第十話

 駅前ビルを出たころには雨が降りはじめていた。

「あの日もこんな感じだったね」

 あの日というのが、数か月前の出会った日のことだというのはすぐにわかった。あの日も店を出れば空がぐずついていて、違うとすれば僕の胸にある種の期待感がめばえていること。

「傘持ってないの?」

「うん、晴れてたから」

 駅前ビル周辺は娯楽街というよりテナントビル群であるためクリスマスムードは鳴りをひそめ、雨つぶが足もとの薄汚れたタイルを叩いては消えていく。湿ったノイズが寄り添うように冬が残るだけだった。

 小鳥遊優がバッグから折りたたみ傘をとりだし、僕に手招きした。──雨がやむまでどっかで休んでいこ──。エントランス照明の寒々しさに照らされたくちびるがそう言ったように聞こえたけど、段々と強くなる雨音にかき消され、僕は無言で彼女の傘に手を添えた。聞こえないことが心地よくて、ずっと雨がふればいいのにと思った。そうすればいつまでもせまい傘のなか、下を向いて何も言葉をかわさずとも、僕たちはともに歩いていける。この時間に浸っていられる。僕たちは傘にはじける雨音を愉しむように何も語らずに歩きつづけた。左肩がぬれている。彼女はつめたい思いをしていないだろうか。どこへ向かうにしてもタクシーに乗るべきだったかもしれない。しかし僕はもっと彼女に流されてみたかった。

 ずいぶんと長く歩いたように感じるが、おそらく現実は二十分も経っていないだろう。鋭利な貞操をはらんでいた景色が皮をはぐように変貌していき、やがて流れついた虹彩の歓楽街は、雨にぬれて艶がひと際増している。色をふりまくハイヒールたちも、人混みを避けながらゆっくりと進むタクシーのライトも、すべてが小鳥遊優をひきたてる存在と化していた。

 ひとけが息をひそめる一画で小鳥遊優が足をとめた。つられて立ち止まり、目の前に建つホテルに気がついた。

「やっぱりイブだし、たぶんどこも空いてないよね」

 ぼんやりと独りごちる彼女とちがい、僕の心臓がかつてないほどうるさく叫んでいた。なにも言わず視線を中空に泳がせる彼女の次の合図をまっているのだが、この場で留まり佇む時間は居心地が悪く、僕としてはすぐにでも距離をおきたいところだった。

「また恥をかくのが嫌だから二度と言ってやるもんかって思ってたけど」

 煌々とライトアップした門壁のアルファベットに話しかけているようだが、その矛先は間違いなく僕に向けられていた。

「……うち来る?」

 あの日も、こんな感じだった。

雨がふっていて、湿った空気が彼女の匂いをおびて、僕の鼻腔をいたずらに挑発した。

 部屋に入って照明をつけることもしなければ濡れた身なりを気にかけることもせず、僕たちはベッドに倒れこんだ。不思議と服をぬぐことに抵抗と緊張はなかった。でもその先へ進むことにどうしてか二の足を踏んでしまう。カーテン越しの薄あかりが支配する闇をぬけて、彼女がそっと耳もとでささやいた。

「わたしに任せていいから」


 ────外はまだ雨がふっている。窓にあたったしずくが外灯に照らされてカーテンのうえを泳いでいる。うまれてはすべり落ちて、ぶつかって一つになって、大きくなって裾から消えていく。まだ子どもだったとき、顕微鏡でのぞいた光景を連想させた。

「さっきのお店」

 しずくが消えた先から声がしたと思ったら、それは壁に顔をむけたまま寝ている彼女のものだった。

「さっきのお店ね、今夜カズくんと行くために数日前から予約してたんだ。もっと早く誘うつもりだったんだけど、どうしても勇気がでなくて。今さらって思うかもだけど断られたらどうしようって……それで昨日になっちゃった」

 うなじから続くなだらかな肩甲骨のかたちに見惚れていると、無性に触れてみたくなり手をかざしてみる。そのとき急に彼女がふりむいたために不意に目があった。身にせまる左手と僕の目を交互に見つめ、くしゃっと破顔させ指をからめるように握ってくれた。目が細められたとき、一筋なにかが流れたように光って見えたが、顔は笑っているし、暗くて見間違えたんだと思うことにした。

「初めてしゃべったときから、カズくんのこと、自分の世界を持ってるひとだなって……ありきたりだけど。たぶん、一目惚れに近い感じだったと思う。直感で目が離せない感じ」

 彼女の気持ちがうれしかった。僕はこれまで、誰からも好意をもたれずに生きてきた。それで良いと思っていたし、これからもそれで問題ないと考えていたんだ。小鳥遊優と出会って時をかさねるまでは。

「煙草やめたの?」

「いや」

 たしかにここ最近、彼女といるときは吸うこともなくなっていた。

「気にしないで吸ってもいいよ。……ううん、おねがい、吸って」

 そう言って立ちあがり、服を着ないままキッチンの戸棚から灰皿を用意してくれた。彼女が煙草を吸っているところを見たことがない。どうしてそんなところから灰皿が出てくるのか疑問だったが、例えそれを聞いたところで僕が満足する答えを得られるようには思えなかった。指さきを失くしたように力が入らない。両手でおさえてようやく着火にいたり、薄暗い室内でなにか見えないものを吹き消すように煙を吐きだした。

 もっと雨音が激しくなれば良い────そう思った。

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