子微かりせば、吾人為らざるに幾し。君がいなければ、僕はろくでなしになっていたよ、ありがとう。

 周都しゅうとである洛邑らくゆうにたどりついたとき、日はすっかり傾き、大地は夕焼けに染まっていた。金とも橙とも朱ともつかぬ色味の中で、士匄しかい趙武ちょうぶは門が完全に閉じられる前に滑り込んだのである。

 聞けば、一日も経っていなかった。斉人せいひとに見送られ、馬車が門を出て数刻し、二人の貴族だけが戻ってきたというだけの話であった。

 ところで、ゆうは集落単位といっても都市国家やその衛星都市を指すことが多く、日本の一般的な『村』ではない、というのは前述した。ゆえに、人は自由に内外を往き来することはできない。しかも門を閉じる直前である。士匄と趙武はもちろん足止めを食らった。仕事に忠実な門番たちは極めて不幸であった。

しゅうの貴い方々が道の祀りを違えたがため、通りがかった我ら怒りに触れ、手勢は全て死に絶えた。我が晋は、常に周王さまのため心を砕いていたのだが、周は晋に思うところでもあるのか!」

 底光りした目つきの青年が、不快さを顔に貼り付けて怒鳴ってきたのである。門番も、駆けつけた周の小役人も、士匄の剣幕に負け、大仰に馬車を用意して二人を乗せた。門を通るための吟味もなく、頭を下げることもない。当然という顔で馬車に乗り込んだ士匄である。趙武は穏便さを好むが、今回は文句一つ言わなかった。彼もいい加減疲れており、物事に麻痺していた。

 邸に戻った頃にはすっかり薄暗く、夜の寒さに近づいていた。先に戻されていた小者たちが趙武を出迎えるのを横目に、士匄は己の手勢に差配した。

「介添え同士、お目にかかったのも天の采配でしょう、周をゆっくりご案内いただいた礼を申し上げたい、良き日を決め互いの繁栄を嘉したい。それを適当に書いて、はくを添えて斉人に先触れしろ」

 一気に言うと、寝所でぶっ倒れた。寝る直前、

「体、を、清める係に、わたしを、きよ……」

 と呟いたため、彼らは爆睡する士匄の衣を剥いで丁寧に拭った。この嗣子ししは時々このようなぶっ倒れかたをするため、家僕たちも慣れていた。

 士匄の先触れと信書を受け取った斉人は苦笑していた。嫌がらせはほどほどにするよう伝えている。あの若い晋人しんひとは文句をねじ込んで来るのであろう。それを、またかわし、翻弄し、丸め込んで手駒にできると思えば、なかなかに良いであった、とほくそ笑む。趙氏ちょうしおさは大叔父が腰が砕けて取り逃がしたが、こちらはしんを代表する法制の嗣子である。父親は真面目で誠実と有名であり、その息子らしく儀礼に拘る青年であった。頭でっかちの世間知らずなど赤子をひねるようなもの、と斉人はほくそえんだ……。

 さて、もちろん斉人はおかわいそうなこととなった。

 数日後、良き日として訪問してきた士匄は、習慣的な儀礼を全て終えた後、

「わたしは東方の貴き覇者はしゃの国、せいに伺ったことございませぬが、我が晋のように砂舞うこともなく良き所と伺っております。あなたさまの統べるあの邑は塩の道にあり仲立ちをなされているとか。我らも塩を持っておりますが世を潤わせるほどのものでなし。ご教示いただきたいものです」

 と、いくつかの邑の名、地勢も合わせてすらすらと言った。斉人の口はしが引きつる。会って数日のガキが、こちらの領地を正確に把握しており、なおかつ秘密裏に行っている塩の販路ラインであることまで指摘したことにおののいたのである。

 士匄はさらに畳みかける。

「わたしの知るに、斉の太公望たいこうぼう、覇者桓公かんこうを支えた管敬仲かんけいちゅうがお定めになった塩の道と、あなたさまの受け持つ場所は少々位置がずれているご様子。我が国に斉のお言葉が正しく伝わっていないようでございます。晋は今、斉のお世話をしておりますゆえ、行き違いあっては申し訳ないものです。あらためて斉公へお伺いしてもよろしいでしょうか」

 国に黙って不正を働いているのであろう、という脅迫である。斉人は喉奥が締まる思いであった。この塩は、不正ではないが、国益のものでもない。大臣の威勢強く君主権の弱体に悩む斉公せいこうが密かに命じた、公室のである。そんなものをおおやけにされれば、政変の多い斉はさらに乱れる。この斉人は、晋へ狡猾であるが、自国への忠は本物である。士匄を手で制し、

「これはここだけの話で、士氏ししに何かお困りのことがあればご協力しよう」

 としどろもどろに返した。賄賂を渡すので、黙っていろ、の意味である。それはぜひご教導願う、と士匄はにこにこと返した。しかし、この程度で終わるつもりはない。足りぬ。

「斉はかの名宰相管敬仲かんけいちゅうが制度を定め、栄えておられる。あなたさまは斉公の覚えめでたい賢人と伺っております。わたしは法制の家の嗣子でございますがまだまだ未熟、ぜひいつかお伺いしご教示いただきたいと思い、礼物をご領地へお送りしております。若輩が賢人に教えを乞うのです、速やかにお納めしたほうがよいとした次第。また、わたしも趙孟ちょうもうけいでもない身ゆえ、贄をお返ししないのはやはり分不相応であり、礼にも反しまする。頂いた獣は、同じくご領地へお戻し致しました。おおよそ祀りに使うは地産のものを使うのが慣わし。あの犰狳きよもあなたさまの守りになりましょう」

「いや、犰狳は祀りではなく、愛玩のもので……もう、戻されたと? いや、それは……」

 斉人のうろたえた言葉に、士匄はようやくニイッと獰猛な笑みをうかべた。

「ああ……我が晋は無粋な国ゆえ、獣を愛玩するという典雅な趣味がございませんでして、気づきませんでした。いただいた次の日に、礼物と共に出立しゅったつしております。もし、お返しが必要無いということであれば、元々が東の獣です、斉にて解き放つよう使者を出しておきましょう。妙に虫に好かれる獣のようでした、山の中で健やかであれば我らの出会いも吉となりましょう」

 士匄の愉悦に満ちた声音に、斉人は蒼白になった。この晋人は犰狳がどういったものかわかっている、と気づいたのだ。犰狳は、見た目は愛くるしい生き物であり、動きも鈍く、その鱗のような皮は薬として重宝されている。が、その身から蝗害こうがいを巻き起こす凶獣でもある。本来、捕まえればすぐにほふるのであるが、

『晋人に会うなら押しつけてしまえば良い』

 となり、この斉人は持ってきたのである。めったに見かけることのない珍獣でもあり、晋人が正体を知っているはずがないとたかをくくっていたのである。

 適当に解き放たれるくらいなら、受け取ったほうがマシである。しかしすでに己の領地に向かっているという。つまり、バッタの大群ごと斉を進んでくるのである。冗談ではない。が、国境で追い返してしまえば、斉晋関係が歪む。十年ほど前に大敗した斉は晋への復讐を誓っているが、現時点、晋のほうが強い。

「贄を貰うは主従の誓い。今回、主従の誓いをしないのです。贄を返すが正しい儀というもの。おや、直接お渡ししたほうがよろしかったでしょうか。気が利かず申し訳ございません。いかがです? こちらに、持ってくるよう使いの者をお送りしたほうがよろしいか? 改めての盟いの場を設けましょうか。――我が晋が斉へご挨拶する際、欒氏らんしが執り行っておりますね。昵懇じっこんの方もおられ邸をご提供するときもあるとか。わたしもあなたさまにご挨拶する際はよろしくお願いしたい。互いの繁栄を祝いましょう」

 斉人は、差配任せます、とがっくりとぬかずいた。

 塩の不正――正確には違うが――をばらすぞとちらつかせ、蝗害を送り込んだと脅迫。賄賂と共に斉における士氏の出先機関になれという要求である。これはスパイではなく、この斉人の権限で士匄に斉の外交特権を与えろ、ということである。この斉人との交流は長かったらしい。はるか後年、士匄は斉との戦争にてこの男を利用し、斉公せいこうを敗退させている。

 斉人が頷いたため、士匄は犰狳だけをその場で屠れという使者を速やかに送った。ところでこの犰狳であるが、現在では絶滅危惧種であるセンザンコウだと言われている。アルマジロに似ているため混同されるが、アルマジロはユーラシア大陸にはいない。

 斉人への意趣返しをきっちりと終え、士匄は趙武を無事、晋へと返した。宣言どおりである。せせら笑いながら口走った約定を守ったわけであるから、まるで義理堅い人間のように見えるが、意地と自己顕示、無能とされるのが耐えられない自己愛からである。趙武はそれをもちろん知っていたが、

「あなたのおかげで私は誇りを守ることができました。感謝に堪えません。私がここに立っているのも全てあなたの献身と矜持があってこそです。これからもご教導をお願い申し上げます」

 と、全身で感謝を示しながら、礼を言った。その後の礼物は気前よく、士匄は上機嫌になった。

「お前のその言葉を我が喜びとしよう」

 そう返した所作は完璧でほれぼれする美しさであったが、すぐさま進呈目録をほくほくと数えながら、頷いたりニヤニヤしてるわけだから、全く締まらない。ちょろい、と趙武は思った。

 ――と。士匄はその頑健さを証明するがごとく、趙武と共に足を洗って旅を終える儀まで、完璧にこなした。趙武は境界での疲労のため、帰国すがら馬車の中でぐったりとしていたが、士匄はそのような姿も見せない。本当に羨ましい、と趙武が言うのを、得意げな顔をしたくらいである。

 単に、意地と見栄であった。趙武から礼物を貰ったその日に、完全にぶっ潰れた。道祖どうそに延々嬲られ、祖霊を呼んで己を贄とし、許容量を超える陰気いんき陽気ようきが体内でぐちゃぐちゃに駆け回ったのである。その時点で休養すべきであったのに、斉人を追い詰めるための情報収集と精査を行い、しっかり盟約をして、趙武と帰国の儀を終えるまで、ほとんど自邸に帰らずアクティブに動き回っていた。もし、邸に戻れば

「何やってたんですかああああっ!」

 と、巫覡ふげきに叱られ、寝所につっこまれ監禁されると思ったからである。実際、そうなった。

 門をくぐった瞬間にぶっ倒れた士匄を見て、巫覡がムンクの名画『叫び』と同じ顔をして、叫んだ。ついていった手勢も、士匄がよもや道祖と対峙していたなど知らず、困惑するしかない。

 ――いったい何が起きたのか

 ちょっと周へ行って、趙武の介添えをしただけではないのか。士爕ししょうも何をしでかしたのかと眉を顰め、何より心配した。厳父であるからこそ息子は愛しいものである。とにかく、嗣子の体内は陰陽が乱れ、不祥瘴気が澱んで居座っている。魂魄双方の疲弊もあいまって、高熱を出し続ける士匄を、士氏総出で看病した。

 士匄は治りきるまで、巫覡の説教と共に自室に監禁された。

 常に健康で、公族大夫こうぞくたいふとしてさぼることなどない士匄である。真面目というものでなく、自信家の野心家は己を誇示するためにも仕事に精力的、というだけである。養生している間、面会謝絶状態であったが、趙武は士爕への挨拶という名目で見舞い品を持ってきたし、荀偃じゅんえんも何度か来たらしい。韓無忌かんむきから養生するように、という信書が届き、思った以上に義理堅いと士匄は木簡を弾きながら笑った。

 欒黶らんえんは庭から直接、士匄の室へやってきた。当時の貴族は、家族ごとに別棟である。誰にも会わずに直接来ることなどたやすい。幼馴染みの彼は、仰々しい儀礼がめんどくさいと、このようなことを昔からする。

「また汝は不祥にやられているのか。軟弱だなあ」

 指さし笑いながら、大貴族の令息とは思えぬ軽薄さで欒黶が庭から室に入ってくる。どっかと座ると、部屋に飾っていた珍品を引き寄せ触りだした。小学生なみの落ち着きの無さである。士匄はぐったりしながら、手を振り招く。もっと近くに来い。欒黶は珍品を放り出すと素直に近づき、寝ている士匄にのしかかるように寝転んだ。上から見ると丁字のようになった。

 まとわりつく不祥は、欒黶が近づくごとに薄まった。境界の世界で貯め込んだ瘴気はカビのようにしつこいが、それにつられてやってきたや凶気は消え失せていった。

 このバカは、異界と常世とこよに嫌われている。祖の祀りでもなんのも出ないほどらしい。天に誓おうが祖霊に礼をつくそうが、なんの恩恵もない。氏族を束ねるとして致命的な欠点といえる。が、彼はそんなこと全く気にしない。欒黶はおもしろおかしく楽しく生きていければ、それで良い人種である。

「なんだ、見舞いにきたのか。手土産は」

 微熱でぼんやりしながら、士匄は言った。

なんじの見舞いと言えば、サボれる。汝がおらぬから、俺に音頭をとれとか問いを出せとか韓伯かんはくがうるさい。汝が戻るまで、サボる」

 そう口を尖らせながら、干しあんずを取り出し食い始める。二十半ばの男とは思えぬほど、幼稚な発想であり、所作である。士匄は、まあ欒黶だしな、と思った。

「おい見ろ」

 欒黶が士匄の顔のほうへ乗り出して笑う。士匄はしぶしぶ首を動かして、見た。

大夫たいふから送られたたちばなだ」

 にゅっと出てきた指に摘まれているのは、現代で言う金柑きんかんである。黄河の北に位置するこの国にとって長江付近の果実であるこれら柑橘類は珍しい。大雑把に全て『橘』とするほどである。食用の他、花を観賞するように香りを楽しむことも多い。

 欒黶は金柑を口に含むとじっくりと味わうような顔をしながら咀嚼した。甘酸っぱい爽やかな香りが士匄の鼻をくすぐった。

「俺の家は名門だ。各国から良きものが来る。この橘も毎年、来る。みな、我が家とよしみを結ぶと良いことがあることをとても知っている」

 賄賂でウハウハ。簡単に言えばこれである。士匄はうんうんと頷いたあと、あ、と口を開けた。欒黶は当然のように、その口へ金柑をひとつ放り込んだ。

 男同士の友情というには少々近い距離のこの二人は、だからといって共依存というわけではない。幼いころからの距離が変わらないだけである。この距離の近さは、士匄が己の娘を欒黶に嫁入りさせるまでに至る。

 小国の君主と同レベルと言われた晋の六卿りくけいである。他国の貴族との婚姻が常識であったろう。また、父と娘ほど離れた年も当時の慣習から外れている。晋において、ここまで距離の近さを感じさせる婚姻はなかなかに無い。

 二人の友情は、欒黶の弟が士匄の嗣子を伴って突出し、戦死したことで粉々に壊れた。欒黶は、

『汝の嗣子がそそのかしたから俺の弟は死んだ。追放しろ。汝が追放せねば、俺が殺す、ここに連れて来い』

 と、ねじ込んだ。当時、欒黶は下軍かぐんの将であり、士匄は副宰相と言うべき中軍ちゅうぐんである。だが、下席が上席に訴えた、という図式ではない。晋で最も強大な名門貴族の恫喝である。士匄は、欒黶の持つ威勢に屈し、息子を追放した。欒黶はバカである。落としどころも妥協も知らず、己の言うことは必ず通ると思っていたし、士匄に対しては特にそうだったのであろう。彼は、士匄の屈辱も怨みも何もわからないまま、その数年後にさらりと死んだ。四十路程度であるが、当時として若死にというわけでもない。

 欒黶の死後、士匄は欒氏を完膚無きまでに族滅させた。その縁で傘下にいた氏族も粛正するほどの激しさである。むろん、士匄は法制の男であったため、罪状を裁いたをとった。欒黶の未亡人となった士匄の娘が、

「新たな欒氏の長は謀反を考えております」

 と訴えたのである。戻った嗣子も含め、士氏は全力をかけて欒氏を滅ぼしつくし、その領地を他の六卿と共に分けた。私闘ではないというポーズであろう。

 そういった結末を迎えるこの士匄と欒黶であるが、この冬の終わりにおいては亀裂のひとつもない。士匄の腹部を枕に、欒黶は寝転びながらしょうもない話をする。士匄は混ぜっ返しバカにする。こういった風景は十にもならぬ時分から変わらない。

「もうすぐ、趙孟が嫁を迎えるだろう? あいつがきちんと使賭けないか?」

 欒黶が極めて下品な提案をした。後輩が無事初夜を乗り切れるのか、というセンシティブな話を娯楽にするのが下劣である上に、それを賭け事にするあたり、品性のかけらもない。

「それはおもしろい。どちらの結果であろうと、あのおぼこはペラペラと報告するであろうよ。韓伯がどうフォローするか見ものだ、乗った。わたしは使えると見た」

 士匄はくつくつと笑いながら返した。こちらも、品性がかなり低い。お、と頷いたあと欒黶が笑った。笑うとかわいげがあり、甘い魅力がある。

「分かれたな。俺は使えぬほうだ。中行伯ちゅうこうはくも巻き込もう。いやあ、趙孟がどう説明するか、楽しみだな」

 二人とも、趙武が議として問われたら生真面目に己の初夜を垂れ流すことを疑っていない。未だ人生の猶予期間、何者でもない二人は、間違い無く悪友で親友であった。

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