予が口卒く瘏む、曰く予は未だ室家あらず。どこもかしこも病み疲れ果てました、家が無いのだから。

 鴟鴞しきょう鴟鴞

 既に我子わがこを取る

 我室わがしつこぼつこと無かれ


 鴟鴞よ、ミミズクよ

 お前はすでに私の雛を捕って食ってしまった

 もうこの上は、私の巣を壊さないでおくれ


 ――詩経しきょう国風こくふう豳風ひんふう)より



 凍えるほどの冷たい風が耳先を切り刻むようであった。大地から巻き上がる砂は空を覆うほどである。凍土の硬さで全てを拒むような荒れ地を、趙武ちょうぶはフラフラと歩いていた。

 ――自分はなんとひどい、心無い人間だろう。

 己の危険を承知で趙武を助けてくれた士匄しかいに礼を言うどころか、拒絶と否定の言葉を吐き捨て、逃げてきた。

「ごめんなさい。でも、でも」

 後悔と贖罪の心が膨れあがるが、それ以上に大きなものが蓋をしてくる。

 気持ち悪い。

 怖い。

 得体が知れない。

 人の持つ根源的な恐怖に取り憑かれながら、趙武は逃げるように足を進めた。その歩みは力無く、飢えた負け犬のようであった。

 ヒョーヒョーと鳴り響く風音の中で、人の声がかすかに聞こえた。渦巻くような大気の流れをそろりと、しかし確実に割ってくるのは、士匄の呼び声であった。

 遠くに、豆粒のような大きさで士匄らしきものが見えた。時折はためく己の衣に苛立っているようであった。そのような仕草が、確かに士匄だ、と趙武は確信した。

「あー……」

 反射的に返事をしようとして、趙武の唇はかすかに震えた。頼りになる先達が、手を伸ばして助けてくれる。そうして、あちらが正しいと引っ張っていってくれる。趙武は身を任せているだけで良い。

 そうすれば、きっと助かる。

 そうすれば、本当に、助かるのか。

 そうすれば、本当に、元の世界に帰って、趙武は生きていけるのか。

「……そうです、あれが范叔はんしゅくとは限りません」

 趙武は、身を翻して、豆粒のような人から遠く離れようとした。薄い色の空はけぶる砂で薄汚れて見えたが、柔らかい陽光は中天で輝いていた。日に向かっていけば、いつか故郷へ帰れるような気がした。晋は中原の西にある。日は西へ沈む。沈み行く太陽の先に故郷があるはずだった。

 は、と息を吐いて吸うと、肺の中まで凍るような心地であった。手先の感覚はもはや無く、布をかき抱こうとすれば痛みが走った。向かい風から追い風になり、横風へと代わり、縦横無尽に荒れ地を走る強風は、趙武の袖をはためかせ、体を縫い付けるようである。

「ー、……ちょ……ぅ、もー……」

 遠くから聞こえる士匄の声を拒むように、趙武は両手で耳を塞いだ。

 あの人影が士匄とは限らない。そう、道祖どうその見せる幻覚であるやもしれぬ。自分に言いきかせながら、そうではないと趙武もわかってもいた。

 道祖は趙武にほとんど幻を見せていない。集落程度である。荒れ地は荒れ地であり、道は無い。士匄に道は見えていたが、趙武には見えなかった。道祖は趙武など全く相手にしていない。

 きっと、あれは士匄だ、と我に返れば返るほど、趙武の足は早くなった。罪悪感が体中にのしかかり、趙武は思わず口を開いた。

「だって、しかたないじゃないですか!」

 趙武の言い訳は、風の音にかき消える。

「どんな、どんな顔をして、これから、どんな顔をすれば、いいんです! 見えぬものを見て、聞こえぬものを聞くって、こんなに違うなんて、知らなかった! 私の隣で、あの人は何を見ていたんです!」

 ぽろぽろと涙を流し、頬を汚しながらも、趙武の顔は幽玄めいた美しさがあった。恩人の異質さを忌み怖れ、暴言を吐いて遠ざける。極めて醜悪なことをしている彼であるが、よじるような所作も、恐怖と自己嫌悪で憂う声も、儚げで可憐である。――それでも、人の世界以上では無い。

 ちらりと後ろを見ると、豆粒は少し大きくなっていた。近づいてきている、と趙武は恐怖で腹の底が冷えた。

「こ、こっちへ来たくないって言っていたくせに!」

 趙武は叫びながら駆けだした。強い風に体が飛んで行きそうであったが、必死に足に力を入れて前に進む。跳ね返るような地面で、足の裏が痛い。

 そちらには行きたくない、と言っていた、たしかミミズクが鳴いていると――

 ――ホウホウ。

 ようやく。

 この世界で、ようやっと、趙武はミミズクの鳴き声を聞いた。この、真っ昼間、荒れ地の中にミミズクの声など聞こえるはずがない。しかし、

 ――ホウホウ。

 と、まるで目の前に止まり、首をくるくる動かしながら鳴いているかのような近さであった。趙武は立ち止まり見渡した。風は相変わらず吹き荒れ、髪が逆巻くように乱れていた。

「……ミミズクは――鴟鴞しきょうは死者を送る使いです。懐かしいような気もしますね」

 少し上を向くと、冬の太陽が眩しく、趙武は目をつむった。常は人里より離れた森で鳴いているミミズクは、確かにあの日、あの夜、邸の屋根に止まり鳴いていた。

 趙武の養い親である程嬰ていえいが自死した夜である。ミミズクは程嬰の魂を黄泉へと連れて行くために来たのであろう、と趙武は思った。程嬰は趙武と共に生きることよりも、趙武の父と共に死ぬことを選んだのである。そうなれば、ミミズクは父の使いでもあったろう。

 太陽に向かって歩けば、ミミズクの鳴き声がさらに大きくなった。趙武は、口はしを歪めて嗤った。

「道祖。道祖よ。私に道を示さず、死者の使いでいざなう道祖よ。私は死は怖くないんですよ、死ぬのは嫌ですけど、怖くないのです。私の足元にはたくさんの死人しびとがいるんです。私は、進みます」

 彼らしくない、自暴自棄そのものの声音であった。やけくそというものである。どこまでも続く荒れ地は虚しささえ覚える。吹き荒れる風は命を削ぐような冷たさである。鈍い冬の空は暖かみの無い陽光が照らし、無慈悲でさえある。それは、己に与えられた人生に似ている。

 不貞の母は笑顔で迎えたが抱きしめることは無かった。

 程嬰は、父を選んで自死した。

 大叔父は、趙武を感傷の道具にした。

 趙武が生かされているのは、趙氏ちょうしを滅ぼさないため、永らえさせるためである。そのためだけの人生に、この荒れ地はとても似ている。ミミズクの鳴き声は、そうあれ、という天啓にも思えた。

 凍り付いたように冷たく引きつる腕を伸ばして、趙武は前を、さらに先をつかみ取るように、風に逆らって歩き、進んだ。追いかけていた士匄のことも忘れ、ただ、前に進むことを考えた。死に立ち向かうかのような姿でもあり、死に引き寄せられるような姿でもあった。

 そうして、真上でホウホウとミミズクが鳴いた時、吹きすさぶ風が、ぴたりと止んだ。

 趙武は、茫然としながら周囲を見渡した。そこは――荒れ地ではなかった。

「――え」

 質の良い庭の入り口であった。季節ごとの花々を楽しめるように作られたその庭は、冬の盛り、山茶花が咲き乱れていた。確かに大貴族の道楽そのものである。後ろを向けば、いくつかの立派な棟が並び、それぞれを廊下が繋いでいた。やはり、大貴族の邸であろう。これほどのものは、趙武や士匄のような身分のものである。

 趙武は己の頬を撫でる。暴風と砂で荒れた肌ではなく、常のするするとした肌触りであった。衣も汚れておらず、絹の柔らかい肌触りと光沢が爽やかなほどであった。

 庭の先にも邸があるのか、話し声が聞こえた。華やいだ、楽しそうな、柔らかな笑い声が耳を打つ。この棟は最も南に位置している。つまり、主人の住居であろう。

 警戒し後ずさる趙武に

もうではないか。帰ったのか」

 と後ろから声をかけるものがいた。趙武は、叫び声を必死に押さえて、おそるおそる後ろを見た。

 がいた。

 目立つ頬骨、少し四角い顔、無骨な微笑み、厚い掌を伸ばしてきて、軽く背中を叩いてくる。趙武は一瞬、世界が止まった、と思った。自分の鼓動さえ聞こえないほど、音は消え、空気は固まり、時は刻むのを止めたのだ。そうでも思わなければ、崩れ落ちてしまう。趙武は目を見開きながら、唇を震わせた。怖ろしさが形を伴って微笑んでくる。

「帰ったら挨拶せんか。趙主ちょうしゅ、孟が帰った」

 怖じる趙武に気づかず、程嬰が押し出すように歩く。自然、趙武もつっかえるように歩くはめになった。

 庭が少し開けると、あでやかで慈愛に満ちた笑顔で、が迎えに来る。手をとって

「まあこんなに冷えて寒かったでしょう」

 と言い、ふうふうと息を吹きかけた。冷たい手先は溶けるように温かくなった。

「ずっと入り口で立っていたようだ」

 程嬰の声は深く男くささがあり、柔らかい。

「あら。学びで嫌なことでもあったのかしら。皆さん、英才ばかりですけど、あなたも努めていることを母は知っていますよ」

 母の声は慈愛に満ちていながらどこか可憐で、温かい。

「孟も年ごろだ。我ら年よりが話している中に入りづらかったのかもしれん。何か色めいたことでもあったのかな」

 庭に面した部屋で、が微笑んだ。年よりなどと言うが、いまだ男ぶりあり、揶揄する声音も洒脱であった。

「私のころは若いもの同士で勉学に励む暇もなかった。武は今日、どのようなことを学んだのか、教えてほしい。お前の成長は私の喜びだ」

 部屋の中央から顔を除き、その男ははにかむように笑った。母も、程嬰も、趙主、と嬉しそうに呼びかけ、歩きだす。趙武だけが、庭に突っ立ったまま、主人の部屋を見た。

 人の良さそうな男が、家僕にあまざけを、と命じていた。きっと、趙武のために用意するのであろう。荒れ地で散々彷徨い、冷え切った体の趙武のため――いや、庭先で突っ立って冷えた体の趙武のために。

 趙武は、小さくため息をついた。

 こういったことが、ずっと見えるのであれば、士匄は大変な世界で生きている。しかし、彼は迷いなく進んでいるように思えた。士匄は、惑わせるものを蹴散らして、自分の好きな物だけを掴んでいるのであろう。彼の世界が混沌としていても、確かな物を見ているのかもしれない。

 家僕が、席をひとつ、新たに設けていた。主人に次ぐ格の場、つまりはもう――嗣子ししの席である。

けい大夫たいふが立ったまま挨拶もせず、不作法だぞ、孟」

 程嬰が少し厳しい声を出した。遠い昔、趙武をしつけていたときの声に近かったが、どこかゆるさがあった。

「どうしたんだい、

 男が。人の良さそうな、地味な顔立ちのくせに妙に整っていて、どこか趙武のおもかげのある男が、手招きした。趙武はその男の正体などとうにわかっていたが、考えないようにしていた。

 背のはるか後ろで、ホウホウとミミズクの鳴き声がした。つまりこの場は、死の先にある何かである。死が境界にあるのであれば、ここも生の世界かもしれぬ。

 趙武は、手招きする男に首を振って返した。男も母も大叔父も、程嬰さえも不思議そうな顔で趙武を見てきていた。

「程嬰に恩返ししたいと思って生きてましたが、できませんでした。母上はどのような方だろうと思ってましたが、私に母などいなかった。大叔父は私など見ない。ここはの、すごくわかります」

 喉がひくりと鳴った。声が震えて出てくる。趙武は涙をぐうっとこらえた。絶対に、一筋も涙をこぼしたくないと思った。こぶしを強く、てのひらに爪がくいこむほど握りしめる。

「范叔は仰った。道祖は我らが選ぶかどうかを見ていると。ここはとても温かく幸せで、全てがございます。ご用意いただき、感謝に堪えません。しかし、私はここを選ばない。それはもう、とっくに決めてます。程嬰が死んでから、決めました」

「どうしたんだい、武」

 趙武の言葉を知ってか知らずか、男がもう一度手招きして微笑んだ。少し、首をかしげるそれは、まさに苦労知らずの大貴族そのものである。

「私はいらない。母も、大叔父も――父も、いりません。私はきっと誰からも愛されないし、たった独りで、生きていきます。そうして、継いだ趙氏を守って次代に繋げます。私は、安らげる邸などいらない、荒れ地で独りで歩きます。ずっと、死ぬまで歩くって決めてます」

 まさに、宣言であった。戸惑った大人どもが、孟、どうしの、孟、とさざめくように呟いた。子供を本気で慮る、大人の憂いが趙武の心を刺した。彼らは、趙武を愛しんでくれているのだ。

「どうしようというんだい、武」

 懐かしいおもかげの見たことのない男が、戸惑ったように声をかけ、手を伸ばした。趙武は再び首を振った。

「おいとまいたします。さようなら、ごきげんよう。いつかまた会う日が来ます。それまで独りでがんばります。誰に誓ったわけでもない、天地陰陽に誓う必要さえないんです、私は独りで生きますから、安心してください」

 趙武は身を翻してミミズクの鳴く方へ、元の荒れ地へと、走っていった。

 自暴自棄のまま突き進んでわかったことは、この道祖に悪意があるということだった。趙武は己の愚かさを呪いながら走る。

 人にとって安穏なものを出して、選ばせようとする。士匄ばかりに選ばせ趙武を無視していたくせに、唐突のこれである。道祖の悪意に従い、趙武がこの幸せな世界に耽溺すれば、本来の己は消えていた可能性があった。つまり、今、境界の奥、現実でない場所に誘い込まれているわけである。

 趙武がここにいる以上、士匄は一人きりである。

「道祖の狙いは、范叔だった!」

 叫びながら趙武は境界の『中』へ飛び込んだ。通り抜けざま、頭上でホウホウという鳴き声がする。確かに、死をこじ開け趙武は荒れ地へ戻っていった。

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