二番戦時

一縷 望

二番煎じたち

「マイカ-次号」の平穏な朝は、突然崩れ去った。

 彼女はあまりの衝撃に、思わず持っていたマグカップを落とした。大きなハートマークの中に白抜きで『マイカ&健次』とプリントされたそれは、フローリングに不時着するなり『&』を中心として縦に割れ、溢れた甘ったるいミルクの海中で、『マイカ』と『健次』の文字は離ればなれとなる。


「マイカ-次号」の恐怖に大きく開いた瞳孔は、テレビから流れる速報の字幕を何度もなぞるが、彼女の脳はその理解を拒んでいた。


 けばけばしいテロップは、不治の病と言われた「琥珀病」の治療法が発見されたことを冷たく示している。


「マイカ-次号」は目眩がして、ミルクと陶器の水溜まりの中に崩れ落ちた。


 騒々しい音を聞いて、健次はリビングへと駆け寄った。座り込む同棲相手とテレビを見るなり、彼の聡明な頭脳はすぐに事態を理解し、流れるように液晶の電源を落とすと、「マイカ-次号」のこわばった肩に抱きつく。


 そして彼女の耳許にくちびるを寄せ、優しく囁きかけた。

「マイカ、マイカ。大丈夫、落ち着いて。キミはマイカだ。僕が保証する」


「マイカ-次号」は蒼白な顔を健次に向けた。その表情は、雨ざらしの道端に捨てられた子犬を健次に想起させた。


 健次は庇護欲が刺激される感覚をおぼえ、それをすぐさま振り払う。

「まずは確認だ。病院に『あの人』の様子を見に行こう」



 総合病院前へ向かう列車の窓から、健次はうすボンヤリと灰色の光る、寂しい冬の空を眺めていた。隣では「マイカ-次号」が震えている。


 

 つい昨日まで、不治の病とされていた「琥珀病」。

 それは、睡眠中の患者の汗腺から、突然、粘液が大量に分泌され、一夜のうちに身体全体が覆われてしまう病気。患者は破壊不能な個体の中に閉じ込められ、意識不明のまま、何年も眠り続ける。

 個体中の人間が何年経っても衰えないことから、自然のタイムカプセル、琥珀をもじって「琥珀病」と名付けられたその病気を、10年前、健次の幼なじみ、マイカは発症した。


 いつ目覚めるかわからない患者たちを、待ち続ける家族や友人たち。そのうち、精神を病む者や自ら命を絶つ者まで現れた。

 そんな人々を憐れんだ科学者たちは、一時的な救済として、患者のクローン製造を推奨した。


 『毛髪ヒトツで黄泉帰る』


という文句のもと、クローン事業が大盛況となった時代。


 その時代の波に乗って造られたのが「マイカ-次号 」だった。





 列車がガタリと揺れ、健次は現実に引き戻された。

 隣の「マイカ-次号」を見れば、彼女は少し落ち着いた様子で、向けられた健次の眼差しを、遠慮がちな微笑みで迎えている。

 

 適当な笑顔で頷きながら、健次はまた物思いへと戻った。


 未曾有の事態に、健次や世界が失念──いや、見て見ぬふり──していた目の下のこぶ、「患者が目覚めたら、クローンはどうなるのか」という問題は今や充血し、すぐにも破裂しかねない爆弾へと成長していた。



 いつもなら、白紙を折りたたんで造られたような虚しい印象を受ける病院の廊下は、鳴り響く電話のベルや、対応に追われ走る看護師たち、押し寄せた人々の怒声で満たされ、今にも張り裂けそうだった。


 健次は、「マイカ-次号」の冷たい手を掴むと、人混みを器用にすり抜け、オリジナルの「マイカ」が眠る病室へと向かった。


 病室に入ると、そこには、オリジナルのマイカが横たわっていた。彼女は結晶から解放された後もまだ麻酔が効いているのか、10年前に琥珀病に罹った時の幼い身体のまま眠っており、ベッドの上に取り付けられた「中川ナカガワ 毎香マイカ」の白いネームプレートが寂しく光っている。


 オリジナルを前に固まる「マイカ-次号」に椅子を勧め、健次は静けさを紛らわせようと、部屋のテレビを点けた。映ったのは丁度、「琥珀病」についての会議を終えた総理大臣がマスコミの前に現れた瞬間だった。


 大臣は溢れんばかりの自信をスーツに詰め込んで、その肥えた腹をつき出すようにして胸を張ると、ハリボテの威厳たっぷりな、演説を始めた。

『琥珀病に伴う、クローンと患者の扱いについて、有識者と共に協議した結果、クローン、通称『次号』たちを完全に処分する、という結論に至りましたことを、ご報告いたします。つきましては──』


 健次は怒りを込めてテレビを消した。彼はテレビを点けたことを後悔した。隣で「マイカ-次号」が泣いている。


 健次は「マイカ-次号」の涙を拭ってやると、彼女を抱きしめて言った。

「マイカ。キミは僕と、この10年間一緒に過ごしてきた。僕の思い出には、オリジナルのマイカよりも、キミとの日々が強く焼き付いている。この意味がわかるかい?」


 健次はおもむろに「マイカ-次号」から離れると、ベッドに横たわる、幼いマイカに近づいた。


「僕にとっての『マイカ』はこいつじゃなくて、キミ、つまり『マイカ-次号』なんだよ」


 そう言うや否や、健次はオリジナルのマイカの首に手をあてがうと、全体重をかけて、その繊細で幼い首を絞めた。マイカが目を覚まし、必死に暴れるが、相手は10歳年上の男、健次の腕はびくともしなかった。マイカは健次の腕を掻きむしりながら、顔を紫にして泡を吹く。


 「マイカ-次号」はあまりの恐怖に椅子から転げ落ち、床に座り込んでしまった。何よりも、幼いマイカの上にのし掛かる彼の表情が、怒りでも、悲しみでもなく、全くの無表情であることがより不気味だった。


 ついにマイカの眼球はひきつり、上を向いたまま動かなくなった。そばの心電図がけたたましいアラームを発したが、健次がコンセントを抜くと、すぐに黙った。

 1人と1機の沈黙を背に、健次はベッドから降り、伸びをする。彼の顔は、清々しい笑みで満たされていた。

 そして、まだ動けない「マイカ-次号」の顔を覗き込むと、


「まだ、少しやることがあるから」と言って病室をあとにした。


 健次は、そのまま隣の病室へ移った。その部屋のベッドには、健次をそのまま幼くしたような風貌の琥珀病患者が横たわっていた。

 ベッドの上の名札には、「ヨビナ 健次ケンジ」と書かれている。


 それを見た「ケンジ-次号」──またの名を健次──は薄ら笑いを浮かべた。


 マイカが琥珀病になってから数年後、ケンジも同じく、琥珀病に罹っていたのだ。そして、クローンの流行が訪れた年、「ケンジ-次号」は「マイカ-次号」と同時に生を受けた。彼は、本物の「ケンジ」のように「マイカ-次号」の前で振る舞い、2人が健康であれば辿ったであろう人生を生きることを、家族に強制された。


 「クローンがオリジナルと同じことを考えるわけではない」ということすら、家族たちには理解できなかったようだ。


 自分たちクローンの生とは何か。それを問い続けた結果、「ケンジ-次号」は、オリジナルと自分との価値を交換することを思い付いた。オリジナルが居なくなれば、「ケンジ-次号」はケンジに、いや、誰でもない、になれるのだ。


 

 「ケンジ-次号」はオリジナルのケンジを、幼いマイカにしたのと同じように、ゆっくりと絞め殺した。



 「マイカ-次号」は、未だ震えが治まらなかった。たとえ、自分との思い出があったとしても、何故、健次は本物のマイカを殺したのだろうか。

 クローンとオリジナルの間には、権利も価値も、何もかも、圧倒的な差があるというのに。


 健次が戻ってくる。「マイカ-次号」は足音が病室の前で止まったのを感じた。と同時に、何やら話し声が聞こえ始めた。どうやら、看護師と健次が話しているらしい。


「……も残念ね。せっかく貴方も生きているのに」

健次が答える。

「まあ、仕方ないですよ。クローンは所詮クローンです」


 看護師の名前らしきものが廊下の奥で呼ばれ、ハァイと彼女は応えると、「じゃあ、さようなら。『ケンジ-次号』さん」と残して去っていった。


「マイカ-次号」は、耳を疑った。外にいるのは、健次のはずだ。扉のすりガラスに浮かぶ、「ケンジ」のシルエットをじっと眺める。

 途端、彼が扉を開き、「ケンジ」と目があった。


 「ケンジ」は「マイカ-次号」に優しく微笑む。よかった。いつもの健次だ。先程のは聞き間違いだろう。「マイカ-次号」は安堵した。



「誰でもなくなった2人」は手を取り合って、病院をあとにした。


 オリジナルの死体が見つかる頃には、彼らはもう、遺伝子整形によって、姿形までも別人となっているだろう。



 朝、テレビを眺めながら、女は無地のマグカップからコーヒーを啜った。鋭利な苦味と温かさが口内から食道へと流れる感覚が、女は好きだった。もう、悪趣味なカップを使って、甘ったるいミルクを飲まなくてもよいのだ。


 液晶から流れるワイドショーでは、人間たちが、最近制定された法律について、やかましい、形ばかりの「討論」を行っている。


 1人のコメンテーターが話に割り込んで、半ば冗談のように発言した。

「でも、最近、総理の印象変わりましたよね。前より痩せて、応答も『快活』って感じで。もしかしたら、今の総理もクローンで、仲間たちを守るために『次号保護法』を制定したのかもしれませんね」


 スタジオは爆笑につつまれ、司会者は「ナイナイ」と、話題を軽くいなした。

「生まれ変わったような総理には、頑張ってほしいですね。さて、次のニュースです──」


 女はテレビを消した。暗い画面に、自分の笑みが映っている。


 彼女はカーテンを開け、日を浴びて伸びをすると、家事に取りかかる。


 女の平穏な朝が、始まった。





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