君以て易しと為さば其の難きこと將に至らんとす。簡単だと思ってた? だから困ったことになるものよ。
強風が吹きすさび、砂が
ミミズクの鳴き声の先に、
「ち。取り込まれてるんじゃあないだろうな」
士匄は大股で荒れ地を歩きながら吐き捨てた。
「
思わず叫び、呼んだ。何を怯えていたかなど、どうでもよい。この場は現実であり幻想である。
ともかく、趙武を捕まえねばならぬ。士匄は趙武を連れ帰ると言ったのだ。年上として、先達として、そして何より自負と矜持が、この約定を破ることを許さない。
上空の雲の流れは速く、何度も日が
「趙孟! 来い! 戻れ!」
砂煙の向こうで歩いていた趙武がびくりと震える様子を見せた後、止まった。俯いたままそれ以上動こうとしない。回れ右をして、士匄の元へ来るだけだと言うのに、なんとのろまな後輩か、と腹がさらに立った。
迷いなく歩くその道は、少し登り坂になっているようであった。小柄な趙武はなだらかな坂の上に立ち尽くしていた。背は小さく細く頼りなく、迷子そのものである。
士匄は、その薄い肩を掴み、むりやりふり返らせた。
趙武の細く絹のようにすべらかな髪がくるりと舞った。ふり返った趙武は、蒼白な顔で士匄を見上げてくる。
「……ご、ご心配おかけしました……。
必死に謝るその口はしは、少し引きつっていた。目の奥に怯えがたゆたっている。根源的な恐怖と嫌悪を隠そうとして失敗していた。士匄は思わず舌打ちをする。趙武がかすかに身を震わせた。さらに怯えたらしかった。
「あの、違うのです。本当に、違う、のです」
「言い訳も、ごまかしも卑しい」
言いよどむ趙武の見下ろし、士匄は吐き捨てた。誠実であろうとして失敗した後輩は、唇を噛んで下を向く。あの、あの、と、どもるように呟いている。それを無視して、士匄は趙武の手を掴み歩きだした。趙武がつんのめるように足を引きずったあと、なんとか追いかけてくる。大股の士匄に合わせるため、小走りのように歩いていた。
向かう先は、ミミズクの鳴く先である。
「どこへ、行くのですか」
趙武が焦ったように問うてきた。
「お前が向かった先と同じだ」
「……私は、その、特に何か考えていたわけじゃく……」
口ごもる趙武は、本当に鈍くのろい。士匄は苛立ち、力任せに趙武を引っ張る。趙武が体を崩し、地に倒れる。常なら、何をするんですか、と怒り出す後輩は、ゆっくりと立ち上がって砂を払った。
「申し訳ございません」
息をついて謝る趙武を士匄は掴んで引き寄せた。趙武の顔がわかりやすく引きつる。わかりやすい拒絶と恐怖、そして嫌悪であった。
「何が悪いと思って謝る。いや、言うな。場を取り繕って、とりあえず謝っておこうというものであろう、
腰が引けている趙武を軽く押すと、そのまま一歩二歩進んでまた顔を伏せていた。
「すみま、せん。申し訳ございません。どういう顔していいかわからないんです。少し、もう少し立ったら落ち着きます。いつも通りになりますから」
趙武がせいいっぱいの笑みを浮かべ、手をさするように揉んだ。長く一人彷徨っていたのだ、彼も凍え寒いのであろう。作り笑顔は、ごまかしよりも労りを感じた。士匄は頬をわずかに引きつらせる。どうしようもない不快が、体を駆け巡った。
趙武はきっと、先達への失礼を詫び、己の失態を詫び、そして士匄の不快を労りたく笑んだのだろう。人に誠実たれと日々考えている彼らしく、滅びかけた氏族としての処世でもある。
士匄は、その誠実な笑みの裏に、同情を感じた。
――人と違うものが見える感じるわかるなんておかわいそうお辛い目にもあったでしょうにお察しできず申し訳ございませんせいぜい健やかたれ。
善意で無神経な同情を、士匄だって知っている。士匄の持つ家格、威勢に畏れをなすものは表だって言わぬが、そのような目をするものも、まあ、いた。幼少の士匄を前に途方にくれた父の顔を思い出す。
「まあ、笑って場が回るならそれに越したことはない。だが、作るならもう少し上手くやるんだな、いくぞ」
「いえ、そういうわけでは」
なおも言い訳をしようとする趙武を前に突き出すようにして士匄は歩きだした。後ろや横に置いていれば、逃げだす可能性がある。本人の意志で無くとも、道祖の幻影に惑わされるかもしれないのだ。
「……先導の猟犬のようですね」
趙武がぽつりと言った。その言葉は柔らかく、常の後輩に近かった。
「お前が獲物を追いたてられるか、この細く小さい……いや、本当にお前は細いししなやかだな。顔も背格好も、本当にまんま、女だな」
今まで、士匄は趙武の見た目をこの意味で
士匄は、そのどうしようもないものを、わざと言った。
幼稚な意趣返しであったが、趙武はその奥底の理由も察したのであろう。肩をふるわせたが、何も言わずに背を少し丸めて歩き続けた。
ホウホウ
ミミズクの声がどんどん大きく、近くなってくる。道のわきに日干しで作った
ランダムに並ぶそれは、ミミズクの声に近づくほど目につくようになっていた。
「
趙武がきょろきょろしながら言う。煉瓦の表面には幾何学模様に似た文様があった。よくよく見やれば、羊の角であったり、馬の記号であり、中には人を模したものもあった。かつて世界を言葉に封じた時代があった。人々はそれを時には左右対称に、時には動物の顔をえがくように刻んだ。つまり、この煉瓦の模様は原初の文字列でもあった。
「馬、羊、車、風。羊以外はかつて境界に属していたものだな。羊は生け贄か――やはり境界でのやりとり、商いだろう」
「記念碑、とも違うでしょうが、そんな雰囲気がします」
「当たらずとも遠からず。ここは道祖の祭場というわけだ」
士匄はそう言葉を終わらせると、趙武の頭をこづいた。趙武が少し気を悪くした様子でふり返る。
「なんですか」
「ようやく調子が戻ったんじゃないか。我らは道祖サマの祭場へ導かれた。ミミズクは生きながら死を見る鳥だ。生と死の合間で、何をさせたいかは知らんが――」
士匄は不思議そうに首をかしげる趙武を横目で見ながら、こめかみを指でとんとんと叩いた。
「……神事を、行うのですか?」
不安そうに問いかける趙武に士匄は首を振った。
「道祖での神事は三つ。敵対するものどうしの誓い、生者が死者と分かつとき、異界との境をはっきりさせるときだ。旅や商いで場を借りたり、旅の加護を願うは神事というほどでもない。さて――我らはむりやり宿を借りるはめになっている。道祖は来る者拒まず去る者追わずだ。それを力任せに引きずり込むとは、よほどお怒りらしい」
「……あの石柱を倒したこと、ですね」
あの朽ちた石はかつて石柱であったろう。完全な直方体か、円柱か。祀られる道祖の像は男根を象るため、円柱であろう。
「ここは周都のすぐそばだ。そのような場の道祖は、ことに約定と境界にうるさい。本来、あのように朽ちているわけがないのであるが、周はすっかり力を落とし、政争常にあり、我ら
顎を撫でる士匄に、趙武が呆れた顔を見せた。
「また、適当おっしゃって。それとも、道祖がそのように語りかけておられるので?」
棘と隔たりを感じさせる趙武の声は、ぴりぴりと剥がされる
「道祖は言葉の無い裁定者だ。行動しか示さぬ。道祖のもとで行う選択も約定も神事となり、違えればただ死を与える。死を賭して誓いを守るものを嘉し讃えると言うが、どうするかしらん、できもせぬ誓いを守ろうとして死ぬやつらだ」
「何もわからないと同じ、ですか」
趙武が不安そうに問うてきた。境界の儀式以外に、道祖に旅の無事を感謝し、隣国との安寧を祈る。その程度はわかるが、それ以上となれば、普通の
「馬、羊、車、風。馬は走り、車は回る。羊は人を介して世を渡り、風は留まらない。道祖が一時の宿を許すのは必ず旅立つからだ。お前と私がここに留まっていることこそ、ことわりから外れると言上し、新たな祀りの姿を用意すると誓う。ったく、引きずり込んで約定までさせやがる道祖なんぞ、いらんと言いたいが、一応神は神だ。敬わねばならん」
「私は、ただ駆け出しただけです。何もわからなかった。あなたが言う道も見えず、
趙武の視線の先には、荒れ地と、薄い青空がただ広がっている。道に埋まる煉瓦は均等であったりランダムであったりと無茶苦茶で、『道』に沿ったとも思えない。
「ミミズクの鳴き声はかなり近い。わたしに見えるのは、道と、雲だ。雲の流れが変わっている。あのあたり」
士匄は、空を指さす。趙武には少々重い雲にしか見えない。
「あのあたりの雲は、旋回し、あの場から動く事もなく輪のような形になっている。ミミズクが飛びながら鳴いていると見た。ミミズクは死を悼み送る鳥だ。あの場は、死がある。境界ではない」
言いながら、士匄は歩きだした。目の前で立ち尽くしていた趙武を掴むと、足を速める。趙武はさらに小走りになって追いかけてきた。ところどころ荒れ地に落ちている小石を履んだ趙武が、あ、わ、とまぬけな声をあげていたが、無視をする。
この場も、そして距離が開いたままの趙武も不快であった。さっさとここから出たくて仕方がない。
さて、空というものはいくら追いかけても近づかぬものだが、進むたびに輪のような雲はどんどん大きく見えてくる。そうして、ミミズクの鳴き声も間近となっていく。
そこに、死があるのか。士匄の腕は鳥肌であわだった。忌避感が強く襲ってくる。歯を食いしばってそれをねじ伏せ、雲の――旋回するミミズクの真ん中に、立った。
「この場は死を看取る場、死せるものの眠る地、あなたさまが
士匄は趙武から手を離したあと、言い放つ。ここは道であり、ぬかずく場所ではない。直立したまま手のひらを内側に向け拳を握り、天に捧ぐよう両腕をあげる。うやうやしく頭を下げると、再び直立した。見事なまでの、儀礼であった。
「わたしは
呼応するようにホウホウ、という鳴き声が頭上で鳴り響く。同意しているのか、不敬であると非難しているのか、士匄にだってわからない。音が聞こえぬでも、趙武が異常を感じたのであろう。無表情のまま、空を見上げていた。
「生きるに死は必ずあり、
小さな願いを持て。大きな願いは身を滅ぼす。道祖は約定の締結を良しとするが、為されぬ約定を許さない。士匄たちの願いは極めて小さいものである。つまり、帰りたいというだけであった。
「我ら
優柔不断に迷う気など無く、武を用いるように決める果断こそ肝要。正しき道を守れば良く、悔いも消え失せる。それは利でしかない。
ずうっと目の前に、石柱が現れた。なんの文様もないそれは、頭部が丸みをおび、かつて丁寧に磨かれていたのであろう。下部はボロボロと朽ち壊れており、この瞬間も石が割れ弾け、
「初めなくして終りあり。
たとえ初めは悔いが残り続けても、最後には消え去る。ことを改めるに先に三日、後に三日、慎みを以て行うべし。――士匄の言葉に、道祖は『乗った』と見てよい。
お前の
我が国は、周を介護している覇者の国だ。
我が祖父は覇者である晋公を介添えし周へ謙譲をしめした。
というゴリ押しで、道祖を引きずり出したのである。道祖は、試すように己の力の一部を士匄に投げた。覚悟があるのか、と。ただ人が、生け贄も
貴様の逡巡も悔いも意味などない、すぐするったらする。――庚に先だつこと三日、庚に後るること三日。吉なり――。
「
我ら旅人、生きるものは他者に受け入れてもらえない。ゆえに、従順さを以てあなたのふところへ入ろう。
「
神を前にして辞を低くし、寝台の下で伏して従おう。巫覡を多くつらね誠心を言霊とすれば吉となる。お前のために、士氏総出で新たな道祖の門出を嘉しよう。
「咎なし」
言上を終えると、空がぴりぴりと破けるように開いていく。鹿の皮を剥いでいるようだ、と士匄はなんとなく思った。つるりと肉がむき出しになるように空も荒れ地も無くなると、茜色した細長い雲が色づいた西空が見えた。趙武が橙色の光に照らされながら茫然と口を開く。そういやこいつおったな、と士匄は今さら思い出した。よほど集中していたらしい。
「夕方……いつなんでしょう」
先ほどまで、中天に日があった。
「知るか。ったく。たいした距離ではないが、歩いかねばならんわ、
士匄は、道祖のかけらを懐に入れながら趙武を顎で促した。趙武が、頷いて後ろから着いてくる。やはり、妙に距離が開いていた。士匄は不快に鼻を鳴らしたが黙っていた。
さて、洛邑とは周都の正式名称である。黄河の支流、洛水の近くに位置する。秋の話で少し触れた。後の洛陽である。士匄たちは貴族であるのに、徒歩で民の通用口に向かい、事情を話し、なんとか通してもらった。邑というのは『ムラ』ではなく、『マチ』であることが多い。特に、国の首都となれば立派な城壁都市であり、人を自由に素通りなどさせない。仮宿――晋が周の出先機関としている邸だ――にまで問い合わせてもらい、お小言までもらった。
「個人間のことですから、
そう従者に言われ、二人で肩を落とす。
「あの
趙武がとんまなことを言った。士匄は思わず、バカかお前、と詰った。それが、二人の最後の思い出となった。帰国時、二人は別々の馬車であった。最低限の挨拶だけをして別れた。
士匄は諸事やることが早い。周へきちんとわたりをつけたあと、問題の道祖を祀りなおした。その際、受け取っていた破片を返そうとしたが、無くしてしまったらしく見当たらなかった。
「あなたはどうしてそう……まあ仕方ございません。道祖もあなたに手渡したもの、返せとは仰らないでしょう」
「なんでもかんでも一人でしようとするな。そう言ったろう」
父が珍しく優しい声をかけ、額をなぞった。士匄は朦朧したまま、あいつは役立たずで、とこもごも返す。頭がぼうっとし、熱で溶けきってしまいそうなほど、苦しい。
「あいつ、は、やくたたずで、あと、きたない」
あいつ、はもちろん趙武である。おおよそ、趙武に似つかわしくない言葉で、士匄は罵倒した。士匄が宮中に参内もできず病に伏せっていることも知っているであろうに、あの後輩は見舞いひとつしない。教導されているのだから、挨拶にくるのが本筋であろう。しかも、介添えについていってやり、無事に帰してもやった。が、物品と手紙ひとつよこしたきり、寄りつこうとしない。
「仕方がない」
父は――
巫覡のように神の声を聞くものを平気で侍らせるくせに、士匄が
それにしても、今までそんなそぶりもなかったくせに、いきなりは卑しい、汚い。最初からそうであれ。
「……どうでも、いいです」
ぼんやりと呟く士匄に、士爕が気にするな、と返した。
さて、熱が下がっても士匄は参内しなかった。道祖と触れすぎたせいか、高熱で体質が変化したのか、さらに霊感が強くなり、遠く果ての
巫覡が、これ以上は、と言い、士爕も苦渋の決断をくだし――士匄は嗣子を降ろされた。士氏の巫覡として、次代を導くこととなった。士匄が跡を継がなくても士氏は続く。かつて趙武が指摘したとおりである。
趙武はもちろん、欒黶や荀偃にも会うことなく、訪れることもない。士匄は外の世界と遮断された。元々、才が高かったそれは、天稟といえるものにさえなった。いつのまにか年老いた巫覡があとを託して死に、士匄はカンナギとして父を――否、主人を支える人生を歩むことになった。
何年の時がすぎたのか、士匄にはわからない。日々、暦どおりに
「これを唱え、願うよう」
士爕から渡された竹簡をほどくと、そこには死と呪いの文言が連なっていた。天に背いた者を呪い、死を与えることこそが、家の安寧であり、士氏が繋がる唯一である、という主旨である。
「私は晋の
懇切丁寧に士燮自身の死を祈る
「謹んで毎日の務めといたします」
と言って、ぬかずいた。天の采配は絶対であるから、
「っざけるな! バカヤロウ!」
「なんだこれは、なんだ! これは!」
息荒く叫び、士匄は足元に座する男を睨み付ける。少しだけ年をとった『士匄』が、巫覡の姿で端然と座っていた。
「わたしが巫覡なんぞ、するか! 父上が自死を祈るだと、冗談ではない。お前は、なんだ!」
苛立ち紛れに祈文の竹簡を蹴り飛ばし、怒鳴りつける。士匄、否、巫覡が感情の無い顔で見上げてきた。目を細めるそこには、心があるようには見えない。
「
淡々と語る未来の巫覡に士匄は唾を吐き捨てた。頬に唾がかかっても、巫覡は拭わず身動き一つしない。
「士氏の行く末を守るためには、その身を捧げる必要がある。范主は覚悟あり、立派でもある」
「アホが。父上も律儀すぎる。今までどれだけの盟いがあり、破られてきたか! それ全てに天の罰があったとでも? 天は我らにそこまで関心ないでしょう、父上!」
士匄は父にも怒鳴ろうとした。が、その場にいるのは二人の士匄だけであった。陰の強いうすぐらい場所で、士匄はあたりを見回し、最後に巫覡へと目をやる。
「父上をどこへやった」
「お前とわたしが同時にいる場所だ。ここをまともな世界だと思っているのか? お前こそ愚かだ。過去の残滓よ。お前があの時、道祖の加護を使いこなせなかったのも原因だ。ほんの少しの分け前で万能になろうとしたのか。巫覡として父の死を祈るくらいがせいぜいというもの。もう、消えろ、去れ。わたしはこれから一族のために主人の死を祈らねばならん」
分け前などと、と叫ぼうとして、士匄は己の手を見た。いつか無くしたはずの石のかけらが、あった。わずかに汚れた染みは士匄の血の跡だろう。
「道祖――」
士匄は、ゆっくりと虚空を見た。諦めきったがらんどうの巫覡はもう口を開こうとしない。この巫覡が本当にここにいるのかも、もはやわからない。薄闇の中、士匄は確かに風の音を聞いた。
ご、という吹きすさぶ風と舞い上がる砂と共に、道祖が現れた。それは、士匄が整えてやった美しい神体ではなく、かつての朽ちかけた石柱であった。
「これを盗んだとでも思ったのか。それで
士匄は石を軽く振りながら、吐き捨てた。傍らの巫覡が、初めて表情を見せた。驚き、そして渇望しているようであった。
「この、この力があれば、あるいは――」
父が、助かる。枯れたはずの巫覡が、小さく呟く。士匄はその男を軽く蹴り飛ばすと、道祖に向き直った。
「今さら取りに来たのか、それとも新たな神体の礼にでもきたのか。そうだ、そうだった。わたしは、いっそお前を加護にしてやろうと思ったな、あの荒れ地で。我が士氏はかつて龍を――風と水を司ったと聞く。治水の王、
独り言のように、宣言するように語る士匄の額はうっすらと汗が浮き上がっていた。腹がひっくりかえりそうな緊張が体を襲う。びりびりと皮膚が剥がれそうな痛みが強い。
神の力を全て己のものにする。巫覡たちが祖や天の力を『借りる』のとはわけが違う。すべからく、人は
士匄は、圧に負けぬ強さで、一歩一歩道祖へと向かい歩いてく。
「巽とは入るなり。入りて後にこれを
巽、すなわち風は入ってくるもの。我がふところに入ってこれば、喜びとなる。
指先が、石柱に触れようとする。あと一歩届かないと士匄は足を踏み出し、
そして。
「ダメです! 何を! してるんですか!
士匄は、横合いから趙武のタックルをまともに受け、共に吹っ飛んだ。お、と呻き声があがる。腹に衝撃がきた上、趙武の体重が胃に直撃した。士匄は、言上も忘れて思わず吐いた。身体的な反射であるため、しかたがない。趙武も汚いなど叫ばず、
「も、申し訳ございません! 水、水っ」
と、ふところから竹筒の水筒を出してきた。邑で汲んだ水が妙なところで役に立っていた。士匄はなけなしの水で口をゆすぎ、地に吐き出す。
「なんだ! お前!! こんの、今まで、来なかったくせに!」
「追いかけてきていたくせに、いきなりあさってのほうへ行ったのあなたでしょう! そしたら!」
腹の上で、胸を叩いてくる趙武の頬に泣き跡があった。泣きながら走ってきたらしく、息もあらかった。その形相に茫然とする士匄に、趙武が、肩で息をつきながら、元いた場所を指さす。
「どうして、崖から飛び降りようと! してたんですか、私のせいですか、私の……せいでしょうか」
私が、ひどいことしたから。趙武が最後にそう呟いた後、項垂れた。
士匄はようやく、己が荒野にいることに気づいた。趙武が指さす先には、切り立った崖があり、宙に朽ちかけた円柱が浮いている。崖の端には、まるで人が座っているような土くれが盛られていた。
「……どけ」
言いながら士匄はむりやり起き上がる。腹の上にいた趙武がごろりと転がり、地に顔を打ち付けた。
「ひどい!」
「重い!」
趙武の文句を士匄は一刀両断切り捨てる。確かに、それはそう、と趙武がおとなしく立ち上がり、息をついた。
「何が起きていたんですか」
「また選択と幻覚だ。あいつは、なぜかわたしに売り込んでやがる」
やっぱり、と趙武が頷いた。その確信の意味がわからず、士匄は目で促す。趙武は察して言葉を続けた。
「あの道祖の目当てはあなたです、范叔。あなたにだけ道を見せ、何度も選択をせまる。道祖にとって都合の良い選択をさせるまで、ぐるぐると同じことをさせる。私のことはとても邪魔だったでしょう、あなたが私を捨てればすぐ取り込もうとしていたんだと思います。何度くり返したかわかりませんが、まさか最後まで捨てないと思わなかったでしょうね」
趙武の言葉に、士匄は何度か捨てようと考えたことを思い出す。摩耗が続けば、本当に捨てていたのかもしれぬ。士匄は、ち、と舌打ちをした。
「でも、私が愚かにもあなたを拒んだ。あなたは一人。あの道祖は私が我に返って戻らぬよう、私にも都合の良い世界を選ばせようとしました。まあ、いらなかったので選びませんでした」
淡々とした趙武の声に、士匄は、そうか、とだけ返した。趙武にとって都合の良い世界というのが、いまいち想像つかなかった。
「理由は知りません、あの道祖は私たちを取り込んでから――いえ、あなたを見つけてからずっと、あなたを狙っていた。あなたはもう少しで、あの崖へ足を踏み出すところでした」
この場所は道祖の境界。ゆえに、道も地形も彼のものが用意する。しかし、崖は無理があったのであろう、石柱の崩れは激しくなり、石がまた朽ち落ちていった。
士匄は、無様すぎる石柱を嘲笑しながら、趙武を引き寄せ口を開く。趙武は怯えるそぶりもなしに、されるがまま近づき、不思議そうに見上げてきた。
「我が家の巫覡が言うことには……いや、あの道祖の言葉か。どうも、わたしはカンナギの天稟があるらしいぞ」
「え。自覚なかったんですか?」
趙武が、しごくまじめに言った。
「……わたしは多少過敏であるし、そりゃあ祖も呼びつければ来るし、鬼も見えるし瘴気もわかるし、子供の頃から変な光や音は聞いたが、そこまでではないわ!」
思わずどなりつけると、趙武が頭をかかえるような仕草で、わざとらしく首を振った。そうして、諭すように話しかけてくる。
「え。なんで自覚ないんです? 范叔ってすっごく頭いいですよね。古詩古書古史法制儀礼天文の計算まで全部頭に入ってて、教養クイズもとんちクイズも完璧で、ねぷりーぐ的な催しでも一問もお間違えにならない。上背もあり体つきもよくて弓矢も戈もお上手、やたら
趙武が引きつった嘲笑を浮かべながら懇切丁寧に罵倒した。それは、励ましも含まれていたのかもしれぬが、あまりにも酷かった。士匄は、
「我が才を讃えていただき、趙孟には感謝に堪えぬ」
と言いながら、趙武の頭の両側に拳をグリグリと押しつけた。いわゆる、こめかみグリグリというものである。
「痛い、痛い! いたあい!」
バタバタと暴れる趙武を解放すると、士匄はふん、と鼻を鳴らした。
「それで? わたしが自覚したらどうだというんだ」
ふんぞり返る士匄に、趙武が労るように己の頭を撫でながら返す。
「春の山神は祀るものを求めていました。まあ、正確に言うとちょっと違うかもしれませんけど、祀られたがっていた。道祖は、特定の氏族や邑に祀られるようなものではないです。でも、祀られたがってるとしたら?」
趙武がそっと士匄を守るような動きをしながら、道祖を睨み付けた。
「道祖であるから、約定と選択以上の介入はできぬ。ゆえの回りくどさか。それにしても道祖でないものになりたい、か。外道に堕ちたものだ、無情で非情、心無き神が心を欲しがっている、と」
「既に心はあるのでしょう。周人が祀らず朽ちはじめたときか、社を壊されたときか、あなたを見つけたときか。いつ生まれたのかわかりませんが、道祖は明確な意思であなたを欲している。生きると言うことは欲望を持つこと。あなたの訓戒です。あれは、生きようとしている」
生死の境にいるものは、生きているとはいえぬ。そこから抜け出すために、あの道祖は依り代を求めた。士匄という、かっこうの獲物を、朽ちた石柱は見つけてしまったのだ。
「あれを、道祖に戻すか」
士匄の呻きに、趙武が首を振った。
「壊しましょう。どうやってなんて、知りませんけど、破壊し、神性ごと消し去りましょう。それ以外、道は無い。選択肢を出してくるなら、全部潰す」
無謀で過激な言葉に士匄は驚きの顔を向けた。趙武が、まっすぐ見上げてくる。そこに怯えも嫌悪も拒絶もない。士匄への信頼と、己の覚悟が、表れていた。
「お前……」
「あれは悪意であなたの心を踏みにじろうとしています。私の人生を弄びました。壊さなければ、きっと私たちはこの世界から出られない。妥協しようとするなんて、あなたらしくないです」
趙武の言葉に、士匄は道祖を見た。かけらだけでなく道祖全てを、士匄は手に入れようとした。まあ、確かに、そうでもせねば割に合わぬとは思っている。
だが、しかし――。
「わたしを、思い通りにしようとは、不遜、愚か、厚かましいもほどがある。そうだ趙孟。あの石ころを砂粒にしてやるの道理というもの!」
士匄の啖呵が荒野に響き渡る。それは、寒風をものともせず、遠くまで届いていく。陽光はゆるく、雲は相変わらず重い。境界に揺らぎはない。
石柱が、ゆっくりと、士匄たちを睨め付けたような気配だけが、した。
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