ぼくだけの花よめ

白川迷子

第一話

 もうすぐ二人の門出だ。周りを見渡せば、こんな僕たちを──僕に捕まったばかりにその身を、あるいは生涯を差しだすことになったあなたと、そのとなりに並ぶ不釣り合いな僕を──祝福してくれるみんなの顔がある。

 はたして僕は今どんな顔をしているのかな。どうかあなたは笑っていておくれ。手をひかれてばかりいるものだから、いざ男らしくあろうとするとこれだもんな。あなたのその顔色も無理はない。ぼくを見て、ほら、こんなに膝が震えて、こんなに喉が渇いて、強く握った手のなかだけが潤うばかりで。

 あなたに出会いつられた秋の夜。あれからというもの、何をするにも夢のようで、じれったい季節のうつろいに初めて歯がゆさを覚えた。前置きが長くなりそうだけど、あと少し、ほんの少しだけふりかえる時間がほしい。今日このときという僕にとって人生最良の瞬間に繋がった、二人の日々を。


*


「小鳥遊優です。初対面のひとばかりなので、けっこう緊張してます。よろしくお願いします」

 耳もとに切りそろえられた黒髪には艶があり、店内の照明に照らされた頭頂付近には光の輪が浮かんでいた。それはまるで天使のようで、それでいて飾らない佇まいは周囲の華やかに紛れて咲く名もしらない花のようだった。もしそんなキザな文句を実際に言えようものなら──このとき、こんな寒いセリフを口にしなくて本当によかった──これまでの人生はもうすこし彩りのあるものだったかもしれない。しかし哀しいかな、自己紹介が終わり運よく目の前に座っている小鳥遊優への初めてのアプローチが「タカナシさんてどんな漢字で書くんですか? ひょっとして小鳥が遊ぶってやつですか?」なんて些末なテーマで、しかも僕ときたら声が上ずって早口なうえに答えを待てずに先に当てにいったものだから「はい、その通りです」とすぐにシャッターをおろされたのだった。

 同じテーブルには僕を混じえて男女八人の悲劇が繰り広げられている。やはりこんな場に来るんじゃなかった。大して親しくもない同僚の赤坂から「たまには遊んどけ」と、めずらしく誘われ浮かれもしたし、環状線に乗っている道中は柄にもなく窓に映る自分の髪を触ったりもしていたのだが、今になっては数メートルも離れていない席で僕を放ってはしゃぐ彼を見ていると憎くて仕方がない。内心楽しみにしていた僕の主観では悲劇だが、スクリーン越しには喜劇にも受け取れよう。

「それ、どうしたんですか?」

「……え?」

 そんな温度差のある喧騒をすりぬけるように僕の耳に届いた声があまりにもやわらかくて、誰が放ったのかも、誰に向けられたものかも、すぐには脳が処理できなかった。それが僕に対しての小鳥遊の言葉だと確信できたのは、彼女が恐るおそるといった具合に、でもひと時も目を逸らさずに僕を見つめていたからだった。

「あ、えっと、なんでしたっけ。ごめんなさい、聞こえませんでした」

 これが初めて彼女についた嘘だった。もう一度やわらかな声色を知りたくてついた小さな嘘だ。

「それ。指の絆創膏」

 彼女が差した対象や話題よりも、その声と、白くて綺麗な指に意識を奪われてしまう。節々に見惚れている様を悟られたくなくて僕は慌ててボールを投げかえす。

「ちょっと怪我しちゃいまして」

 あらためて自分の声はどうして乾燥しているんだろう。緊張しているのが見てとれたのか、小鳥遊優は口もとを隠す素ぶりもなく口角を上げた。

「怪我したのはわかりますよ。じゃないと絆創膏なんて巻かないでしょ。面白いですね、よく天然とか言われません?」

 にわかに、僕をみる小鳥遊の瞳の色が変わったように感じた。彼女が僕をどう見込んだところで、暗くて面白いことのひとつも言えない男であることに変わりはないのだが、そのことに少しの負い目も感じさせない穏やかな色だった。奥行きのある綺麗な目だ。「人は目をみればわかる」なんて言葉、ありとあらゆる創作物でふれてきたけど、ようやくその意味を知った。使い古された常套句だとばかり考え邪険にしていたが、どうやら本当に人は目で恋をするらしい。

「また独りの世界に入ってる」

 腫れものに触れるようだった数分前とは一転し、いま彼女が僕に向けている視線には多少の好意が含まれていると思えた。これは慢心というより期待だ。

「名は体をあらわすなんていいますけど、まさしくですよね。一人かずひとだからカズくんて呼んでいいですか? くん付けは馴れ馴れしいですかね、カズさんにしましょうか?」

 この場に僕の知り合いは赤坂しかいない。他の男は赤坂の昔馴染み、相手の側は赤坂の知り合いの女性とその友人たちだった。僕の自己紹介に耳を傾け、かつ名前をおぼえているのは小鳥遊くらいだろう。そう思い至り一層彼女のことを特殊──特別だと感じられた。

「そのあだ名、いいですね。そんな風に初対面で親しくされたのは初めてです。呼びやすいほうでいいです」

 滑らかに動く唇を見ながら自分の名前について考えていた。僕はこの名前が嫌いだ。「一人」とはいったいどうすればそんな名前を産まれたばかりの我が子につけようと思うだろうか。逆立ちしても良い意味にはなりそうもない。しかし、彼女のその艶かしい声にのったカズくんという響きは僕の二十二年間の鬱屈を拭いさっただけでなく、二人をつなぐ唯一のものに昇華してくれたのだった。

 僕はもっと自分のことを知ってほしい。小鳥遊優のことをもっと知りたい。気がつけば頭はそう思うことでいっぱいになっていた。

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