第二話

 じっとこちらを見つめる彼女は酔いがまわりだしたのか、目もとには赤みがさし、くっきりしていた黒目と白目の境はじわじわと潤って曖昧になり始めている。先ほど火がついたばかりの心にくわえ、この扇情的な情景、たぎりに任せて押すのが男のマナーだと誰かが言った。しかしそんな先達のいい伝えとは裏腹に、化粧はそんなに濃くないんだな、と妙に冷えた思考を紡ぐ自分に半ば呆れてしまった。

「じゃあ質問です。カズくんは、どうして今日ここにきたんですか? ちっとも楽しそうじゃないですよ」

 彼女のジョッキを持たない方の指が忙しなく動きまわる。僕はテーブルに立ち並んでいる野菜スティックたちを倒してしまうのではないかとひやひやした。それに僕が楽しそうに見えないらしいが当然だろう、実際に場を楽しめていないのだし、もとより苦手な雰囲気なのだ。赤坂に誘われたとき、こうなることは容易に想像できたはずなのに。こんなときでも自分の殻をやぶることが出来ず惨めな思いをするくらいなら、とことん誘惑を断つべきだったのだ。

「空気をよんだり、面白い話をするのが苦手なんです……でも、小鳥遊さんとはもっと話がしたいです」

 思わず吐きだしてしまった本音に、またもや無遠慮な笑みをもらってしまう。「名は体をあらわす」か……その通りだと思う。彼女は小鳥が遊ぶように表情を羽ばたかせ、瞳の奥には母性を抱かせる優しさを携えていた。

「人をその気にさせるのはうまいんですね。もしかしてそれも天然でしょうか」

 水の流れが逆らわないように川をくだるがごとく小鳥遊優という海原の虜になっていた僕は、唐突に周囲へ気を尖らせた。合コンなのだから誰が誰とよろしくやろうと咎められる事などないのに、なぜだか今ふたりの間を漂う空気を誰にも吸わせたくないと考えてしまう。それは僕の至極勝手な欲求だった。幸い小鳥遊と僕の会話を気にする、ましてや訝しむ様子は感じられず、他の六人は二つの三人組に分かれて楽しく過ごしているようだ。これまた身勝手な話だが、僕の相手をさせられている小鳥遊に同情してしまった。きっとこの人も彼らの中に加わって心の底から笑うほどの時間を過ごしたいはずだ。

「もっと話したいなんて言っておいて全然わたしの話を聞いてませんよね。ひとりで喋るのってけっこう大変なんですよ」

 彼女の目がいたずらに細められて不意に我にかえった。

「すいません。誰かとこんなに一緒にいるのが初めてなんで────えっと、ちょっと電話してきます」

 客観的にあるいは相対的にテーブルを囲む様相を分布すれば、どうしても僕たちの空間は浮きあがってしまう。妙に気をつかわせて僕との会話をつなぐより、一度リセットして彼女を今夜限りの喜劇に出演させてあげよう。僕は見えすいた嘘をついて取りつく間も与えないようにそそくさと席を立った。突然立ちあがった僕を気にする人は小鳥遊をのぞいて誰もいなかった。

 がら、がら、と独りきりの引き戸を開放すると、先ほどまで感じていた息苦しさは鳴りをひそめ秋特有の匂いがふたたび僕の肺を洗い出していった。この店に来る途中も同じ匂いを吸っていたが、今はほんのり埃っぽい雨の気配を含んでいる。店の出入りの邪魔にならないように少しわきに逸れ、胸ポケットから煙草を取りだした。ライターを口もとに寄せ何度か横車を回すもなかなか着火に至らない。うまく指先に力が入らず、左手の絆創膏に彼女の名残りを感じた。何度目かのトライを経てようやく火がついた煙草越しに街行く人々の歩く姿が目にうつる。視界をしめる両脚の群れが「人」の字を作りながら歩いている。僕は自分の名前が嫌いだ。誰かがそばにいてくれるとき、見知らぬ人ごみにまぎれ佇むとき、僕が孤独を感じるのは決まってそんな風に他人との距離が近づいたときだった。だから僕は自らひとりを選びまた独りになっていく。それでも未だこの場所に留まり、たった数分間でさえもしつこく粘ろうとしているのは名残惜しさかはたまた気が変わることを期待してか。生憎、僕がいちばん苦手なのは僕自身だ。煙草を吸って何食わぬ顔でもう一度席につけば良いという自分と、もうこれ以上居ても惨めなだけだから帰って日課に精を出せという自分が相反して同居する。幾たびこの葛藤ともつかない選択肢から目をそらしてきたものか、僕が進む道先はいつも安易で楽なほうだった。

 栄養が行きとどいていない骨のような灰がフィルターの先で頭を垂らしだしたとき、がらがらと血色の良い音をたてて店の戸が開いた。顔をのぞかせたのは小鳥遊優だった。彼女は僕をみとめ「あ」の口を描いて近づいてくる。

「急にひとりぼっちにされて今さらあのコミュニティに入っていけないんですけど」

 突拍子もない第一声になんと返せばいいか言葉をさがしているうちに返す機会を失った。

「どうせもう帰ろうとしてましたよね? ならちょっと付きあってくださいよ」

 まもなく午後の九時になろうとしていた週末の御堂筋沿いは文明の蛍が縦横無尽にとびかっている。いつもなら僕はその光景を他人事のように素通りしていたのだが、小鳥遊の言葉に現実味がなかったせいか今夜は俗世に迷いこんだかと錯覚した。ガラス越しに見ていた水槽の向こう側に来てしまったような不安定な浮遊感が胸にこみ上げる。僕の気も知らずに小鳥遊は「こっちです」と歩みをはじめた。僕はあわてて煙草を道端の灰皿にすて、高鳴る鼓動を抱きながら彼女を追いかけた。

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