プロローグ




その国がいつから存在しているのか、どのような人物が王なのか、誰も知らない。

分かるのはただ1つ。その国は、一切の苦難も争いも存在しない、永遠の理想郷であるという事。

美しく、穢れなく、犯罪も無ければ差別も無い。その国に生きとし生ける全ての人間は、希望と共に生を全うする。

多くの人々を救い、多くの人々に安らぎを与え、やがてその国は、いつしか全ての人類を庇護下に置いた。

人類史上初めて、この地球上に統一国家を設立するに至った、地上の楽園。



──────人はその国を、アルビオンと呼ぶ。





そう、楽園のはずなんだ。

痛みもなく、苦しみも無く、穢れも畏れも何1つとしてない、地上の楽園。

それこそがアルビオンのはずだったのに。痛みなど、今まで経験したことが無かったのに。



どうして私は今、こんなにも苦しいのだろう。



「追え! 久方ぶりの女だ!」

「最高のカモが連れてこられたもんだぜェ!」

「捕らえろ! 生死は問わねぇ!」


悪辣なる叫びが木霊する。

疾走する彼らを背後に、穢れた大地を私は走り続けていた。

逃げなければ殺される。一歩でも脚を止めれば、命も、尊厳も、全てを残さず凌辱される運命が待っている。そんな直感と恐怖の中で、いつ終わるとも知れぬ逃走劇を私は続けている。

だからこそ、私は走る。奔る。汚染された大気が肺を掻き毟ろうと、地に人の遺骸が転がっていようと、構わずに走り続ける。

今まで感じた事が無いような激しい痛みは、私の内に広がる神経を焦がすように、じわり、じわりと沁み渡っていった。


苦しい。痛い。助けて。誰か。そんな途切れ途切れの思考が、脳内を駆け巡る。

このままではきっと、私は殺される。そんなのは嫌だ。だから誰か助けてと、みっともなく助けを乞うように私は周囲を見渡した。

だが、まばらに周囲を歩む人々は、誰1人として助けようとしなかった。手を差し伸べるどころか、目線をこちらに向ける事すらない。

何事もないかのように、私の横を素通りしては去っていく。それはまるで、当たり前の日常を過ごすかのように。人が殺されようとしている光景を、彼らは当然のものとして受け入れているのだ。

強き力が、弱者を蹂み躙り己の益としようとするこの光景。それは此処では何ら気に留める程でもない、ありふれたものである。そう誰もが暗に、私へと告げているかのような有様だった。


そんな無情を見て私は確信する。

この大地に救いはなく、この領域に"人"はいないのだと。

あるのはただ、理不尽な絶望と、弱肉強食を是とする獣達。利己と暴虐、欲望と殺戮だけを謳歌する畜群のみ。

ここはもう、人が住まう場所ではない地獄なのだと、私は痛みに包まれながら悲観した。


──────隔離地帯"アルロ"。

それがこの私、ヴェイラ・クラウディウスの運び込まれた地獄の名だ。

一体どうしてこんなことになってしまったんだろう? 私はこの悍ましい現実から目を背けるように、そんな思考を走らせていた。

脳裏に浮かぶのは、ほんの数日前の光景。まだ私が、この世界に痛みなんてものがないという空想を信じ切っていた、とある日の出来事であった。





私の父は、真面目な人だった。


人を偽ってはならない。

やましい事をしてはならない。

自分に正直でありなさい。

そして、人を傷つけてはならない。

そんな言葉が口癖の、誠実な人だった。


家族である私への教育の意味もあったのだろうが、それ以上に自分自身に対しても、強く真摯な人だったと思う。

常に真面目で、何に対しても一所懸命に取り組む。そういう人だった。


だからこそ、この国──────アルビオンの裏側に潜む"嘘"に対しても、真っ直ぐに向き合ってしまった……のだと思う。


父は昔から、家を留守にする事が多かった。

そして遠出から帰ってくる度に、面白い話を得れたと子供のように笑って、私に話を聞かせてくれた。今でもその笑顔は記憶に残っている。

呆れ気味に出迎える母親を余所に、今日もお話を聞かせてとねだる、幼い日の私。あの頃の光景は、瞼を閉じれば昨日のように思い出せそうな程に鮮明だ。

学校では教えてくれない、遠い昔の話。物語でも教えてくれない、胸躍る冒険譚。父が語るそれらの物語群は、幼い私にとって何よりも楽しい娯楽であった。

テレビで放送されるアニメーションよりも、絵本にかかれている勧善懲悪の物語よりも、よっぽど心が躍るストーリーだったからだ。

幼いころの私にとって、それらの物語は純粋に愉快で胸を高鳴らせるものであり、それらが悪いものであるなどとは微塵も感じなかった。


故に、であろう。

ある日とつぜん父がいなくなった事と、その物語群が関係するだなんて、私は想像もつかなかった。

本当に不意な出来事だった。ある日目覚めると父は家におらず、母はその理由を黙して語らずにいるという始末。

どうせいつものように、父は帰ってくる。そう深く考えずに思っていたけれど、それは幼さゆえの逃避だったのかもしれない。

そんな幼い期待を裏切るように、数日経っても父は帰ってこなかった。数週間経っても、数ヵ月経っても、数年経っても一向に帰らなかった。

現実を理解した幼い私は、夜通し泣いて父の失踪を嘆いた。だがそれでも、いつかは現実を受け入れるのが、人間というものの性である。

もうあの素晴らしき物語たちを聞くことはできないんだ、という一抹の寂しさを覚えながらも、やがては父のいない日常が私にとっての当たり前となっていった。


そして、それから数年が経過して、私は17歳になり、学業を盛んに行う年齢になった。俗に言う青春の時代である。

学校で教えられる内容も歳を重ねるごとに複雑さを増していき、友人らと協力して困難な部分を理解し合う。そんなありふれた学生生活を送っていた。

そんな中、授業の中で1つだけ引っかかった違和感について、何の気無しに質問をしたのが全ての始まりだった。

今振り返ると、そう思える。後悔したところで、もう遅いのだろうけれど。



『アルビオンの統治者とは、どのような人物なのですか?』



きっかけは、自分たちの住んでいるこの国、アルビオンについて学ぶ授業の中で感じた違和感だった。

アルビオンとは、この世界を初めて統一した理想国家であり、同時に私たちが住む国家を差す名である。

私たち一般階層の人々が住まう「ジェネレイション」、光輝に満ちた理想領域「ベウラ」、そして、人々にとっての遍く全ての幸福が満ちる中心都市「エデン」。

3つの領域に分かれて存在している国であり、争いや差別などは一切存在しない。生きる全ての人々が幸福で、痛みなど在り得ない地上の楽園である。

今回の授業でも、そういったアルビオンの素晴らしさや尊さ。そして争いや差別と言った人間の負の側面の持つ悍ましさや醜さを教えられていた。

アルビオンにそのような邪悪は無い。何故なら楽園なのだからと、賛美歌のように響く教師の言葉が印象に残っている。


だがその過程で私は、ふと疑問を抱いたのだ。どうして自分たちのような一般人が、このような素晴らしい国に暮らしていられるのか? と。

無論、国の成り立ちや歴史については学んでいたし、自分たちが暮らす国がどういう場所なのかも理解しているつもりだ。

だが、その知識だけでは説明できないような……まるで、自分が何かを見逃しているのではないか、というような感覚と疑念に襲われた。


何故私たちは、このような幸福を謳歌できているのか。それを与えてくれている人は、どのような人なのか。そんな疑問が次々と浮かび上がる。

『自分に正直であれ』。そんな父の教えからなのか、あるいは単に父譲りな気性なのか、私は一度気になると、とことん知らねば気が済まない。故に私は、その疑問を解決するべく様々な文献を当たった。

調べるうちに、このアルビオンの成り立ちだけがすっぽりと文献から抜け落ちていると悟った。何度も読み解かなければ気付けない違和感だったが、私はあるきっかけが重なってその違和感に気付けた。

そのきっかけとは、過去に父から聞いた物語群だ。文献を調べるうちに、あれらの物語はアルビオンが出来る以前の歴史なのではという推測が私の中で浮かび上がったのだ。

となると、気になるのはアルビオンを作り出した人々、および現在アルビオンを統治している権力者だ。それは先に私が抱いた、「幸福を与えてくれる人」の正体でもある。

私は知りたかった。知ってお礼が言いたかった。このような幸せを享受させて頂き、ありがとうございますと。

だからこそ、私は教師に対して尋ねたのだ。アルビオンの統治者、その名前を。


だが、教師はその問いに答えなかった。

それどころか、二度とそのような問いを口にするなと激しい口調で私を叱責したのだ。

アルビオンの頂点は、我々国民が知ろうとする事すら烏滸がましい。故にそのような疑問は二度と抱くなと、体罰まで受ける羽目になった。

思えば、あの時に全てを諦めていれば良かった。だが私は、むしろその理不尽を受けて疑念が一層激しく燃え上がった。

そこまで言うのならば、自分で調べてやる。自分ならば、この疑問を解決できる。そんな思い上がりにも似た使命感が、その時の私には満ちていた。


そうして、私はアルビオンの過去を調べようとした。しかし、その悉くは大人たちの手で阻まれるに至った。

資料を閲覧しようとして、図書室を追い出された。年配の方々に過去を聞こうとした瞬間、戸を閉ざされ鍵を掛けられた。

ネットを通じて検索をしようとした途端、電波が遮断されて圏外になった。おかしい、明らかにおかしいと、懸念と疑惑が日に日に膨れ上がっていた。

何か隠されている。そう考えても、周りの人々は気にも留めていない。むしろ私の事を徐々に避けるようになり、気付けば私の周りから友達はいなくなっていた。

──────そして、あの日が訪れた。


「ヴェイラ・クラウディウスだな」

「国家転覆罪の容疑がかけられている。お前を隔離地帯"アルロ"へと護送する」


何かの間違いだと、今でも思っている。

曰く、私がアルビオンの過去に存在した国々の資料を調査しているとの事だった。

それは愚かしい過去の争いを蘇らせる行為であり、幸福を与えてくれるアルビオンという国家への大逆であると続けられた。

違う。私が調べているのは、アルビオンの成り立ちでしかない。それ以前の国家については、調べてなどいない。

そう言い訳をする余地もなく、私は乱暴に腕を掴まれて護送車へと連行されていった。


連れていかれる最中、大勢の近所の人たちが私を見ていた。

その視線は冷たいものばかりであった。つい最近まで暖かく交流していた人々が、私の事を人間じゃないナニカを見るかのような眼で睨みつけているのだ。

助けてと私は叫んだ。違うと私は否定した。だが、近所の人々も、かつての友達やクラスメイトも、誰1人として私を守ってはくれなかった。

母親も、同じだった。私の腕が警備兵に掴まれて地を引きずられる中、私の目に映ったのは目を逸らす母親の姿だった。

我関せずとでも言うかのように、母親は私を守ろうとしなかったのだ。



──────────────────

────────────

──────



何が起きているのかも理解できないまま、私はその地獄へと放り込まれた。

隔離地帯"アルロ"。理想国家アルビオンの外側にある、罪人たちの住まう場所。

殺人を犯したものや、詐欺を働いたもの、他、人道に反した存在や人を傷付けたものなど、数多くの犯罪者が収容される地域。

そこに住まう人々は、アルビオンからは人間としては扱われない。表向きは矯正のための隔離と謳われているが、その実は一度送られれば二度と人間に戻れない、実質的な死刑に等しい。


追放され、人権を剥奪された咎人たち。

故にここに住む存在は、全て人間ではない。彼らは皆一様にゾアと呼ばれ、アルビオンの住民たち────少し前の私も含む────から、嫌悪の対象として蔑まれていたのだ。


かつては私も、アルロに送られる人々を軽蔑していた。

人を傷付けて利益を得ようとする、唾棄すべき邪悪。そんな存在は隔離されて然るべきだと、心の底から思っていた。

だが、今は私自身がそんなアルロに送られて隔離されている。今の私は、人間としては扱われなくなりゾアと成り果てている。

こんなのおかしい。理解できない。きっと何かが間違っている! 何故こんな理不尽で、人権が剥奪されなくてはならないのか?

だがどれだけ声を上げても、固く閉ざされた境界の向こう側にあるアルビオンには届かない。

むしろ声を上げるという行為は、飢えたゾアをおびき寄せる格好の目印でしかない。


「へへへへぁ……。女だ。久方ぶりだなぁ、こういうのが来るのぁ」

「しかも若ぇ。傷付けんなよ。好事家たちに高く売れるからな」

「殺しても良いんじゃねぇか? 死体でも金出す奴いるだろどうせ」

「それだと売れねぇだろカス。ま、とにかくやるぞ」


一瞬で私は、己の迂闊さを呪った。

アルビオンに向けて無実を訴えるなど、この場に来て日が浅い、あるいは直後だと周囲に喧伝するようなものだ。

そしてここは、隔離地帯アルロ。当然満ちているのは、強盗や殺人鬼といった犯罪者ばかりだ。いや、そんな存在しかここにはいないというのが正しいだろう。

私には力なんて無い。武道を嗜んでいたわけでもなければ、特殊な力を持つわけでもない。そんな私たちが、彼らのような非道な人間に狙われればどうなるか?

そんな事は、火を見るよりも明らかである。


だから逃げ出した。必死に逃げ出した。

これは悪夢だ。何かの間違いだ。理解の出来ない理不尽を受けて、こんな苦しみの渦中に放り込まれるだなんて、有り得て良いはずがない。

夢なら醒めてと願いながら。現実ならば誰かに助けてほしいと願いながら。苦痛の中で逃げ続け──────。



時は、今に舞い戻る。





「もう逃げられねぇなぁ嬢ちゃん」

「これなら傷付けずに売れそうだなぁ、今日は随分と楽な仕事だぜ」


もはや私に逃げる体力はなく、周囲は悪辣な下衆たちに囲まれていた。

彼らは揃って私を見ながら、どのように自らの益を貪ろうを考えて下卑た笑みを浮かべている。

それを見て、私が感じたのは恐怖ではなく憐みだった。この人たちは、他人を傷つけて踏みにじる事でしか自分の益にしか出来ないのだろうと。

だけど、それはただの強がりだったのだと思う。常識的に考えて、この状況から逃げ切れる可能性なんてありえない。

純粋な力の差でもそうだし、何より逃げ続けて体力を消耗した私に、何ができるというのだろうか。


これが、アルロか。そう諦めるように私は思考を閉ざした。


住まう人間の全てが、他人を傷つける犯罪者。理性の無いゾアたち。ああ、確かに昔教わった通りだ。

違うのは、私という罪の覚えがない人間がその場にいる事。けれど、どれだけ無実を訴えた所で、もう私は"人間"に戻る事は出来ないのだろう。

そんな諦めが私の内側に満たすように広がっていく。気が付けば私は、全身から力が抜けるような脱力感に襲われ、地に倒れ伏していた。


恐らく、とうに身体が限界だったのだろう。

訳の分からない状況の中で、数時間にわたり走り続けて、肉体的にも精神的にも、疲労は既にピークを超えていた。

本音を言うならば、助かりたい。生きたい。逃げ出したい。私は今でも、こんな状況を受け入れてなどいない。

けれど、抵抗する意志はとうの昔に失われていた。痛みが、疲労が、あらゆる要素が私から理不尽への抵抗と怒りを奪い去っていた。


手が震えるのは、痛みからか、疲労からか、それともこれから起こるだろう事への恐怖からなのか。

想像したくないのに、これから自分の身に起こると思われる事を考えようとしてしまう。人としての、一種の防衛本能なのだろうか?

これから先、待ち受けるのは下衆な輩の慰みものか。あるいは愛玩という名の痛みを受けるだけの玩具か。それとも、私の想像も及ばない地獄なのか。

様々な想像の形が、私をさらなる恐怖へと掻き立てた。


一歩、また一歩と男たちの足音が近づいてくる。

その現実を理解すると、視界が徐々にぼやけていくのを感じた。

……泣いているんだ、私は。今この状況を、精一杯に否定するために。

こんな状況にあっても尚、私はまだ泣くことが出来たのか。まだこの現実を否定したいのか。とうの昔に絶望したと、思っていたのに。

そうだ。嫌だ。疲労と痛みに掻き消されそうになっていたけど、こんな現実は嫌だ。

沸々と、涙を流した自分を意識してから、理不尽に対する怒りと困惑が蘇ってくる。

だが、今の自分に抗う力などない。故に──────


「助けて……っ」


そんな情けない命乞いを、口にするしか出来なかった。

周りを囲む下衆に告げたのではない。名も知らない誰か、この状況に手を差し伸べてくれるものならば誰でもいい。そんな藁をも掴むような思いが、言葉となって口から絞り出されたのだ。

例え相手が悪魔であろうと、今の私ならば助かるために喜んで縋るだろう。そこまで私は、自分の命というものに対して強い執着を見せていた。

今まで痛みや命の危機というものと無縁だった、というのもあるのかもしれない。だからこそ私は、命がこれほど儚く消えるものだなんて知らなかった。

だからこそ、今初めて痛みの中で、消え入りそうな儚い命の尊さを知る事ができたのだ。

故に、こいねがう。誰かに助けてほしいと、祈るように。


けれど、こんな悪徳がのさばる獣の地に、救いなんてあるはずがない。

誰も彼もが、弱者が強者に喰われるこの光景を、当然のものとして受け入れている。

故に私の命乞いなど、無為に消え去るはず。そう私は心半ばに諦観していた。



──────彼が、来るまでは──────。



「流石に、ここまで品性の無い悪行を見せつけられると、止めざるを得んな」



地に衝撃が奔った。何かが地面に着地したような、そんな衝撃だった。

顔を上げると、私の目の前に1人の男が立っていた。逞しく、雄々しく、そして堂々とした、偉丈夫であった。

見るだけで、その全身から放たれるオーラが尋常でないと理解できる。言葉や五感では説明しきれない、直感のような何かが私に告げる。この男は、ただの人間ではないと。

そんな常軌を逸した存在が、私と周囲の悪漢たちの間に立ちふさがっている。その姿はさながら、私を守護する盾か何かのように、安心感を覚えさせた。


「……ッ! てめぇ……ユリゼン!?」

「何でここにいる!? "セリオンズ"の縄張りは、遥か遠くだろうが!?」

「俺が此処にいる事に、理由が必要か? 面白い冗句ジョークだ。いつからお前たち郎党風情が、俺に理由を問えるほど偉くなった?」


だが、私は即座にそんな安堵を振り払う。

守る? こんな獣の住む大地に、そのような優しさがあるはずがない。

そう見えるのは、何らかの偶然からだろう。獣同士の獲物の奪い合いか、あるいは縄張り争いか……。

どちらにせよ、私の安全が保障されたわけではない。何故ならここは悪辣の蔓延る、獣の大地なのだから。いつ何処に、命を貪り喰らわれる危険が潜んでいるか、分かったものではない。

それでも私は、その第三者の介入に安心感を抱いてしまっていた。この状況を打破してくれるのならば誰でもいい。どうか奴らを追い払って欲しい。

そんな願いを込めながら男を見上げていると、男は私の方を振り返って快活に笑った。


「諦めても尚、命に縋りつく。その意気や良し。

 見知らぬ大地と理不尽を前にしても、最低限の"己"を失わなかった証拠だ。

 情けなくても良い。滑稽でもいい。その命への執着を忘れるな。何故ならそれは、お前だけのものなのだから」

「…………貴方は、誰……?」

「ユリゼン。このアルロに満ちる、獣たちの王だ。

 こういった下劣なる悪党をただすために、俺はいる」


そう声が響くと同時に、周囲に戦慄が走ったのを肌で感じ取った。

凛々しい声色だった。雄々しく、それでいてどこか優しさを感じる声色は、この場にいる全ての者が畏怖を抱く程に覇気のあるものだった。


「ざけんな……! いつ俺たちが、テメェなんざ……!」

「ほう。48日前の躾の内容も忘れたか? 倫理や品性だけでなく、記憶力すらも獣に堕ちたか?」

「……ッ! 分かったよ。お前が王なのは良い。だが其処はどけ。お前がそのガキを守る道理なんざねぇハズだ!」

「それは無理な相談だ。たった今俺が、この少女を我らの傘下に加えると決めたからだ」

「あぁ!?」


何を話しているのか、意味は理解できない。

ただ1つだけ分かる事がある。周囲を取り囲んでいた悪漢たちが、揃って怯えているのだ。

震えている。恐れている。この場にいる全ての者が、ユリゼンと呼ばれた男に対して。

そんな現状を、私はどこか納得して受け入れていた。何故ならその男の言葉には、彼らが怯えるに足る確かな威圧感があると感じ取れたからだ。


例えるのならば、雄大なる大地に立つ獅子のような、絶対的な存在感。

生まれながらにして全ての頂点に立つことを約束されたかのような圧が、その男の言葉の一語一句に込められているように感じた。

その男が放つ言葉が周囲を包み込み、支配し、周囲の空気が張り詰めていっていると肌で分かる。

今まで闘争というものと無縁だった私でも、その突如として出現した謎の男が、相当の実力を持つ人間だと直感で理解できた。


「調子こきやがってェ!」

「前々から気に入らねぇんだよテメェは! 俺たちの縄張りを悉く食い荒らしやがって……!」

「この人数を相手取って、前みてぇに余裕こいていられるかァ!?」

「ほーぅ、やろうって言うのか? 面白い。

 前の躾で懲りなかったと見えるな」


そう、どこか玩弄するような口調で、ユリゼンと呼ばれた男の声が響いた。

そして同時に、周囲を重圧が包み込む。今まで以上の──────いや、比べものにならない程に桁違いな、圧倒的な"力"が、周囲を支配した。

悪漢たちはそれを本能的に察したのだろう。まるで肉食動物を前にした草食動物のように、一歩背後へと退いた。

だがそこで踏みとどまったのは、悪党としての意地なのだろうか。

間合いをあけた後に、男らは懐からナイフなどの武器を取り出す。そして一瞬の躊躇を見せながらも、彼らは一斉にユリゼンへと襲い掛かった。


「死にさらせぇーっ!!」

「馬鹿が。勝ち目がないと分かりながらも向かうとは。獣以下だなお前たちは」


そうユリゼンが告げると同時に、奇妙な現象が起きた。

地に伸びる彼の影が、不自然に揺れる。それからほんの一瞬を置いて、沸騰するかのように影が蠢きはじめたのだ。

周囲はそれを気にせず、攻撃の手を止めない。気付いていないのか、あるいは既にその光景を見た事があるからなのだろうか。

そう思っていると、ゆらり、と影が揺らめいた。そして同時に、周囲を覆っていた威圧感が収まったかのように思えた。


──────いや、違う。


収まったんじゃない。威圧感は依然としてそこにある。

ただ、"収束している"のだ。蠢く影の下に、ユリゼンと呼ばれた男の放っていた圧倒的なるオーラが、集中していっている。

何を言っているのか分からないかもしれないが、そうとしか形容することが出来ない状況に私はいた。


「我、又一つの獣、海より来たるを見たり。

 之、十の角と七ツ頭とあり、其の角に十の冠冕あり、其の頭上、神を涜す名あり──────。

 穢せ、我が写し身よ。"終局の代行者(マスターセリオン)"」


謡うように、ユリゼンはそう告げた。

同時に、その収束していった彼の気配が、形をとる。蠢いた影が浮かび上がり、威圧が影と融和して、1つの獣の姿を取っていく。

それは例えるのなら、彼という人間の内側に抑えきれない存在感が、周囲の人々の畏怖や恐怖を吸い上げ、物質としての形をとっているかのような光景だった。


現れたのは、1柱の竜王。


そうとしか言い表せないほどの威容が、そこには存在していた。

7つの頭部と、10の角。それぞれに戴く10の王冠は、見るもの全てを平伏させるかのような威厳と荘厳さを兼ね備えていた。

身体は燃え盛る炎の如く、紅に染まっている。その色はまるで、怒りを体現しているかのように見えた。それはただ、私が今の理不尽に対して抱いている感情を重ね合わせているだけなのかもしれない。

それでも私は、目の前に出現した竜王に対し、どこか世界に対する怒りを抱いているように思えてならなかった。

もしかしたらそれは、余りにも理解できない目の前の光景を、自分に理解できるスケールに落とし込んでいるだけなのかもしれないが。


「ひぃ……! ま、また出やがったなぁ! 腐れ孤影シャドウが!!」

「怯むんじゃねぇ!! 俺たちゾアは舐められたら負けだ! ぶち殺してやる糞がァ!!」

「2度目の調教だ。前より少し痛くするぞ。お前たちが、品性ある悪を心がけるようになるまで──────何度もな」


その言葉と共に繰り出されるのは、絶対的なる一撃だった。

悪漢たちの悲鳴を呑み込むようにして、7つの首が一斉に動き出す。

そこから発せられるのは、圧倒的なまでの破壊力を持った暴力でしかなかった。

まるで天変地異のような衝撃に、私の視界が真っ白に染め上げられてゆく。轟音が鳴り響き、地面が砕ける。

舞い上がった砂塵が周囲を覆う中、私の瞳に映るのは、ただ逃げ惑うしか出来ない悪漢たちだった。


そして同時に映るは、圧倒的なる力を振るう獣の王。

その横顔を見た瞬間に、周囲に満ちる破壊がスローモーションとなったかのように感じられた。彼の持つ、圧倒的な存在感がそうさせたのかもしれない。

……ユリゼンと呼ばれていたあの男が、このアルロの地でどのような立場にいるのか、私はまだ掴めていない。そもそも、どういう人物なのかすら理解できていない。

だがこれだけは分かる。彼はまさしく、あらゆる意味で私の住まう世界とは、違う領域に生きる存在だ。何と言うべきか、生物としての格が違う。

私が今まで、無菌室で育てられた愛玩用の犬か猫だとしたら、彼はまさしく野生に生きる獅子か猛虎そのものだ。

ただ生き残るという一点においては、きっと彼以上に秀でている人間は存在しないだろう。

そう思えてしまうほどの圧倒的なる力が、彼には溢れていた。


私もこんな風になれたなら、理不尽を覆す事が出来たのかな。


そんなありえもしない空想が過ぎると同時に、急激に意識が薄れていった。

今まで張りつめていた緊張が、ユリゼンという乱入者の登場で途切れたのが理由の1つ。

そしてもう1つの理由は、彼の放つ圧倒的なる力の奔流が、疲労した精神をモロに揺さぶったからだろう。

既に限界を超えていた私の精神は、これがトドメだとばかりに、ヒューズを飛ばしたかのように"無"へと落ちていった。


貴方は──────ユリゼンという男は、私にとって味方なのか敵なのか。


味方だというのなら、なぜゾアなのに私を味方するのか。


そもそも何故、私はこのような場所に送られたのか。


聞きたい事が山ほどある。なのに口が開いてくれない。

それどころか、もう指一本も動かせそうにない。まるで糸の切れたマリオネットだ。

薄れゆく意識の中で最後に見た光景は、ユリゼンがこちらを振り返る姿だった。

その表情は……なぜか笑みを浮かべているように見えた。



「心配するな。今は寝ていると良い。

 お前は、俺が守ってやる」



その言葉の意味も、理解できないまま──────。

──────私の意識は完全に闇の中へと、包まれてゆくのであった。


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①白亜の果ての獣達-セリオンズ- 十九六 @ju_ku_ro

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