第九話

 日が沈みすっかり夜の顔をみせているキタの街が、この時期特有のうわついた化粧をほどこしている。それはなにも街に限った話ではなく、視界のさきにとらえた小鳥遊優にも当てはまることだった。

「いつも待たせてたから今日は新鮮だね」

「遅れてごめん。普段使わん電車やったから迷ったあげく、ひとが多くてなかなか乗れへんかって」

 小鳥遊優の姿を間近でみた僕はさとられないように落胆の気をはきだした。彼女のきれいだった目のかたちが、唇のふくらみが、厚い化粧により埋没し、夜にうかぶ灯りのようだった指さきにはその光を覆いかくすようにきらきらとした物が付けられている。僕はこのとき、これまで無関心を貫いてきたクリスマスを急に嫌いになった。

「今日はいつもよりキレイ」

 そう言った僕の言葉は思いのほかスマートに彼女の胸に届いたらしく「うれしい……」としおらしい声音を聴けたことだけが唯一の救いだった。のどに化粧をしていないことが確信できたからだ。

「来てくれてありがとう。じつは予約している店があるのです」

 彼女は白いコートからみえる紺色のセーター地をもちあげエッヘンとでも言うように胸をはった。彼女の魅力をあげるとき、ついディテールに目を奪われがちだが、おおもとにあるその流線型も類をみない──そもそも他類を知らないわけだが──魅力を備えているようだ。僕の視線を気にする風でもなく、彼女は大阪駅の方を指さして歩きだした。

「ちょっと歩くけどいいよね」

 ついて歩きたどり着いた場所は駅前ビルの二十階、神戸牛を専門にしたステーキハウスだった。僕たちはコートをあずけ、彼女が予約していた旨を告げると、襟のとがった身なりの店員が先立って案内してくれた。コートを脱いだ彼女の後ろ姿が普段よりも大人っぽく、いつもとさほど変わらないコーディネートを選んでしまった自分が彼女に恥をかかせていないか心配で仕方がなかった。すらりと伸びたパンツの裾から垣間見える二つのくるぶしを数えながら、なんとか平静をよそおい入り口から一番離れた窓際の半個室に到着した。

「天気がよければ最高だったけど、まあ大阪じゃ星よりビル明かりのほうがまぶしいし一緒だよね」

 下界を見おろしながら食べよう──といった冗句には苦笑をかえすほかなかったが座る前にあらためて店内に目を配ると、やはりこの日は特別なのか、どこを見ても男女の二人組だ。仕切られている隣の室も、そのまた隣も、きっと僕たち同様に予約をしたカップルなのだろう。そう考えながら、僕たちはまだ恋人ですらない、ゆえに同様ではない。とすぐに脳内でかぶりを振った。

「こんなええ店よう取れたね、ありがとう」

 誘いの連絡をうけたのは昨日だ。これだけの盛況ぶりをみるに、よほど運が良くなければ予約をとりつけることはできないように思える。いくら彼女の耳たぶが縁起の良いかたちをしていようと、これに関しては現実のしがらみがある。

「ああ〜……まあ、予約したのはけっこう前のことだからね」

 少し気恥ずかしそうに、でもあっけらかんと話すところは素直に素敵だと思う。こうした発言も裏にあるズルさも僕なら受けいれてくれる、あるいは見過ごしてくれることを分かったうえで彼女は時たまに腹の内を見せてくれる。そしてそれらを見込んで同時に僕に打ち返しやすいボールをトスしてくれているんだ。しかしここまで安直にお膳立てされると、さすがの僕も居心地がよくない。

「だれかに断られたん?」

 それで急きょ僕を呼んだのか──その言葉はのみこんだ。そもそも小鳥遊優のそんな事情にあまり興味がないのだ。これは僕の居心地の悪さを多少なり解消しようという、そう、ただの意地悪だ。

「……わるい?」

「え?」

 突如、彼女のまとう雰囲気がささくれだった気がした。

「意中の彼と来たくて意気揚々と予約して、褒められたくて綺麗な服も買って、なのに直前にふられて。服代をすてるのもキャンセル料払うのも馬鹿馬鹿しいから当てつけでカズくん呼んだの。それの何が悪いの」

 あまりの豹変ぶりにあいた口をふさぐことも出来ず言葉を失っていた。その間抜けな様子の僕をみながら、彼女は赤々とあぶらぎったくちびるを薄くひろく弧に変えていく。

「──って言ったらどうする? うそうそ、誰にも断られてないし、てか他に誰も誘ってないし」

「え、じゃあなんで……?」

 本当に嘘だったのかと疑うほどには真に迫る演技だったが、ん〜……と言いよどむ姿がめずらしく本当に困っているようで、僕はその貴重なシーンを忘れまいと脳に焼きつけることに専念した。なにか興味深い返答がでるかと待ち望んでいたところに、あらわれたのは小鳥遊優ではなく店員だった。手には肉薄で繊細な意匠をこしらえたお皿がのせられている。

「とりあえず食べようよ。コースだけど欲しいのがあったら注文していいからね。あ、もちろん今日のお代はわたし持ちだから気にしないで」

 テーブルに広げられたお品書きをみてもこういうとき何を注文すればのか悩んでしまい、結局コース料理だけを食べて時間が過ぎていった。僕は味覚に長けているわけではないけど前菜もメインのステーキもどれも美味しくて、この店の格の高さに舌が納得していた。料理人のうでの良さだけではこれほどのものは出来上がらないだろう。本物の素材と確かな技術の織りなす完成品である。なるほど、そういうことか。これが本物なんだ。

 小鳥遊優も美味しいを超えて感動すらしていたようで、こぼれるような笑顔を見せながら完食していた。その姿を見ながら食べたという事実も格別のスパイスになった。恋だの愛だのと遠巻きに考えていた僕も改めざるをえない。こういう時間がかけがえのないものなのだ。彼女と一緒なら、何をしていても幸福に感じる。それはきっと洗面台のまえで並んで歯を磨いているときや、夕方のニュースを観ているときもそうなのだろう。彼女と結婚できて、ふたりが共に人生を歩むことになれば、そんな時間を過ごす。みんなが祝福してくれる。それは想像するだけでとても甘くて魅惑的で、反面、恣意的な未来予想図を描いてしまっている気もした。彼女のほうはどうなのだろう……、まだ恋人ですらない僕たちの関係をどう考えているのか。肝心なことはいつまでたっても聞けずにいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る