第17話 【ある紙一重の別世界】
私がこの村を立ち去る前日になって、あたかもそんなこの村の様々な思い出や、心懐かしい風景色などを、自分の心の裡(うち)にいつまでも引き留めておきたいがために、その日々と同じような、しかし何処となく異なった素朴な村道や、傾いた唐黍畑の側道や、それから山の背に向けて幾つも分岐しながら伸びて行っている、林や森に静かに引かれてゆく幾条の山径などを、何か落ち着かない気持ちで、しかしその底には淀んだものなど一つもない澄明を徐々に心裡に拡げ出しながら、しまいにはその澄明が非常な明るさで私の心を充たしてゆくのを感じ出しながら、その静かな散歩を私は心ゆくまで味わい、愉しみ、慈しんた。
……そうして今は、その散歩ももう終わりに近づいたと見えて、それはもう本当にクライマックスに等しいような、夕刻前の、何か優しみを帯びた静かな光が斜めになって一ぱいに差し込んだ、松並木の道を、私はゆるやかな歩調をもって、そのアダージョを基調とした自然の光が、私の身に降り注ぎ落ち注ぐままに歩いてゆくのだった。
眼路を限りに続いてゆくその松並木の道は、本当にこれほどの美しさをもって此処に展開していることが、何だか認めがたいほどに私には想われた。
ーー今、ここでしか、おそらくはこれが最初であり、最後であろうと想わせるような、一瞬間きりの、しかし信じられない程のこれほどの永遠を、美を、私はまざまざと魅入らせられた。
いつの間にかその中に立ち止まりながら、私はふと何処ともつかないような空を、まるで夢の中にででも居るかのように、じっと虚ろな目つきで見やっていた。
時どきそんな私の傍を通り過ぎる村の者が、私の顔を覗き込んでいぶかしがりながら素通りして行った。そういう村人とて、今の私には、シネマ上映前のコマーシャルの中の人物たちのように、何か見知らない、他(よそ)の世界の人たちのように思われた。
私は自分でも知らず識らずのうちに、こんなことを考え出していたようだ。……
「私が今触れているものは、いつもと同じような細やかなものに違いないのだが……だが、なんと今は、分けても私へ、不思議な永遠性を目の当たりに見せていることだろう。……けれどもこういった微小なものたち、いつも見慣れたような事物や景象の中に、おそらくは永遠はひたかくしに隠されるようにして、しかし、確実に誰かの目に映るものとして繰り返されてきたのではあるまいか。たまたまそれが今、思いがけずも私の目に飛び込んできたーーが、実際には、何処かで誰かが、私と同じような体験を、もっともっと多くの人達がこんな体験を何者かから得させられている……」
やがて私は再び歩き出した。
陽の光は、何処か懐かしいような淡桃(うすもも)の汁を、山の背一帯にこぼしだしている。
カラスが二つ三つ鳴いて、松林の奥の方で、何処かの松の木をしきりに揺すぶったかと思うと、まるで母の後姿を思い起こさせるような、慈しみ深い放物線を描いて、ちょうど山襞の合間からぼんやりと、あるいは麦わら帽子をかぶった真夏の少女みたいな顔色に浮かんだ湖面の方へと飛んで行った。
その羽音がやがて微かになって空にとけて消えてゆくまで私はそれに耳を傾けていた。
「心の奥の大世界……」
そう私はいつともなく呟いていた。
突然、私は心の裡にふいと何かが生まれてくるような予感に襲われ出した。
それは常に私がいつも心に描いてきた詩の世界ではなしに、もっともっと遥かなところからやって来たような、しかし私の内側の単純な仕組みを解きほぐしたならばすぐに見つかるような、あるいは紅葉が風に吹かれて枝先から土地に積もった落葉の上に落ちた瞬間に別の世界のものとなるように、唯(ただ)、そんなある紙一重の別の世界の入口が、かすかに、私には今、見えたような気がしたのだった。……
幸福の村 夢ノ命 @yumenoto
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