子微かりせば、吾人為らざるに幾し。君がいなければ、僕はろくでなしになっていたよ、ありがとう。
聞けば、一日も経っていなかった。
ところで、
「
底光りした目つきの青年が、不快さを顔に貼り付けて怒鳴ってきたのである。門番も、駆けつけた周の小役人も、士匄の剣幕に負け、大仰に馬車を用意して二人を乗せた。門を通るための吟味もなく、頭を下げることもない。当然という顔で馬車に乗り込んだ士匄である。趙武は穏便さを好むが、今回は文句一つ言わなかった。彼もいい加減疲れており、物事に麻痺していた。
邸に戻った頃にはすっかり薄暗く、夜の寒さに近づいていた。先に戻されていた小者たちが趙武を出迎えるのを横目に、士匄は己の手勢に差配した。
「介添え同士、お目にかかったのも天の采配でしょう、周をゆっくりご案内いただいた礼を申し上げたい、良き日を決め互いの繁栄を嘉したい。それを適当に書いて、
一気に言うと、寝所でぶっ倒れた。寝る直前、
「体、を、清める係に、わたしを、きよ……」
と呟いたため、彼らは爆睡する士匄の衣を剥いで丁寧に拭った。この
士匄の先触れと信書を受け取った斉人は苦笑していた。嫌がらせはほどほどにするよう伝えている。あの若い
さて、もちろん斉人はおかわいそうなこととなった。
数日後、良き日として訪問してきた士匄は、習慣的な儀礼を全て終えた後、
「わたしは東方の貴き
と、いくつかの邑の名、地勢も合わせてすらすらと言った。斉人の口はしが引きつる。会って数日のガキが、こちらの領地を正確に把握しており、なおかつ秘密裏に行っている塩の販路ラインであることまで指摘したことにおののいたのである。
士匄はさらに畳みかける。
「わたしの知るに、斉の
国に黙って不正を働いているのであろう、という脅迫である。斉人は喉奥が締まる思いであった。この塩は、不正ではないが、国益のものでもない。大臣の威勢強く君主権の弱体に悩む
「これはここだけの話で、
としどろもどろに返した。賄賂を渡すので、黙っていろ、の意味である。それはぜひご教導願う、と士匄はにこにこと返した。しかし、この程度で終わるつもりはない。足りぬ。
「斉はかの名宰相
「いや、犰狳は祀りではなく、愛玩のもので……もう、戻されたと? いや、それは……」
斉人のうろたえた言葉に、士匄はようやくニイッと獰猛な笑みをうかべた。
「ああ……我が晋は無粋な国ゆえ、獣を愛玩するという典雅な趣味がございませんでして、気づきませんでした。いただいた次の日に、礼物と共に
士匄の愉悦に満ちた声音に、斉人は蒼白になった。この晋人は犰狳がどういったものかわかっている、と気づいたのだ。犰狳は、見た目は愛くるしい生き物であり、動きも鈍く、その鱗のような皮は薬として重宝されている。が、その身から
『晋人に会うなら押しつけてしまえば良い』
となり、この斉人は持ってきたのである。めったに見かけることのない珍獣でもあり、晋人が正体を知っているはずがないとたかをくくっていたのである。
適当に解き放たれるくらいなら、受け取ったほうがマシである。しかしすでに己の領地に向かっているという。つまり、バッタの大群ごと斉を進んでくるのである。冗談ではない。が、国境で追い返してしまえば、斉晋関係が歪む。十年ほど前に大敗した斉は晋への復讐を誓っているが、現時点、晋のほうが強い。
「贄を貰うは主従の誓い。今回、主従の誓いをしないのです。贄を返すが正しい儀というもの。おや、直接お渡ししたほうがよろしかったでしょうか。気が利かず申し訳ございません。いかがです? こちらに、持ってくるよう使いの者をお送りしたほうがよろしいか? 改めての盟いの場を設けましょうか。――我が晋が斉へご挨拶する際、
斉人は、差配任せます、とがっくりとぬかずいた。
塩の不正――正確には違うが――をばらすぞとちらつかせ、蝗害を送り込んだと脅迫。賄賂と共に斉における士氏の出先機関になれという要求である。これはスパイではなく、この斉人の権限で士匄に斉の外交特権を与えろ、ということである。この斉人との交流は長かったらしい。はるか後年、士匄は斉との戦争にてこの男を利用し、
斉人が頷いたため、士匄は犰狳だけをその場で屠れという使者を速やかに送った。ところでこの犰狳であるが、現在では絶滅危惧種であるセンザンコウだと言われている。アルマジロに似ているため混同されるが、アルマジロはユーラシア大陸にはいない。
斉人への意趣返しをきっちりと終え、士匄は趙武を無事、晋へと返した。宣言どおりである。せせら笑いながら口走った約定を守ったわけであるから、まるで義理堅い人間のように見えるが、意地と自己顕示、無能とされるのが耐えられない自己愛からである。趙武はそれをもちろん知っていたが、
「あなたのおかげで私は誇りを守ることができました。感謝に堪えません。私がここに立っているのも全てあなたの献身と矜持があってこそです。これからもご教導をお願い申し上げます」
と、全身で感謝を示しながら、礼を言った。その後の礼物は気前よく、士匄は上機嫌になった。
「お前のその言葉を我が喜びとしよう」
そう返した所作は完璧でほれぼれする美しさであったが、すぐさま進呈目録をほくほくと数えながら、頷いたりニヤニヤしてるわけだから、全く締まらない。ちょろい、と趙武は思った。
――と。士匄はその頑健さを証明するがごとく、趙武と共に足を洗って旅を終える儀まで、完璧にこなした。趙武は境界での疲労のため、帰国すがら馬車の中でぐったりとしていたが、士匄はそのような姿も見せない。本当に羨ましい、と趙武が言うのを、得意げな顔をしたくらいである。
単に、意地と見栄であった。趙武から礼物を貰ったその日に、完全にぶっ潰れた。
「何やってたんですかああああっ!」
と、
門をくぐった瞬間にぶっ倒れた士匄を見て、巫覡がムンクの名画『叫び』と同じ顔をして、叫んだ。ついていった手勢も、士匄がよもや道祖と対峙していたなど知らず、困惑するしかない。
――いったい何が起きたのか
ちょっと周へ行って、趙武の介添えをしただけではないのか。
士匄は治りきるまで、巫覡の説教と共に自室に監禁された。
常に健康で、
「また汝は不祥にやられているのか。軟弱だなあ」
指さし笑いながら、大貴族の令息とは思えぬ軽薄さで欒黶が庭から室に入ってくる。どっかと座ると、部屋に飾っていた珍品を引き寄せ触りだした。小学生なみの落ち着きの無さである。士匄はぐったりしながら、手を振り招く。もっと近くに来い。欒黶は珍品を放り出すと素直に近づき、寝ている士匄にのしかかるように寝転んだ。上から見ると丁字のようになった。
まとわりつく不祥は、欒黶が近づくごとに薄まった。境界の世界で貯め込んだ瘴気はカビのようにしつこいが、それにつられてやってきた
このバカは、異界と
「なんだ、見舞いにきたのか。手土産は」
微熱でぼんやりしながら、士匄は言った。
「
そう口を尖らせながら、干し
「おい見ろ」
欒黶が士匄の顔のほうへ乗り出して笑う。士匄はしぶしぶ首を動かして、見た。
「
にゅっと出てきた指に摘まれているのは、現代で言う
欒黶は金柑を口に含むとじっくりと味わうような顔をしながら咀嚼した。甘酸っぱい爽やかな香りが士匄の鼻をくすぐった。
「俺の家は名門だ。各国から良きものが来る。この橘も毎年、来る。みな、我が家とよしみを結ぶと良いことがあることをとても知っている」
賄賂でウハウハ。簡単に言えばこれである。士匄はうんうんと頷いたあと、あ、と口を開けた。欒黶は当然のように、その口へ金柑をひとつ放り込んだ。
男同士の友情というには少々近い距離のこの二人は、だからといって共依存というわけではない。幼いころからの距離が変わらないだけである。この距離の近さは、士匄が己の娘を欒黶に嫁入りさせるまでに至る。
小国の君主と同レベルと言われた晋の
二人の友情は、欒黶の弟が士匄の嗣子を伴って突出し、戦死したことで粉々に壊れた。欒黶は、
『汝の嗣子がそそのかしたから俺の弟は死んだ。追放しろ。汝が追放せねば、俺が殺す、ここに連れて来い』
と、ねじ込んだ。当時、欒黶は
欒黶の死後、士匄は欒氏を完膚無きまでに族滅させた。その縁で傘下にいた氏族も粛正するほどの激しさである。むろん、士匄は法制の男であったため、罪状を裁いた
「新たな欒氏の長は謀反を考えております」
と訴えたのである。戻った嗣子も含め、士氏は全力をかけて欒氏を滅ぼしつくし、その領地を他の六卿と共に分けた。私闘ではないというポーズであろう。
そういった結末を迎えるこの士匄と欒黶であるが、この冬の終わりにおいては亀裂のひとつもない。士匄の腹部を枕に、欒黶は寝転びながらしょうもない話をする。士匄は混ぜっ返しバカにする。こういった風景は十にもならぬ時分から変わらない。
「もうすぐ、趙孟が嫁を迎えるだろう? あいつがきちんと
欒黶が極めて下品な提案をした。後輩が無事初夜を乗り切れるのか、というセンシティブな話を娯楽にするのが下劣である上に、それを賭け事にするあたり、品性のかけらもない。
「それはおもしろい。どちらの結果であろうと、あのおぼこはペラペラと報告するであろうよ。韓伯がどうフォローするか見ものだ、乗った。わたしは使えると見た」
士匄はくつくつと笑いながら返した。こちらも、品性がかなり低い。お、と頷いたあと欒黶が笑った。笑うとかわいげがあり、甘い魅力がある。
「分かれたな。俺は使えぬほうだ。
二人とも、趙武が議として問われたら生真面目に己の初夜を垂れ流すことを疑っていない。未だ人生の猶予期間、何者でもない二人は、間違い無く悪友で親友であった。
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