第29話 土木の変って何だったんでしょうね、という話
第21話「最近読んだ本の話」(https://kakuyomu.jp/works/16817330651319871394/episodes/16817330654345036409)にて、「宦官・王振の功名心からの進言によって親政した結果、オイラトの捕虜になるという屈辱を舐めた明・英宗帝、その王振の家廟である智化寺を復興したらしいのは不思議ですね。怨みとかなかったの?」な話をしましたが、その疑問があるていど解消できた本を読んだので語ります。
「モンゴルに拉致された中国皇帝―明 英宗の数奇なる運命」(川越 泰博 研文出版 2004年)
王振主導の英宗親征~土木堡での大敗~英宗帰還を巡る明朝廷とオイラト側の思惑~帰還&南京~奪門の変による英宗復辟までをドキュメンタリータッチで描いた一冊です。つまりは専門の歴史書ではなく一般に分かりやすく、ドラマ仕立てにしてくださっているということですね。お陰で読みやすく楽しませていただきました。
本書を読んでいての第一の感想は、Wikipediaレベルの事前知識が結構違っていたのでびっくり! でした。
英宗本人と話題が逸れてしまうのですが、土木の変の主要登場人物(?)のひとりに
……なんですが、本書によると上記の于謙の記述が色々と実態と違うようなのでした。
・景泰帝擁立について
英宗の実子はいまだ赤子だったので、皇帝不在の非常事態を長引かせないために成人の皇帝を立てるのは妥当。また、郕王祁鈺が皇帝親征に当たって、「居守」に任じられていたのは事実。ただし、名目だけのものであって意思決定権はあくまでも英宗にあった。また、景泰帝よりも年長かつ声望もあった皇族はいた。
・英宗の人質としての価値
モンゴル側は、英宗を盾に高額な身代金を要求したり、無理難題を通そうとしていた訳ではなかった。中華皇帝を捕虜にしてしまった状況には捕まえたほうも驚き動揺して、早々に返そうとしていた。(結果、提示した要求金額が低すぎてかえって疑われることになった)
この点に関連して、英宗処刑を主張した者が、モンゴルの指導者であるエセンの弟バヤティムールにぶん殴られた、というエピソードが紹介されていて面白かったです。この時のバヤティムールの発言を、抜粋しつつ引用してみます(上記の本の55ページ)。
「明の皇帝は雲の上の存在であり(略)どのような箭をもってしても、刀をもってしても、傷殺することは出来ず、福徳はもっとも高かった」
「自分たちは、これまで英宗から沢山の賞賜を受けてきた、だから明廷に使者を遣わして(略)もう一度玉座に即かせることにした方が、万世の評判も得られる」
北辺を脅かしておいてこの言い草と思うとまた面白いのですが、「中華の天子」の威光が周辺地域にも及んでいたことの証左でもあって、いかに北方からボコされようともその存在感はやはり特別なのだなあ、というのが分かりますね。あと、権威を示すという建前の土下座外交こと朝貢貿易がちゃんと仕事してるのを見るのも感慨深いです。
本エッセイではこれまで言及してなかったと思いますが、中国における中華思想の概略については檀上寛著「天下と天朝の中国史」(岩波新書 2016年)がお勧めです。中華皇帝がどのような思想・理論武装のもとに周辺地域を従えようとしたのか、理想と現実の違い・妥協など興味深かったです。
閑話休題。上記の点に、
・留守を預かっていた孫皇太后(英宗の(義)母(実の親子ではないという説がある))は権力維持のために英宗の帰還を望んでいたはず。
・于謙および景泰帝はモンゴルに捕らえられたのは英宗ではないと断じて帰還交渉に応じなかった。(情報が錯綜する中、当時の明側の人間がモンゴルの言い分を信じられるかは割り引く必要がありそう。そもそも土木堡での大敗からして講和を申し出た上での奇襲が原因だったので信頼度はマイナスと思われ……)
・諸官が皇帝を推戴するにあたって、作法では勧進→形式的な辞退を三日かけて三度繰り返すところ、一日で三回やって済ませた。(それだけ皇帝不在の事態が好ましくなかったということでもある?)
・景泰帝は即位した後に捕虜となっている英宗に「兄上がどうしてもって言うからやむを得ず即位することにしました!(意訳)」との書簡を送り、譲位の承認を迫った。
という情報を加えると、「……なんか思ってたのと違うな?」ってなってきますよね。本書においては、「強引に景泰帝即位の方向性を決めた、于謙と景泰帝によるクーデターである」と断じています。英宗返還のためにモンゴル軍が北京に迫る中でも(この文面がすでにかなりおかしい)、弱腰の諸官を叱咤してひとり強硬論を唱えた于謙が明廷をリードすることになるのですが、本書での筆致は「声がデカい奴に引っ張られることってありますよね」くらいのトーンでなかなか辛辣でした。
本来帝位を得る望みのなかった景泰帝が千載一遇の機会を必死に掴んだ、というのはまあありそうだと思いつつ、于謙のほうは国難に立ち向かうためにこそ権力を欲したというストーリーもあり得るはずなので、野心ゆえと断じるのもアンフェアな気はするのですが。後世のイメージと実態が異なることは、ままあるのかもしれません。
その後、なんだかんだで英宗の帰還は叶うのですが、迎接の儀式が景泰帝によって規模縮小されたり、太上皇帝に朝賀したいという請願が却下されたり、英宗が軟禁された宮殿の庭木が伐採されたり門の鎖が溶接されたり(外部との連絡遮断のため)と、なかなか扱いがひどかったようです。中国語Wikiによると、軟禁生活中にも子女を儲けていたとのことなので、それなりに良い扱いだったのかとも思ってたのですが、そんなことなかったようで……。また、景泰帝即位に際しては英宗の子をとりあえず皇太子に据えていたところ、後に廃されて景泰帝の実子が立太子した
さて、ここまで来れば、冒頭の「英宗はなんで王振を許したの?」という疑問への答えは簡単でしょう。だって弟の景泰帝や于謙のほうがよっぽど腹立つから! そもそもは幼少からの近侍で「先生」とさえ呼んで敬っていたとのことでもあるし、一連の出来事の最初期に、乱戦の中で死んだ(味方に殺された)王振のことを怨む動機は、英宗視点ではなかったのでしょうね。本稿を書くにあたって中国語Wikiを改めて読んだところ、「復辟後、香木で王振の像を作った」という記述もあって、それはそれでどうなんだよ、とも思うのですが。
なお、虜囚からの軟禁生活を経て再び帝位に就いた英宗について、行動力のある人だったのかな? と思っていたのですが、そんなこともまた、まったくなかったのが面白かったです。景泰帝や明廷の対応に苛立ったり焦ったりはしたし、軟禁生活の扱いに失意を覚えたりはあったようですが、本書を見る限り、基本的に流されるだけの人生だったように見えます。
特に、モンゴル陣中に潜入して脱走を提案した夜不収(対モンゴルの明朝スパイ)に「そんな危険なことをして万一のことがあったらどうする」と言って断ったエピソード。奪門の変に際して、上述の通り溶接された門の内に閉じ込められていた英宗を救出するために壁を越えて侵入した兵士に「お前らは何をしているのか」と誰何したエピソードは象徴的なように思います。積極性に欠けるなあ……。
という訳で、疑問がスッキリと解消したと同時に、創作によく出てくるダメな感じの君主の解像度が上がったのが嬉しい副産物で、有意義な読書でした。英宗への評価は「名君とは言えないが、王朝自体が斜陽に向かっていた背景を考えるとひとりの君主にできることは限りがあったので、昏君とも言い切れない」という感じのようなので、不公平な感想にはなるのかもしれないですが。歴史の大局に居合わせることになってしまった普通の人の人生もまた味わい深いものです。
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