第52話 「両京十五日」面白かったよ! の話
今回は、読み終わったばかりの「両京十五日」(馬伯庸 著、 齊藤正高・泊功 翻訳、早川書房、2024年)について感じたこと思ったことを色々と書きます。
日本で紹介されることは恐らく比較的珍しい、明代を舞台にした冒険活劇ということで気になっていた作品です。二段組み・上下巻のボリュームもあってなかなか読む時間が取れていなかったのですが、読み始めたら一気読みでした。フィクションなので参考資料とは呼び辛く、noteでやろうかな、とも思ったのですが、これまで本エッセイで語った話題とリンクする部分が多々あったのでこちらで取り上げます。
本作の舞台は、明の(建文帝を入れて)第四代皇帝洪煕帝の時代。永楽帝による靖難の変の遺恨と爪痕も生々しく残っていた時代、かつ、北京と南京のどちらを首都にすべきかで朝廷が揺れていた時代のこと。
父帝の命で南京に赴いた皇太子・朱瞻基は、乗っていた宝船が爆破されるというテロに遭う。南京の捕吏・呉定縁、後に名臣と謳われる于謙(今は下級官)、謎めいた女医・蘇荊渓は、それぞれの目的と思惑を胸に、皇太子を北京まで護送する。
北京で政変が起き、皇帝が弑されているなら、次の皇帝が立つであろう吉日は十五日後。その日までに皇太子は帰還し、自身の生存を証明しなければならない。黒幕の正体も知れず、誰が味方かも分からないまま、皇太子一行は数多の苦難を乗り越えて北を目指す──
まず、書き手としても読者としても感嘆したのは、とにかく次から次へとイベントが起きることですね! 旅程の間、ほっと一息つける瞬間がほとんどないくらい、裏切りや偶然や奇縁によって一行が窮地に陥るという。物語はこれくらいアクセル踏みっぱなしで良いんだな、と非常に勉強になりましたし、読者としては手に汗握りました。
もちろん、いわゆる「ご都合悪い主義」に陥っているわけではなく、何が起きてもおかしくないくらい強大な黒幕であり周到な陰謀である、という描写が詰まっているので一つ一つの展開が熱かったです。さらに、登場人物たちの個々人、また、各陣営の思惑も深く掘り下げられているので、「この立ち位置ならこうするな!」という説得力があり、それがまた各人の対比や対立、葛藤に繋がるというたいへん美味しい構成でした。最初はカルト集団にも見えた白蓮教の実態、私利私欲だけではない簒奪に加担する理由、さらには「黒幕」の心情の吐露にも大いに共感してしまったりして、重層的な物語の構成に引き込まれつつ、呆然とした次第です。
中華ものの書き手としては、道中の風物や衣食住、移動方法や運河の存在感、官や宗室に関する制度や名称など、興味深く参考にしたい点が満載でした。もちろんそのまま引用するのではなく、この時代の色々な立場・階級の人々の暮らしの解像度が上がってすごい! 面白い! の意味です。
ライト文芸作品だと舞台は後宮やその周辺に限られがちで、その生活がどのように支えられているかはカメラの外になりがちなので……世界観の強度を高めるためには裾野のことも意識したほうが良い、とは分かっているのですが、なかなか勉強も想像も及ばなくて難しいところです。
勉強が及ばないと言えば、本作の作者は中国の方だからか、要所要所で史書や詩や詞を引用しているのが格好良かったですね……。こういうところは本場の方には敵わないのでしょう。せめて、使えそうな語句は日ごろからストックしておきたいものです。登場人物の結構な割合を占めるであろう皇族や高級官僚、ほんらいこの手の知識はたっぷりあって当然のはずなので、書き手との知識の差を読者に感じさせてはいけなないのですよね、本当は。
各キャラクターの生き生きとした性格も本作の大きな魅力でした。
これも貴種流離譚に当たるのでしょうか、物語当初は遊び好きの蕩児の面もあった朱瞻基が民の暮らしや宗室に向けられる目を知って成長していく姿は、後の名君を予感させましたし、予感というなら于謙も(詳しくは後述するのですが) 、この人があの最期を迎えるのはそりゃそうだろうなあ……という納得感がありました。
架空の登場人物である呉定縁も頑固さと情の深さ、それらと両立する心の弱さや迷いや悩みが絡み合う様がキャラクターとして説得力と魅力でした。そして、最後の最後まで目的を隠しきった蘇荊渓には痺れました。登場時は恐ろしく、かつ憎むべき敵だった白蓮教徒の昨葉何や梁皇甫までも、読み終わるころには愛着が湧いているお手並みがすごい。
* * *
と、ここまでが作品そのものへの感想です。以下は、明の歴史についてこれまで調べて疑問に感じていた諸々に対して得た知見です。物語の核心にもちょっと踏み込むのでネタバレ注意です。
まずは、于謙という人物の評価について。以前、于謙は救国の忠臣というよりは土木の変のどさくさに紛れてクーデターを企てた野心家だったのでは、という話をしました。
第29話 土木の変って何だったんでしょうね、という話(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16817330658944766750)
第30話 逆張りは反応が沢山もらえるよね、という話(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16817330659323756387)
あたりです。
英宗がオイラトの捕虜になった後、景泰帝の擁立が早すぎない? と感じたからなのですが、「両京十五日」を読むと、土木の変の時と同様、皇帝不在の状態は一日たりともあってはならない、また、どんな経緯であれ一度即位した皇帝を引きずり下ろすことはできない、という常識が当時の人々には厳としてあったのを実感できました。
素人考えというか現代人の感覚だと、皇帝に不慮の事態が発生したとして、その時皇太子が生死不明で別の人間が新帝として立ったとして。その後、皇太子がやっぱり生きていました! となれば、改めて皇太子に帝位を譲るのが自然な流れに思えるじゃないですか。だから、土木の変においても英宗が帰還したなら景泰帝は兄に帝位を返還すべきでは……? と思ってしまうのですが、どうやら一度決まった、あるいは既成事実となってしまった即位をなかったことにはできないようなのです。
上記の第30話、逆張りは~でも少し触れていて、その時は「そうなんだ……?」という感覚だったのですが、本作でもその理論・前提で物語が展開しているのを読むと「やっぱりそうかあ……」とやっと呑み込んだ感じです。
という前提を呑み込むと、早急に景泰帝を擁立したように見える于謙の行動も、皇帝が捕虜になるという一大事に乗じて新帝を擁立・それによって自己の権力を確立するという私利私欲であるとは断じられなくなります。皇帝不在が国家の一大事であるなら、その事態の解消のために奔走するのは確かに忠臣なのでしょう。
上記の記事で紹介した「モンゴルに拉致された中国皇帝―明 英宗の数奇なる運命」によると、于謙は景泰帝に「臣等誠に国家を憂う、私計を為すにあらず、願わくば殿下艱難を広く救い、以て宗社を安んじ、以て人心を慰めんことを」と迫って即位させたそうなのですが、これも建前でも何でもなく、本心から言ってた可能性も十分ある気がしてきました。少なくとも「両京十五日」の于謙なら本心でしたね。
「両京十五日」の于謙、「皇帝個人よりも社稷が大事!!」を何度も言っていました。良くも悪くも四角四面で融通が利かず折れることができず、それでも憤怒の形相で折れなければならない場面を何度も越え、理想と現実のギャップや民の暮らしの実際を思い知った末に、物語のラストでは「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」という「孟子」の言を体得していました。この世界線での于謙は、この経験を踏まえて土木の変に臨むことになるので、まあそういうことなんだろうなあと思います。
皇帝の推戴にあたって、作法では勧進→形式的な辞退を三日かけて三度繰り返すところ、一日で三回やって済ませた。
というエピソードも、「一刻も早く既成事実を作ろうとして必死だな(笑)」というよりは、この于謙なら顔真っ赤で歯軋りしながら「絶対駄目だけど! やりたくないけど! 危急の時だから!!」と自分に言い聞かせながら踏み切ったところが目に浮かぶようです。
もちろん史実の于謙が忠臣か野心家かは私たちには知る由もないのですが、解釈によっていくらでもイメージが変わるのが歴史の面白いところだと思いました。
余談ですが、上記の「皇帝の即位は不可逆」を呑み込むと、宋代の靖康の変の後、南宋を建てた高宗が兄・欽宗の帰国を頑なに拒んだのはなぜ……? という疑問もでてきますよね。「どさくさ紛れで帝位を得たのが後ろめたく、正統な兄帝の帰還を恐れた」というようなことはしばしばいわれるのですが、上記の理論だと別に恐れる必要はない気がします。宋の高宗に比べて明の景泰帝が兄思いだったとはとうてい思えないのですが。
素人に考えられた理由としては、宋よりも明になってからのほうが国家のシステム化が進んでいて、皇帝個人よりも社稷そのもののほうが大事という概念が強化されたのかな、というのがひとつ。
もうひとつは、皇帝を拉致した金国またはオイラトが、どれだけ本気で返そうとしていたかの違い、なのでしょうかね……。宋を滅ぼしにかかっていた金と、末永く朝貢貿易の恩恵を受けたいだけで別に明の滅亡は望んでいなかったオイラトの違いとも言えるでしょうか。オイラトのエセンが頑張って英宗を帰国させようとしなかったら、景泰帝もそのままのほうが良かったのではないか、と……。この辺りも、掘り下げると面白そうです。
そして、もうひとつ第44話 殉死についての話(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16818093077961161003)にて、明代の妃嬪の殉死はあまりにも尊厳がなさすぎ&この時代になんで今さらこんなことやってたの……? という話をしたのですが、まさに「両京十五日」でも殉死の話題が出てきたので驚きつつ納得しました。この時代の人視点でも残酷で理不尽で時代遅れですよね、やっぱりね!!!
正史では大きく扱われずとも、親しい人を奪われた怒りも悲しみも忘れられないということ。 「そういう制度だから」では到底承服できないし禍根を残すということ。
いずれも、拙作「魁国史后妃伝」を書いた原点かつヒロインの動機なので、この方向性と着眼点は正しかった、と自らを誇っているところです。図らずも、これだけ読み応えのある作品と共通するテーマを設定することができたと知れたのは心強いことです。
「魁国史后妃伝」については、公募に出すために改稿中、また、そのために勉強中の段階なので、思わぬところからやる気をもらえて幸運でした。参考になりそう&面白そうな文献も紐解いているところなので、近々その紹介もできると良いです。
※第44話にて、「洪武帝の時は妃嬪の殉死はなかったみたい」と書きましたが「両京十五日」の著者解説によると「あった」そうです。上記記事にも注釈を入れましたが、誤情報を記載して申し訳ありませんでした。
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