた時間は薄めようとも、そう簡単にはいかないもので。悠にとっての世界とはまだとても小さなもので、その全てを依存した彼らをすんなり嫌いにはなれなかった。
『いたいのいたいのとんでいけ』
緋彩が手を当てて、彼女の能力だというものを使った。
痛みに朦朧として、いる中で彼女の声がうっすらと聞こえた。
「親子と云ども別の人間ーーー。」
不思議と彼女もまた家族にいい印象を持っていないように思えた。
幸福な家族を知っているからこその言葉ではない、重い重い言葉。
どんな顔をして彼女が話しているのかも、見えなかったが、悠にはそう感じられた。
「…凩さん、別に庇わなくてもいいよ。いつものことだし。」
自分から出ていった言葉はついさっきとは随分と違ったが、不思議と自然でこれが自分のあるべき姿な気がした。
「そう。なら、いいわ。悪かったね。ちょっと冷静じゃなかった。」
「ううん。」
首を横に振って答えると、彼女は悠を地面に下ろした。
見上げた顔は、穏やかで、しっかりと悠を見ていた。
さっぱりとした受け答えは、悠の居場所はここだと示しているようで、親よりも近しい気がした。
心が凪いだ。
そんなとき、甲高い声がその空気を壊した。
「悠? なにしてるの?」
心底、見たくない顔がそこにあった。
叔母一家、豊川の家。
悠が安らげる場をつくり知識を与えてくれた、緋彩や和馬と引き合わせてくれた、彼の大恩人である瀬川俊蔵を毒殺しようとしたのだから。
マグマのような怒りが腹の底から噴き出す。
噴火を食い止めるだけで、悠には恐ろしい忍耐を強いた。
「ねぇ、ゆう? その人だれ? 大きくなったら幸子と結婚するんだから、そんなおばさんいらないでしょ? ねぇ、離れよ? それに、いいもの持ってるの。」
従姉妹である幸子に腕を掴まれて揺らされる。
元々、嫌いなのにも関わらず、叔母のしたことを知ってからはそれ以上だ。
幸子に悠に対する純粋な好意などない、悪口陰口を聞いたのだって一度や二度ではない。
表裏のある人間などいくらでもいる。
ホンネとタテマエなんて悠が理解していないはずもない。
それでもー。
彼女の笑顔が憎たらしく見えて、醜くく見えて、払い除けたいと願っても悠の力では叶わない。
「素敵ねぇ、きっと悠くんも喜んでくれるわぁ。いい夫婦になるわね。」
追い打ちをかけるように叔母であるえみ子がそう言った。
悠はいつだってそれを黙認しているし、それが彼らにとっても当たり前だった。
そう、当たり前だったのだ。
「すみませんが、僕はあなたと結婚する気はありませんし、瀬川を継ぐつもりもありません。無理して僕に気に入られようとしなくていいです。」
でも、それは過去の話であって、悠は自らの意思というものを固めた。俊蔵の言葉が背中を押し、緋彩と糸瀬が見守って、悠は一皮むけて大きくなった。
「なにを言って…?」
「わざわざ、地味でつまらない僕に執着する必要はない、と申し上げているんです。叔母上。あと、腕、離してください。」
怒鳴ることもしない、ただ淡々とした口調はどこか緋彩を思わせる。
「なんで??」
突然の拒絶に幸子は困惑した。
そもそも、悠の言葉の半分も理解できなかった。
幸子は、ずっと見下していた何年も年が違う悠に苛立った。
「そもそも、世襲だというのなら、これから生まれるであろう義博さんのお子さんが継ぐのでしょう?僕は関係ありません。」
その言葉にえみ子が何かを言う前に、激昂したのは悠の父智博だった。
拳に訴える前に、静かに緋彩が防ぐ。
「…これも邪魔だった?」
「いや、ありがとう。助かった。」
ちらりとそちらを見て目で感謝を伝えると、周囲の親族に向き合う。
「父は、智博さんは視野狭窄が過ぎます。…元々、人の上に立つには踊らされすぎるきらいがありましたが、それ以上に今は周りが見えていない。僕は両親がそこまで愚かだとは思っていません。……えみ子さん、義信さん、なにかご存じですか?」
途中で野次がとぼうとも、有無を言わさずに続けた。
「……。」
豊川夫妻、えみ子や義信は声もなく固まった。
「智博さんが当主に選ばれなかった理由は、単純に適材適所です。祖父もそう言っていました。彼は現場の方が生きると。そして、人の上に立つには素直すぎると。だから、義博さんが選ばれた。そして、えみ子さんと義信さんたちはそれでは困ってしまう。」
子どもが意味の分からない戯言を話し始めたことに対する驚きと唖然が、段々と強い危機感に変わってゆく。
「愚かな人形が瀬川の長になっていてほしかった。だから、祖父を殺そうとした。だから、智博さんに麻痺毒でも盛って義博さんを逮捕させることによって退場してほしかった。」
わかりやすい動揺が伝わる。
「お、お前ら俺に毒なんか!!!」
智博は毒を盛られることを了承なんかしていなかったらしい。
「智兄さま、そもそも、その3人でお茶をしてたのでしょう? どうして私たちが毒を盛れるというの?」
「そ、それは…。」
「なら、お茶をしてたとなぜえみ子さんが知っていのですか? お茶をしたらどうかと促したのではありませんか?」
智博がたじろごうとも悠は引かない。
「別に御二方だけでやったとは僕も思っていません。それに、これを警察に通報したりもするつもりはありません。ただ…僕にとって祖父は大きな存在でした。尊敬していましたし、…ここまで僕を育ててくれた恩があります。だから、その祖父の会社の行く末くらい祖父の思う通りになってほしいと思うのです。」
俊蔵の希望通り、義博が継ぎ、智博は現場でそれを支える。豊川に裏で操られたりしない、独立したものであってほしいと。
「たとえば、豊川の背後に反社会的組織がいたとしても、それをなにかいうつもりはありません。ただ、揉め事を起こさず、この一件が終われば、メディアのカメラの中に、歴とした遺言が残されているのですから。祖父もそのつもりで彼らを招待したのでしょう。」
点と点がつながって、悠の中でひとつの絵を描き出す。
観察して得たことと、緋彩から得た情報と。
「先にも申し上げた通り、僕の希望はただひとつ。祖父の遺言が何事もなく果たされ、この一件が何事もなく終わること。その為にも豊川には手を引いていただきたい。もし、それが果たされないのならー。僕は証拠を持って警察へ参りましょう。」
「し、証拠はあるのかっ!! 餓鬼の悪戯じゃすまねぇんだぞ!!」
「あったとして…ここで出すのは自殺行為としか思えません。それに、結局僕が証拠を提出したところで、調査するのは警察や検察の方々。冤罪に対する責任は僕ではなく彼らにありますし、本当に悪戯ならば警察が門前払いするだけで、なにも問題はありませんよね?」
罵ろうとも、悠は決して狼狽えなかった。
「いつもなら、これで終わってたのかもしれませんが。今は凩さんがいる。僕への拳はきっと…届かない。」
誰かが殴り掛かろうとも、誰か何かを投げようとも、決して悠の元には届かない。
扉の前の攻防を含めた一連の流れで、悠は緋彩を、要人警護社の面々を信頼していた。
「どうしますか? いつ解放されるか分からないんです。これで終わりにしませんか?」
諦念がその場を支配する。
"瀬川"を諦めたくない叔母夫妻もこれでは諦めざるを得ない。
悠の言うことが真実に近しいだけに、下手に動けば警察が動く。
「君は、ずっとそう色々考えていたのかい?」
社長になる義博だ。
「…なにを指すかは存じ上げませんが、僕はずっと祖父の元でそういうことを学んできました。」
「そう…、なら彼の残した会社を、一緒に盛り立ててはいかないか?」
義博が人当たりの良い笑みでそう悠に問いかけた。
("上に立つ者の器"…僕にも父にもないもの。人を惹きつけ、どんなバックグラウンドがあろうとも、有能な人は活かす。けど…なにかが違う。祖父と彼はなにかが…。)
「…残念ですが、答えは『いいえ』です。僕はこの一件をもって瀬川から離れます。相続も放棄いたします。」
「どうしてだい? 悪い話じゃないと思うけど。君はまだ子どもだ。外で生きていくのは難しい。」
目線を合わせ、丁寧にわかるように真摯に話す。けど…
「僕の居場所はここではない、不思議とそう思います。祖父にも自由に生きるように言われました。狭い世界ではなく、広い世界で。確かに、世間体を考えれば僕が一人で外で生きるのは難しいでしょう。けれど、それでも生きれるようにと、祖父はさまざまなことを教えてくれました。一人で生きられないのなら、助けを求めるまでです。」
「だから、僕が君を助けてあげるよ。」
嗚呼、悠は落胆した。
この人も結局はそうなのだと。
「あなたも僕を子どもだとどこかで見下している、そう見えます。僕を飼い慣らせると、働かせられると思っているみたいに感じます。祖父や凩さん糸瀬さんと違う雰囲気が、父たちに近い雰囲気があって、そう、無意識なのかもしれないけど、どこか人を見下したような…。」
世界の誰もがそう自分を扱うのなら、諦めたかもしれない。
けど、見つけてしまったんだ。
自分を対等に、互いを尊敬しながら話してくれる人を。
「だから、あなたの元では働けません。」
悠は完全に瀬川を拒絶した。
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