エピローグ ヤシロさんは成仏できない

 ヤシロさんの四十九日が過ぎて、ひと月ほど経った頃。

 わたしと長日部君は、例の喫茶店で高瀬さんを待っていた。

「ごめんね、待たせちゃったかな」

 息を切らして来た高瀬さんに、「いいえ」とわたしは微笑んだ。

「で、いい加減教えてくれる? わたしに見せたいものって、何なの?」

 マフラーを取る手間さえ惜しそうに尋ねてくる高瀬さんを前に、わたしと長日部君は顔を見合わせた。

「これです」

 そう言ってわたしが差し出したものを見て、高瀬さんは目を丸くした。

「これって、まさか」

「付箋が貼ってあるページ、見てみてください」

 渡された雑誌のページを開く高瀬さんの手が、震えている。

「……これ、ほんとなの? ほんとに、ヤシロ君?」

「はい。ヤシロさんのお母さんのところに、出版社から知らせがあったそうですから」

 高瀬さんは、力が抜けた様子で雑誌をテーブルに置いた。

 今日発売された、漫画雑誌だ。開かれたページには、「新人マンガ賞結果発表」と書かれている。

 その中の「佳作」の欄に、「屋城雄作」という名前はあった。

 完成した原稿の裏に書かれていた、ヤシロさんのフルネームだ。

 ようやく知った本名だったけれど、あの人はユウサクさんというよりも、やっぱりヤシロさんといったほうがぴったりくる。

「すごい。本当に、すごいよ。これが、ヤシロ君が追いかけた夢の結果……懸命に生きた、証しなんだね」

 高瀬さんは、食い入るようにヤシロさんの名前を見つめた。

「見せたいものは、実はそれだけじゃないんですよ」

 長日部君が、もったいぶったように言う。

「まだ、何かあるの? これ以上のものは、さすがに出てこないよね」

「そうでもないですよ」

 わたしはそう言って、バッグから封筒を取り出した。

「応募作のコピーです。読んであげてください。ヤシロさんもきっと、高瀬さんに見てもらいたいと思っていたはずなので」

「わたしに?」

 高瀬さんには、死後のヤシロさんとのことは何も話していない。遺品の中にあった応募作のコピーを、お母さんに頼んでさらにコピーさせてもらった、ということにした。

「ありがとう。一生の宝物にする」

 高瀬さんは、うるんだ瞳で微笑んだ。それは今までに見た高瀬さんの笑顔の中でも、最高に輝いて見えた。

 ヤシロさんに、見せてあげたいと思うほどに。


 ヤシロさんは、漫画が完成するとふらりと姿を消してしまい、そのまま四十九日になってもわたしたちの前に現れることはなかった。

 だからわたしたちは、ヤシロさんにきちんとお別れを言うことができなかった。小鬼も忙しいらしく、あれから会えていない。

 けれどもヤシロさんとの思い出は、漫画という形でしっかりと残った。あの漫画は、死後に描かれたものとはいえ、ヤシロさんの生きた証しだ。

「漫画家になる」という夢をつかむことはできなかったけれど、大きな可能性を証明してから旅立ったのだ。それは少し、かっこいいと思う。


「なんだか、実感がわかないんだ。あのヤシロと、もう二度と会えないってことに」

 喫茶店からの帰り道、長日部君が言った。

「うん。わたしも、同じだよ」

 部屋で勉強をしているときも、たびたび目を上げて窓の外を見たり、背後を振り返ったりしてしまう。

 ヤシロさんが、ひょっこり姿を見せることがあるんじゃないかって。

 成仏したから、そんなことはありえないのに。なぜだかそんな考えが、ずっと消えないでいる。

「ヤシロさん、今頃何してるんだろう」

「小鬼の話によれば、転生の準備かな。生まれ変わったら、何になるんだろう」

「それも、徳次第なのかな。人間に生まれ変わったら、またどこかで会えると思う?」

『生まれ変わるまで待てねえよ』

 耳元で聞こえた声に、わたしは飛び上がった。――まさか。

「ヤシロさん!?」

 信じられないことに、そこには黒いスウェット姿のヤシロさんがいた。相変わらず、ふわふわとだらしなく宙を漂っている。

「え……それが? ほんとに?」

 長日部君が言う。見ると、目を細めてじっとヤシロさんの顔を見つめているようだ。

『おう長日部、おまえもおれが見えるようになったな。小鬼のはからいだ。イズミから奪った力を、ちょこっとおまえに分けたらしいぞ。バレたら首が飛ぶとか言ってたが、まあ大丈夫だろ』

「え、長日部君、ヤシロさん見えてるの?」

「ああ。見えるし、聞こえてるよ。思っていたより人相は悪くないが、目つきは悪いな」

『言いたい放題だな』

 ヤシロさんはそう言いながらも、へらりと笑った。わたしはあまりにも予想外の出来事に、しばらく目の前の光景を信じることができなかった。

「でも、どうしてここに? 四十九日は過ぎただろう」

 長日部君が言う。わたしは何度もうなずいてヤシロさんを見た。

「そう、そうだよ。おかしいじゃない。もうとっくに、川を渡ったんじゃなかったの?」

『それがなあ。悪霊集団の主犯だったイズミをあぶり出すのにおれが一役買ったってことで、褒美が与えられることになったんだ。そのうえおれ、被害者だろ? 本来は死ぬはずじゃなかったわけだしな。でも死んでから日が経ってるし、生き返らせるのはさすがに無理ってんで、こういうことになったわけだ。好きなだけ霊体でこの世にいていいことになったんだよ』

「なっ……」

(なんだってーーー!?)

 あまりのことに、口を開けたままぽかんとしてしまう。

 好きなだけ霊体でこの世に……? じゃあヤシロさんはしばらく成仏しないで、この世でフラフラするってこと?

『ま、飽きたら川を渡るつもりだけどな。どうせなら幽霊漫画家としてこのまま活動してくのも悪かないと思ってな。そんときはエマ、アシスタント頼むぞ』

「ゆ、幽霊漫画家って……本気?」

 また、とんでもないことを言い出した。長日部君もあ然としている。

「そんな無茶な……」

『無茶ってことはないだろ。実際こうやって漫画を完成させて、佳作を取れたんだからな。やってやれないことはないんだ。何たっておれは、幽霊なんだから』

 ……あきれた。

 まったく、何というポジティブさだろう。

「そんなこと言って、本当は高瀬さんに悪い虫がつかないように見張りたいだけなんじゃないの?」

「なるほど、ありえる」

 長日部君がうなずいた。

『何言ってんだよ。あいつは関係ねえだろ』

 言いながら、ヤシロさんの顔は赤い。

「まあ、なんでもいいけど。だらけて幽霊ニートにならないよう、気をつけてよね」

『はっ! 誰がなるか!』

 ヤシロさんはそう叫ぶと、秋の空に吸い込まれるように舞い上がっていった。

「好きなだけこの世に……か」

 わたしと一緒に空を仰ぎ見た長日部君が、ぽつりとつぶやいた。

「長い付き合いになりそうだね」

 長日部君は、とてもきれいな優しい笑みをわたしに向けた。

「そうだね、ほんとに」

 そう言って、笑顔を返す。

 ほうきで掃いたような羽雲はねぐもが広がる空を、ヤシロさんは蝶のように飛び回っている。

 彼が成仏するのは、まだだいぶ、先のことになりそうだ。

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ヤシロさんは成仏できない 七海 まち @nanami_machi

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