第35話

 やがて車は山に入り、鬱蒼と茂る針葉樹の中を上っていく。

「彼女が殺されたと、本当に知っていたんですか」

 長い沈黙を破るように、真志が尋ねる。伏丘本人の口から答えを聞くまでは、信じられないのかもしれない。

「親が電話で『逃げた』と言った時、嘘だと思った。少し前に、兄貴が物を投げて脚が折れたかヒビが入ったと言ってたからな。そんな脚じゃ山は下りられねえだろうし、下りようとしたところで探しに出られて連れ戻されるのが関の山だ。兄貴が殺したのを庇ってんだろうってな。でも……どうしても、『本当に逃げた可能性』を捨てきれなかった」

 伏丘の言葉に、真志は何も返さなかった。ユキエを亡くした現実からの逃避かキャリアを失うことを恐れてか、私には分からない。でも真志には、分かっているはずだ。

「家族が熊に襲われて死んだ時にも、ユキエの遺体が見つかった報告は上がってなかった。だから、ろくでもねえ俺を捨てて今頃はどっかでまともな男と幸せに暮らしてるって、信じることにしたんだ」

 遺体は、破片も見つからなかったのか。切り刻んで茹でたって、埋めれば。

 一瞬よぎった最悪の処理方法に、吐き気がして口元を押さえる。何も出るわけがないのを思い出して手を下ろし、肩で大きく息をした。一瞥した隣のユキエは前の話を聞いているのかいないのか、相変わらずぼんやりと窓外を眺めている。生命活動を失っている胃の辺りを撫で、もう一度深呼吸をした。

 ……さすがに、違うだろう。それに、もしそうだったとしても、骨は残るはずだ。

「お前でも、同じことをしてたはずだ」

「いえ」

 すぐ否定した真志に、ユキエから視線を移す。

「俺なら、行かせません」

「まあ、そうか。お前はな」

 伏丘は鼻で笑ったあと、着いたぞ、と続ける。車が踏み入れた場所はもう、ただの荒れ野原になっていた。

 車から出るとすぐ、どこからか低い水音が聞こえる。

「奥に川があるの。この音は、滝の音」

 見回す私に教えたあと、鉈を手にしたユキエは枯れ草を掻き分けながらまっすぐどこかを目指す。

「あの日、私はここで死のうとした。首を吊って」

「暴力に、耐えられなくなったからですか」

 足を止めて振り向いたユキエに、真志が尋ねる。ユキエは緩く頭を振って、伏丘を見つめる。

「それもあった。でも一番は……妊娠したから」

 少し間を置いて伝えられた理由に、全員が固まった。当然、会いにも来ない伏丘の子供ではないだろう。

「つわりの時はどうにかごまかせたけど、お腹が大きくなってきて、もう無理だと思った。あなたに知られる前に、死にたかった。でも脚が痛くて、歩きづらくて」

 ユキエは、じっと見つめていた伏丘から視線を落とす。冷えた風が、枯れ草をざわめかせて吹き抜ける。ユキエは驚いたように体を縮こませて、腕をさすった。コートを忘れた身に、久しぶりの肌寒さは堪えるだろう。真志が気づいてコートを脱ぎ、ユキエに着せる。

 確かにそれは私の体だが、「私」にはしてくれたことがない。複雑なものを含んだ視線を送ったら、見えないはずなのにこちらを向いた。

「ロープの準備をしていたら、脚立を踏み外して転げ落ちた。その音で、あの人達が目を覚ましてしまった」

 訥々と事実だけを伝え続けるユキエに、居た堪れない気分になる。

 さっきから、ユキエは自分の思いを口にしていない。一番理解して欲しいのはかつての自分が抱いた痛みや悲しみ、苦しみのはずなのに。このままで、浮かばれるわけがない。

「私が自殺をしようとしてたことに気づいて、あの人達は怒り狂った。こんなに良くしてやってるのに恩を仇で返す気かって、私が意識を失うほど暴行し続けた。そして、意識朦朧となった私を死んだと勘違いした」

 目まで潰すような、凄惨な暴行だ。生きていたとしても、既に虫の息だったのだろう。放置していても死ぬような状況なら、勘違いしていなくてもきっと同じことをしていたはずだ。助けるわけがない。

「あなたにバレないよう、すぐ証拠隠滅をすることに決めた。そのまま埋めたら気づかれるだろうって、まだ生きてる私を鉈で切り刻んで釜で煮た。そのあと削いだ肉や内臓は裏山に撒いて、骨は焼いて砕いて滝壺に捨てた」

 人とは思えない所業を、ユキエは温度なく報告し終えた。伏丘は青ざめた表情で、ずっとユキエを見据えている。車を降りてから、まだ一度も口を開いていない。

「ああ、そういうことか」

 真志が気づいた様子で、ユキエを見た。

「熊は、その裏山に撒かれた肉を食べて人の味と臭いを覚えた。だから、冬眠前に下りてきて三人を襲ったのか」

「そう。私の復讐を果たしてくれたのは、夫じゃなくて熊だった。悲鳴を上げて逃げ惑うあの人達が恐怖の中で死んでいく様子に、初めて胸が空いた。『助けて』って泣き叫ぶ声が嬉しくて、仕方なかった」

 ようやく感情を口にしたが、手遅れだ。その頃にはもう、障りを抱く霊と化していたのだろう。簡単に言えば、悪霊だ。

 再び膨れ上がった障りに飲まれていく自分の体を、ぼんやりと眺める。私はもう、戻れないのかもしれない。

「でも……そのあとどこへ行けばいいのか、分からなかった。ようやく帰って来たあなたについて行きたかったけど、なぜか途中であの家に引き戻されて、それから、ずっと」

 「死んでない」ことにして誰も弔わなかったから、救われず飲まれてしまったのだろう。道筋さえつけていれば、まだ間に合ったかもしれないのに。

「ユキエさん。私が必ずあなたを、行くべきところへ案内する。こんな悲しいままでは終わらせないから、だから」

「ありがとう。でもそれは、最後の恨みを晴らしてから」

 ユキエの肩から真志のコートが落ち、足元に撓む。ユキエは握り締めていた鉈を、伏丘に向けながら歩いて行く。

「この男を、この手で殺してから」

「待ってくれ」

 立ちはだかるように割り込んだ真志は、向けられる鉈にも怯まずユキエを見下ろす。

「その体で殺せば、罪に問われるのは澪子だ。霊に乗り移られて殺したなんて通じない」

「そうね。妻が殺人を犯せば、あなたも刑事では」

「そうじゃねえ」

 遮るように返して、真志は手を差し出す。

「貸せ。殺すんなら、俺がやる」

 とんでもないことを言い出した真志に、慌てて滑り寄る。

「何言ってるの、馬鹿なこと言わないで! だめ、渡さないで!」

 真志の前に立ちはだかると、鉈が私の透けた腹に刺さっていた。ユキエは私と真志を温度のない目で交互に見たあと、鉈を真志へと差し出す。

「ユキエさん!」

「もしその人を助けようとしたら、即座にこの体を潰すから」

「分かってる。そのかわり、殺したら澪子に体を返せ」

 真志は鉈を握り直して、振り向く。抵抗する様子のない伏丘を見据えて、表情を歪めた。

「お願い、やめて……やめて!」

 泣きながら必死に鉈を掴もうとするが当然、掴めるわけもない。躊躇う真志を見上げて、お願い、と縋るように訴える。

「早く!」

 ユキエが私の口で、残酷に促す。

「お前には、無理だ」

 伏丘はぼそりと零すや否や鉈を掴む真志の手を掴んで捻り、自分より大きな体を舞わせるようにして転がした。しかし鉈は奪わず、踵を返してどこかへ向かい走り始める。

 そうか、滝か。

「伏丘さん!」

「お前の手を汚すまでもねえ、自分の落とし前は自分でつける!」

 あとを追う真志に返して、伏丘は辿り着いた滝壺の前で振り向く。

「ユキエ、俺をお前のいるとこに沈めろ!」

 ユキエに呼び掛けたあと、躊躇いなく後ろへ身を投げる。その声に応えるように、ユキエは勢いよく私の体から抜け出て続いた。

 何か言う間もなく、私は吸い込まれるように本来の場所へと戻される。軽い目眩を振り切ったあと、まだ馴染みきらない体で私も滝壺の傍へと向かった。

「伏丘さんは?」

 際から下を見る真志に声を掛け、私も下を覗き込む。ふらつく体を支えられつつ確かめたのは、滝壺ではなく河原で伏丘を抱き締めるユキエの姿だった。

「滝壺に飲まれる寸前で、助けたんだ」

 ……殺せなかったのか。

 これが意外な結末だったのかどうかは、ユキエにしか分からない。伏丘にもきっと、分からないだろう。

「ユキエさん、これでやっと行くべきところへ行けるかな」

 肩でひとまずの安堵の息を吐くと、腕が掻き抱いて力を込める。

「お前は帰って来い」

「どうせ、帰っても」

「帰って来てくれ」

 苦しげに遮った声に、腕の中で視線を落とす。

 今の思いなんて、三日も経てば忘れるだろう。呼び出しの電話一本で、簡単に捨てられるのは分かっている。それでも。

 私も、ユキエと同じだ。

 頷くと、腕はまた力を込める。捨てきれないものを確かめつつ、目を閉じた。

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