自分が犬だと思うこと
今日はとあるところの、ボクシングの講座に参加してきた。身体を動かすとすっきりする。人間は、まったく動物的というわけではないけれど、やはり動物である部分もあると感じる。面白く、不思議で、しかし本質的にはかなり不可解なことだ。
以前、ほんの一瞬だけ空手をやっていたとお話しして、「一瞬ってどのくらいですか」と尋ねられ「三年くらいです」とお答えしたところ、「一瞬じゃないじゃないですか」と言っていただいた。
そうかもしれない。でも、全然うまくなかったし、そこまでがっつりやってなかったし、最後のほうはほとんど練習に参加もできなかったしで、うしろめたさのようなものも若干ある。
むかしのことでも、ほんの短いあいだでも、それでも少し残る「何か」もあるみたいで、うしろめたいはずなのに、それを言ってもらえると嬉しく思ってしまうのはなんでなんだろう。なにか、自意識、というか、こういうところで、自意識過剰というのもうまれるのかも、しれない。
言わせてしまったみたいで、申し訳ないんだけれども、こういうときに申し訳なさではなくありがたさを感じられれば、いいのだと思う。
自意識、ということについて。流行おくれなのか、手垢がついたのか、それとも定着したのか案外とても真面目でシリアスな言葉なのか、わかんなくなってきて、日頃どうも使うと居心地の悪いことば。けれども、思考のなかではやっぱり使ってしまうことば。
ところで、自分は犬だ、と思う。
最近あまり語らなくなった、というより、昨年のカクヨムコン7に「自分が『ひと』ではないと思う」というエッセイを出してからまた、めっきり語っていないのだけれど、べつにその自意識が消えたわけではない。たぶん、もうここまできてしまったら、一生消えないのだろうなとも思う。若気の至りというわけでもなかった。
これは自分に対して言うから、まだいい、かもしれないけれど、他者が、自分をどう捉えるか、というより、ほんとうは何であるのか、そのことが消えるだとか若気の至りだとかまさか言ってはいけないわけだから、ほんとうは自分のことにかんしても卑下するようなこと、言ってはいけないのかもしれない。
自分だけとくべつ扱い、というのは、あんまり、よろしくない可能性が高い。自分はすごい存在なんだよ他人より、という種類のとくべつ扱いはまあ当たり前として。自分をあんまり低くとくべつに扱いすぎるのも、よろしくないのだろう。
自分を冷静に振り返って客観視して自己批判して、という意味では必要かもしれないけれど。自分だけだめなんですこんなに、というのもあんまりやり過ぎると、陶酔につながりうるから。
この際まるごと認めて受け入れる、そういうことなのだと思う。たとえばそれは、当たり前に、からだとこころの性が異なるひとを、そういうことが、当たり前にふつうにありうる、と思うことと、たぶんおなじだ。
そのままの存在として、まるごと。
他者に対してはそう思えるのに、自分のことを受け入れきるのは、難しい。それは、もちろん、まだまだ自分のこころが動物のかたちをしているかもしれない、と言い出す人が少ないから、というためらいが、確実に、ある。
実はそう思っているようなひとはいるんだけれども実際に結構、私は、知ってるんだけれども、でもまだそう主張する人が少ないし、「自分は『ひと』ではないと思う」に書いた通りそう思ってるひとたちがいま必然的に集まりやすい場というのがあって、そこがなんだか、「ふつうの晴れ晴れした社会」とは隔絶されているから、というのがあるのだろう。
声をあげてほしい、と思うけど、まあ、じゃあ、まずは私自身がそれを日常生活で言うかと考えると、まず言えない。私はわりとなんでも正直に、たとえばひきこもってたこととか不登校だったこととかいろいろ、普段から必要があれは言うのだけれど、確実に、いくらなんでも、それは、言えない、と、確かに思ってしまっているのだ。
いや、おかしいでしょ。そんな気持ちが、先に立つ。さすがに、ないって、と。
性別が一致しないのはまだわかるよ。
けれども、動物だと思うなんて、そんなの、ちょっと、考えすぎだって、気のせいだって。なんでもかんでもねえ、現代のジェンダー問題に影響されすぎてちゃいけないよ。そんなふうに言われる気がしていて、でも、その声は、きっとほんとは私自身のなかに染み込んだ声なのだ。
でも、たぶん、おそらくだけど。
感覚的な、話をするならば。
私が自分のことを犬だと思うことは、うそではない。作りばなしでもない。ほんとうだと思う。真実だ。ここまでくれば。私だってわけがわからない。べつに、犬は正直そんなにとくべつ好きでもないし、あこがれもない。
ただ、自分がそういう存在なんだという認識、かすかな記憶めいたもの、自意識だけが、取り去れない私の現実としてここに在る。
語らなければならない、のだと思う。せめて、日常生活を離れたところ、こうやって、ペンネームとでなにか書くという場において、まずは、そこでのみになってしまったとしても。
私のペンネームは、
柳、と自分につけたきっかけの出来事は中学二年生の冬のことで、それは、友人に言われた言葉だった。そのときの意味ももちろん今もあるのだけれど、柳のイメージが、いつしか私を支えてくれるようになった。
柳は絶対に折れない。へこみはする。ちゃんと重みで、へこむのだ。だから落ち込む。いやにもなる。
でも、柳に雪折れなし。柳は、私は、絶対に折れない。
それは本当は事実ではない。ある種の祈りでしか、ないのだけれど。
立ち続ける。ここで、たとえ他のめきめき伸びていく立派な木々よりうっとうしく頭を垂れ続けるだけの、取るに足らない存在だとしても。
伸びることは、できないだろう、私は、これ以上、柳だから。
でも、ずっとここに立ちつづける。さいごまで。そしてうっとうしく立って、みっともなくへこみながら、他の木々のなかにうもれて、ただただ、風を受け流す。柳に風、と受け流す。
事実ではないかもしれない。祈りでしかない、のかもしれない。
忘れられてもいい。しかたがない。私はそんな大層な存在ではなかった。けれども、人生でなさねばならないことがいくつかあると、傲慢かもしれないけれど、そう感じていて、そういうことについて、この日記でもとりとめなく少しだけ、語ってきたけれど。
そのうちのひとつは、自意識が動物であること、その現実を、語ることなのではないかと思いはじめている。
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