十
マンションのエレベーター内にある鏡を使って、身だしなみを整える。
どこにも、おかしいところは……と、顎の下辺りに、昨夜の痕跡を見つけて、思わず俯いた。
まったく、見えるところにはしないでと、何度も言っているのに……。
まあ、大丈夫だろう。顎を引いていれば、隠せる位置だ。
それなりの年頃になったせいか、最近、娘の視線に嫌なものが混じるようになった。特に、こんな風に朝に帰って来た時には。
まだ子供と言えど、やはり女だ。勘付くものがあるのだろう。
ふふ、と、小さな笑みが漏れる。
さすがは、私の娘といったところだろうか。洗練された私の血を引く、強かで、賢い女。
かつて、夫と呼んでいた――夫と呼んでやっていた、あの芋男の血など、引かせなくて良かった。例え、父親としての務めを果たさなくとも、私と同じように洗練された男の血を引かせたのは、成功だったようだ。
しかし、所詮は子供。まだまだ小娘。母親である私には、到底及ばない。
今日も、上手く誤魔化すことができるだろう。
襟元を正して向き直ると、ちょうどエレベーターが止まった。扉が開くと同時に、身に纏う。
娘を愛する母としての矜持を。
ヒールを鳴らして廊下を歩き、玄関扉の前に辿り着く。頭の中で、飛んでくるであろう質問に対する返答を、いくらかシミュレーションする。
大丈夫、私は完璧な母親だ。
鍵を開け、扉を開き、中へと入る。
「ただいまぁー。ごめんね、綾。打ち合わせの後、広報の人と社長さんに付き合わされちゃって―――」
リビングの扉を開いた瞬間、
「……綾?」
私の目に飛び込んできたのは、食卓の前に、奇妙な姿勢で佇む綾の姿だった。内股で、両腕を力なく伸ばし、背中を曲げてだらりと俯いている。
まるで、操作する者を失った操り人形のように。
それだけでなく、綾は全身に、まるでミイラの包帯のように、赤い糸が巻き付いていて―――、
「……お、かあ、さん」
不意に、綾が顔を上げた。
その、赤い糸に覆われて、毛糸玉のようになっている顔から覗く目は、涙に滲んで、血走っていて―――、
「……ぬ、ぬい、ぐ、るみ」
ゆらり、がくん、と、綾が動いた。食卓に、手が伸びる。そこには、切り裂かれたぬいぐるみと、綿と、コップと、包丁。
「……わ、わわ、わた、し」
まるで、何かに操られているような動きで、綾が包丁を掴む。
そのまま、ゆらり、だらり、がくがくと、こちらに向かって歩いてくる。
「あ、綾?何が……」
ようやく声が出たが、
「……お、とう、さんの、わた、し、おとう、さんの、こどもじゃ、なかっ、たから」
恐怖で、喉が詰まった。
なぜ、それを、何が、起きて―――、
「……の、ろ、われ、て」
綾が、ゆらりと包丁を振り上げる。
なぜか、全身が、縛られたかのように動けない。
「……お、かあ、さん」
綾が、倒れ込むように、私に抱き着いた。
瞬間、背中に激痛が走り―――、
「……助けて」
私の胸は、愛する娘によって、深々と貫かれた―――――。
縫い包み 椎葉伊作 @siibaisaku6902
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