第53話 洗衣院は本当にあったの? の話③

 北宋が北方の金に滅ぼされた靖康の変にて、北に連行された宋の后妃や公主は、「洗衣院」と呼ばれる官設妓楼に収容された──とまことしやかに語られることがあります。が、出典とされる文書群「靖康稗史」が清末に突然出てきた(らしい)ことから、「洗衣院」の実在は非常に怪しいんじゃないか、という話をしてきました。

 創作エッセイからは脱線しつつあるのは分かっているのですが、前回(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16818093083989436236)のコメント欄にて情報提供いただいたので、また、興味深いテーマなのでまだ続けます。




 コメント欄でご紹介いただいた記事は下記です。二ページにわたる労作、「靖康稗史」への疑義について、中国の方の論考だそうです。「どうなんですか?」って呟くと返事が返ってくることもある、インターネットは時にとても素晴らしいですね。


《靖康稗史》成书时间献疑及其与袁祖安本《三朝北盟会编》关系初探

(「靖康稗史」成立時期の疑問および袁祖安版「三朝北盟会編」に関する予備研究)

https://mp.weixin.qq.com/s/TdsnAQGlXa5D1w84gygQ4w

https://mp.weixin.qq.com/s/PBNHFls5psgobmAZTEdJDw


 冒頭のアブストラクトにて「此书应是清末文人编造的伪书(この文書(靖康稗史))は清末の文人が作った偽書であろう」と割と強めに言っていて、ここまで調べた身としては「やっぱり?」感がありますね。ちなみに中国語の「应」は英語のshouldくらいのニュアンスになると思います。


 「三朝北盟会編」は、「靖康稗史」にも含まれる「行程録」を収録した文書です。「行程録」について、以前、「唯一ほかの文献にも収録されている」と記述した通り、「靖康稗史」以外のヴァージョンとの比較によって成立時期を推測できると考えられます。前回も、毛利英介先生の「『靖康稗史』存疑」の記述を下記のようにまとめています。


 >「靖康稗史」所収のものにもっとも近いヴァージョン(注・つまり下記に詳述する「袁本」のこと)は光緒年間刊行であり、したがって清末に写されたものと疑われる。


 本記事によると、宋代から伝わる「三朝北盟会編」は元~清朝間に主に手写で伝わってきたものの、清末になって袁祖安によって刊行された「袁本」がもっとも広く広まっているとのこと。そしてこの「袁本」は、それ以前のヴァージョンに比べて特殊な点があるとのことです。

 すなわち、袁祖安版の「行程録」は、清末の咸豊年間写本を底本として、従来の写本に数多くあった誤記を改め、「大金国志」という別の文献に所収のヴァージョンの記述も引っ張って内容を補ったものになるとのことです。それはもう別物では?

 (実のところ、「『靖康稗史』存疑」にも「袁本」は独自性の高いヴァージョンである、という記述はあったのですが、どのような独自性があるかについては詳述されていませんでした。今回紹介する「袁祖安本初探」ではもう少し深く触れられていたので後述していきます)


 清末に成立した袁本を参照したがゆえに、「靖康稗史」収録の「行程録」は宋代以来の写本とは異なる記述になっているのではないか、という指摘は「『靖康稗史』存疑」でもなされていましたが、幾つかの具体例をさらに知ることができました。


・従来の写本では「行程録」の著者は宋の官「鐘邦直」だったところ、「靖康稗史」収録版では「著者不明・無名氏」となっている。それは、袁本が底本を写した際に漏れたものを踏襲してしまったと思われる(底本もあまり状態が良くないヴァージョンだったようで……)。


・宋代の官職名や地名について、「従来の写本にはなく、袁本から出現する」誤記が複数存在する(前回言及した、「四書全庫」の編纂に伴う表記改訂とはまた別の話のようです。宋代成立の書物にはあり得ない「四書全庫」関連の表記の混在については別途項目が立っていました)


 そのほかも、表記や用語の揺れ・混乱、宋代にはあり得ない記述について例を挙げて細かに検証されていました。全部を勝手に翻訳するのは憚りがあると思うので、ここではざっくりとした説明に留めますが。

 なお、「行程録」中の記述に、従来版では「兵火之后,居民才百余家(戦火に見舞われた後の住民はやっと百余世帯である)」とあったところ、「靖康稗史」版では「兵火之后,居民余家」(傍点筆者)となっていて、「なんでそんなに栄えてるんだよ」と突っ込まれているのが面白かったです。中華は数字を盛るって言いますからね……。




 結論から言うと、細部を検証すればするほど「靖康稗史」の怪しさが積み上がっていくように思います。心象としてはもう十分な気もしつつ、すでに人口に膾炙してしまった言説なので、訂正も広まって欲しいなあと思って本稿を書いています。

 ちなみに、「洗衣院」で検索すると結構な上位に本エッセイが出てくるようになってしまっているのでドキドキしています……各記事や論文、かなりざっくりと意訳・要約しているので、気になる人はちゃんと原典に当たって調べてね……。


 また、今回紹介する「袁祖安本初探」においては、「靖康稗史」が作られた動機・背景についても掘り下げられていました。

 前々回紹介した毛利先生の「『靖康稗史』の「出現」について」では、「靖康稗史」を「発見」したことになっている謝家福については、あくまでも「発見者」として扱っていました。「当時謝家福の周辺には、現在伝わっていないようなものも含めて「怪しい」書物が行き交っていたのではないか」との記述があり、偽書だと承知していたのではないか、あるいは彼自身が作ったのではないか、という含みを残している感もあるのですが。単純に「地方のお金持ちの好事家」は偽書を持ち込まれやすいかもね、という意味合いなのかもしれないですが、どうかな……。


 いっぽう、今回の記事では、割とはっきりと「靖康稗史」はほかならぬ謝家福が編纂したものではないか、と述べています。また、その動機・背景についても、毛利先生が推測したような「清末期における反満プロパガンダ」とは少々違う説が挙げられていました。

 社会が激しく動揺した時期であり、「国辱」「国難」を訴える読み物が真偽を問わず流行していた、というのは「プロパガンダ説」とあるていど共通しているでしょうが、記事の著者はさらに加えて、謝家福の著作および(彼が作ったと疑われる)「靖康稗史」等の文献に共通して見られる「果報」思想を指摘しています。

 「果報」というのは、いわゆる因果応報とは少し違って、過去の行いが現在の禍の元凶になっている──つまりは、靖康の変に際して講和を結んでしまった弱腰外交が清朝末期当時の情勢にまで祟っている、ゆえに(当時視点での)今こそ強気で臨まなければならない、という思想のようです。だからプロパガンダ的な言説の積極的な発表に繋がる、ということのようです。


 また、もうひとつの理由として、謝家福が購入・経営していたという「五畝園」なる土地が考えられる、とのこと。このくだり、かなり「マジで?」という話なので今ひとつ読解に自信がないのですが、以下、私が読み取った解釈で述べます。

 謝家福はこの「五畝園」にとても心を砕いていて、「漢代からの歴史がある」と称する地方志を編纂したりしていたようです。

 が、古来文人の地である蘇州にも拘わらず、実際には漢~清初に至るまで、「五畝園」の歴史を裏付ける書物は(ので、たぶん謝家福の願望あるいは妄想ということなのでしょうね)。自分の土地の歴史的価値を創造するために造られたのが「靖康稗史」等の文献ではないか、とのことです。

 「靖康稗史」等の記述に、後の「五畝園」となる土地に関する記述、その歴史を裏書きするための記述がどれだけあるか、私には検証できないのですが、この説が本当ならプロパガンダでさえなかったということで、なかなか面白い(婉曲)話だと思います。


 また、傍証的に、謝家福の日記等で太平天国や李自成の「後宮」について詳細に述べたものがある、つまりそういった方面への興味が窺える、との指摘もありました。

 「『靖康稗史』の「出現」について」によると、「靖康稗史」を友人に紹介する際の謝家福の書簡に「(「靖康稗史」の内容を列挙した後)これ以外の記述は、後宮の醜事に過ぎず、愉快なものではありません」と書いているそうなのですが、これも外向けのポーズの可能性が出てきたりするんでしょうか……。


 ともあれ、「靖康稗史」を書いたのが謝家福であれほかの人間であれ、今日まで残って史実として語られることになるのを予想していたか、また、望んでいたかは興味深い疑問ではないかと思います。

 というのも、清末民国初の段階では、「靖康稗史」の存在感はまだ限定的であった、とも述べられているからです。前回の記事でも言及した「『靖康稗史』の1988年の刊行版である『靖康稗史箋証』」によってこの文献が世に知られ、史実として学術的に取り上げられることになったとのことで……。「靖康稗史箋証」については、「『靖康稗史』存疑」でも「『箋証』の名に相応しく関連の史料を丹念に挙げており参照の価値が高い」と述べられていて、これ自体はたぶん良い本なんですよね……だからこそ信じられてきた面もあると思うんですよね……。


 もしかしたら「靖康稗史」の制作者は冥府で頭を抱えてるのかもしれません。




 最後に、今回紹介した記事の末尾の文を翻訳してお届けします。


 実際の歴史において、女性は確かに戦利品であり、彼女たちの運命が悲惨なものであったことは容易に推測・想像できる。とはいえ、記録されたものは記録されたものであり、記録されていないものは記録されていないものである。


 奇しくも、というか当然のことなのかもしれませんが、以前の記事での私の結論および毛利先生の注と同じことが述べられています。それはそう、本当にそう。

 「洗衣院はなかったんだ、良かったね!」ということでは決してないし、想像として「こういうことがあっただろう/かもしれない」と述べるのは良いと思います。そのような創造のもと、フィクションで「それらしく」描くのも絶対にダメということはないでしょう。

 が、歴史的事実として語るなら、そして、根拠となる文献の真偽が怪しいとなれば、相応の慎重さがあるべきではないか、と思います。


 直近では、「弥助」問題もあったりしますしね。あちらは、日本人なら反論が容易だったり、いわゆる過ぎたポリコレとの絡みがあったりするので「靖康稗史」とは問題の所在がまた別にあるのでしょうが。

 史実と違うことがまことしやかに語られることへの落ち付かなさや不快感は国や時代がどこでも通じると思います。ですので、「靖康稗史」、ひいては「洗衣院」への疑義も広まって欲しいと思います。

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中華後宮・京劇ものを書くにあたって調べたり考えたりしたこと 悠井すみれ @Veilchen

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