月のひかりにできたなら
帰りが遅くなってしまった。課題をやっているとわりとよくあることだ。
私のいる大学は課題が多く、そのことはわりと有名というか、知っているひとは知っていることらしい。
確かに、課題は多い。私が高校卒業直後に通っていた時代から今に至るまで、課題の量の多さはあまり変わってない印象がある。それが悪いこと、という意味ではなくて。
とにかくリアクションペーパーを書く授業が多い。どの学部もその傾向があるのだろうか。キャンパスのどこを歩いていても、リアペ、リアペ、とささやき声のように聞こえてくる。
もちろんリアクションペーパーを出す大学は他にもいっぱいあるのだろうけれど、すくなくとも、この大学において「リアペ」という言葉は一種の共通語になっているように思える。
学業で書く文章と、こうやって書く文章は当然だけどすこし書き方が違って、今日は学業で書く文章が多めだったからちょっと、そちらに引っ張られているなと思う。
学業で書く文章は、無駄があってはいけないし、音の響きとかそういうことよりは、しっかりと筋が通っているかが大事だ。
私は、学業の文章を目で書くことにしている。小説をふくめて、こういった文章は、なるべく耳で書くようにしている。もちろん、なかなかままならない場合も多いのだけれども。
前回の日記では、大学入試の面接で泣いた話を書いて、そのあともなんとなく、そのことについて考え続けていた。
私は大学入試の面接で泣いたし、世界史や漢文や古文がてんでできなかった。
こんな学生がいるから私のいる大学の私のいる学部は、たまに、偏差値、受験うんぬんという意味でちょっと軽んじられてしまうのかもしれない。
もちろん、そのイメージが正しいとは必ずしも言い切れない。どちらかというと私は同意しない。きかし、実際に私という一学生がこんなありさまだったので、悪いイメージの一端を担ってしまったかもしれず申し訳なさは覚えている。
では、なぜそんな私が補欠合格という形でも合格したのかということにも、しかし、本当は心当たりがある。私は受験英語と現代文はよくできた。だから、入学の最低限のラインに達せたのだろう。
小論文はよくわからない。雪の降るなか、必死に書いた。かなしみについて書いた。ただそれだけで、結局それがどう評価されたのかは、いまもよくわからない。点数がついた可能性もありつつ、点数が下がった可能性もある。
学歴、大学、ということ。
私のなかにこのことは、つねに立ちはだかる。立ちはだかっている、勝手に。私の通う大学は、一般的には有名大学と言われて、それだけの優秀さ、あるいは、力量というものも確かにある。
そして、そのなかにいなければ見えてこないもの、見えづらい価値があるのも、すごくくらさを孕んでいるけれど、事実だと思う。
私はもちろん弱い。面接で泣いたほど。世界史がてんでできなかったほど。中退したほど。
しかし、同時にある種の強さをもつ。たとえば受験英語ができたりとか、だから、なんだという、ほかの何かと組み合わせるならともかく、それだけでは何らほとんど価値をもたない、修学旅行で買ってきて押入れにしまい込んだままの木刀のようなものだけれども、しかし、確かに、ある種の強さがそこにある。
この問題が近頃ではとくにいつもいつもいつも、私の前に立ちはだかっている。
学歴で決まるわけではない。それは事実だ。本当に事実。人間は、学歴で優劣が決まるわけではない、当たり前に、当然で、学歴で優劣が決まるなんて言ったら、それはおかしいと私は思う。それはきっとなんでも当てはまる。生まれで優劣は決まらない、立場で優劣は決まらない、収入で優劣は決まらない、当たり前、ほんとうに、書いていていやになってくるくらいあたりまえのこと。
しかし人生はすこしちがってくる。
ほんのすこし、あるいは、とても大きくちがってくる。
高学歴で仕事ができないひと、とかいう、そんなお話もよく聞くし、私もどちらかというと、仕事というものはできないタイプだろう。
それでも私がかつて職を得ることができたのは、ひとえに、受験勉強ができたからだ。ただそれだけ。それ以外の価値は、とくになかったのかもしれない。
たとえば独立分詞構文、という英語の文法事項があって、私はこの独立分詞構文というものに学生のころいたく感動した。いまでも、独立分詞構文の話をいっぱいできて、そして、私はこの大学にいて、そういうのが「需要」につながる。
そのくらい、わかっていて当たり前の世界というのがあって、だから、本来は誇れるほどのものでもなくて。
だけど、ただ、事実として、それはひとつの力だとみなされる。
ある種の力を、もっている。たとえほかがてんでだめでも、どうしようもない、弱さをもっているとしても。
そんな私が弱さの話をすることは。ずるいのかもしれない。暴力なのかも、しれなくて、醜いことなのかも、しれないよね。
巧妙に、もっているひとたちの価値は隠される。それをもっていることで、「弱い人々」を助けているのだから、いいよね、といつでも正当化される。
しかし、実際には、うばっているのはどちらなのか。
たとえば学力、とかいう、人間のごく一部分だけでなにかもっと大きなものを決めるような、システムが、ただただ、他者からなにかをうばっているのではないか。不当に。
なんとか大学卒業とか、そういうのが、まぶしすぎず輝かなくなるときはいつくるのだろう。輝くのはかまわない。おおいに輝けばいい。私だってその価値を否定などしない、ひとつの光としては、肯定する。
しかし、その光が突き刺さるようなものではなく、月のひかりのように優しくなるのは、いつのことか。
責任を、ほんとうの意味で、泣くほど知るのは、いつだろうか。
たとえば学歴だったら母校愛、生まれだったら郷土愛。そういう類の気持ちをいだくこと自体は、自然だし、私自身はいまのところなかなか否定もしづらい、ように思う。
だけど。
学歴が、生まれが、立場が、収入が、ひとつのバッジなのはまあよいとしても、過剰に輝くそれらはきっと、まがいものなのかも、しれないよな。
それとも、もしかして、もうほとんどのひとたちはそんなことにはとっくに気づいているのかもしれない。その輝きばっかり見ていて、ほかには視線が向けられなくなった目、目、目だけが、その輝きを、あがめているのかもしれない。
そんな滑稽さのなかに、悲惨さのなかに。自分がいるかもしれないということを、つねにわきまえておきたい。それなのに相変わらず大学に通っているのはいったいどういうことか。自己矛盾をかかえて、それでも、歩みを止められないのはなぜだろうか。
私がいま大学で学んでいることは、いつか月のひかりになるだろうか。私の大学での学びを、月のひかりにできたなら。そんな未来を望むことさえ、あるいは、あまりにも傲慢なのかもしれなくて、ゆるされているのかも、求めていいのかも、わからないのだけれども。
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