七、
最終話
「おかあたん」
「どうしたの?」
眠たげに目をこすって寝返りを打つ
「おとうたん、まだ?」
「うん。今日も遅くなるんだって。ごめんねって言ってたよ」
柔らかな髪を撫で、スタンドの灯りでも読み取れる寂しさを慰める。まだ朧な下がり眉も泣き出しそうな丸い目も、産まれた時から私に瓜二つだ。
「おとうたんに、けーきあげてね」
「うん、あげるよ。おいしいなーって食べてくれるよ」
頷いて背をさするが、胸が痛む。どうせ今年も私が食べて「おいしかったって言ってたよ」と嘘をつくことになるのだろう。
「いっしょに、たべたかった」
絞り出すような切ない声に、唇を噛み締める。そうだね、と小さく返した時、玄関で物音がした。
「おとうたん!」
瞬時に跳ね起きた紗与子はベッドから飛び下り、玄関へ走って行く。
……帰って来たのか。
抜け殻となった毛布を整えて体を起こし、一息つく。立ち上がり掛けてふと、鏡に映る姿に気づいた。乱れた髪を片方に寄せて結び、疲れの隠せなくなった素肌をさする。私が一日に四十一になった約三週間後の今日、紗与子は五歳になった。
――子供、できたのか。
寝室に置いていた母子手帳を目敏く見つけたのは五年前の三月、「うん」と答えたらそこで終わった。それきり、何も聞かれたことはない。
改めて腰を上げて寝室を出ると、抱き上げられた紗与子が冷蔵庫からケーキを出すところだった。
――おとうたん、どれがつきかな。
自分の誕生日ケーキなのに、紗与子は真志の好みの味を選びたがった。好みの料理を作って一人待ち続けた日々を思い出して、久しぶりに胸がざわめいた。
「おとうたんのつきな、ちょこだよ」
「そうか、おいしそうだな。ありがとう」
舌足らずでたどたどしい紗与子の言葉に合わせてゆっくりと答えながら、真志はダイニングテーブルへ移動する。
「保育園は、楽しいか」
「うん。おりがみ、こういうの、いっぱいつくって、おじいたんおばあたんにあげた。あと、おどった。えっとね」
身振り手振りを交えながら必死に敬老会の報告をする紗与子を見ていられず、背を向けてコーヒーを淹れる。落ち着かない胸を宥めるように、一人の作業に没頭した。
あとを真志に任せて作業部屋へ籠もり、途中だった紗与子のヘアゴム作りを再開する。
私の血を引いているせいか、紗与子も「くろいもの」が見えてしまう。でも保育園はアクセサリーやキーホルダーが禁止だから、身を守るにはヘアゴムに祈りを込めるしかない。
――与え与えられ、糸が布を織りなすように与しながら人生を全うすることができますように。
名付け親である住職は、紗与子にこの名を与えたあと誕生を待たず遷化した。亡くなった朝、切れるはずのない絹糸がふつりと切れてそれを知らせた。あれ以来、紗与子を守れるのは私だけになってしまった。どうすればいいのか、不安だけが募っていく。
作業の遅くなった手に溜め息をついた時、背後のドアが開いた。
「部屋に寝かせといた。あそこ、すごいことになってんな」
「叔母さんが、なんでも買っちゃうから」
紗与子の誕生を誰よりも喜んだのは叔母で、その時から財布の紐が緩みっぱなしなのだ。私に店長を譲った今も職人として働いてくれているから給与は出しているが、決して裕福な訳ではない。でも、何度言っても「似合いそうだから」「好きそうだから」で服だのおもちゃだの買ってくる。今年の誕生日プレゼントは、キッズテントだった。本人は秘密基地ができたようで喜んでいるが、七畳しかない子供部屋がもうカオスになっている。かつては、真志の部屋だった場所だ。
「何作ってんだ」
真志は適当なところに腰を下ろし、作業の手を見る。四十半ばになって白髪も目立ち始めてきたが、彫りの浅い顔に大きな変化はない。老眼が入って、携帯や新聞と距離を測るようになったくらいだろう。
「紗与子のヘアゴム。作っても作っても失くしたりあげたりしてくるから、量産しとくの」
極細のヘアゴムを四本取りにして編む特製のものは、本人希望でピンクにしていることもあって友達の目にも止まりやすい。これがなければ見えて怖いくせに、羨ましがられたら簡単にあげてしまうのだ。そして、泣いて帰って来る。
――だって、あげたかったんだもん。
自分を守るより他者の幸せを優先するその心が、誰にも食い潰されないように。守れるのは、私しかいない。
「あの子は私にそっくりだから、そのうち身勝手な男に食い潰されるのかもね」
一息ついて作業の手を止め、腰を上げる。そんな射るように見られたら、進む手も進まない。
物言いたげな真志の顔を見下ろして、苦笑する。言えるものなら、言えばいい。聞けるものなら。
「あなたには、少しも似てないから」
ぴくりと小さく反応した目元に満足し、部屋を出た。
秋になってまた紗与子が歌うようになったやきいもの歌を口ずさみながら、子供部屋へ向かう。常夜灯の下で寝息を立てる紗与子の肩口まで布団を引き上げ、手を握る。反射的に握り返した稚い手に一瞬、体が強ばった。
――澪ちゃん。
蘇る声に溜め息をつき、そっと手を外す。
「大丈夫よ、紗与子。あなただけは、どんなことをしても幸せにするから」
頭を撫でて腰を上げ、紗与子の上に浮かぶ障りの玉を眺める。泰生の器では葬りきれなかった余りが、その死と同時に紗与子へと受け継がれてしまった。ろくでもない置き土産だ。少しずつ減らし続けて、残りは半分ほど。今のペースなら、あと五年くらいか。
「私は、あなたとは違うの。ユキエさん」
澱む障りを一握り掴んで手に移し、寝室へ向かった。
当たり前のように押し倒す手に逆らわず、首筋に吸いつく頭を抱き締める。押し込むように障りを中に入れ、骨の髄まで染み込むように願う。
刑事が殉職すれば、遺族には高額の
何よりも大切な仕事で命を落とすなら、本望だろう。紗与子にも、悲しくも美しい父親の思い出しか残らない。できるだけ無惨に、華々しく散って欲しい。
小さく笑った私に気づいて、真志は顔を上げる。
「なんだ」
「紗与子がすごく喜んでたから、良かったと思って。私も」
薄暗い灯りの下でも分かる目つきに苦笑し、少しだけ柔らかくなった頬を撫でた。私はもう、弱くはない。
「待ってるから、もう少し帰って来て」
視線が多くを語る前に、引き寄せてキスをする。その内に溜まり続ける障りが全てを喰い尽くして弾ける日を楽しみに、私は生きていく。
「好きよ」
熱っぽい吐息の間に伝えて小さく笑うと、真志の視線が少し揺らいだ。
(終)
つまごい 魚崎 依知子 @uosakiichiko
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