天有典を叙す我が五典勅しめよ、人との縁と絆を大切にしようぜ、運命に感謝!

 本来、境目で鎮座し、現世うつしよ常世とこよ、約定と敵対を無感情かつ均等に裁定する。線引きの神が道祖どうそである。ゆえに、特定の氏族が祀ることなく、特別な者を求めない。

 目の前で朽ちかけている道祖は、特別な者――士匄しかいを求めた。その時点でこの神は境界線上から外れている。文様一つない石柱であるが、士匄はそこに表情を見た。不快、という顔であった。

「あれは、淫祠いんしになろうとしている」

 士匄は睨み付けながら吐き捨てた。未だ士匄を庇う姿勢のまま、趙武ちょうぶが眉をしかめる。

「それは……夏に来た巫女のような、ものですか?」

「いや、あの山猿女が神としていた狍鴞ほうきょうやその親玉だ。このわたしをあのクソ女と同じにしようとしたわけだ、おこがましいのもほどがある」

 趙武は士匄の罵詈雑言を聞かなかったことにした。今さらでもある。それよりも状況の打破であった。

 基本的に、道祖は能動的な行動ができない神である。朽ちかけたあれも、選択をつきつけ、裁定をするというルールに未だ縛られている。だからといって、立ち止まっているわけにはいかない。寒風は相変わらず強く吹きすさび、二人の体は冷えていく。立ち尽くしていては低体温症で死に至るであろう。何より、動かぬものを道祖はこれ幸いと裁定し、罰するであろう。

 士匄は己のふところに片手をいれ、かじかむ指先でまさぐった。護符である犬の骨はもちろん、常に持ち歩いているぎょくでさえ粉々である。史書や発掘品を見るに、当時の貴族はぎょく――何度も頻出しているが瑪瑙めのうである――を身につけ常に持ち歩いていたようだ。士匄もたしなみとして玉を持ち、なおかつ魔除けとしての玉も持ち歩いている。が、この境界に飛ばされる直前、道祖から士匄を守り、全て砕けた。

 ち、と士匄は舌打ちしたあと

趙孟ちょうもう。玉を持っているか。わたしのものは全て潰された」

 言われ、趙武が己の帯を見て、次に袂をまさぐった。帯に玉璧ぎょくへきを提げている貴族は多い。袂は腕にぶら下げていたのであろう。あてが外れたような顔をして、趙武が口を震わせた。

「申し訳ございません、私も……」

 やはりか、と士匄は苦い顔をした。いくつかの算段はある。が、それをするには、元手がなさすぎた。相手の陣地の中、徒手空拳で勝てるなどと楽観的で自信家の士匄だって思わない。この青年は傲岸であるが無謀ではない。合理的な思考が不可能だと告げていた。

 趙武が、士匄の袖を引いた。見やると、逡巡した顔で、口をぱくぱくとさせている。

「あの……その」

「なんだ」

 この期に及んでなんだ、と士匄は苛立った。こうしている間も、道祖からの圧迫は強くなっている。趙武はそこまで感じていないのであろう。士匄は深く息をついた。喉が絞められるように苦しい。

 苦痛を察したのか、趙武がきゅっと口を引き結んで、己の衿の中に手をつっこんだ。むりやり首掛け紐ごと小さな守り袋を取り出し、緊張した面持ちで袋に指を入れる。ふっと安堵の顔を見せた。

「手をお願いします」

 趙武が言いながら、士匄の手をむりやり取った。何がお願いだ、と言おうとしたところで、掌に立方体に近い瑪瑙が乗せられる。

程嬰ていえいから渡された、父の形見です。父は祖父から受け継ぎ、祖父は曾祖父から受け継いだ、当家の家宝です」

「……、か」

 璽、とは印章を指す。後にしんの始皇帝が名称を占有し、皇帝の印章の意味になってしまったが、この当時は一般的な言葉であった。玉で作られているわけであるから、まさにこれは玉璽ぎょくじである。

「で? お前の曾祖父の趙成子ちょうせいし文公ぶんこうから下賜かしされたわけか。それは家宝であろうよ」

 文公とはしんを勇躍させた覇者その人である。この君主は長年仕えた臣と心を違えぬと玉を河神かしんに捧げて誓ったという逸話がある。士匄はその是非を知らぬが、誓いだか加護だかで寵臣たちに玉璽を下賜していたということであろう。

「我が曾祖父の妻は文公の夫人の姉です。私の母は文公の孫。この縁、そしてこの玉璽の加護を以てしても我が一族は滅びかけましたが、でも私はここにいます。お役に立ちますでしょうか」

 質の良い瑪瑙に彫られた、趙成子を言祝ことほぐ文字を見て士匄は笑う。

「充分だ。いただこう」

 借りると言わぬ士匄に趙武も頷き、

「もういらぬものです」

 と返した。

「さて。わたしはあの石ころに引導を渡す。お前の助けがいる」

 指先で玉璽を弄びながら士匄は趙武を見下ろした。趙武が目を見開く。今まで、趙武から手伝うと言うことはあった。しかし士匄が助けろと言うことは無かった。士匄が歩けば趙武が黙って着いていく、という関係である。教導であり、であった。

「なんでしょうか」

 趙武が前のめりになり食い気味に言った。士匄は少し引きつる。この、傲岸で自儘な男は、己が無意気に『助けがいる』と口走ったことに気づいていない。

「走れ」

 士匄は、あごをしゃくって、元来た場所を指した。趙武が、は? と首をかしげているところに、一言二言説明をする。理由は説明せず成すべき事だけを伝える。士匄は命じているつもりであるが、趙武は『お願い』だと受け取った。どちらの解釈が正しいかは読者の好みで良い。

 趙武が強い風に衣をはためかせながら走り出した時、士匄はようやく道祖を真っ正面から見た。ちくちくと苛むような視線はうっとうしかった。ねっとりとした秋波しゅうはのような空気は気持ち悪い。痛みや苦しみよりも、生理的嫌悪が先に立つ。もっと言えば、強姦魔に見下ろされているような不快で吐きそうであった。

「そのように求められても我が身はいずれ晋公しんこうに仕える身。あなたさまがいくらお望みでも、嗣子ししのわたしの一存で、神に添うこと適いませぬ」

 士匄のマクラに、道祖は反応しない。選択による答えではなく、保留と受け取ったらしい。士匄は不敵な笑みを浮かべながら玉璽を握りしめ、その拳をもう片方の手で包むように握る。姿勢正しい、立礼りつれいをとった。この礼は道祖に対してではない。士匄の目は、道祖を見ていない。もっと、遠い場所を意識し、息を整えた。

「昔、かいの祖、より以上を陶唐氏とうとうしと為す。に在りては御龍氏ぎょりょうしと為す。しょうに在りて豕韋氏しいしと為す。しゅうに在りては唐杜氏とうとしと為す。晋夏盟かめいつかさどりては、范氏はんしと為れり。古人こじん言へること有り、曰く、死して朽ちずと」

 己の祖から今までの名乗りをあげた上で、この連綿と続く己の家こそが不朽であると士匄は言い切った。

 本来、死して朽ちず――則ち不朽とは、戦争で捕虜となった貴族が、国に戻されるときの言上である。己は敗北して捕虜となり、本来なら贄となるべきところを敵国の温情で戻る。故に故国にて処刑されるであろう。我が君の手で死するなら、死んでもこの身は不朽である。この習慣や文言は、当時の貴族がいまだ主君と祭祀を同じくしていたからだと思われる。

 しかし、士匄は捕虜ではなく、共同体への同調も謳っていない。彼は、己の祖と家が続き栄えているという、己の氏族の祭祀と帰属を謳っているのである。使い方は同じであったが、意味も目的も変わった。

 子供のころから知っている酩酊がくる。地の底に落ちようという反射がくる。が、今回はそれではない。常ならできぬことが、ここならできる。なぜなら、この場所は現世でも常世でもない、境界だからだ。士匄は、己の意識に集中しながら、静かに呼吸をした。

 ふ、と風が凪いだ。吹き荒れる強風が止み、はためいていた衣が体にまとわりついたまま止まる。はたはたと布が降り落ち着いていき、耳はキンと静寂が響きわたった。晴れ渡った空から、冬の優しい陽光が降りてくる。

なんじはそうやって才に振り回され、解を先に取ろうとする」

 声に気づくと同時に、目の前に男の姿がすでにあった。いきなり現れたとしか言いようが無いのだが、どこからやってきたのかもわからない。ただ、すでにあった。士匄とほぼ同じ年と思われたその男は、落ち着いた風情であったが、獰猛な虎を思わせる雰囲気もあった。精悍な顔立ちで、どこか父に似ていた。どちらにせよ。士匄の知らぬ男が立っている。

「しま、」

 しまった、と呻こうとしたとたん、男の手が士匄の唇に触れ、声を制す。喉奥がくうっと鳴った。士匄はここ一番で失敗したことが無い人生を送っている。ゆえに、今回も間違っていないという確信があった。が、失敗したと、腹の奥がずり落ちそうな心地となる。何が間違っていたのか、と必死に思い巡らせた。

 男は、士匄の混乱と絶望を察したようで、肩をすくめた。

「安心しろ、かい。汝の解は間違っていない。幾度、やりすぎるなと言ってもやりすぎる、祖を安易に呼ぶな、死者は生者と歩まぬと言っても呼ぶ。しょうの苦労が思いやられる」

 苦笑交じりの声に、士匄は深く息を吸って吐いた。

「若作りしすぎじゃあないか、じいさん」

「汝の年が悪い。形を作れば依り代にどうしても引きずられるものだ、既に魂のみの存在だ、どうしようもない。さて、今から我らという。わたし、范武子はんぶしは代表のようなものだ。汝は我ら祖を全て呼んで、何をする」

 士匄は己の掌をひらき、玉璽を見せた。范武子が興味深そうに見て来る。

「文公の玉璽ではないか。趙氏ちょうしへ下賜されたものか。我ら……いやこのわたしは文公の介添えをしたことがあるゆえ、多少縁があるが、汝には無いな」

「はいその通り。じいさんは説明の手間がはぶけていい。この玉璽を使い、やりたいことがある。が、わたしとは相性が悪い、というか無い。が、じいさんはある。介添えを願いたい」

 思案顔で聞いていた范武子が、いきなりそっぽを向いた。視線の先には、圧を拡大させ、磁場さえ歪ませる道祖がいる。士匄は范武子を押しのけて前に出た。祖霊を取り込まれれば、士匄は二重の意味で太刀打ちできない。ひとつは、純粋に力を取られる。もう一つは、祖の権限で士匄は嗣子を剥奪される。そうならば、淫祠の巫覡ふげきと成りはて、自我もなく狂いながら生きていくのであろう。

 道祖も朽ちかたが激しくなっている。もはや、なりふり構わず生まれ変わりたいらしい。士匄の足元が崩れ落ちた。一瞬の浮遊感のあと、范武子にその襟首ひっ捕まえられ、後方に投げられる。士匄は地面を滑るように転がった。范武子が孫の無事を確認しながら口を開く。

「未だ道祖であるあなたに申し上げる。この身は黄泉こうせんのもの、あなたさまが見送るものなれど、ここは境界であり、つまり黄泉でもある。あなたさまへのおもてなしの介添えすべく、我ら参じたまで。匄、さっさとやれ。贄は玉か?」

「いや、わたしだ。玉は使うが、祖への贄はわたしになる。ゆえ、言上を先にした」

 立ち上がりながら士匄は返す。手を開いて玉璽を一瞬見たあと再び握りしめ、道祖を見た。もはや、礼などいらぬ相手である。范武子がおもてなしなどと言ったが、違う。士匄は今から、この神にのである。その士匄の背を、范武子がそっと触れた。ぞっとするような冷気が士匄の体の中へ入ってくる。陽の気配ひとつもない、闇の底にたゆたうような陰が骨を凍らせるようであった。

「汝が贄になること、我ら祖は受け入れ許す。汝は己でしゅをかけた。その咒にほころび生じるときが汝の終わりだ」

「わたしは太く長く生きる所存だ、ご心配なく! さあて、道祖よ。おおよそ道へ入るものは犬をほふり贄とする。このわたし、匄はその儀を以てここに至る。道を出るもの、足を洗いその儀を以て戻る」

 士匄はふところに残っていた玉のかけらを己の足に巻いた。その瞬間、自分の横腹から石が突き出て地に落ちた。こんなところに仕込まれていたのかと、歯ぎしりをする。もし、疑似的に『旅』を終えなければ、所有化され続けていたわけである。後ろで、范武子が呆れる空気があった。一足飛びに解を欲しがる浅慮、と言いたいに違いない。士匄は己に渡された道祖の力を探すことを最初から放棄して、むりやり関係を断ち切るほうへふりきったのである。

 己の国、ゆうを出て道へ立ち入るその瞬間、人は異界へ入るようなものである。ゆえに、道祖の祀りを行う。儀礼的な宴を行った後、犬を屠る。当時、犬の贄は清めでもあった。そして異界から帰る人々は足を洗う儀がある。言わば、異界に晒された魂を人の世に戻すためである。士匄は、犬の骨の護符を道祖によって粉砕されたことを犬を屠ったとし、粉々の玉で足を清めたことを洗ったと仮託したのである。子供だましのようなものであり、いきなり目の前で手を叩いて驚かせる程度のことであったが、一瞬でも関係が外れれば良いのである。要は、渡された道祖の力を取り払うこと、そして道祖の境界の中に士匄という別の境界が現れれば良いのである。

 道祖がペテンに気づく前に、士匄は口を開いた。

一陰一陽いちいんいちようこれを道とう。之を継ぐ者は善也ぜんなり。之を成す者は性也せいなり

 范武子から流れ込む大量の陰の気が、急激に陽へと変わる。士匄は内頬の肉を噛んで、叫ぶのを耐えた。心臓の音が耳元で鳴り響くように大きい。言上をしようと口を開くが、息が吐き出されるだけであった。范武子からの陰は容赦無く続く。さっさとしろと言わんばかりであり、お前が潰えても構わないと言わんばかりである。

 士匄の内側で、大量の陰が陽に代わり続けている。そそがれている陰の気と、変換される陽の気で、子供だましの境界は、固定された。一陰一陽、これこそ天道である。これを受け継ぐことこそ善、完成させてゆくものが人の性。己の内側に陰陽いんよう循環を作用させて、万物を生成する存在となる。現世と常世の境界の中に、極端な陰陽循環の場をむりやり入れ込んだのである。むろん、そんなものは本来できようはずがない。しかし、道祖の境界というあやふやな場所だからこそ、祖霊全員総動員して、己を贄にすれば、再三合うだろうと前のめりに敢行した。解ばかり先取りしたがる彼らしい。

 頬を噛んで滲んだ血を唾ごと吐き捨て、士匄は今度こそ言葉を発した。

「汝、天が下民かみん「を治めその居を相協そうきょうす、其のりんじょするところ知らぬ蒙昧の監門。かつて禹王うおうは天より洪範九疇こうはんきゅうちゅうの大法を賜り倫を叙す。汝はこの大法を知らず、ゆえに倫の叙するを知らず、ゆえに惑い悦びも無し。したがって牀下しょうかにあり。其の資斧しふうしなう。まさに凶。ここにこの匄の令をもって、洪範九疇の第一を示すものとする」

 手に持つ玉璽を意識しながら、睥睨へいげいするように道祖を見る。本来、高位の道祖を引きずり落とし、足元に屈服させる。冷厳たる裁定者であるはずの道祖がみっともなく士匄を追いかけ回したのである。媚びへつらい、まさに己の資斧――徳の象徴を失ったと断言してやる。道祖は人の法では動かない。本来、人々のための洪範九疇、略して九法きゅうほうも関係無い。しかし、道祖を捨てるのなら必要であろうと餌をちらつかせてやる。士匄は支配者そのものの顔を道祖に向けた。この間も、范武子からの陰気は送り込まれ、士匄の中で陽気となり、膨れあがり皮膚を破りそうなほどである。陰陽は一定の循環で動いているわけではない。動きは不定であり、変化の予測などできない。今、士匄の体の中は暴風雨のようなものであった。

 一度だけ、奥歯を噛みしめると、

「一にいわく、五行ごぎょう

 と、怒鳴るように言った。ほとんど恫喝めいていたが、この勢いがないと言葉を発せなかったというのもある。

「一に曰くすい。二に曰く。三に曰くもく。四に曰くきん。五に曰く

 士匄は、片手で玉璽を握った拳をなぞる。一つずつ数えるように、言葉に合わせてなぞり、土と発したときに、そっと道祖を指した。石柱からすうっと粘っこい圧が消える。その代わり、渇望するような媚びが漂った。

「水に潤下じゅんかい、火に炎上と曰い、木に曲直きょくちょくと曰い、金に従革じゅうかくと曰い、土は稼穡かしょくう」

 水は低きに流れ、火は燃えて昇る。この二つはおのずと起こる現象を指している。木は曲げ伸ばし作り変え、金は意のままに形を作る。これは人の文明を指す。土は種をまき収穫することができる。土のみ、うという特別な言葉で示されている。士匄は、土こそ五行の中で特別であり、石柱で祀られた道祖はその眷属けんぞくだと教えてやった。無機質な神に生産を植え付ける。それこそ、この朽ちた石柱が望んだものであろう。――が、これだけでは全く足りない。

「潤下はげんし、炎上はを作し、曲直はさんを作し、従革はしんを作し、稼穡はかんを作す。これ初め一に曰く五行なり」

 五行は世界の理でありながら、人そのものを表していることを示してやる。お前は人と繋がっていたのだと、士匄の権限で教えてやる。士匄の権限とは何か。それは覇者の介添えである。覇者とは何か。九法を統べる周王を保護し中原を支配するものである。つまり今、士匄は九法の施行者である。

 人の約定を裁定し、生と死を司っていた超然さを投げ捨て、この石柱は士匄の言葉を待っている。石の表面のひびは酷くなっており、欠片が崖下の虚空へ落ちていく。まるで神性が剥ぎ取られていくようであった。

 士匄は息を軽く吸うと勢いよく声を発した。それは遠く、果てにある四方まで届くような鋭さであった。同時に、范武子が――祖霊たちが、士匄に陰を思いきり注ぎ込む。

「土を以て金木水火を与え雑わせ以て百物ひゃくぶつと成す。之、本質にあらず、否!」

 九法にて特別であるはずの土性を否定し、士匄は手の内の玉璽に集中する。

「天地ありて然る後に万物生ず、けんおおいにとおる。ただしきに利あり!」

 陽の気が膨れあがり、玉璽へと一気に流れていく。手の中が焼けそうに熱い。乾、すなわち全陽そのものの力が、玉璽へ宿っていく。最も剛健で最も尊貴な力に玉璽は耐えるが、士匄はいつまで耐えられるかわからない。過ぎた力は己を滅ぼすものであり、腕の一本ちぎれてもおかしくない。

 呻きそうになるのを、士匄は唇を噛んで耐えた。ぶつりと切れて血が唇ににじみ、顎につたった。膨れあがった陽のぶん、足りぬだろうと范武子が陰を背中へ流し込んでくる。士匄は崩れそうになる足を踏みしめて、裂帛の声を張り上げた。

天子てんし太社たいしゃ、王社、諸侯の國社、侯社、制度、やしろかきありなく、樹は其の中に木を以てす。木あれば土ありて、主に萬物を生ずる!」

 強く踏みしめた足そのままに、士匄は玉璽を道祖に投げつけ、言葉を放つ。大音声が響き渡ると同時に范武子がすっと手を下ろした。

「萬物に木より良くはなし、故に樹木なり!」

 玉璽は、道祖の表面にぶつかり跳ねた。瞬間、石柱の全面が一気にひび割れ、隙間から芽が次々と生える。その芽は育ち、木となり、石柱は幹が幾重にも絡み合う樹木となった。

 前のめりになり、がふ、っと息を吐く。しんどい、どころではない。目が飛び出そうなほど熱く涙があふれてくる。頭は締め付けられるように痛い。肺も心臓も長時間全力疾走したようにきしんだ。玉璽を握っていた手は外傷も無いくせに捩れ切られたような激痛が走っている。

「……匄。約定は果たした。我らは帰る。しかし、前座でそれとは、情けない」

 范武子の呆れたような、少々心配しているような声が終わった後、場には士匄と育ち続ける樹木しかない。士匄以外の人間がいたとも思えないほど、何の残滓も無かった。

「くっそ、うるせえわくそじじい」

 助けてくれた祖霊にみじんも感謝なく礼儀なく、士匄は吐き捨てた。今までの人生でこれ以上なく根性と粘りを見せたくせに、台無しであった。

 さて。士匄は息を整えながら狂うように捩れ育つ樹木を見る。完全に石は消え、木となっている。この世界で最も安定した百物の元、土性の石を、変化し続ける木に変えた。木はやしろの中心であり、邑の中心であり、宮の中心であり、つまりは国の中心ではある。その意味では万物の生まれいずるところであろう。が、それは人だけの世界の話であり、天地陰陽、異界をひっくるめれば、土こそが万物の源である。

 今、道祖だったものは、社でもないところで添えられた木に成り下がった。神性を得る可能性はあるが、今は、ただの木性である。

 神性をひっぺがしてやった、ざまあみろ、と笑いたいところだが、士匄は緊張を解かない。そう、神性を得る可能性はあるのである。例えば、この士匄の墓の上で育てば、氏族の守護として神性を得る。誰かが依り代になれば、容易く社になるであろう。九法の一、五行の基本を教えてやったのである。人の手によってのみ、神性を得ることを、これもわかっているであろう。

 士匄は、木が一回り大きくなるたびに、少しずつ下がった。すでに、士匄の場は消えている。逆にこの樹木が場の支配権を取り戻している。ただ、道祖だったときと勝手が違っているため、やり方がわかっていないだけである。

「あの、ガキ、遅い!」

 舌打ちしながら、注意深く足を動かす。木の幹がまた一段増えた。どれだけ欲深かったんだこの元道祖は、と呆れる思いもある。士匄が言えるぎりではない。もしかすると、士匄という欲深い男の影響で、この道祖は欲を知ったのかもしれないのである。

 いきなり、左足が動かなくなり、士匄は転倒した。冷たく固い地から、根が這い出ており、士匄の左足首に絡みついていた。この、元道祖は、己の体の使い方がわかってきたらしい。

「こいつ! 解放してやったのに恩知らずが!」

 士匄は、手で払いのけようとしたが、その手にも木が絡みつく。細い枝ではないそれは、簡単に折れそうも無く、更に重なっていく。士匄は必死に後ずさろうと手や体を動かした。が、強く固定された根が足を離さず、取られた腕が引っ張られて痛いだけである。

「絶対、趙孟を祟ってやる、ああ、祟ってやるとも!」

 殴るときはとことんだが、守勢にまわると根性無く腰の弱い士匄は、低く唸って八つ当たりをした。

 ご、と黒い影が士匄を覆う。そして――

「遅い!」

「申し訳ございません!」

 士匄がどなり、走ってきた趙武が肩で息をしながら、謝る。腕の中には、犰狳きよがおり、竜巻のように飛蝗ひこうを振りまいている。バッタの大群が、士匄の足に絡みつく木にとりつき、そして膨れあがる樹木に向かう。自由になって跳ね起きながら、士匄はようやく声を出して笑った。嘲笑であり、勝利を確信した哄笑である。

「木は土から生じる、故に土に強し。が! 金は木より堅く、故に金は木に強し。飛蝗は、金性だ! この変態淫祠が!」

 士匄は木くずのようになった根と、まとわりつくバッタを足を振って払うと、趙武を引き寄せた。バッタの大群が互いの体や顔をかすめるが、それは仕方がない。

「道は一より生ず!」

 己を手で示し、士匄は闊達に宣言する。道は最初に一を生じる。これは、全ての源、天であり原初である。

「一は二を生ず!」

 テンション高く、士匄は犰狳を掴んだ。バッタが手にまとわりつくが、それさえ気にならないほど、士匄は躁状態と言って良い。二は、一から生じる陰陽である。地が生まれたと言っても良い。天地の概念ができて、陰陽が生まれた。士匄が陽であれば、獣である犰狳は陰となる。

「二は三を生ず! 三は万物を生ず、万物は陰を負いて陽を抱く、沖気ちゅうき以て和を為す」

 最後に士匄は、趙武の腕を掴む。天地そろい、三という概念、つまり人間が生まれる。そして人が世界である。この言葉は後に抽象化され、さらに高度な思考実験がされていくのだが、要するに、天と地と人がいてこそ世界が成り立つという考えである。ゆえに、三という数値は、スリーではなく、無限の意味と思ってよい。その上で、人の世界と異界の断絶も意味する。異界を忌み天命を怖れ、祭祀を以て異界へ切り込み天命を己のものにしていく、当時の時代人らしい考え方でもある。

「名も無き、土から生じた木性に、士氏ししの嗣子が告げる。現世にいるは我ら。汝はおらぬ。わたしは汝を数えない。汝はこの、現世でも常世でもない、何も無いところで偶発した。生まれいでたわけではない、たまたま、偶発しただけだ。天にも地にもおらぬ、陰陽の循環の中にもおらぬ、万物に含まれぬ、万物に含まれぬのだから――九法の加護も無し」

 舌なめずりでもしてそうな士匄の声音は、嗜虐に充ち満ちている。士匄は守勢に極めて弱いが、殴るときは勝つまで殴り続ける男であり、敗者にはとことん恥辱と屈辱を与えるべし、という価値観である。

 趙武はこわごわと士匄を見上げた。完全に目がおかしい、と眉をひそめる。一人で『なんとか』していた間、よほど苦しく、大変だったのであろう。どのような方法を取ったかわからぬが、普通の方法ではあるまい、と思った。

 士匄が趙武に命じたのは、大急ぎで犰狳を連れて来い、だけである。理由を言わなかったのは、説明が面倒だったからであるし、切羽詰まっていたというのもある。趙武は、本気で頼めば理由を問わぬ人種であった。

 そうして、犰狳が来る前に、士匄は石を木に変えたのである。神性を剥ぎ取り、完全に滅すべし、という趙武の言葉どおりのことを、士匄はやってのけた。玉璽を渡された瞬間にたどりついた解である。蝗害こうがいによる殲滅をもくろむには、石を木に変えねばならぬ。この前座で死んだほうがマシだというほどの苦しみに耐えた。

 バッタの大群に食い尽くされる元道祖を、士匄はただ見守るつもりはない。消え去る前に、その存在を否定し、魂そのものを消してしまおうとしている。そこまでして、神性を剥ぎ取り消滅となるのだ。魂を否定され、魄を食いつくされば、残るは無である。そもそも、存在していないことになる。そのようなわけで、士匄の言葉は続く。

「九法の第一は何か。五行である。天地の間に生きとし生けるもの全てに宿るが、汝は九法の加護無き者、一曰く水宿らず、一曰く火宿らず、一曰く木宿らず、一曰く金宿らず、一曰く地宿らず。地に降りることなき、天にのぼることなき、形変えることなき、形変わることなき、生まれいずることなく実り無し。だが安心しろ、お前はガワだけは木の形をしている、ゆえに金性飛蝗の糧になる。そのガワが食い尽くされたとき、この声もわからぬ、見えぬ、感じぬ、この匄が一であり、天である、わたしがいないと言えば汝はおらぬし、ガワがなければ何も無い」

 最後には子供の罵倒のようになりながら、士匄は延々悪態をついた。ただの枯れ木となったものに対して指をさし、わらい続け、度を超えた疲労と極まった躁状態により倒れた。慌てた趙武が駆け寄ったところ、気絶はしていないが、貧血を起こしているようであった。

「いや范叔はんしゅくって凄いんだと思うんですけど、本当に尊敬できないんですよね」

 趙武が、呆れながら肩をすくめた後、柔らかく微笑んだ。

 大きな獲物がすっかり無くなって、バッタの大群は遠くへ飛んでいった。犰狳は疲れたのか趙武の腕の中で寝ている。出尽くしたのか、単に眠っているせいか、バッタは出てこない。

「范叔。お疲れなのは重々承知しております。私にはどのようなご苦労をされたのかわかりませんが、立って下さい。そろそろ行きましょう」

 へたりこんでいる士匄に、趙武が手を伸ばしてくる。士匄は、脳の隅々まで泥が詰まったような心地でぼんやりそれを眺めた。一拍おいて、言われたことを咀嚼すると、その手をとって立ち上がる。趙武がはずみでふらついたが、なんとか踏ん張っていた。

「范叔。私にも道が見えます。犰狳を探す間も道が無くて、景色も似たようなもので、大変でした。でも、足がなんとなく覚えちゃうものなんですね。犰狳がいる方向へ走ってました。もしかして、何度も私は犰狳を求めて走ったのかもしれません」

 そんなわけないだろう、と言おうとしたが、うまく口が動かず、とりあえず頭を振った。趙武は士匄の答えを求めていたわけではないらしい。さあ、道ですよ、と指さした。

 たしかに、道があった。一本の道で、外に――否、晋に続いている道だと、士匄も確信し、頷いた。

 嫌だ、と思った。

 そちらには行きたくない。

 趙武が引っ張っても、士匄は足を動かさない。道は見えている。あの道は現実の道で間違いない。この不確かな場所を出て、帰る。そのために、己を贄にしてまでしたのである。しかし、忌避感が先に来た。

 ホウホウ

 いもしないミミズクの鳴き声が聞こえた気がして、士匄は顔をしかめた。

 あの道の先には死がある。

 気づけば、士匄の腕はびっしりと総毛立っていた。腕をとる趙武が、首をかしげる。

「范叔、どうしたんです? まだ歩けないようですか?」

「いや……ちょっとそちらに行きたくないだけだ。すぐ行く。すぐ、歩く」

 引っ張ってくる趙武を手で制しながら、士匄は返す。今はちょっと行きたくないだけである。たぶん、行きたくないだけである。――その先に死がある、嫌だ気持ち悪い。

「行きたくない。嫌だ。……そうではなく疲れているだけだ、行く」

 士匄はもう一度、返した。趙武が道を眺めたあと、士匄を見上げた。いやに真剣な顔をしていたが、どこか柔らかい。どうも、労ろうとしているらしいと気づき、士匄は苦々しい顔をした。それがわかっているだろうに、顔もそらさず趙武が口を開く。

「えっと。私はあの道、怖くないです。平気と申しましょうか、父はとっくに亡くなってますし、程嬰も自分で逝ってしまいましたし」

「は? なんだ?」

 いきなり不幸自慢のようなことを言い出した趙武に、士匄は嫌悪の顔を見せた。かわいそうをアピールする女とガキが、士匄は大嫌いであった。

「あ。いえその、だから。あ、確かに、あちらへ行けば范叔が死んでほしくない人も死にます。范叔は人が死んでもいい人で、私は人が死ぬのは嫌です。ただ、私は死んでほしくない人が死んでも仕方ないって思ってます。范叔と逆ですね」

「お前、何を」

 はにかむように照れ笑いする後輩は、まるで異界の者のようであった。士匄の手が汗ばむ。

「よほどのことがないかぎり、自分より年上の人は先に死んじゃいます。范叔のお父上も、韓伯かんはくも、中行伯ちゅうこうはくも范叔より年上ですから死にます。范叔は見送る側です。欒伯と范叔は同じくらいですからわからないですけれども、あの道を行けば確かに死にます。ここにいれば、何も起きない場所ですから、死なないかもしれませんけれど、それは死なないだけだと思います。范叔は、鬼も見えたり、祖の方々とお話されるので死の気配にとても敏感ですけれども、これに関しては少々、えっと鈍いでよろしいのでしょうか」

 うまく説明できない、という顔で、趙武が首をかしげた。そのまま黙ってろ、と士匄は思ったが、この鈍くさい後輩はなおも口を開いた。

「生きていれば必ず死にます。長く生きるのにこしたことないですけど、死にますし、私たちは死人を踏みつけて生きていきます。あの道はそういったところで、お嫌なのはわからなくもないですが、案外平気なものです。お疲れなのかもしれませんけど、根性出して歩いて下さい」

 そう言うと、趙武は犰狳を片手で抱きかかえながら士匄をぐいぐいと引っ張った。趙武が引っ張っても士匄は、てんで動かない。それでも必死にひっぱり、歩きだそうとしていた。非力な後輩が哀れだと思ったので、士匄はひっぱられるまま後について歩きだした。

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