第4話 【我が生は開かれし……】


 この頃私は、明け方早く目が覚める。

  そうしてそういう時にはきまって自分の部屋を抜け出して応接間へゆく。応接間には中央に胴長の古めかしい木造りの角卓子が置いてあり、それを取り囲むようにして無数のソファーが置かれてある。そのソファーの窓向きの一つに私は腰を下ろして、ただぼんやりと窓の方を眺めた。天井には裸電球が、部屋中を丁度好いくらいの薄明るさで満たしている。そういう薄明るさを透かして、真っ黒な窓枠のうちに、一つ二つの輝きが静かに明滅しているのが私の目に入る。


 私はそんな遅ればせながらいま時分に異様に輝きだした黎明の星を、見るともなしにぼんやりと見た。と言うよりも、そんな小さな輝きを、意識の上に、ただ無造作に置きやったぐらいのものであったかも知れない。しばらく私は、そういう自分が無意識のうちに創りだしている平静な状態、又、少なからず閉鎖的でもある状態、――そんないかにも無口で安らぎとも言えなくないものに、身を任せるままでいた。……


 窓の外が微かに明るくなり出した。私は思い出したように、窓の側(そば)に近づいてゆく。この部屋から眺望できる大きな湖の上には、真っ黒な、黒曜石のような雲脈が、その縁だけ白々とした輪郭を描きながら、湖面近くで拡がっている。湖の向こうの山並は、インディコ模様にすっかり自らを任せきったように染められて、湖の上に浮かんで見える。その山並と湖上に近寄せている雲脈との透き間には、微かに空が帯状に見えたが、それがやがて山並の上へ昇ろうとし出している朝焼けの光を受けて、うっすりと赤いすじを何処までも水平に引いている。


 私はその光景にしばらく見入っていたが、これが美しい日の出の序曲であろうことは疑わなかった。そうしてこれからより美しい音楽が私の胸を、どんな溢れるような感動で一ぱいにさせしめることか……と夢見出していた。


 やがて真っ赤な太陽が山並の上から昇り出した。その端が、つけ火のようにちらっと山並の上から少し見えたかと思うと、それがそこから虚空へ向けて扇状に、薄紅と橙色の宝石のような光線を解き放った。そうして次には何ともかともいえないような朝陽が、まるでそれはあらゆるものたちの出発であるかのように、静かな気高さに包まれながら、姿を現しはじめた。


 一刻一刻は、もうどんなつながりからも切り離された世界の中で、見えたり隠れたりしていた。唯(ただ)、いま私が目の当たりにしている太陽の儀式だけが、あらゆるものたちに先立って、生き生きと、活発に脈動しているかのように思われた。


 「いまこそ我、我が生の上に立たん! 我が生は開かれし……」


 朝陽はこう全身で告げているかのようであった。が、その生の塊のように朱く焼けた円球は、少しの間その輝ける全身を見せたきり、また次第にすぐ上の雲脈の中へ、吸い込まれるように昇ってゆく。すると、うす暗い灰青色の雲脈の下方から、にわかに明るい数知れない金の薔薇たちが咲きでもしたかのように、雲の茂みは金の斑(まだら)をきらきらと眩しいほど発散させ出した。そうしてすっかりその雲脈の半身を光雲に見せている。それが徐々に雲脈の隅々にまで浸透し出した頃には、朝陽は雲の上縁まで昇って来ていた。


 湖上の雲脈は、そういう間にも朝陽の昇るのに併(あわ)せて、少しずつ上昇し出していた。そうして全身をすっかり光雲にさせている。



 「向こうはひかり雲……いにしえの住む町……」


 と、私はそんな光雲を片手で指し示して、呟いた。


 丁度昨年の夏、或る高原地方を旅していた折に、眼前に空高く沸き上がりながら変幻を繰り返していた雄々しい雲群を見上げながら、そのとき手帳に何とはなしに書き記した詩句を、私はまた今、思いがけず蘇らせていた。


 湖面はまだ朱色の余韻を残して、輝いていた。その辺りの岸辺やそこから拡がっている遠い街並、それから湖の向こうの山並などは、すべてがうすぶどう色に塗り替えられた。そして時々私は、雲脈が海の生き物ようにその形を変化させる光景なぞに目を奪われた。


 太陽はもうすでに雲脈から離れて行きながら、高天(たかま)へと急ぎだしていた。私はようやく我に返り、長い間窓ガラスに額を押しつけて日の出を見入っていた自分に気がついた。部屋には既に朝食のパンケーキを焼く匂いが立ち込めていた。宿屋のスタッフはもう朝食の準備に取りかかり出しているらしかった。


 あんまり陽に見入りすぎて、少し痛いくらいになった目をしきりに瞬かせながら、私は朝食の出来るまでもうひと眠りするつもりで部屋に戻って行った。


湖面の朱色は私の知らぬ間に、完全な金色に変わり出していた。……



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