第36話
伏丘を迎えに河原へ下りた時、もうユキエはいなくなっていた。私にも見えず気配も消えていて、最後の思い残しを無事消化できたことを知った。ユキエはただ、伏丘に「分かって欲しかった」だけだったのかもしれない。
刑事である真志には違法行為を告発する義務があるらしいが、事件は三十年ほど前で加害者も被害者も全員死亡している。事件の概要も、幽霊の証言しかない。当時の伏丘がユキエの殺害を確信していながら家族に捜査が向かないよう仕向けていたとしても、犯人隠避の時効はとっくに過ぎている。結果、社会的にはこのまま眠らせることに決めた。
表立ってユキエの弔いができない伏丘には、私の名を添えてあの住職を紹介しておいた。理不尽な理由で殺されてしまった四人の弔いも併せて、最期まで続けるようにと課した。私にできるのはここまでだが、私に解決の手がかりを与えてくれた住職なら、一番良い形で収めてくれるだろう。
再び真志との生活を選んで家へ戻った私に叔母は嘆息し、家族は呆れた。暁子も母からの電話で知っただろうが、今回はもう何も言ってこなかった。
最初の頃はこまめに帰宅していた真志は少しずつ帰って来なくなり、呼び出しの電話が鳴ってからは一度も顔を見ていない。予想どおりの展開だった。
一人で訪問した正月の義実家では「真志に恥を掻かせたのだからあのまま別れて欲しかった」を遠回しに言われ、実家では直球で言われた。とはいえ、正直実家は意地でも離婚させると思っていたから、当時すんなり許したのは意外ではあった。いい加減私に呆れたのだろうと思っていたが、そうではなかった。
――泰生くんのご容態は、どうなの? あまり良くないんでしょう?
美しく煮られた黒豆をつまみながら、母はまるで私が知っているかのように尋ねた。だから真志とよりを戻したのだと思っていたらしい。凍りついた私の表情に行儀悪く箸先から黒豆を落として、やだわ、と優雅に慌てた。
元旦を過ぎたとはいえ、三日はまだ正月真っ最中だ。それでも初めて足を踏み入れた都会の病院はそれなりに人の姿があって、驚きながら小綺麗なエレベーターに乗った。
泰生が倒れて緊急搬送されたのは先月上旬、おそらくはあの時だろう。以来、「義弟や義母と同じ」原因不明の症状で衰弱しているらしい。本人しか、分からない理由だ。
予想より温かい院内にマフラーを外しつつ、到着を待つ。点滅した『7』に一息ついて、いくつかの背に譲られながら箱を降りた。
泰生の病室は特別個室で、ベッド周りこそ病院らしいが、それ以外はまるでホテルのような設えだった。広々とした部屋には、個別のトイレはもちろんバスルームに応接セットや大型テレビまである。
ただ私の目を惹きつけたのは、そんなものではない。パーテーションをくぐった途端目に入った、ベッドで休む泰生の上に浮く大きな障りの玉だ。運動会で押した大玉を思い出すような、初めて見る大きさだった。当然、禍々しさもこれまで見たものとは比較にならない。濃密でべったりとした昏い玉は、見ているだけで息が浅くなる。
「泰生くん」
ベッド際で小さく声を掛けた私に、泰生は物憂げな視線を向ける。泰生自身も障りに飲まれて、昔のようにところどころからしか見えなくなっていた。
「来てくれたんだ。嬉しいな、もう一度会いたいと思ってた」
答えた声は掠れて、弱い。
「待ってて、今」
「いいよ。もう、消さなくていい」
昔のように触れようとした手を掴み、泰生は小さく咳をする。
「分かってて、俺に返したんでしょ。これが、澪ちゃんの答えだ」
確かに、そうだ。私には消しきれないから、真志を救うために出処へ……泰生だと分かっていて送り返した。
泰生は指を絡めるようにして手を握り、弱く力を込める。温かいが、乾いていた。
「障りを受け続けるうちに、同じ感触を他人に強くぶつければ、同じように苦しむことに気づいた。俺のように救ってくれる人がいなければ、そのまま死ぬことにもね。でも人生で一番殺したいと願った相手は、十年掛けても殺せなかった。ずっと、守られてて」
結婚して以降、私が消し続けてきたうちのどれくらいが泰生からのものだったのだろう。九月の事件が起きてからの障りは、殆どがそうだったのかもしれない。
「正月三日に来られるくらいだから、もう放ったらかしなんでしょ。そんな人に、本当にこの指輪をつけ直すほどの価値がある?」
はめ直した指輪に触れながら、泰生は胸を揺らすことを囁く。
「そこの、引き出しの中に封筒が入ってるから、出してみて」
俯いた私を労るように、優しい声が促す。病室のものと思えない高級感あるサイドテーブルの引き出しを引くと、茶封筒が入っていた。手に取って見せると、泰生は障りを揺らめかせながら頷いた。
「探偵に探らせて分かった事実は、本当は全部で三つあった。でも最後の一つは切り札にするために、もう一部『二つしかなかった』体の報告書を作ってもらったんだ」
明かされた中身に、引き出す指が止まる。血がどこかへ引いていくような心地がして、泰生を映す視界が揺れた。まだ……まだ、裏切っていたのか。
「あの人は当然それを分かってるから、俺を脅した。だから、『澪ちゃんを口説くのを邪魔しないならこのままなかったことにする』って取引を持ち掛けたんだよ。取引に乗るなら、口説き落とせても落とせなくても秘密は守ると言った。あの人は粘って、最終的に『年内』って期限を切って乗った。でも結局、澪ちゃんが自分の方を向くように邪魔をし続けただろ。それなら俺も、もう約束を守る義理はない。逃げ切りなんて、許さないよ」
障りの隙間に薄く笑む唇が見えて、視線を落とす。
――二度と会うな。
あれは、そういうことだったのか。
半ば自暴自棄で、折り畳まれた中身を勢いよく取り出す。写真が留められているのに気づいて、そっと開いた。
「児童養護施設にいる五歳の男の子に、週に一回会いに行ってた。探偵の調べでは三歳の時から預けてる子で、母親は亡くなって父親は不明。あの人は、母親の事件に関わった『おじさん』の体で接してるらしい。俺がDNA鑑定を求めたら、『俺の子じゃねえ』って拒否されたよ。でも澪ちゃんが相手じゃ、鑑定なしで『俺の子じゃねえ』が通じないってことくらい分かってる。だからどうしてもバレたくなかったんだろうけど」
泰生の言葉に脳裏をよぎったのは、ユキエの声だ。
――わ、たしと……いっしょ。
……藍子は、まさか。
写真はファミレスらしきところで食事をしているものと、どこかの公園で鉄棒をしているものだった。私には見せたことのない優しい笑みを浮かべる真志に、腹の底で昏いものが湧くのが分かる。
「澪ちゃん、俺と取引しない?」
掠れた声で持ち掛ける泰生に、写真から視線を移す。
「これは、俺がずっと燻ぶらせてきた障りだよ。澪ちゃんがここにいる状態で、これをあの人にぶつければ三分もあれば死ぬ。俺はあの人を殺してこのまま死ぬ気だから、構わないのなら見逃して」
真志が今死ねば、誰にもバレず、知られずに私は自由になれる。でもそれは、あまりに綺麗な結末ではないだろうか。
「見逃せないのなら一度だけ、あの人を裏切ってくれないかな。どのみち俺は死ぬから、秘密は漏れないよ」
揺らめく障りの隙間から、泰生の優しい笑みが見えた。昔を思い出す、懐かしい笑みだ。
差し出された、痩せた手をじっと見つめる。
――お前はどんなに追い詰められても、救うカードが切れる人間だ。
「……二人とも」
続けそうになった昏い言葉を飲み込んで目を閉じると、温い涙が頬を伝った。
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