第三話
小鳥遊に連れられて到着した場所はお初天神通りのバーだった。パチンコ屋やのぼりを下品に立てている居酒屋にまぎれた重厚感のある木目の扉が僕をさらに緊張させた。臆せず扉に手をかけた小鳥遊は慣れた様子で店内へと進んでいく。気も足も遅れながらあとに続くとそこは品のある照明で照らされた木目調の空間が整っていた。わずか七席のスツールは座面があめ色の革張りで、幅広のカウンターは生木を切りだしたような存在感を放っていた。先客はおらず、カウンターを挟んで眼鏡をかけた店のマスターが立っているだけだった。マスターの「いらっしゃいませ」を聞き終わる前に小鳥遊は中央の席を二つ引いて僕を手まねきしている。それに合わせてマスターも手をのべて席を促す仕草をみせた。なるべく自然にふるまおうと席につくが、常日頃から仕事と趣味に埋没した日常をおくる身からすれば今夜の出来事はすでに容量をこえており、視線が泳ぎながらも今なんとか腰を落ちつけた。
「本当は炭酸や甘ったるいお酒って苦手なんです。どうにも気持ち悪くって、職場の飲み会の後とかここにきて口直ししてるんですよ。今夜もひとりで来るつもりでした」
カウンターには赤褐色の液体がそそがれたグラスが二つ並んでいる。小鳥遊が好きな種類のウイスキーらしく、メニュー表もなければお酒の名前に詳しくもない僕は彼女と同じものを注文したのだが、これが大失敗でのどを通るたびに身体中の酸素をまるごと失うような感覚を覚えた。
「こんなに強いお酒は初めて飲みました。いや、お酒自体あまり飲まないんですけど」
ひとりでよく来ると話す小鳥遊にとってここはいわば行きつけであり、大切なパーソナルスペースなのだ。そんな場所に誘ってくれたことが嬉しいのだが、この気持ちをうまく彼女に伝える方法がわからなかった。
「ゆっくり飲んだらいいですよ。私も時間を楽しむために来てるようなもんですから」
かたちの良い唇がうすいグラスにふれる瞬間におもわず目を逸らしてしまった。
「小鳥遊さんはなんで合コンに参加したんですか?」
「やっとカズくんから展開してくれましたね。出会ってからかれこれ三時間は経ってます」
となりの彼女は腕時計を人差し指でとんとんとたたき意地のわるそうな笑みを浮かべながら言った。
「ああ、質問でしたね。カズくんは答えてくれなかったけど私はちゃんと答えますよ。といっても大した理由じゃないんですけどね。ひょんな誘いになんとなく食いついてみたんです。ほら、さっきも言いましたけどビールとか好きじゃないってのもあって飲み会自体に苦手意識をもつようになっちゃって。まあでも職場の人ともそろそろ仲良くしといた方が良いかなって────あ、わたし出身は関東でして四月にこっちに異動してきたんです。実はこの店もまだ数回しか来たことないんですよ。慣れてる感じを出したくてさっきはちょっと見栄をはりました」
小鳥遊は一旦言葉をきり左頬をかきながらグラスを傾ける。
「なんだか話があっちこっちに行きましたけど要は気まぐれです。……しゃべりすぎました。ちゃんと聞いてくれるんですから、あなたはやっぱり良い人ですね」
一度にたくさんの情報をもらったために口をはさむ隙もなかっただけだが、このどうしようもない性格が今回に限って幸いしたようだ。もちろんぽかんとしていただけでなく話に聞き入っており、彼女のその軽快ながらも妙に壁を感じさせる口調は関東なまりによるものかと自分のなかで一応の結論に達していたところだった。
「それと、私のことは下の名前で呼んでくれていいですよ。なんだかいつまで経っても他人って感じがしますし、小鳥遊って苗字は好きじゃないんです」
素敵な姓を授かっていると僕は思ったが口にするのはやめておいた。こうして彼女から距離を縮めてくれるのは喜ばしい反面、急に親しみをこめた呼び名を発することに抵抗がないといえば嘘になる。
「じゃあ……優さんで」
酔ったふりをして僕なりの勇気を出してみた。それを聞いた優さんはとても満足そうに表情をくずした。その顔には目を離せない引力があり、どぎまぎする一方で壁をつくっていたのは僕の方だったとあらためたのだった。そしてもう一つ、小鳥遊優はとてもおしゃべりな人だった。僕が口下手なぶんバランスはとれているように思う。
「僕は優さんの苗字すごく良いと思います」
「まあ好きじゃないってだけで嫌いってことでもないんですよね。名前は親がつけてくれたもので、それって最初のプレゼントじゃないですか? でも苗字ってなんていうか……ありがたみがない、ううん愛着がない? 言葉にするのが厄介ですがそんな感じです。誰かが私をもらってくれれば卒業できるんですけどね」
最後の言葉は妄言だと耳をふさぐとして、彼女の苗字に対する考えは僕のものとは根底がちがうようだ。
その後、僕だけでは彼女に手を焼いていると見計らったのか、店のマスターも少しずつ相づちや話題を提供してくれるようになり、店をあとにする頃には互いに親しみのある口調を交わすようになっていた。昨日までの僕にしてみれば花まるをあげたいほどの対人成果ではないだろうか。もっとも「そういえば連絡先交換しましょ。てかカズくん二十二でしょ? 同い年だから敬語はもうやめよう」と旗をふったのは彼女の方なのだから、そこはやはり僕らしい流れだと思う。そういえば今だにしこりが残っている点がある。あの夜、店を出て商店街をぬけると雨がふっていたのだ。僕は傘を持っていなかったのだけど彼女は折畳み式の傘を常備していて「止むまでうちで待つ? 梅田から地下鉄ですぐだし、最寄りから家もまあまあ近いんだけど」と提案してくれた。ただの親切心かあるいはもっと喋りたかったのか図りかねるが、ひょっとしたらそのどちらでもなく所謂チャンスというものだったのかもしれない。過去の出来事として回想しているということは、つまり今僕は自室でシャワーを浴びながらひとりの時間をすごしているわけだが。意気地のない僕は彼女の提案の裏にひそむものに目をむけず「いえ、タクシーで帰りますので。また連絡します」なんて。しかもたった今気がついたが、僕は深夜のお初天神通りに女性をひとり残して帰ってきてしまったではないか。最低だ。あとでメールを送っておこう。安否確認と今夜のお礼と、ついでに次の約束なんて取りつけられたら良いだとか、いつの間にか不埒な思考も入り込んでしまう。呼び名も喋り方も連絡先の交換まで後手に回っていたのだから最初のメールは僕から送ろうと決めた。
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