第13話 【心の奥の大世界を旅する】


 この二三日うちは、小父さんは宿屋のバルコンの上に椅子を引き出してきて、それに座ったまま、熱心に絵を描き続けている。


 私はそのバルコンのすぐ下の、庭みたいになった広めの芝地の一端に、涼しそうな木陰を落としている一本の樹の根元に腰を下ろしながら、そういうバルコンの上で真面目な顔つきをして絵を描いている小父さんの姿を何とはなしに見上げていることが多い。


 そうして時々邪魔にならないように小父さんの背後にそおっと近づいては、絵の仕上がっていく過程を、何か独り占めするのが勿体(もったい)ないような気持ちのまま、見続けている。


 小父さんは眼下に眺望できる何とも味わいのあるような草葺の庵の点在した小さな村を、その廻りに波立っている耕作地や森の緑を前景に配置しながら、丹念にスケッチしていた。


 そうしてその背景に山並みを綴り、その山襞の窪んだ所から陽の光を受けて霞んだように見えている湖を、これから描いてゆこうとしているところだった。


 私はふたたび足音を立てないようにして木陰へと戻って行った。

そうしてまた、一人の絵描きの姿を見上げだした。


 風が大柄な雲を私達の眼前へ引き寄せていた。そして時折、また何処からともなく吹いてくる風が、宿屋の裏の山並を、手荒な霧めいた灰色雲で埋めたりした。


 私は木陰で樹に凭(もた)れつつ、そんな私に吹いてくるゆるやかな風に向かって、気持ちよさそうに足を投げ出している。私の目の裡(うち)で、一人の画家が一心に絵を描き続けている……私は何だかその映像にいつの間にか或る女性画家の姿を重ね合わせていた。


 昨年の冬、


「あなたのこの世で一番好きなものに、いつまでも触り続けていらっしゃい。

……とにかく触り続けることが重要なのよ……」


 彼女はアトリエの中で大きなカンバスに向かったまま、その手を休めずに背後にうつけたように立っている私に向かってこう言った。唯、絵を見せてもらうために彼女のアトリエにお伺いした私にとっては、この言葉は刺激的だった。……


 それから一週間ばかり経った後、私は自分の書いた詩を読んでいただくために、再び彼女のアトリエを訪れた。その時の彼女の言った言葉は、今の私の裡で大きな意味を持つものとなっている。


「あなたにいま一番必要なのは、あなたの内側にある、心の奥の大世界を旅することよーーこの詩は上手く書けているわ。けれど、あなたの世界が全然伝わってこないの……」


「心の奥の大世界……」


 私はふと我に返ったように、木陰の下で、上空に流れる風をまるで見でもしているかのように空を見つめながら、そう呟いた。あの後、私は何だか興奮したようになって、川沿いの道を彷徨い続けたのだったなあ。


 ……冷たい風が吹いていた。私は堪らずに上着の襟を立てた。そうしてまるで風に抗うことを欲しでもするかのように、私は風上に向かって歩いてゆく。髪が盛んに逆立った。横手を流れる川面には、何処からともなく差し込んでくる光たちが、流れに身を任せるようにしてたくさん落ち注いでいる。それは外灯の明りだの、信号の明滅だの、自転車の照明といったものの様々な光の交差に違いなかった。


 私はそれを歩きながら見るともなしに目に入れると、ふいに足を止めて土手を下りだした。そうして川緑に辿り着くと、暫くはその川面に浮かんだ光たちを何とはなしに見続けていた。やがて、その川面にまだらに落ちている光の合間を縫って、一つのペットボトルが流れてくるのが私の目に認められた。それはゆっくりと私の前の流れを通過して川下へ降(くだ)って行った。


「あいつは何処までいくのだろう……」


 私は知らず識らずのうちにそう呟くと、しかしそれはだんだんわたくし事のようにも思われてきた。

 

「あいつのようにあんな一ぱいの光の中で、私は旅をしているのだろうか……だが、私はそんな光の胎内へ、自分を沈ますことができずにいるのだ……」


 私はいつまでも其処でそうしてじっと眸を凝らしながら、川面降ってゆくそれを見続けているうちに、いつの間にか自分の手がかじかんでいるのに気がついた。私はやっと自分の裡の温もりに気づきでもしたかのように、それに口をあてがいながら、静かに吐息しだした。……


 私はいつの間にかそんな追憶に耽りながら、今あの絵描きの先生はどうしていらっしゃることだろうと懐かしんだ。私達の便りはもう半年ほど途絶えてしまっていたが、私は再び先生へお手紙をだそうと決心して立ち上がり、木陰を抜け出して行った。

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