終章

愛と優の泥濘で

 清潔な純白の掛布に包まれて眠るナイツの寝顔を、サンが見守っていた。

 春先の穏やかな陽光が差し込む病室は白く染め上げられており、サンの横顔を柔らかく照らしている。


 カンジとの戦いの後、ナイツとサンは隠れ処に現れたジアに助け出された。意識を失っていたナイツは、その足でこの病院に運び込まれている。

 レンヤの息のかかった病院だけあり、銃創や裂傷だらけのナイツを目にしても疑問の声が上がることなく治療が続けられていた。


「ナイツ……」


 サンが呼びかけてもナイツに目覚める気配は無い。

 この病床に寝てから三日間、ナイツ眠り続けていた。日差しに浮かぶナイツの顔色は白く、このまま目を開くことは無いのではないかとサンの不安が絶えることはない。


 五階に用意された個室は静かで、サンは世界にナイツと自分だけしか存在しないような錯覚に囚われた。

 ふと、その静寂を破る音がサンの耳朶に届く。

 控えめに病室の扉を打つ音を聞き、サンが口を開いた。


「あ、はい。どうぞ」

「失礼します」


 扉から姿を現したのは、紅茶色の長髪を背中に流した女性だった。その美貌にサンが目を奪われていると、女性は後ろ手に扉を閉めて入室する。


「ナイツは、まだ目を覚まさないようですね」

「そうなんです。……あの、ナイツのお見舞いに来られたんですか?」

「ええ」


 女性は見舞いの品である青い花を掲げてみせた。


「綺麗な花ですね」

「そうでしょう。アヤメアイリスです。……この部屋には花瓶がありませんね。看護師さんに借りてきます」


 そう言って女性は一度部屋を出て行った。

 一人になったサンは小首を傾げる。女性の声をどこかで聞いたような覚えがあるのだが、思い出すことができない。


 女性が水の入った花瓶を手にして現れ、その女性についての記憶を掘り起こす前にサンの物思いは途切れた。

 女性はナイツの枕元にある棚の上に花を挿した花瓶を置き、痩せたナイツの顔を痛ましげに見下ろす。


「サンは、ずっとナイツの看病をしているのですか?」

「はい。ナイツは私のことを命懸けで助けてくれて、こんなことになってしまいましたから。これくらいのことは何でもありません」

「そう。きっとナイツは大丈夫。あの困難を乗り切ったのだから、これくらいは何でもないわ」

「何があったか、知っているんですか⁉」

「あ、いえ、あははは……。あら、私急いでいたんだった」


 慌てた様子で出口へと向かう女性を引き留めようと、サンが立ち上がる。


「せっかくですから、お茶でも」

「嬉しいけれど、それはまた今度の機会に頂きます」


 女性は扉の前で立ち止まってサンを振り返る。

 喉の調子を整えるように小さく咳払いしてから、女性は重々しくその朱唇を開いた。


「それでは、サン。また会えるときを楽しみにしている」


 呆気に取られているサンを残し、女性は室外へと姿を消していった。

 扉を呆然と眺めていたサンは、その喋り方と声の主を思い出して双眸を見開いた。


「あ、あの喋り方? まさか? え、ええええええええ⁉」





 まだ先ほどの動揺から立ち直れないでいるサンの耳が、再び扉を叩く音を聞いた。


「は、はい。どうぞ」


 入室してきたのは、紫紺色の髪を有する眼鏡をかけた女性だった。怜悧な瞳をサンに向けて静かに口を開く。


「あなたがサンですね。私はトウコ・カゲヤマ。〈天道社〉社長の秘書をしています」

「あ、ナイツの叔父さんの……」


 トウコは頷くとナイツが横たわる寝台に歩み寄った。その際、甘い香りが室内に漂ったのはトウコが果物の詰め合わせを手にしているからだった。

 トウコが果物の入った容器を棚の上に置くと、ナイツの寝顔に視線を落とす。トウコの表情からは、眠り続けるナイツに何を思うのか読み取ることはできない。


「お見舞いに来て下さったんですか」

「はい。ナイツの容態はこの病院の医師から聞いて把握していますが、私が直接様子を見てくるように言われました」

「やっぱり心配なんでしょうか」

「いえ、社長に限ってそれはありません。ナイツに回すはずだった依頼がありましたので、気になるのでしょう」


 冷淡なトウコの口調に気後れしたサンが閉口する。

 何気なくトウコは横の花瓶に目をやった。


「『希望』ですか」

「え、何ですか?」

「アヤメの花言葉です。他にも『友情』や『信頼』などがありますが、この花を持ってきた人物はナイツに『希望』を届けたかったのでしょうか」


 トウコの意外な知識を聞いてサンが目を丸くする。

 トウコはすでに用は済んだという風に踵を返すと、サンに向き直った。


「実を言うと、私はナイツがこのまま目覚めない方が、彼のためになるのではないかと思っています」

「そんな……。どういうことですか?」

「ナイツが依頼を請けるとき、彼の顔はいつも苦痛を帯びていました。私は、その姿をずっと目にしてきたのです」


 サンは気付いた。ナイツへの依頼の窓口となっているのはこのトウコなのだろう。

 トウコはもっとも身近でナイツの苦しみを見続けた女性なのだ。


「もし、二度とナイツがあの顔をしないで済むのであれば、このまま……」

「いえ、きっとナイツはそれを望まないと思います。そのように苦しんでまで、生きていこうと願った人なんですから」


 トウコは、直線的に自身を見つめるサンの眼差しを眩しそうに見返す。


「……ナイツが命懸けであなたを助けた理由が分かるような気がします」


 そう言ってサンの横を通り過ぎ、扉の前でトウコが振り向く。


「一応、私だってナイツのことは心配していたんですよ。ただ、彼のことを気遣うのは私の仕事ではありませんでしたから」


 トウコは眼鏡の奥の眼を伏せると、この部屋に現れたときと同様に静かに退室していった。





 サンが休憩がてらお茶を買ってくると、サンが留守にしている間に病室を訪問している人影があった。

 サンが扉を開けたことに気付いているのかどうか、その女性はナイツの寝顔に視線を落としている。


 豪奢な巻き毛の金髪が背中を覆っており、派手な容貌をした美女。ナイツの師であるジアであった。

 サンが視線を注ぐ先で、ジアは上体を曲げる。そのままジアの顔がナイツのそれに近づいていき、その唇が触れ合いそうになった。


「あー! 何やっているんですか⁉」

「おっと。いたの?」


 ジアが顔を上げてサンを見やった。


「ジ、ジアさん、今……何を?」

「いやね。昔話でお姫様が王子様の口づけで目覚めるというのがあったじゃない。それで目が覚めないかな、なんて思ってさ」

「王子様とお姫様なんて柄じゃないですよ」


 苦笑しているジアへとサンが歩み寄った。サンが持つお茶の缶に気付くと、ジアは素早く手を伸ばす。


「お、気が利くじゃない」

「あ、それ、私のなんですけど……」


 サンが言ったときには、すでにジアは缶を開けて口をつけている。

 隠れ処から助けて連れ帰って来てくれたのはジアであるだけに、サンの彼女に対する態度も気安いものになっている。


「ジアさんもお見舞いに来てくれたんですね」

「そりゃあ、可愛い弟子のことだから。でも、私以外にも見舞いに来た人がいるようだね」

「ええ、まあ」

「この男も隅に置けないようだわ。あんたも油断していると、こんな奴でも他の女に取られてしまうかもよ」

「何を言っているんですか⁉」


 ジアは含み笑いしながら出口へと向かい、慌ててサンが声をかける。


「あ、もう帰っちゃうんですか」

「うん。もう私の用は済んだからね。……あ、そうそう。あんたが生命を狙われることは、当分の間は無くなったようだよ」

「え?」

「あんたの親父さんが、やっと動いてね。今頃は嫡子のボンクラどもに説教をかましているだろうから、当分は安全だろうよ」

「そうなんですか。よかった」


 サンが見えざる手で胸を撫で下ろすと、ジアはナイツの寝顔を横目にする。


「そういうわけで、ナイツのことはあんたに任せたよ」


 そう言い残し、ジアはそよ風のように姿を消していった。

 サンはジアの見えなくなった後ろ姿を追うように扉へと双眸を向けていた。


「う……」


 後ろから声が聞こえ、サンはナイツを振り向いた。





 ナイツが目を見開くと、眩い光が視界を埋め尽くした。

 白く染まった世界が眩しく、ナイツは目を細めて辺りを見回す。


 天国にしては無機質な白い壁と床が見え、そのなかに黒い人影があった。

 ここが天国か地獄かは分からないが、少なくともこれほど顔を歪めて涙を流している女性は天使ではないだろう。


「ナイツ!」

「あ、サン……」


 久しぶりに発したナイツの声は掠れていた。

 サンが横たわるナイツの頬に自身のそれを押しつけるように抱きつく。サンの流す涙がナイツの頬に熱い感触をもたらした。


「自分は生きているのですか?」

「そうだよ! もちろん決まっているじゃない。私も、あなたのおかげで……!」


 ナイツは手を伸ばしてサンの背中に回そうとしたが、腕に力が入らず苦痛に呻いた。

 仕方なくナイツは首を傾けてサンの頬に頭を寄せる。


 ナイツに身を寄せるその女性は偶然彼と出会い、土足でナイツの生活に上がり込んできた。

 ナイツが殺し屋であることを知っても彼女は動じなかった。なぜなら、彼女はナイツの殺し屋としての能力を必要にして近づいてきたのだ。

 そのことを知ったとき、ナイツは彼女を拒絶した。だが、その後の空虚感を耐え難く思い、命を狙われている彼女を助けてナイツは大怪我を負った。

 死にかけたナイツのためにその女性は涙を流した。


 彼女がナイツと共有した時間は短い。それがいつの間にか、ナイツにとってかけがえのない日常の一部となっていた。

 ナイツは殺し屋だった。自分の生命と引き換えに他者を殺して生きてきた。そして、これからもそうして生きていくのだろう。

 その生き方に伴う罪悪感と自責を痛感しつつ生きるナイツにとって、彼女はひとときでも苦痛を忘れさせてくれる存在だった。


 ナイツはその女性の名前を呼ぶ。


「サン」

「何?」

「あの花は? それに甘くていい香りが」

「うん。話してあげる。ナイツが寝ている間にいろいろあったんだよ」


 サンの涙を頬に感じながら、ナイツは頷いた。


                                   〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殺し屋ナイツの受難 小語 @syukitada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ