フィナーレ
今日の日よさようなら、また会う日まで
紀元前五四八年。
開始一行で主人公が死んでしまった。
「は?」
「は? はあ? はあああああああ!? ええっ、ちょっと
頭を抱え、叫び出す趙武に、使者が唖然とする。
「
見かねて、趙武の息子が使者に声をかける。使者は、安堵の顔を見せた後、逃げるように帰っていった。
趙武は、己の息子や帰っていった使者など見えていないようで、ああああああ、と呻き叫び続ける。
「いっやもう、どうしてこのタイミング!?
息子は、そっと立ち去っている。この息子は、己の父が人格者であると思っているが、反面、時々このようにヒステリックにわめくことを知っていた。たいがい、同僚が馬鹿なことをしたときに叫ぶ。――父は幼少のみぎりほとんど天涯孤独であったという。そういった方はどこか辛いこともあるのであろう。そのように適当に判断して、常に放置している。この息子は史書にほとんど記載無く、たいした才能のない誠実だけがとりえの青年であったが、処世に長けていたのであろう。
さて、主人の室で一人怨嗟の声をあげている趙武である。
「よくよく考えれば、死亡フラグじゃなかったですか? 士氏は
趙武はうずくまり、背中を丸めて呻いた。悲しみが襲うどころではない。士匄は、国際的犯罪者対策の要であった。
ちなみにこの烏余は斉を飛び出した時に晋に逃げている。そこから、東方各国を荒らし回った。はっきり言えば、烏余から賄賂を貰った士匄が、黙認したのである。そうして被害にあった国から賄賂――この場合は安全保障経費の名目である――を吸い上げ適当に対処する。凶悪なマッチポンプである。士匄とすれば、その程度を払えぬ小国が弱すぎる、ということであり、晋に被害が無ければそれで良し、稼ぐだけ稼いだらほどほどのところで収めよう、ということだったらしい。彼の中のルールに反していないが、周囲が迷惑するパターンを国家規模で行ったのである。スケールの大きなことが好きな先達だと思っていたが、ものには限度がある、と趙武は思った。
さて回想。
「畏れいります、正卿。烏余の件、
宋の宰相に泣きつかれたこともあり、趙武は強い口調で諫めた。
「あの程度の賊を押さえられぬ諸侯とは、情けないことだ。まあ、いずれ叩く、様子を見ていろ」
士匄が適当なことを言いながら、他の議に持っていこうとする。まだ、賄賂絞ろうと思っているらしい。趙武は、わざとらしくため息をついた。
「宋から個人的に相談されたのですが、実は
仰々しい仕草で言うと、士匄が、は? と声をあげた。
「鄭の誰だ」
「それは私の口からは申し上げられません」
わざとらしく憂いの顔を見せる趙武に士匄が舌打ちをする。
「すぐ軍を出す。各国に合流を伝えておけ。わたしが打って出る。あと、鄭はわたしが担当しているのだ、お前は口を出すな」
士匄の言葉に趙武は苦笑する。鄭の大臣に士匄好みの華やかで理論的な教養人がいる。己のお気に入りを取られる、と焦ったのであろう。ここで、各国の地勢や関係を説明してもきりが無いため、割愛する。
以上、回想ここまで。
このようなわけで、士匄は音頭を取って烏余を追いつめつつあった。が、中途で今、死んだ。歩いている最中にいきなり倒れ、死んでしまったらしい。
――その咒にほころび生じるときが汝の終わりだ。
趙武には士匄ほどの才能はない。戦争も上手いとはいえない。士匄が死んだ今、誰がこの状況を畳むのか。むろん、己である。趙武は頬を軽く叩いた。
「……私には范叔のような見事な差配はできません。できることからやるしかございません。もう、文句も言えないのは寂しいですね」
今は仕事の上司程度であるが、かつては教導していた先達である。趙武は感傷もあり、少し泣いた。趙武が先達としていた公族大夫は士匄を最後に全て旅立ってしまった。
数年をかけ、趙武は士匄の宿題をやりきった。階段を一段ずつ登るように、しかし確実に積み上げ、人をまとめ、和を尊び、最終的に晋の最大の敵である
そのような日々の中、趙武の孫が十才に近づいた。孫に
「我が
柔らかく笑むと孫――
程嬰の話を穏やかに話し終えると、趙鞅が頬を李のようにあからめ、ほおーと大げさなため息をつく。
「おじいさまは、ていえいに会いたい?」
孫の無邪気な問いに趙武は、軽く笑った。
「そうですね。会って元気にやってます、と申し上げたいものです」
もう、五十に近い趙武である。湿っぽい感傷も無くなり、幸せな思い出となっている。孫の無邪気な言葉に合わせて、まあ適当に答えた。
「わかった!」
趙鞅は、元気な返事をすると程嬰を、
――趙武は、一瞬、何が起きたのかわからなかった。
が、すぐさま孫のとなりに、それらしいものがいることを把握し、
「もう私は大丈夫です、お帰りを」
と口早に言って拝礼した。程嬰は、頷いて帰っていった。その様子を見て趙鞅が地団駄を踏みながら口を尖らせる。
「会いたいっておじいさま言ってたのに、元気にしてるって言うんじゃあなかったの、うそなの」
趙武は孫を引き寄せて、目の前に座らせた。
「鞅。祖を気安く呼んではいけない。祖霊の方々は私たちを見守っているのではないのです。見張っているのです。祀りを穢さないか、戒めを忘れていないか、見張っておられるのです。生きている私たちは
常に無いほど強い口調で叱責する祖父に、孫は怯えた顔を向けて涙を浮かべた。趙武の剣幕と注ぎ込まれた情報量に趙鞅は恐怖したのである。
「わかんない」
泣きながら戸惑う趙鞅に、ゆっくり覚えていけばいい、と趙武は言った。趙鞅は虚空に異界を見て、鳥に祖を感じ、夢で天意を見るような子供であった。
「まずはひとつ。迷いなく良いと思うことを取りなさい。それは鞅の好きなことでもいい。お前を惑わすものはたくさん出てくるでしょう。何ものにも囚われずに、迷いなく良いものを見きわめなさい」
趙武は噛んで含めるように言うと、趙鞅を抱き上げて廟を後にした。
少々変わった孫を教導しながらも、趙武は引退もせず政務に励み続けた。そうして、己が死病に冒されていることに気づいた。そうなると、安請け合いもできず、長期的な約束もできない。そのような話を向けられたとき、趙武は、己にはわからない、と返し続けた。
「
このようなことを陰で言われたが、趙武は知らないふりをし続けた。
紀元前五四一年。趙武は冬の祀りのために曾祖父の廟へ向かった。まず、十二月一日に内輪の廟祭を行った。趙氏に保護を求めた傘下の氏族は呼ばず、趙氏だけの祀りである。妻、
「信義を本として信義を遵守し行いなさい。それは例えるなら農民のようなものです。常に草取りをしよう、土を寄せようと陰日向なく働けば、時に飢饉があったとしても豊作と同じように過ごせます。信が守られれば人の下風には立たないと申します。それが守れていると自分でも言い切れません。民だけでなく、人はみな己の鏡です。己も人の鏡です。それを常に思うようにしなさい」
誠実を愛し、努力家で根性のある趙武らしい言葉は、皆の中に静かに降りていった。
趙武は十二月七日、一族全員に惜しまれ愛されながら看取られ、静かに死んだ。
青春怪異譚〜傲岸不遜な公族大夫の日常 はに丸 @obanaga
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