心ここに在らざれば、視れども見えず聴けども聞こえず。うわのそらでは何も見えない明日も見えない。

 叩きつけてくるようにぶつかってくるバッタの群れを躱し、士匄しかい趙武ちょうぶは手を払い身をよじらせる。虫が口や鼻に入り込まぬよう何度も手で叩き落としながら、二人で走る。犰狳きよはとうに放り出されており、その身から飛蝗ひこうをあふれさせている。

 バッタは草木であれば屋根だろうが衣であろうが食い尽くしてくる。しかし士匄や趙武の衣は絹であり、食い切ることはない。それでも群体が襲えばぶつかってくる痛みと巻き上がる砂が目を襲う。犰狳を中心に膨れあがる群れから逃れようと、わずかな隙間を二人は目指した。

 ふ、と静かな場へと出た。後ろを見ると、飛蝗が一定の空間の中でぐるぐると飛び回っている。天を衝く竜巻のようであった。中心部がどんどん濃くなっている。そこに犰狳がいるのであろう。道をふさぐそれは、難攻不落の砦にも見えた。士匄は思わず頬を手で拭う。汗のつもりであったが、掠れたような血であった。バッタで頬に擦り傷ができていたらしい。趙武の顔も、擦り傷ができていた。滲んだ血と痛みで潤んだ目が美しさを助長させるのであるから、やはりお得な顔であった。

「……。ち。道をふせぎやがった、虫どもが。どう戻るか、だ」

 士匄は、忌ま忌ましさを隠さずヤブ蚊のように踊り回るバッタどもを凝視した。分岐はもちろん、もと来た道も虫たちに覆われ見えない。あれをどうやりすごすか、避けるか、それとも道祖どうそに直談判するか。士匄は、こめかみを指でトントンと叩いた。その腕を、そっと掴むものがいる。

 趙武だった。

 この後輩は、唇を震わせ、怯えた目で見上げてくる。虫が怖かったか、などと士匄は思わなかった。その顔には士匄への恐怖がありありと浮かんでいた。

「なんだ」

 腹奥にうずくまるような不快がわいてくる。化け物を見るような目を向けられ、気持ち良いものなどいようか。

「……なぜ、戻るのでしょう、范叔はんしゅく

 おずおずとした素朴すぎる声であった。素直なほどに警戒と不審に彩られている。士匄は片眉をあげて見下ろした。趙武が、なぜ、とさらに問うてくる。察しの悪い後輩に苛立ちを覚えながら、士匄は口を開いた。

「我らはこの場を出て帰らねばならん! 道へ戻らねば」

「道ってなんですか」

 怒鳴る士匄を遮って、趙武が言った。怯えた目でしっかと見上げ、引きつった笑みを浮かべる。士匄は言葉を失った。道は、道である。歩く場所。ゆうと邑をつなぎ、異界の合間を縫うように作られた、通路。

 何を言ってやがる、このガキは。士匄はそう言いたかったが、趙武の怯えた目を見ていると声が出ない。人に畏れられる己であれとは思っている。しかし、忌まれ怯えられたいわけではなかった。

「あちらに道が、あったのですか。ここには、ありますか」

 趙武が地を指さす。そこには、それなりに整えられた道があった。馬車が往き来したのか、わだちのあとがうっすらと見えた。

「……ある。いや、しかしこの道は、」

「私には道なんて見えません。荒れた野が続くばかりです。飛蝗が食い尽くしたのでしょう、草も無く、木も崩れた残骸が少しあるだけの、乾いた大地が広がるばかりです。進めば河はあるのでしょうか。山も見えるのでしょうか。けむる砂が寒々しいかぎりです。范叔には何が見えているのでしょう」

 士匄の袖をつかんだまま、趙武があたりを見回した。彼には道が見えぬと言う。士匄は俯いた。目をいくらこらしても、道であった。幻とは思えなかった。

 きっと、趙武の目がくらんでいるのだ。士匄はそう思うことにして、睨み付け口を開く。しかし、歯切れは悪い。

「私が道と言うのだ、道が続いている。この……道は、」

 背後のバッタがブオオオオオと羽音を鳴らし渦巻くように飛んでいる。前方からは、かすかに鳥の、ミミズクの鳴き声が聞こえた。

 ホウホウ、ホウホウ。

 ミミズクは人の死を見る鳥である。人が死者と別れる時、屋根の上で泣いているのがミミズクである。

「この道は、きっと死に向かっている。聞こえるだろう、ミミズクの鳴き声が。違う道だ、行きたくない。戻るのがいい」

 そう呟くと、足元の道が消えた。確かにここは荒野で、趙武の言うとおり道が無い。ミミズクの鳴き声など、無い。士匄は己の発言も忘れて頷いた。

「いや、お前の言うとおり、道などない。西へ向かう。人の歩くは道だ、道に戻って、晋へ――」

 飛蝗の向こうを指さす士匄から手を離し、趙武が後ずさった。後ずさりながら首を振る。怯えと不審に彩られたそれは、誠実な趙武らしくない。士匄は趙武を力任せに掴もうとした。そのような忌避の目をむけられたことなど、人生において全く無い。腹の奥が焼けるようであった。怒りなのか屈辱なのか、それとも悲しみかわからないまま、士匄は手を伸ばした。が、それを趙武が払いのけた。

「あなた、おかしい。道があると言ったり、無いと言ったり。ミミズクが鳴いているなどと言い出したり」

「いやそれは。わたしの勘違いで――」

 そこまで言って士匄は黙った。この己が、言い訳をしている。不確かな言葉を連ねて、勘違いなどと言う。ミミズクの話など、いつしたのか、していたか。

「……趙孟ちょうもう。お前の言葉がおかしい。道があるなどと、ミミズクが鳴いているなどとわたしは言っていない。言っていないんだ」

 西へ向かう一本道を歩いていたら、飛蝗があらわれて、お前が道から外れてしまったのだ、とそれだけではないか。言いつのる士匄に、趙武がさらに後ずさった。逃げるようなしぐさでもあった。

「あなたの仰るとおりであれば、私は道を外したもの。もはや戻るわけにもいきません、贄としてください」

「バカを言うな。わたしはお前を連れ帰ると約した。士氏しし嗣子ししが、趙氏ちょうしおさを見捨てたとあれば、不徳無能のそしりを受けるところではないわ。おとなしく、こっちへ、」

 士匄は一歩踏み出し、趙武を捕まえようとしたが、手を強く弾かれ、避けられる。距離を取った趙武の目は、やはり怯えていた。

「あなたは何ですか、范叔。いえ、本当にあなたは范叔なんですか」

 ひび割れたような叫び声が、風にのって遠くまで響いた。

「お前、なに言ってるんだ、バカか、バカ。わたしは、わたしだ!」

 怒鳴る士匄に、趙武が見せた顔は安堵ではなく不審であった。強風にあおられ、衣がはためき、髪が舞う。趙武が胸を掻きむしるように己の服を掴んだ。冷静さを失っているのは一目でわかる。己が贄だと言い、士匄を疑う。先日、偽物が現れたせいだ、と歯ぎしりしながら、士匄は睨み付けた。趙武は、元の道からどんどん外れた場へ後ずさっている。そちらは嫌な場所だ。嫌だと、思う。死のにおいがする。

「鈍くさいやつだ、早く戻れ!」

 勢いよくつかみかかる士匄に、趙武が首を横に振った。

「あなたが范叔というのであれば……范叔ってなんですか。あなたしか見えぬ道は本当にあるのですか。祖と話し鬼を視て神を呼ぶ。とても多才で、私には想像もつかない。あなたはいつも何を見て聞いているんですか! 私に道は見えません、鳥の声も聞こえない。、ここは、本当はどこなんですか!」

 趙武が身を躱して走り出す。士匄は追いかけられなかった。趙武の言葉に傷ついたわけではない。その先は嫌だ、という本能が足を止めた。思わず腿を叩く。動けぬことが惨めであった。己が惨めという状況に狂いたいほどでもある。このまま、何か知らぬが惑乱した後輩を見捨てては己の矜持が死ぬ。

「……嫌ってなんだ。進むのが嫌だと、なぜ思った。道――」

 先ほどまで道は確かにあり、鳥は鳴いていた。

 消えかかった記憶が甦ったとき、士匄の足元に道は現れた。背後の飛蝗は災害の象徴である。戻るは凶なのは確かであろう。しかし、進む先には死が見える。

 死に近づきたくないと思った士匄は、『その道』を選ばなかった。現れるたびに選ばず拒絶した。そうして、同じ時をぐるぐると繰り返し続けた。道祖は、ご親切にもなんども試している。思わず己の頬を叩いた。見えすぎて惑うとは、なんという屈辱か。

「……上等だ。この先へ進んでやる。しかし道祖よ、むりやり選ばせるとは堕ちたものだ」

 ゆっくりと視線を道の先へ向けた。趙武の背はもう見えぬ。――あなたは何なのですか。今さら、趙武の言葉が耳の奥で響いた。

「わたしは、わたしだ。くそ、あのガキ絶対泣かす」

 一歩進むたびに死の気配がのしかかる。空気がまとわりつきぬめるようであった。唇がひび割れる乾ききった風が吹いているのに、衣が水を吸ったように重い。水底へ向かっている気持ちにもなる。

 境界は死を司る。もっといえば、死の瞬間に人は境界を通り抜ける。その『死』を選ぶかどうか、道祖は何度も試して観察していたらしい。

 なんのために。そんなこと、知るか。

 濃厚な死に向かって、士匄は力強く歩きだした。知らず死の場所へ走っていった後輩をふんづかまえて、そして帰るのだ。

 ホウホウ、ホウホウ。深く嘆くような鳥の鳴き声はもう消えなかった。

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