23 長日部君の部屋
「まだ、信じられない」
週が明けて、月曜。
わたしに彼氏ができたということ、そしてその相手が長日部君であるということを知った千里は、真剣な表情でわたしを見つめた。
「エマ、どうしちゃったの? わたしの知らないところで、世界の命運を賭けた戦いにでも参加した?」
「してないってば」
そう答えながらも、あながち間違っていないかも、とひそかに思う。命がある限り、自分の運命は、世界の命運にも等しく重いものだからだ。
「相手が、まさかあの長日部だなんて。しかも告白もなく、なんとなく流れで付き合うことになったって、どういうことなの? だまされてない? 変な術とかかけられてない?」
「ないから。ちゃんと自分の意志で、その、好きだから。大丈夫だから」
きゃああ、と千里がその場で足踏みを始める。
「なになに、何なのそれ! エマもやっぱり、乙女だったってわけ!?」
「なに言ってるの! とにかく、内緒にしてよ。教えたの、千里だけだから」
「大丈夫、誰にも言わないって。こっそりニヨニヨと、二人を見守らせてもらいます」
ニヨニヨって何、と言おうとしたとき、千里が「あ」と表情を止めた。
「そうだ。長日部君のこと、オカルトマニアとか言っちゃって、ごめん。許してくれる? よく知りもしないのに、噂だけで決めつけちゃって、悪いことしちゃった。エマ、もしかしたらあのときから、長日部君のこと好きだった?」
「え!? ないない! あのときはまだ、わたしも何も知らなかったから!」
あわてて両手を振って否定する。
でも、そうだ。あのときは、長日部君のことを何ひとつ知らなかった。いっしょに過ごすうちに、ひとつずつ彼のことを知っていって、気がついたら好きになっていた。
これがいわゆる、「恋に落ちる」っていうことなんだろうか。
「でも、ちょっと気になってはいるのよね」
急に腕を組んだ千里が、神妙な顔つきになる。
「火のないところに煙は立たないって言うでしょ? 噂があるってことは、長日部君、やっぱり何か、秘密があるのかも」
「秘密?」
「たとえば、部屋の床に魔法陣が描いてあるとか、コウモリを使役してるとか……とにかく、まだ安心はしきれない。親友として、ちゃんと彼の正体を見極めなきゃ」
何の漫画の影響だろう。わたしは半ばあきれつつも、「大丈夫だよ」と返す。
「そんなに心配なら、部屋を確かめてくるよ。今週末、長日部君の家に行くことになってるから」
「えっ!? 家!?」
千里が素っ頓狂な声を出す。
「ちょっと、大丈夫なの? いきなり家って、ご両親とかいるんでしょうね?」
「長日部君は、おばあさんと二人暮らしなの。おばあさんに会わせたいってことだったから、いると思うよ」
「あ、あ、会わせたい!? 何それ! それって、あれでしょ? 結婚前の男女がプロポーズやら何やらの後にやるやつじゃない!」
「いや、大げさ。そんなんじゃないから」
そう言って、ふいっと千里から顔をそむける。
ああ、もう。千里が変なことを言うから、顔が熱くなってきてしまったじゃないか。
「とにかく、ちゃんと報告してよね! あますところなく!」
興奮気味に顔を近づけてくる千里を、はいはいとあしらう。
まずい。楽しみと緊張で半々だった気持ちが、千里の言葉で、一気に桃色に染まってしまった。
当日になっても、桃色は薄くなるどころか、ますます濃い色になってわたしを縛り付けていた。
「束原さん」
「あ、お、おはよう、長日部君!」
神社で待ち合わせた後、歩いて長日部君の家へと向かう。
「ヤシロの漫画はどう?」
「あ、それがね、もうすっかり念力をマスターしたとかで、昼間にわたしの部屋で描いてるみたいなの。でも全然見せてくれなくて、どこまで進んでるのかわからないんだ」
「それじゃあ、もう束原さんに憑依せずに済むようになったんだね。よかった」
「四十九日まではまだまだあるから、もう少しかかるんじゃないかな」
「そうか。完成が楽しみだな」
長日部君は気を遣ってか、人通りの少ない裏道を選んでくれている。それがうれしくて、緊張している体もふわりとあたたかくなるようだった。
着いた先は、板塀に囲まれた一軒家だった。占い師をしているというから看板でも出ているのかと思ったけれど、お札やら魔除けの印やらも見当たらない、ごくごく普通の家だ。
「お、おじゃまします!」
緊張のあまり、声が裏返ってしまう。
おばあさんに会ったら言おうと考えてきた言葉を頭の中で復習していると、長日部君はわたしを廊下の突き当り、一番奥の部屋へと案内した。
シンプルな六畳間だった。机と箪笥の他には、何もない。
かと思うと、ドア側の壁に、見慣れた学生服が掛かっている。
「あの、長日部君。ここってもしかして、長日部君の?」
「うん。僕の部屋」
そこには、魔法陣もコウモリも見当たらなかった。あまりのシンプルさに驚きつつ、何の心の準備もせずに入ってしまったことに気づき、心臓が改めて騒ぎ出す。
「あの、おばあさんは? 今日、いらっしゃるんだよね」
お盆にお茶を載せてやってきた長日部君に、ぎこちない笑みで尋ねる。
「ああ、今は句会で出かけてる。もうすぐ戻るよ」
「え、いないの!? ていうか、句会?」
「うん。俳句、好きなんだ」
「そ、そうなんだ」
ということは、長日部君の部屋に、二人きり……ということだ。
いや、べつに、すぐにおばあさん帰ってくるんだし、そんなに大変な事態でもない、はずだ。
「束原さん」
「はいっ!?」
突然名前を呼ばれ、びくっと飛び上がる。長日部君は畳の上に正座すると、静かにわたしを見上げた。
「本当に、僕でいいの?」
「え?」
わたしも長日部君の正面に座り、その顔をじっと眺める。
「僕でいい……って、どういうこと?」
「いや、その……一度フラれてるから、どうなんだろうと思って」
「へっ?」
おかしな声が出た。フラれた?
どういうことだろう。長日部君がフラれた……ってことは、わたしが長日部君をフった、ってこと?
いや。まったく、記憶にないんですけど。
「ちょっと待って。そもそもわたし、告白されてないと思うんだけど」
「ええ? したじゃないか、糸の色が赤くなってきたって」
そう言われて、わたしはかちんとフリーズした。
糸の、色? いや確かに言われたけど、あれは、「わたしが長日部君を好きになっている」ってことを言おうとしたんじゃないの?
頭の上に「?」をたくさん浮かべているのを感じ取ったらしい長日部君は、「もしかして」と付け加えた。
「エマはあのとき、僕側じゃなくて、エマ側の糸の色について言ったと思ったのか」
そう言われて、ようやくわかった。
あのとき長日部君が言った「束原さんの糸」というのは、「わたしとつながっている糸の長日部君側」について言っていたのだ。わたしはそれを、「長日部君とつながっている糸のわたし側」だと思ってしまった、というわけだ。
まったく、まぎらわしいことこの上ない。
「あのときは、もし縁結びを高瀬さんでなくエマでやるとするなら、その相手を僕にしないかって言うつもりだった。緊張して、うまく言えなかったのがいけなかったね。ごめん」
「ううん、いいよ。わたしこそ逃げちゃって、ごめん」
ていうか長日部君、さりげなくわたしのこと、「エマ」って呼ぶようになってる。
わたしも、下の名前で呼んだほうがいいんだろうか。その場合、なんて言う? 流君?
いや、それはさすがに、まだ恥ずかしい。照れくさい。
「あの、長日部君。ちなみに、なんだけど、そのとき、わたしの方の糸の色って、どうなってたの?」
――赤く、なってた?
その言葉を飲み込んで、長日部君の返答を待つ。
「ああ、それは見ないようにしてたから、なんとも言えないよ」
長日部君は、そう言って微笑んだ。
そうか。長日部君は、「わたしの糸を見ない」というあの約束を、きちんと守ってくれていたんだ。
胸が、じわりと熱くなる。ちょっと悔しい気もするけど、やっぱりわたし、長日部君のこと、本当に好きなんだ。
「赤い糸で人とつながったのは、エマが初めてだよ」
長日部君はそう言うと、恥ずかしそうに目を伏せた。その白い頬がほんのりと赤く染まっているのを見て、わたしも思わず顔が熱くなった。
赤い糸。
わたしは長日部君と、赤い糸でつながっている。
思えば、なんてすごいめぐり合わせだろう。
人の縁と言うものは、奇跡みたいなものなんだと改めて感じる。
あの日の朝、ヤシロさんと話していなければ、わたしは長日部君はもちろん、高瀬さんとも出会えていないし、ヤシロさんのお母さんと話したり、ヤシロさんの漫画を読んだり、何よりこうして、誰かを好きになることもなかったのだから。
しばし、沈黙が続く。すると、長日部君がおずおずと口を開いた。
「ごめん。下の名前で呼ばれるの、いやだったかな」
「いや、そんなことはないよ」
「なんか、いまだに実感がわかなくて。形から入れば、これが夢じゃなくて現実だって、信じられる気がしたんだ」
思わず、言葉をなくす。長日部君も、そんなふうに感じていたんだ。
「大丈夫、現実だよ。心臓、すごくはっきり動いてるし。飛ぼうと思っても飛べないし、こうやって触ればちゃんと、感触もあるし――」
そう言って、自分の手を長日部君の手に重ねる。その優しい感触に気づいた途端、自分がとんでもないことをしていることに気づき、ばっと後ろに飛びのく。
「ご、ごめん! 何も考えてなかった! ほんと、ごめん!」
「いや、大丈夫。ありがとう。現実だって、実感できた」
長日部君は、わたしが触れた手を持ち上げてじっと眺めた。
彼の手の感触が残る指が、にわかに熱を帯びてくる。
「よう。楽しんでるとこ、ジャマして悪いな」
「わっ!?」
突然の闖入者に、心臓が止まりそうになった。にやりと笑った小鬼が、窓のほうからふわりとこちらに近づいてくる。
「なんだ、いきなり。もう少し、空気を読んでくれよ」
長日部君がむっとした表情で言った。
「だから、悪いと言っただろ。あいにく、こっちも大忙しでな。イズミの処理が決まったから、空いた時間で報告に来たんだよ」
「イズミさんの?」
小鬼は「ああ」とわたしたちの間に降り立った。
「結果から言えば、力とそれに関する記憶をすべて消して、新しいところでやり直させることになった。転校や引っ越しの手続きも済ませてある」
「引っ越し? どこへ?」
「それは言えない。言えるとしたら、すぐには行けないような遠いところってことだけだな。そのへんでばったり会うなんて可能性は、まずないだろう」
「力はともかく、記憶まで消す必要があったのか? 確かに、ヤシロやエマに対してしたことに同情の余地はないが」
長日部君が、眉間にシワを寄せる。
「そうだな。本当なら、寿命をまるごといただくくらいのことをしでかしたわけだけど、まだ若いのと、特殊な力のせいで歪んでしまった点で情状酌量の余地があってな。あいつの幼少期の記憶を見たが、見ているこっちの心が痛くなってくるようなものだった」
そう言うと、小鬼はイズミさんの過去を語り始めた。
養護施設の前に置き去りにされていた赤ん坊、それがイズミさんだった。本名の和泉賢太郎は、戸籍を作る際に市長がつけた名前だそうだ。
人の考えていることを言い当てる幼いイズミさんのことを、周りの人間はみな不気味がったと言う。子供だけでなく大人からも疎まれ、小学校時代はずっと孤独だった。ひとりで本を読んで過ごすことが多かった彼は、かなり成績優秀な生徒だったそうだ。
中学校に入ると、人の心を読む力を利用して人望を得るようになる。しかし、悪霊を使って過去に彼をいじめた生徒たちに怪我をさせたり、大勢の前で彼を叱った男性教師を退職に追い込むなど、成長に伴って肥大する力を暴走させるようになっていく。次第に周囲は彼を恐れ始め、再び孤立するようになる。
人間を信じなくなったイズミさんが変わったきっかけは、高瀬さんだった。高校に入ってから人を避けていたイズミさんに対し、高瀬さんは普通に接してくれただけでなく、その資質を買って委員会に誘ってくれたのだそうだ。
高瀬さんは、イズミさんにとってもまた、すごく大きな存在だったのだ。
「イズミは、記憶を消される前にこう言っていたよ。この力さえなければ、普通に生きていけたはずだと。やつの力は、やつの人生を大きく狂わせてしまったんだ」
「だからって、それを利用して人を傷つけるなんて、許されることじゃない」
長日部君が、低い声で言う。
「持って生まれた力は、どうしようもない。確かにイズミの場合は、ひとりの人間が持つには大きすぎる力だったのかもしれない。けど、力とうまく付き合いながら生きる方法だって、きっとあったはずだ」
力を持つ長日部君だからこそ、その言葉の持つ意味は重かった。
「……力を失ったイズミさんは、今度こそ普通に生きていけるのかな」
「それは、やつ次第だな」
小鬼が、重たい口調で言う。すると、長日部君が静かに目を上げた。
「なあ、小鬼。たとえばの話なんだが、僕が頼んだら、この『糸が見える力』も奪うことができるのか?」
えっと声が出そうになる。小鬼はちょっと目を見開いて、ぱちぱちとまばたきをした。
「できないわけじゃないとは思うが……イズミの場合は突然変異的な能力付与だったのに対して、おまいさんのソレは、家系で継承されている力だからな。相応の理由がなければ、手続きは難航すると思う」
「そうか」
「長日部君、力、なくしたいの?」
「――いや」
首を振ると、長日部君はふっと笑った。
「ちょっと、聞いてみたかっただけだよ。この力があったから、今こうしてエマとの時間を過ごすことができてるんだ。だから僕は、この力を大事にして生きていくよ」
切れ長の目が、真剣なまなざしでわたしを見つめた。途端に、顔が火照ってくるのを感じる。
「はいはい、好きなだけ仲良くやってくれよ。おいらは仕事に戻るぞ。っと、そうだ。ヤシロに会ったら、発破かけといてくれよ。漫画の進み具合を聞いても、かわされてばっかで困ってるんだ。おおかた行き詰ってるんだろうから、しっかり言っといてくれよ。頼んだぞ」
そう言うと、小鬼はあっという間に窓を通り抜けて出ていってしまった。
そのとき、玄関のほうで音がした。長日部君が「あ」と立ち上がる。
「祖母が帰ってきたみたいだ」
どくん、と心臓が大きな音を立てた。緊張が、一気に加速する。
「あっ、挨拶しないと!」
「そんなに硬くならなくて大丈夫だよ」
「でも、最初の印象が肝心だから!」
長日部君とともに廊下に出て、玄関へ向かう。そこには、若草色の上品なワンピースを着こなしたご婦人が立っていた。
「おかえり。束原さん、来てるよ」
「あっ、あのっ、初めまして! 束原エマと申します!」
「あらあら、ご丁寧にどうも。流の祖母の
そう言うと、おばあさんは動きを止めた。長日部君とわたしの間の空間を、じっと見つめている。
「すごいわ。見事に真っ赤ね」
え、と思わずおばあさんの視線の先を見つめる。
もしかして。ここに、長日部君とわたしを結ぶ糸が……?
「エマさん、ありがとう。流のこと、末永くよろしくお願いしますね」
「え? あ、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
「ちょっと、何言ってるんだよ」
長日部君が、恥ずかしそうにおばあさんをいさめる。
胸がはずむのを感じながら、わたしは千里になんと報告しようか、あれこれと考えていた。
日が暮れる頃、わたしは長日部君の家を出た。おばあさんと三人で紅茶とお菓子を楽しんでいたら、あっという間に時間が過ぎてしまったのだ。
送ってくれた長日部君にお礼を言って別れ、アパートの階段を軽やかに駆け上がる。
「ただいま」
お母さんは買い物に出かけたらしく、応える人はいなかった。薄暗い部屋に入り、ぱちりと明かりをつける。
その瞬間、ヤシロさんの背中が見えた。
いや、正確には、見えたような気がした。
部屋の中にも、窓のむこうにも、ヤシロさんの姿はない。けれども、わたしの視線は、机の上へと真っ先に吸い寄せられていた。
そこには、きちんとそろえられた紙の束が置かれていた。
漫画の原稿だ。
飛びつくようにして、枚数を確かめる。きっちり、三十ページ。
最後のコマには、天使によって結ばれた男女の後ろ姿が描かれていた。ひとりは、相変わらず高瀬さんにそっくりだ。
そしてもうひとりの背中は、貯金箱を持っていった、あの日のヤシロさんの姿にそっくりだった。
わたしはすぐさま、窓を開けて外を見た。
「ヤシロさん!」
叫びながら、身を乗り出す。
見慣れた黒いスウェットは、どこにも見当たらない。
その日を境に、ヤシロさんはぱたりと姿を見せなくなった。
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